第三章 王威の在処(ありか)

第三章 王威の在処(1)



          1


 時は無情にすぎていった。

 囚われた女たちにとっても、それは同じだった。窓の外を通り過ぎる白い日の光と、水を運ぶ少年の訪れによって日数を数えることは出来ていたが、いつしかそれも判らなくなった。

 コルデは最初の約束を守り、彼女たちに食糧を与えた。一人が出れば一人分、二人が出れば二人分の、水と穀物の団子と干し魚だ。それで、はじめ十人いた女たちは、一人ずつ部屋を出て行き、今ではラナとロキを含む五人だけになっていた。

 申し合わせたわけではなかったが、子どものいない女から順に出ていったので、ラナ以外は、乳飲み子を抱いた母親だ。

 ハルキは、ニレが出た翌日に、男たちに従って外へ出た。彼女の赤ん坊は助からず、小さな体を寝台の上によこたえている。ラナは、母子を助けることが出来なかった。――己を含む誰ひとりも。

 仲間と引き換えに得た食糧を、残った女たちは、少しずつ分け合って食べた。無論、足りるものではない。外へ出た仲間はきちんと食べさせてもらえているだろうかと考えると、その誘惑は強かったが、それ以上に強い疑惑が、彼女たちを留めていた。

 出て行った女たちは、二度と顔を見せないのだ。きちんとした待遇を受けているのなら、報せに来るはずではないか……?

 ラナたちは、子どもたちと身を寄せ合い、ともすれば崩れそうになる気持ちを支えて、待ちつづけた。助けが来て、事態が好転することを。それは、日が経つほど実現不可能に思われたが、彼女たちには、ほかに出来ることがなかった。


 赤ん坊をあやしていたロキが、囁いた。

「次は、私が出ますね……」

 寝不足と脱水で朦朧としていたラナは、はっとして振り向いた。埃と黴のにおいに濁るうす闇のなかで、ロキの顔は、ひどくやつれて見えた。

 ロキは、傍らに寄りそう息子の頭をなでた。少年は、うつろな眼差しを部屋の隅に投げかけている。

「子どもたちが飢えています。もう限界でしょう」

 ラナは口を開けたが、言葉をみつけることが出来なかった。他の母親たちが、口々に言う。

「駄目よ、ロキ」

「そうだよ。あんたが居なくなったら、その子はどうなるの」

 ロキは、静かに首を横に振った。

「ハルキも、子どもを置いて行きたくはなかったでしょう。ニレだって……。あの子たちにばかり、辛い思いをさせるわけにはいきません。それに、」

 赤ん坊に視線を落とす。声は、息だけになった。

「私はもう、乳が出ません。ここに居ても、この子を助けられない。誰かが行かなければならないのなら、行かせて下さい」

 これを聞くと、女たちは一斉に項垂れた。ロキの状態は、明日の我が身だった。このまま監禁が続けば、いずれ全員が倒れてしまうだろう。

「ロキ……」

 ラナは、鋭い刃で胸を切り裂かれるように感じた。涙がうかびそうになるのを堪え、両手を彼女の腕に添えた。

「お願い。わたしに行かせて。今度こそ、彼らと話をしてみるわ」

「ラナ様」

 ロキの瞳は、不思議なほど穏やかだった。微笑みすらうかべて少女を見詰め、しかし、断固として言った。

「何度も申し上げますが、それは駄目です」

「でも」

「彼らが話し合いに応じてくれるとは、限らないのですよ」

「…………」

 ラナは、ごくりと唾を飲んだ。

 確かに、あの男たちとは、言葉も価値観も違っている。しかも、何故か彼女たちを憎んでいるようなあの少年――トゥークを介してしか、話をすることが出来ないのだ。まともな交渉が成り立つとは思われない。

 仲間の視線を背に感じながら、ラナは必死に考えた。タミラ(乳母)と別れたいま、少女にとって、ロキは姉のような存在だ。離れることなど考えられない。

「私は、子どもがいるわけでも、乳を与えられるわけでもないわ」

「いいえ」

 ロキは、赤ん坊を抱きなおした。

「ラナ様は、居てくださるだけでよいのです」

「でも、ロキ」

 ラナの声は、不安が真実に変わってしまう予感に震えていた。

「私が呼んでも、テティ(神々)は応えてくれないのよ……」

 ナムコ(集落)を出てからというもの、ラナは、テティをびつづけていた。川辺で、舟の中で。母を、セイモアを、モナ・テティ(火の女神)を。

 だが、テティが応じることはなく、孤独と絶望が少女の胸に蓄積していた。

 自分に期待をよせている仲間の中にあって、事実を告げることには勇気が要った。おののきながら囁いた少女に、ロキはきっぱりと言い返した。

「当然です」

「……え?」

 ラナは、目をみひらいた。ロキは頷き、おもむろに繰り返した。

「無理のないことです、ラナ様。テティは、ここにおられないのですから」

 ラナは驚いたが、ロキは落ち着いたものだった。ぐるりと首をめぐらせて、暗い石の天井を仰ぎみる。少女は、その仕草につられて視線を上げた。

 ロキは、溜息まじりに囁いた。

「風はなく、日の光も届かない……。こんなところに、テティはいらっしゃいません。ラナ様がお呼びしても、声は届かないでしょう。そもそも、テティは私たちに生き方を教えてくださいますが、争いを嫌います。ムサ(人間)同士のいさかいに、関わるものでしょうか」

「…………」

「あのように木を伐り、水を汚し……。この地のテティ(神霊)は、お怒りでしょう。とうに、ムサを見捨ててしまわれたかもしれません。ラナ様の所為ではありませんが、これ以上怒りをかわないよう、御身を守って下さいまし」

「…………」

 シャムになって日の浅い少女は、茫然とした気持ちでこれを聞いた。

 テティが争いを好まないということは、教えられていた。しかし、ムサ同士の争いに関わらず、シャムの身が危うくなっても救けないというロキの言葉には、驚くしかなかった。

 何より、彼女の信念の強さに、愕然とした。

 テティは人のためにるのではない、という――。


 囚われた日から、ラナは、昼夜をとわず、およそ思いつくあらゆるテティに救いを求めてきた。自分と仲間たちを助けてくれるよう。ここから出し、ナムコを守ってくれるよう。

 明確な返答のないことに苛立ち、無力さと、憤りさえ感じていたのだ。

 けれども、ロキの考えではそれは無理のないことであり、願うこと自体が的外れなことらしい。理不尽な襲撃を加えた者たちと戦うことさえ、見捨てられる理由となりかねない、と。


 ――なら。テティとは、いったい何なのか……。


 己の内に、ロキほど確かな信仰がないと気づいた少女は、途方に暮れて項垂れた。テティとムサの関係とは、どのようなものなのだろう。何のために忠誠を誓い、身に契約の印(刺青)を施すのだろう。


 何故、シャム(巫女)は存在するのだろう。


 ロキが当然のこととして理解していることを、信じられない自分がいた。平和なときには、考えもしなかった。王の娘として産まれ、巫女となるべく育てられながら、その優しさに甘えきっていたことを思い知らされる。

 ラナは、仮面を外した母の顔を想い、タミラの姿を脳裏に描いた。ただ一度、入巫の儀式のときにしかテティと話したことのない自分より、ロキや彼女たちの方が、ずっとテティの近くにいると思われる。

 赤毛の犬(ソーィエ)を従え、黒髪をなびかせた青年の姿は、想像であっても、少女の胸をせつなくさせた。離れている時間が長くなるほど、打ち消そうとすればするほど、心に鮮やかに浮かんでくる。

 彼なら、ロキとはまた違うことを言うのだろうか。

『わからない。私は、どうすればいいの。ビーヴァ……』

 数百度目の溜息を呑み、ラナは首を振った。暗がりに閉じ込められた彼女に、出口をみつけることは出来なかった。



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