第二章 夢占(6)



          6


 キシムは、脱いだ衣の上によこたわり、ビーヴァを見詰めた。

 青年の内でなにが起きているのか、彼女にはよく分かっていた。赤いキノコの薬は、思考力をうばい、身体から霊魂をひきはがす。その際に生じる熱は内臓を焼き、幻影は感情をかきまわす。――困惑と苦痛、そして激しい恐怖に、青年の柔和な顔がひきつるのを、キシムは、同じ嵐に耐えながら見守っていた。

『しばらく見ない間に、背が伸びたか……』 そんなことを、ふと考える。

 彼女を抱き寄せるビーヴァの腕は、思いのほか力強かった。キシムは、彼の顔を両手ではさみ、口づけした。唇を割って、ビーヴァの舌が侵入してくる。キシムも舌をさし入れ、中の熱と濡れた粘膜を味わった。彼の欲望が伝わってくる。自分のそれとともに。

 官能が湧きおこり、キシムは喘いだ。鼓動が速くなり、身体が融けてくずれそうに感じる。肌はうすく敏感になり、指と唇で触れられたところから、じんとしびれがひろがった。視界を紅いもやが蔽いはじめる。

 二人は、期待ともどかしさに震えながら、互いにてがかりを求め合った。蛇のように身体をからめ、うちあげられた魚のように跳ねまわる。舐めては噛み、噛んでは舐め、逃げては追い、吐息を重ね、いつ果てるともない舞いを舞った。

 ビーヴァをようやく迎え入れたとき、キシムは、安堵の溜息をついた。

 それでも、彼女の頭の芯は冷めていて、そんな自分を眺めていた。シャム(巫女)にとって まぐわい(性交)は、巫力を高め、テティ(神々)に近づくための神聖な儀式だ。どんなに快楽に耽ろうとも、己を支配していなくてはならない。

『もう少し……』

 彼の動きに合わせながら、キシムは心の中で唱えた。幾度となく繰り返してきた、あの高みに押し上げられる瞬間を待ちわびる。

『もう少しだ……ビーヴァ!』

 その瞬間、キシムは白い光となって彼の胸を貫き、翼をひろげて飛び立った。



 ひやりとした風を頬に感じ、キシムは、ほっと息をついた。翼をたたみ、すばやく己の容姿かたちをととのえる。ハヤブサを思わせるとがった羽は、小さく縮んで彼女の裸の背に吸い込まれると、肩甲骨の形を成した。

 キシムは、夜に浮いていた。

 頭上には、乳白色の月がぼんやりと輝き、眼下には、黒い森がどこまでも広がっている。ちらちらと瞬く金の炎が、人のいる場所を示している。

 大地は遠いが、不安はない。夜露をふくんだ優しい風にしろい肌を惜しげもなくさらし、深呼吸をくりかえした。

 儀式のときとは違い、夢では、自由な姿でいることが出来る。男であることも、女であることも要求されない。女たち――夫という逃げ場を得て、子どもを産み育てている女たち――の蔑みと憐れみのいりまじった視線にも、男装の下に彼女の身体の線を読みとろうとする男たちの目にも、煩わされない。

 キシムは、ここが好きだった。

 すきとおった水色の羽をもつ白鳥のテティ(補助霊)が、彼女の右腕から出て、ふわりと前を横切った。続いて、キツネの形をしたテティが、足下から躍り出る。碧色に光る瞳で彼女を見詰め、とがった耳を動かした。

 キシムは微笑み、片手を伸ばした。霊たちに触れることは出来ないが、存在を確かめ合うことは出来る。

 キツネのテティは、長い胴を三倍くらいにひき伸ばして彼女の脚に巻きつくと、それをほどきながら反対側にまわり、いたずらっぽく尾を振った。思わず笑う彼女の肩を、リスのテティが尾をふくらませて滑り降りる。

 たくさんの歓迎の意志が、彼女の周りできらきらと瞬いた。

 キシムは、改めて辺りを見まわした。

 ベニマツ(チョウセンゴヨウ)とモミが、ハッタ(梟)の胸を覆う羽毛さながら、びっしり重なり合って生えている。その隙間をぬって流れる川の面は、磨かれた黒曜石のように星を映している。ところどころに淀む闇は、ナムコ(集落)だろう。

 夜空に神霊の姿を見つけた犬たちが、警戒の声をあげている。

 キシムは、遠い山の頂きを被う雪を見遣った。西から北へつづく氷の壁は、月明かりの下、冷厳として視界をはばんでいる。はるかな昔、偉大な大牙のテティは、あの壁を超え、祖先を導いたという――

 ふいに、思考が引き戻された。

〈ここは、何処だ?〉

 聞き慣れた声に、キシムは驚いて振り返った。半月を背にした青年の姿に、息を呑む。

 ビーヴァもまた、裸で宙に浮いていた。ほどけかけた長い髪をなびかせ、怯えた顔で周囲を見渡している。我が身に起きたことを理解できず、呟いた。

〈何が起きているんだ……?〉

「ビーヴァ! そうか!」

 キシムの胸に、明るい炎のような感情が燃えあがった。満足の笑みがこぼれる。

「お前も、飛べるのか! そうか。そういうことだったんだな!」

 霊魂だけになって身体を離れ、天空を飛び、テティと語る存在。女のそれをシャム(巫)といい、男のそれをシャマン(覡)という。――ビーヴァの能力を目の当たりにしたキシムは、得心して叫んだのだが、彼の表情はこわばったままだった。

 彼女の姿が目に入っていないらしい。

 キシムはいぶかしんだ。

「ビーヴァ?」

 ビーヴァがこちらを見た。キシムをというより、彼女のいる空間を見詰め、話しかけようとする。と、その顔が苦痛に歪み、ばさりと音をたてて、背中に黒い翼が現れた。

 巻き起こる風がキシムの頬を叩き、長髪を躍らせる。彼女は目を瞠り、テティ(補助霊)たちと一緒に身構えた。

 ビーヴァの背に生えた翼は、ひろがると、優に彼の身長を超えた。ゆったりとした羽ばたきに引きずられて、青年の身体が持ち上がる。炎の刺青のはいったなめらかな胸を、内側から、鋭いカギ爪が突き破る。痛みにもがく彼の喉から、曲がった嘴が伸び、銀色に輝くロカム(鷲)の頭が現れた。

 天空の神は、黄金の瞳でキシムを睨むと、シャアッと威嚇の声を発した。青年の身体を放り棄て、悠然と天へ舞い上がる。

 キシムは、呼吸を止めてそのさまを見守った。

 森のなかから、無数のテティが湧き出てきた。ハッタ(梟)が、ユゥク(大型の鹿)が、犬の姿をしたテティたちが、蒼く輝きながら、次々に青年の中に入りこむ。無防備な若い肉体を思うまま蹂躙し、突き抜ける度に、蒼白い光の粉が舞い散り、うずを巻き、炎となって彼を包んだ。

〈…………!〉

 ビーヴァは苦しみ、逃れようとするが、あっさり翻弄されてしまう。濃紺の闇に縫いとめられたその姿は、蜘蛛の巣にかかって悶える瀕死の蝶を思わせた。

 キシムは、これまでこんなものを見たことがなかった。テティの意図が解からず呆然としていると、彼女の補助霊たちまでビーヴァに群がり始めたので、ギョッとした。

「お前たち?」

 白鳥のテティが彼を叩き、胸に嘴を突きいれる。キツネのテティが、牙をむいて彼にとびかかる。

〈…………!〉

 ビーヴァは声にならない声で叫び、仰け反って身体を震わせた。尋常でない苦しみ方に、キシムは慌てた。

「やめろ!」

 しかし、彼らは攻撃をやめない。何処にこんなにいたのだろうと思うほど多くのテティが現れて青年に向かっていくさまは、彼を霊魂ごとこの世から消し去ろうとしているように見え、キシムはぞっとした。

 思いついて、訊く。

「ビーヴァ! お前のテティ(守護霊)は何処だ? シャマンなら、ひとりやふたり居るだろう?」

〈…………〉

 ビーヴァは息も絶え絶えで、答えることが出来ない。クズリの爪がその背を裂き、カササギの羽が打つ。テティたちのつけた傷は、彼の肌の下で白金色に輝き、藍色の紋様に変化した。

 そのうち、キシムは奇妙なことに気づいた。ビーヴァの輪郭が崩れている。身体をふちどる蒼い炎と交じり合い、人とも獣ともつかない容姿すがたへと変わっていく。彼の向こうに森が透けて見え、キシムは息を呑んだ。

 青年の苦痛と恐怖が、別のものを喚びよせているのだ。

 キシムは叫んだ。

「ビーヴァ、しっかりしろ! そいつはケレ(悪霊)だ。呑まれるな!」

 突然、糸の切れた人形のように、ビーヴァは墜ちた。キシムは補助霊たちを従え、大急ぎで彼を追いかけた。


          *


 炉の中で、薪がパチリと音をたてて弾けた。

 キシムは、はっと息を呑んで身を起こし、辺りを見回した。隣でうつ伏せに倒れているビーヴァをみつけ、その上にかがみこむ。規則正しい呼吸を確認して、ほっとする。青年の顔から、先刻の苦痛は消えていた。

 扉の外から、低いうなり声が聞こえてくる。あわれっぽく助けを呼びながら、ガリガリと木を引っ掻いている。

 キシムは身体の緊張を解くと、裸のまま胡坐を組んだ。ビーヴァの顔を眺め、考える。

『どういうことだ……?』

 彼がシャマン(覡)であるのなら、キシムにとっては仲間だといえた。ラナが攫われた今、彼らにとっては頼もしいが、ビーヴァ自身にとってはどうだろう。

 それに――キシムは、彼の怯えた表情を思い出した。どうも、おかしい。

 シャム(巫)やシャマン(覡)なら、必ず、己の身をまもる守護霊や補助霊を従えているものだ。シャマンでなくとも、森の民は、二、三のテティと結びついている。テティを持たない者が身体を離れるのは危険だし、いきなりあんな高みに昇れるとも思えない。

 それなのに……ただひとりきりで、ビーヴァはいた。キシムだけでなく、彼女のテティたちに対しても、あまりに無防備だった。森のテティ(神々)が彼を攻撃したのは、何故だろう。

『……攻撃、だったのか?』

 キシムは、衣に袖を通しながら、首を傾げた。

 ビーヴァは、こんこんと眠り続けている。ほつれた黒髪が頬の刺青をおおい、肩から背へと流れている。炎は、あたたかな緋色の光で彼を包み、波うつ髪の表面に虹の環を描いていた。

 あの時、ロカム(鷲)や白鳥のテティたちは彼を傷つけたが、青年の現身うつしみに、傷は残っていなかった。人の手によって彫られた刺青だけが、端整な横顔を飾っている。

 キシムはそれを見詰めながら、外套を引き寄せ、そっと彼にかけた。眼を細める。

 テティの意思は、常にはっきりとは解らない。彼らの言語は、人のそれとは異なるからだ。だが、穏やかに眠っているビーヴァを見ると、もしかしてテティは彼を攻撃していたのではなかったのかもしれない、と思えた。

 霊魂を直接いためつけられて、無事でいられるものだろうか。

『……契約、か?』

 思いつき、キシムは強く眉根をよせた。

 巫覡の身体に印をきざむ行為は、現実の入巫の儀式に似ている。しかし、これはムサ(人)によるものではなかった。

 あそこに現れたテティは、決して位の低い神々ではない。ロカムは天空の神としては、スカルパ・テティ(雷神)に次ぐといわれている。さらに、ビーヴァは、キシムと契約を結んでいる補助霊たちや、悪霊すら身の内に喚びよせたのだ。

 そんなことがあるのだろうか?

「…………」

 キシムは、苦い気持ちで首を振った。これまでのところ、ビーヴァに関する限り、ことは彼女の知識の枠を超えている。

 扉の外の音が大きくなる。キシムは、考えるのを諦めて肩をすくめ、戸を開いた。

 キュンキュンクゥクゥ うるさい音をたてて、白い仔狼が転がりこんできた。キシムと炉を迂回して、ビーヴァに駆け寄る。ソーィエは、主人に待てといわれたことが気になるのか、戸口に片方の前脚を置き、躊躇うように鼻を鳴らした。

 セイモアは、ビーヴァの首筋に鼻をおしあてると、心配でたまらないという風にペロペロ舐めあげた。

 キシムは、かるく眼を見開いた。

「……そうか。わかるのか、お前」

 彼女が片手をさしのべると、ルプスの仔はぱっと跳びすざり、背中の毛をさか立てて低く唸った。それでも、青年の傍を離れない。

 キシムは微笑んだ。

「大丈夫だ。もう、戻っている」

 セイモアは唸るのをやめ、藍の瞳を彼女からそらすと、またビーヴァを舐めはじめた。

 キシムは、しばらくその様子を眺めていたが、手早く衣をととのえると、立ち上がった。火のついた薪を一本手にとり、青年と二頭を残して小屋を出た。



 夜はいよいよ濃く、深くなっていた。どこかで、ハッタが歌っている。ハンノキの茂みを、何かの気配が揺らして駆け抜ける。キシムは、森の眠りを覚まさぬよう、静かに歩いていった。

 まだ、膚に火照りが残っている。ウオカ(酒)を飲んだときのように、頭が重かった。身体がだるい……。

 キシムは溜息をついた。薬を使うことには慣れているが、いつも、その後は耐え難い。

 虚しかった。

 テティたちとともにいるとき、彼女は、かがやくよろこびを感じていた。普段すがたを目にすることの出来ない存在に、自分はたしかに護られている。全て生あるものは源でつながり、満ち欠けを繰り返している。――自分はそれを知るために生まれ、そのために巫力を授かったのだと思える。

 ところが、今はどうだろう。

 地上に降りたキシムを待っていたのは、たとえようもない寂しさだった。神々とのつながりは絶たれ、吐き気をもよおす薬の効果だけが残っている。彼女は、孤独だった。――テティは何処にでもいて、常に見守ってくれていると、頭では理解していても。その感覚を奪われた淋しさは、どうすることも出来なかった。

 身体の中心に、ぽっかりと穴が開いている。

 空ろな自分をもてあましつつ、キシムは歩いた。道は、下り坂になっている。角を曲がり、シラカバの木立の向こうに集落の影を見つけたとき、押し殺した囁きが聞こえた。

「…………?」

 キシムは立ち止まり、耳をすませた。聞き覚えのある男の声が二つ、ひそひそと言い争っている。松明を握る手に力をこめ、目を凝らした。

 カムロの声が、耳に飛び込んできた。

「お前に、キシムのことについて、口出しする権利があるのか」

「…………」

 キシムは眉根を寄せると、そちらへ向かって一歩を踏み出した。ややきつめの声をかける。

「何の話だ。オレのいないところで、何を言っている?」

 はっと、男たちは離れ、彼女を見た。

 ディールは、炎から顔をそらし、唇を噛んだ。カムロは慌て、この男には珍しく、おどおどと視線を彷徨わせた。

「キシム……」

「こういうのは、好きじゃないな」

 キシムは、松明を持っていない方の手を腰に当て、じろりと二人をねめつけた。

「文句があるなら、オレに直接言ってもらいたい。言えよ。何の話だ?」

 しかし、ディールは彼女の視線をふりきって身をひるがえし、早足に去って行った。キシムは、彼を引き止めず、代わりにカムロを見た。

 カムロは、仕様がない、という風に肩をすくめた。

「あいつが……お前の扱いで、話があると言うから」

 キシムは、フン、と鼻を鳴らした。苦い思いを噛みしめる。――そんなところだろう。未だに、自分が彼女に対し責任があると思っているのだ。あの許婚どのは……。

 彼女は、呆れた気分でカムロを眺めた。全く、何をやっているのだ、こいつらは。そんな場合ではないというのに。これだから、男って奴は――と思いかけ、口の中で舌打ちする。

『今は、オレも男だ』

 キシムは、声に出してはこう言った。

「オレは、あんたにも、口出ししていいと言った覚えはないぜ」

 カムロは、壊れたウサギ罠さながら首を上下に振って、彼女の言葉を肯定した。恐る恐る、という感じに声をひそめる。

「……あいつは?」

「眠っている。眠らせておいてやれ」

「その……本当なのか?」

 カムロの問いに、キシムは溜息をついた。

 男として、男の中で暮らしはじめてから、キシムが気づいたことがある。それは、彼らが時に、およそ信じられないほど子どもで、繊細で、嫉妬ぶかく、女たちよりずっと夢想家であるということだ。

『ああもう、鬱陶しくてやっていられないな』と思いながら、口を開いた。

「ああ……ちからがある。まだ不安定だが、慣れれば、もっと正確に未来を見ることが出来るだろう」

「そ、そうか」

『未来を見ることが、必ずしも善いこととは限らないが……』キシムは、苦虫を噛み潰した。

 カムロは、まだ彼女の機嫌を窺っていた。おずおずと訊く。

「お前は?」

「オレ?」

「……あいつの方が、いいのか?」

 キシムは、咄嗟に問いの意味が解らず、瞬きをくりかえした。それから、わらいだす。首を反らして天を仰ぎ、どこか割れた響きのある声で、吐き出すように嗤った。

 カムロは、みるみるうちに真っ赤になった。

 キシムは、目尻にうかんだ涙を指先でぬぐいとると、笑いを噛み殺しながら言った。

「オレがもし、あいつに能力以外のものを期待すれば、あいつは困って逃げ出すだろうよ」

「そ、そうか?」

「ああ。あいつは、オレよりテティに近い。テティそのもの、と言っていい」

 何故そんな言葉が出たのか。青年を、シャマンではなく、テティになぞらえるなど。――後から考えても、キシムには理解できなかった。だが、訂正しようとは思わなかった。

 カムロは、朱に染めた顔に困惑の表情を浮かべた。キシムは彼を、憐れみを含むまなざしで眺めた。

「だから……うらを行うのに、あんたより具合がいいか、という意味なら。そうだ。オレにとっては、役に立つ。たぶんビーヴァは、オレがいなくても飛べるだろう。オレの方が、あいつに引っ張り上げてもらっている感じだ」

「…………?」

 カムロは眉間に皺を刻み、この台詞について考えた。

 キシムは、松明を高く掲げて、彼の顔を照らし出した。さらに歩をすすめ、息がかかるほど相手に近づく。カムロは、ごくりと唾を飲み、血の色をした彼女の瞳を見詰めた。

 シャム(巫女)やシャマン(覡)は、狂をおびるという。生まれ持つ能力のせいか、契約を結ぶテティ(神霊)の影響か、頻繁に用いる薬の所以かは分からないが。テティとの交感を繰り返すうちに、心が人ならぬものへ変わってしまうのだと言われている。

 全てのシャムがそうなるというわけではない。タミラのように、素質はあっても生涯巫力を発揮しない者もいるのだが――キシムの瞳には、その焔がちらついていた。しかも、今夜の彼女は、薬を使っている。

 カムロは、少し後悔した。

 キシムは、囁いた。

「カムロ。あんたは族長だ。忘れるな。長は、長の務めを果たせ」

「キシム……」

 熱い吐息が頬にかかり、カムロは息を呑んだ。キシムは、すっと身をひいて彼の手が届かない距離まで離れると、ふと微笑んだ。

「あんたには、感謝しているんだ。オレは、シャムになったことを後悔していない。……あいつと一緒になれば、今頃は、石女うまずめだからな」

 自嘲気味に、唇の端を吊り上げる。彼が呼び止めようとする前に、踵を返して歩き出した。

 カムロは、細い背中を、立ち尽くして見送った。


          **


 目覚めて、部屋に一人残されていると気づいたビーヴァは、溜息をついた。夢のなかの飛翔とは対照的に、地に沈みこみそうなほど体が重い。胡坐を組み、ぼうっと木の扉を見詰めた。

 セイモアが、くんくん鼻を鳴らして、膝に身体をすりよせてくる。ソーィエも、部屋の入り口のところから、しきりに彼を呼んでいる。

 ビーヴァは、自分が外套をはおっただけなのに気がつくと、ぎこちない手つきで身なりを整えた。よろめきながら立ち上がり、外へ出る。間近に、闇が迫っていた。木々の梢が作り出すギザギザの影を、あわい月の光がふちどっている。

 ビーヴァは、森へ向かって歩き出した。麓の集落を目指す。ひとあしごとに頭の芯がぐらぐらと揺れ、吐き気がこみあげた。

 風が、そっと頬を撫でてとおりすぎる。

 ビーヴァは、数歩も行かないうちに力尽き、しゃがみこんでしまった。両手を地について項垂れ、荒い息を吐く。酸っぱいものがこみあげ、耐え切れず、彼は嘔吐した。喉が焼け、視界がぐるぐる回る。地面が波をうっている……。

 ソーィエが、彼の腰に頭を押し当て、あおんと吼えた。セイモアの鼻声に、悲痛な響きがまじる。

 ビーヴァは、口元を袖でぬぐうと、腕を伸ばし、二頭を抱きかかえた。立ち上がることが出来ない。闇の中でうすぼんやりと輝く白い毛皮に、顔をうずめた。

 どろどろに融けていた思考が、ようやく形になった。

「俺、なにやっているんだろう……」

 泣き出したい気持ちで、ビーヴァは呟いた。情けない。キシムに、都合よく振り回された気がする。母が死んだばかりだというのに。ラナが無事かどうかも判らないのに――。

 彼の哀しみに感応したソーィエが、月に向かってくおぉん、と吼えた。セイモアは、彼の頬を舐めつづける。


 これ以上はない方法で、自分はふられたらしい。ということに、ビーヴァが気づいたのは、翌朝になってからだ。




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