第二章 夢占(5)
5
太陽が西の山のむこうへ隠れると、入れ替わりに、東から半分に欠けた月が姿を現した。谷は宵闇に沈んでいるが、空には、まだ夕暮れのなごりが漂っている。とがったマツの梢と山の端は、おぼろな月の光に照らされて、スミレ色に染まっていた。
森は静かだが、眠ってはいない。夜の襞の奥では、無数の気配が蠢いていた。
ひと冬を土中で過ごした甲虫が、木の根にしがみついて脱皮をはじめる。うすい蛹を割ってあらわれる白くやわらかな身体を、茂みのかげからネズミの金の瞳が狙っている。
オコン川の囁きを乗せた風が、木の葉をなでて通りすぎる。そのなかには、岸辺の集落で燃える篝火のゆらめきや、炙られる肉の表面をつたう油の匂いも含まれていた。
仔ユゥクが、母親の腹にぬれた鼻をおし当て、ためいきをつく。犬たちがあくびをして、飢えと眠気をそらしている。
ハッタ(梟)が翼をひろげて谷間に舞い降りると、獲物をさがすキツネの足音が、夜露を散らして駆け去った……。
ビーヴァは、ラナが入巫の際に使った小屋の前に腰を下ろし、これらの気配に耳を傾けていた。傍らには、ソーィエが腰を下ろし、金緑色に光る瞳で木陰に淀む闇をみすえている。セイモアは、彼らからすこし離れ、土の匂いを嗅いでいる。
青年は、夜にひろげていた意識を己の中へ引き戻すと、ここへ来るのは三度目だと考えた。
一度目は、シャナ族のナムコ(集落)から帰ってきたとき、ラナの身を案じてやって来た。二度目は、マシゥを射殺そうとして果たせず、気持ちを鎮めるために……。どちらも、もう、ずいぶん昔のことのように思える。
そして今は、キシムの到着を待っている。
ビーヴァは、苦い気持ちで、夕べの会話を思い出した。
急ごしらえのチューム(円錐住居)に集った男たちは、一様に困惑していた。王の志は理解しているし、尊重したいのだが、テサウ砦の連中はそうとう悪辣ではないか。
みすみす王を危険にさらすわけにはいかない。マシゥを全面的に信用できない、という気持ちもあった。
「俺も行く。と、言いたいところだが――」
カムロ(シャナ族長)は唸った。若い族長は、逸る心をおさえるのに苦労している。ロコンタ族長が、王に似た長い顎鬚をゆらして宥めた。
「シラカバ(シャナ族の守護神)の弟よ。それは駄目だ。氏族長がいなくては、留守を守る者たちが困る」
「俺が行きます」
エビの声は、巌のように重かった。
「ディールと俺で、王を護衛します。それくらいは、かまわないでしょう」
これを聞くと、ディールは少し驚いたように眼をみひらき、彼を見た。
ワイール族長が、右頬の傷跡をゆがめて笑った。
「貴公に武勇を独占させるつもりはないぞ、エビよ。我こそはと思う者は、他にもいるはずだ」
氏族長がこう言ったとたん、我もわれもという声が、チュームの中に沸きあがった。どの男も表情は険しく、瞳は獲物を狙うアンバ(虎)のように輝いている。拳を振りあげる者もいた。
ビーヴァは目を瞠り、マシゥは身を縮めた。
「待て、待て」
ワイール族長が、両手を振って男たちをなだめる。心なしか、声は
「多すぎてもよくない。王の足手まといになっては困るのだ。エビ、選んでくれ」
「分かりました」
エビは男たちのなかから、自分と同じように身内を攫われている者を探しだした。さらに、体格がよく、力の強い若者を選びだす。
そうして、十人の男たちが、王とともに行くことになった。
アロゥ族からは、姉を攫われたサンという若者と、先日から目ざましい働きをしているマグ。ワイール族からは、ディールを含む三人。シャナ族は、ホウクともう一人。ロコンタ族からも、ワンダとチャンクという二人の男が選ばれた。
エビは、ちらりとビーヴァを見遣ったものの、声はかけなかった。マシゥを射ることが出来なかった彼を、戦う勇気のないものとみなしたのか、喪中だから遠慮したのか。――ビーヴァは、彼の意図を考えずにはいられなかった。
氏族長たちは、満足げに彼らを眺めた。
「この人数なら、王も承諾されるだろう。エビ、よろしく頼む」
ロコンタ族長の言葉に、エビは頷いた。選ばれた男たちも、揃って頭をさげた。
ワイール族長が、深い声でディールを呼んだ。
「ディール」
男たちの視線が、彼に集中する。ディールは、瞼を伏せ、びくりと肩を揺らした。
氏族長は、長い吐息まじりに言った。
「トゥークの兄よ……。今の汝の境遇は、私にも責任がある。赦してくれとは言わぬが、もし、父と弟に会えたなら、先日の我が言葉を伝えてくれ。王とシャム(巫女)を、よろしく頼む」
「はい」
ディールは視線をあげることなく、短く答えた。男たちは、ややしんみりとした。立場は異なるが、みな、多かれ少なかれこの親子には同情しているのだ。
気まずい沈黙が、チュームをひたした。護衛をえらんでも、男たちの不安を完全に消し去ることは出来ない。氏族長たちは顔を見合わせ、ワイール族長は、顎の先のみじかい髭を、しきりに捻った。
「ほかに、我々に出来ることはなかろうか」
ロコンタ族長は、思案げに首を振った。
彼らの内には、もっと強行な手段で女たちを救い出したいという思いがある。タミラの仇を討ち、傷つけられた者たちの恨みと屈辱を、倍にして返してやりたいという
それを行えば、終わりのない戦いが始まるのだとしても。逆に、王の言うとおりに耐え忍んだとして、全てがうまくいくとは限らない。
彼らは、己を律するために、
カムロが、ぼそりと呟いた。
「
ワイール族の長は、眉間に皺を刻んだ。
「占? どうやって。奴らはシャム(巫女)を連れ去ったのだぞ」
「アロゥのシャムほどの力はないが、テティに問うことは出来る」
カムロは独り言のように応えて、己の氏族の者を見遣った。
「キシム」
男たちの間で腕組みをして話を聞いていたキシムは、けだるい眼差しを彼に向けた。
カムロは、真顔で繰り返した。
「キシム。出来るか?」
「……いいよ。けど、相手はオレが決めてもよいか?」
「…………」
カムロの沈黙を、承諾ととらえたのだろう。キシムは、ゆっくり顔を動かして、男たちを一人一人眺めはじめた。
突然、ビーヴァは嫌な予感がした。ワイール族のナムコで再会したときから、キシムが今回の出来事に全く驚いていないことに気づいたのだ。まるで、最初から何が起きるか承知していたように、彼女は平然とことの経緯を受けとめている。
そして、その予感は的中する。
「ビーヴァ」
キシムは、彼をみつけると、まっすぐその面に視線をあてた。
「お前だ、ビーヴァ。オレと来い」
――月の傍でまたたく小さなウィタ(星)を見上げ、ビーヴァは溜息をついた。
王や巫女が行う占は、テティ(神々)の詞を聞き、その意思を問う神聖な儀式だ。かつては、氏族や民族全体の将来に関わる重大ごとを決める際に、必ず行われていたという。先代のシャム(ラナの母)が逝去してからは、公には中断されているので、ビーヴァは観たことがない。
儀式がどんなものか知らないうえ、キシムが何故自分を呼び出すのか、彼には皆目見当がつかなかった。彼女(彼と呼ぶべきか)は苦手だった。離れていてさえ、男装のシャムは、ラナと同じように、彼の内面をかきみだす。
ラナは、どうしているだろう。
……少女の身上を想うと、ビーヴァは、魂を引きちぎられるような心地がした。エビの焦りが理解できる。母(タミラ)は今頃、テティ・ナムコ(神霊の国)へ辿りつき、父と再会しているだろう。だが、生きている者の苦しみは終わらない。
ビーヴァは、ナムコへ帰ってからというもの、同じところで足踏みを続けているように思われた。何も出来ないことが口惜しい。エビたちは、明日、王とマシゥとともに行くというのに……。
ふいに、ソーィエが立ち上がった。セイモアが、耳をぴんと立てて動きを止める。ビーヴァの耳にも、やわらかな土を踏む足音が聞こえた。
「なんだ。中で待っていてくれればよかったのに」
キシムは松明を持っていなかったが、夜目にも、瞳を大きくひらき、軽く息をはずませているのが分かった。急いで登って来たらしい。快活に笑う。
ビーヴァは、やや混乱した気持ちで彼女を迎えた。自分たちはいつの間に、こんな風に気安く言葉を交わす仲になったのだろう? ――困ったことに、彼はあのときの経緯を覚えていなかった。『……男として、それはどうなんだ』 と思う。
ところが、キシムの方は、全く気にしているようすがない。
「王の許可はいただいた。入れ」
彼女は、さばさばと言って、彼を促した。ずかずかと部屋にあがりこみ、炉の傍に胡坐を組む。仕方なく、ビーヴァは、ソーィエとセイモアに外で待っているよう言い聞かせ、彼女に従った。
石を打ち合わせる音がして、薪に火が点る。ビーヴァは、そっと扉を閉めた。キシムは、マツの板ごしにセイモアがきゅんきゅん甘えている声を聞くと、いとおしげに眼を細めた。
「いつも、一緒なんだな。いい奴だ」
ビーヴァは肯いたが、後から考えると、彼女の言葉の意味を正確には理解していなかった。
「ふむ……」
キシムは、自分の膝に片手を置き、ぐるりと部屋の中を見渡した。
儀式用につくられた家には、生活臭がない。前室(出入り口にある小部屋)はなく、火棚も吊りさげられていない。窓の下に、テティを祀る祭壇があるだけだ。昼間なら、窓から差し込む陽光が、飾られたイトゥ(神幣)やモミの枝を照らすのだろう。けれども、今は日が暮れていて、部屋のあちこちに陰鬱な影がうずくまっていた。
陰鬱なのは、夜のせいだけではない。ビーヴァがそうなのだ。
青年は胡坐を組み、項垂れて炎を見詰めていた。取り残されたようなその姿を、キシムは、軽く息をついて眺めた。思いついて、問う。
「お前、ちゃんと喰っているのか?」
ビーヴァは黙っている。キシムは肩をすくめ、彼から答えを引き出すことを断念した。
彼女は、懐から木筒を取り出すと、熱くなった炉の灰の中に刺しこんだ。それから、同じ内着の中から、木の椀をひとつと小さな革袋を取り出す。あいのこがいないのは、カムロに預けてきたのだろうか。
彼女が動くたびに、衣の合わせめから
キシムは、そんな彼の態度には構わず、椀の埃を軽く払うと、筒の中の液体を注いで差し出した。
「お前とは、一度、話をしたいと思っていたんだ」
挑発的に、唇の端を吊り上げる。ビーヴァはそれを見ないようにしながら、器を受け取った。木肌に、ほのかに彼女のぬくもりが残っている。
ビーヴァの仕草を、警戒していると思ったのだろう。キシムは苦笑した。
「ただのお茶だよ」
それで、ビーヴァはおずおず口をつけた。こちらも、充分温められている。フウロソウ(ゲンノショウコ)の香りがした。
彼がひとくち飲むのを待って、キシムは切り出した。
「言い忘れていたが。テイネは、男の子を産んだぞ」
ビーヴァは、虚を衝かれて顔を上げた。ニルパの妻の顔が、鮮やかに脳裡に浮かぶ。
キシムの口調はぶっきらぼうだが、優しかった。
「母子ともに元気だ。お前とエビによろしくと言っていた。確かに、伝えたぞ」
「うん……分かった」
ビーヴァは、胸の底がほっとあたたまるのを感じて頷いた。テイネのことをすっかり忘れていたが、元気ときくと嬉しかった。カムロは、いい族長だ。彼女は氏族のもとで、子どもと幸せに暮らせるだろう……。
キシムは、彼を探るように見詰めていた。
「訊きたいことがある」
明るい褐色の瞳が、ビーヴァの瞳をまっすぐ見据えた。
「お前、この前、夢を見なかったか?」
「え……」
「この前、オレと寝たとき、夢を見なかったか? と訊いている」
「見たんだな。どんな夢だった?」
「どんなって」
ビーヴァは彼女に横顔を向け、口ごもった。
「お、覚えていない……」
途端に、
「何だと?」
怒りのこもった声に責められて、ビーヴァは、思わず片目を閉じた。もう片方の目を閉じれば、拳がとんできそうな剣幕だ。
キシムは、苛々と舌打ちした。
「そんなはずはない。オレが覚えていて、お前が忘れるなんて。怠けるな。ちゃんと思い出せ」
その自信はどこから来るのか。ビーヴァは問いたかったが、言い返したが最後、ほんとうに殴られそうな気がして黙っていた。消えかかった記憶の足跡をたどると、彼の耳に、流れる水音がかすかに聞こえた。
「……水だ」
ビーヴァは、ぼんやり呟いた。
「みず?」
ビーヴァは肯いた。おぼろげに、思い出す。衣の襟を揺らした波の感触と、あたたかな流れに融けていく膚を――。
「水の夢だった」
しかし、それ以上は、どうしても思い出すことが出来なかった。なにか重い、藍色の空間を漂っていた気がするのだが。
キシムにとって、ビーヴァの答えは意外だったらしい。不審気に口を閉じ、やがて、ぽつりと呟いた。
「オレが見たのは、炎だった」
「炎?」
キシムは肯き、強く眉根を寄せた。
「アロゥ族のナムコ(村)を焼いた火に関係があったのかと、ずっと気になっていたんだ」
「…………」
「お前の夢と合わせれば、何か分かるんじゃないかと思ったが……水か。困ったな。夢の解釈は難しい。先代(ラナの母)が生きていて下されば――」
キシムは首を振り、溜息をついた。ビーヴァは、彼女が怒っているわけではないと理解した。ぶっきらぼうな言動は、怒りの所以ではなく、必死さの表れらしい。安堵すると同時に、少し彼女に好感が湧いた。
けれども、キシムは肩をすくめ、彼のなごやかな気分をあっさり打ち壊した。
「まあ、いい。もう一度やれば、解るだろう」
『もう一度?』
キシムは、ビーヴァの飲み残しが入っている椀を引き寄せると、先刻の小袋を振って、赤い粉をふりかけた。お茶が、みるまに血の色に変化する。彼女はそれを一口飲むと、彼の眼前につきつけた。
「飲め」
「え……」
「オレたちの話を、聞いていなかったのか?」
青みがかった白眼をぐるりと動かして、彼を睨む。ビーヴァは、ごくりと唾を飲み下した。
「占を行うと――」
「そうだ。だから、これを飲んでオレと寝ろ、と言っている」
「…………!」
ビーヴァは、眼をまるくして彼女を見詰めた。
炎の中で、薪が、小さな音をたててはじけた。扉の外では、セイモアが鼻を鳴らしている。ビーヴァは、しばらく呆然とその音を聞いていた。
キシムは、そんな彼をもどかしそうに見詰めていたが、ふと真顔になって話しはじめた。
「……タミラは、信心深かった。テティ(神々)に近い、シャム(巫女)の素質を持っていると言われていた。だから、アロゥ氏に嫁いだんだ。シャムの許に」
ビーヴァは、無言で聴いていた。初めて聞く、母の話だった。
「先代のシャム(ラナの母)が死んだとき、お前の母が乳母に選ばれたのは、偶然じゃない。ちゃんと、次のシャムに相応しい相手を選んでのことだ。タミラなら、よい影響を与えるだろうと――」
キシムは、ひょいと肩をすくめた。話を戻す。
「お前にことわりなく薬を使ったのは、悪かったよ」
「くすり?」
ビーヴァは瞬いた。何のことだ?
キシムは、逆に怪訝そうに訊き返してきた。
「お前、まさか本当に、ウオカ(酒)を飲み過ぎただけでああなったと思っているわけじゃないだろうな」
「…………」
思っていた。
ビーヴァの表情を見て、キシムはちょっと呆れたように口を閉じた。けれども、それどころではないと考えたのだろう、気を取り直して続けた。
「以前から、お前のことは、オレたちの間で噂になっていた。『シャナ族のタミラは、シャムに近い。その息子は――」
言葉を切り、彼の反応をたしかめて続けた。
「――ビーヴァは、テティと話をする。』と」
「…………」
「だから、お前を試してみたかったんだ。まさか、記憶がとぶほど効くとは思っていなかったけれど。あれはやっぱり、ウオカと混ぜた所為なんだろうな」
「…………」
眩暈がしてきた。
キシムの台詞の後半を、ビーヴァは聴いていなかった。頭の芯がくらくらして、額に片手を当てる。話のあまりの内容に、絶句していた。
『なんだ、それは。ひとの知らないところで、何の話をしているんだ……』
テティ(神々)と話を――。それは、犬たちの扱いが上手いと言われていたことに関係するのだろうか? けれども、ビーヴァは自分を特別だと考えたことは一度もなかった。森に棲む者なら、誰もがテティを敬う心を持っている。あのエビも、犬やシラカバやユゥクに普通に話しかけている。自分が、仲間と異なるとは思えない。
タミラのことも――母にシャムの素質があるなどと、彼は想像すらしたことはなかった。父と母は仲睦まじい夫婦であり、それを幸いと思っていた。ラナに対しても……母は、乳母の務めを果たしていただけだ。変わったことをしていた風はない。
キシムは、青年を同情するように眺めていたが、また話をかえた。
「王の役目を知っているか?」
「王の?」
ビーヴァは、躊躇いながら繰り返した。キシムが頷くのを見て、思考をめぐらせる。
「シャム(巫女)に代わって、民を治める……」
「そうだ。だが、それだけじゃない」
キシムは、教え諭す口調になった。
「祭司を行い、氏族を率いるだけならば、『夫』である必要はない。男王の役目は、シャムを援けることだ。必要とされるとき、血の能力を引き出してシャムを飛ばし、その間、地上に残るシャムの身を護る」
話しながら、キシムの瞳は、じっと彼を見据えていた。ビーヴァは、視線を逸らすことを忘れて、そこに映る己の顔を見ていた。眼をみひらく。
キシムは、彼が理解したことを察して肯いた。
「そうだ。――そのために、代々王は選ばれている。シャムには、王の能力が必要だからだ。テティに近い男の力が」
「…………」
「ビーヴァ」
キシムは、毅然と顔をもち上げた。うなじから左手の指を髪にさしいれ、無造作に辮をほどく。外套を脱ぎ、肩から落とす。帯をとき、内着を下に滑らせると、満月のように煌々とかがやく肌が現れた。
「薬を飲め。そして、オレに
ビーヴァは、目のやり場に困って項垂れた。
話は分かった……。キシムが言うのだから、おそらく本当なのだろう。己が何を期待されているかということも、頭では理解出来た。しかし、これは――
どうしたらいいのだ?
闇にうかびあがる半裸の女体を前にして、青年は途方に暮れた。非常に困ったことに、キシムは魅力的だった。男の格好をして、乱暴な言葉遣いをしているときでさえも、そう思っていたのだ。
切れ長の眼は涼やかで、紅色の唇は濡れたように輝いている。ゆたかな栗色の髪は、肩から胸へ、波をうって流れている。なめらかな肌の表面で、炎の投げかける影が、胸の
きれいだと、ビーヴァは思った。見てはならないと思っても、視線が吸い寄せられてしまう。しっとりとした肌の感触を、掌でたしかめたい。その下で脈うつ熱の所在をたどりたい。――心臓が激しく音をたてはじめ、彼は息苦しくなった。そのとき、キシムの変化に気づいた。
薬のせいだろうか、彼女も苦しそうだった。瑪瑙色の瞳の中で、金の
ビーヴァには、彼女が砕けてしまいそうに見えた。
ふいに、彼は哀しくなった。(そんなことを口にしようものなら、確実に殴られただろうが。) これは、こういう関係は、決して普通ではない。少なくとも、ビーヴァが望む男女の関係とは、かけ離れている。
ただテティ(神々)の声を聴くために、危険な薬を飲み、好きでもない男に身をゆだねる。血によって巫力を受け継ぐアロゥ族のシャムとは違い、男女の境を超え、特定の相手を持たないことで能力を得るキシムは、いったい、何人の男とこうしてきたのだろう……。
考えていると、ビーヴァはたまらなくなった。キシムを恋しているのか、憐れんでいるのか、彼女に触れた見知らぬ男たちに嫉妬しているのか、わからなくなる。彼は、己の感情を断ち切るべく、薬を喉に流し込んだ。
どくん、と、全身が脈をうったように感じた。
のどの奥から熱がひろがり、焔となって彼を包んだ。身を焦がし、内側から肌を刺す。世界がぐらぐらとゆれ、ものの輪郭が溶けて見えた。ビーヴァは喘ぎ、眼を閉じた。焔が、出口をもとめて暴れている。
「ビーヴァ」
キシムの声に、安堵がまじった。彼女は、彼の首に腕をまわし、身を寄せた。ビーヴァの胸に、しなやかな重みがかかる。ビーヴァは、思考がとけるのを感じ、身体をこわばらせた。
低い声が、耳元で、そっと囁く。
「出来そうにない、か?」
優しげないたわりも、彼女の慣れを示しているように思われ、ビーヴァは答えることが出来なかった。
キシムは、溜息をついた。あたたかな息が首筋に触れ、ビーヴァは、めくるめく思いがした。キシムは、彼の口に唇をよせた。
「惚れた女のことでも、考えていろ……」
その言葉は、彼の胸に鋭い針となって突き刺さり、その一点からひろがった亀裂は、彼のうちに最後まで残っていた躊躇いを砕いた。
自分でもよく解らない思いに衝き動かされて、ビーヴァは、彼女を抱き寄せた。ぎこちなく、ついばむように唇を重ねる。口づけを深くしながら、胸のふくらみを手で覆い、先端の突起に触れると、キシムの身体が震え、息を呑むのが分かった。
透明な肌の下で、熱いものが波うつ。
ビーヴァは、その波に身を沈めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます