第二章 夢占(4)



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 王の言葉に最も驚いたのは、マシゥかもしれない。

 戦争になって欲しくないと願い、そう訴えた。けれども、昨夜の王の口ぶりからは、難しいと感じた。朝になり、あわく輝く北の太陽のもと、武装した男たちが到着するのを見ると、いよいよ絶望的な気持ちにさせられた。

 不安にくもる彼の瞳には、巨大な枝角を頭にのせたユゥクの群れが、剣をかざした兵士たちのように映った。鼻息は怒りを、褐色の毛皮に光る汗のしずくは、血を含んでいる。その刃は男たちの胸をつらぬき、その蹄は雪崩のごとく人家をおし流すだろう……。

 マシゥは、しばし己の空想に呑まれていた。だから、戦うつもりはないという王の言葉を理解したとき、彼は呆然とした。

 つづく数秒の沈黙ののち、広場を埋めつくす人々からは、困惑と抗議のどよめきがわきおこった。

「それは――」

 ロコンタ族の長は、王とマシゥを交互に眺めた。

「危険では、ありませぬか」

 シャナ族の長も、うさんくさそうに片方の眉をもちあげた。

「ホウク(シャナ族の男)から、その男が我々を油断させ、奴らを招きいれたのだと聞いています。何故、まだここにいるのです?」

「あ、あの」

 焦るマシゥを、王は身ぶりで制した。動きを止め、人々が静まるのを待つ。

 男たちは、なまぬるい南風をうけてゆれるモミの枝のようにてんでに喋りつづけていたが、王が待っていることに気づくと、ひとりまたひとりと口を閉じた。それで、沼地の表面に湧く黒いあぶくさながらぶつぶつ沸きたっていた不満は、次第におさまった。

 余韻が消えるのを待って、王は、おもむろに語りはじめた。

「……たとえば。我々のうちの誰かが、他の氏族を襲い、女や子どもたちを攫ったとしたら、どうであろうか。相手に復讐をゆるし、罪のない者を傷つけられても、仕方がないと言えるだろうか」

 王は、語りながら男たちに視線をめぐらせ、ディール(トゥークの兄)をみつけると、こわばったその面に視線をあてた。それでマシゥは、王はトゥークのことを考えているのだろうと思った。何らかの事情でコルデの許に身をよせ、彼らを裏切ることになった父子のことを。

 ビーヴァも、その視線に気づいた。彼は、ディールとマシゥと王とを、順にみくらべた。

 王は、独り言のように続けた。

「それよりは、罪を犯した者の身柄を、ひきわたして欲しいと願わないだろうか。私なら、そう思う。我々のなかに罪を犯した者がいるのなら、我々の掟で裁きたい。ワイールの同胞きょうだいが、そうして下さったように」

 ワイール族の長は、尖った顎をふちどる髭の先をつまみ、顔をしかめた。

 カムロとエビの声が重なった。

「しかし」

「俺たちは」

 カムロはエビを振りかえり、先を譲った。それほど、一の狩人の声には、思いつめた響きがあった。

 エビは、低く唸った。

「俺たちは、他人の女を奪いはしない」

 そうだ、という呟きが、男たちの間からもれる。王は、いたわるように微笑んだ。

「エビよ。かつては我々もそうだったのだ。偉大なる大牙のテティ(神)がこの地を去る前には。我々も傷つけ合い、奪い、憎み合っていた。テティ(神々)と契約を結び、シャム(巫女)の王をたてることで、ようやく諍いを終わらせることが出来たのだ」

「…………」

 エビは、硬い表情のまま王を見詰めつづけた。王の話が意図するのは、神話の説明ではないと理解していた。

 王は、マシゥを顧みた。

「奪うものは奪われ、憎むものは憎まれる。それが、テティの教えだ。使者どの。我々は、戦いを棄てることで生かされてきた。真の王はシャムであり、男王は、それをたすまもるために存在する。シャムを取り戻すことが出来なければ、私が生きている意味はない」

「あの、それでは――」

 マシゥは口ごもった。

 エクレイタの王位は、父から息子へ、兄から弟へ譲られる。マシゥは、森の民もそうだと思いこんでいた。しかし、王の言葉は別のことを示している。

 マシゥは、ラナの姿を想いだした。父王の後ろで、つつましやかに坐していた、夏のツグミのような少女。――では、コルデが攫ったのは、王の娘ではない。

 彼らの王、自身だ。

 マシゥは、さあっと蒼ざめた。王はその様子を見て、哀しげに頷いた。そうして、氏族長たちに向きなおると、ひとりずつ順に目を合わせた。

「同胞たちよ。私は、彼らの長と話をしよう。女と子どもたちをかえしてくださるように。彼らの要求は、我々には受け入れ難いと説明しよう」

『コルデの野郎は、そんなことは百も承知です!』 マシゥは言いたかった。むっつりと口を閉ざしている氏族長たちも、そう思っているに違いない。けれども、王の透明な嘆きにふれた彼は、しびれたように動けなくなった。

 この王は、死を覚悟しているのだ。

 王は眼を閉じ、呟いた。

「我々が彼らを傷つければ、エクレイタ王は、我々を殺すだろう。生き残ったものたちは、さらにやって来るものと戦わなければならなくなる。遠い昔に犯した過ちを、繰り返すことになる。契約をやぶった我々を、テティは救けてはくださらないだろう。――そんな未来を、子どもたちに遺すことは出来ない。私がしなければならないのは、これ以上血を流さずに、彼らを故郷へ帰すことだ」

「……王よ。貴方が殺されてしまったら、我々はどうすればよいのです」

 ロコンタ族の長が言った。問うというより、確かめる口調だった。

 王は、毅然と面をあげた。

「シャム(巫女)がいる。我々は、本来あるべき姿に戻るだけだ」

 しかし、氏族長たちの表情は晴れなかった。不安げに、互いの顔を見かわしている。その後ろに控えている男たちも、不満を口にすることこそなかったが、力なく項垂れている者が多かった。

 心細げな人々に、王は、かすむように微笑みかけた。

「約束してほしい」

 その声は、かぎりない優しさをふくんでいるように、マシゥは思えた。

「何が起きても、我々の方から戦いをしかけることはしないと……。同胞たちよ。いま一度、ちかいを交わしたい。モナ・テティ(火の女神)とイェンタ・テティ(狩猟の女神)のもとに集いし我ら、力をあわせてこの苦難をのりこえていけるように」

 氏族長たちは、納得しきれない様子で顔を見合わせたものの、頭をさげて同意を示した。王は、マシゥにも丁寧に言葉をかけた。

「使者どのには、私の言葉を伝えてもらいたい」

「わかりました」

 マシゥは頷きながら、王の言葉にひそかな感動を覚えていた。同時に、自分も、神と人から試されているのだと気づく。王がテティ(神々)に殉じるように、自分にとってこれは、レイム(太陽神)があたえたもうた試練なのだ……。

 ディールが、一歩まえへ進み出た。

「俺も、一緒に行かせて下さい。トゥークと話をしたいのです。――父と」

 王は、無言で彼の視線を受けとめた。



 それから男たちは、ひときわ大きな枝角を持つ白毛の牡をその場に残すと、ナムコの外にユゥクの群れを連れて行った。持参した肉と毛皮と干し魚、黒曜石の槍なども、一箇所に集めて保管する。犬たちは、ユゥクを脅かさぬよう、すこし離れたところに繋がれた。

 人々は、広場の中心にシラカバとモミの緑枝を積んで祭壇を組み、火をおこした。白毛の牡ユゥクは、真新しい首輪とシラカバのイトゥ(神幣)で飾られて、火の前に引き出された。

 女たちが手をつないでユゥクを囲み、歌をうたって彼をなだめた。男たちが身体をおさえ、角をつかんで口のなかにウオカ(酒)を流しこむ。ユゥクはもがいたが、逃れることは出来なかった。

 女たちが低い声で歌い続けるなか、王は、祈りの詞を呟きながらユゥクに近づくと、黒曜石の小刀でその喉を切り裂いた。

 ぱっと、鮮やかな血と獣の体臭が飛び散り、マシゥは息を呑んだ。

 ユゥクは、かすれた声で悲鳴をあげたが、すぐに動かなくなった。王は、あふれる血を木の椀で受けると、盟約をあらためる氏族長たちとまわし飲みした。それから、傷口に手を入れ、内側から心の臓を握りしめる――このときまで、ユゥクは生きていて、女たちは歌い続けていた。

 族長たちは、王が切りわけるユゥクの肉を、なまのまま口にした。同じ血をわけもつという意味があるらしい。己の分を食べ終えると、すぐに祭壇を離れた。

 男たちは、腕を肘まで血に染めて、ユゥクの解体を続けた。やはり、一口ずつ肉を食べる。エビとビーヴァとキシムは、ユゥクの胃袋を切り開き、消化されかかった苔を肉につけて食べた。男たちが食べている間、女たちは後ろに控えて、順番を待っていた。

 マシゥは、この儀式を眺めているうちに、気分が悪くなってきた。今まで、できるだけ彼らを理解しようと努めてきたが、獣の肉を生食する習慣はエクレイタにはないので、今度ばかりはまいってしまった。勧められた『料理』を断わると、広場の隅に目立たぬように腰を下ろし、彼らの食事が終わるのを待った。

 王は、人々がひととおり肉を口にするのを見届けると(かなり時間がかかった)、残ったユゥクの身体を、シャム(巫女)の家に運ばせた。そこで、儀式の続きを行うのだ。数人の女たちが、彼に従う。ロコンタ族とシャナ族の男たちは、自分たちが寝泊りするための毛皮の小屋を建てはじめた。

 みな、先刻の王の言葉に衝撃を受け、寡黙になっていた。


 マシゥが蒼白い顔でうずくまっていると、ビーヴァがやって来た。相変わらず、セイモアとソーィエを従えている。二頭は、マシゥに駆け寄ると、ふんふん鼻を鳴らして尾を振った。

 青年は、やや躊躇いをふくむ声で言った。

「大丈夫か?」

「ああ」

 マシゥは顔を上げ、ぎこちなく微笑んだ。ビーヴァの額と頬には、ユゥクの血で紋様が描かれている。日焼けした肌の上でからみあう刺青のあおと血のあかは、一種凄惨な美をつくりだしていたが、黒い瞳は穏やかだった。

 マシゥは、どぎつい血のにおいに胃の腑をねじあげられるのを感じたが、かろうじて耐えた。

「スマナイ。血に酔ったらしい」

「あやまるようなことではない」

 ビーヴァはもごもごと呟いた。彼をどう扱えばよいかわからないらしく、目を逸らす。その視線の先をたどったマシゥは、エビがこちらを見ていることに気がついた。エビは、マシゥではなく、ビーヴァの身を案じているらしい。

「マシゥ」

 再び、ビーヴァが話しかけてきた。眼差しは、深くしずんでいる。

「俺は、コルデという男を見たことがない。貴方は知っているか」

「あ、ああ」

「どんな男だ。王の話が通じる相手だと、貴方は思うか?」

「…………」

 マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。

 ビーヴァの問いは、マシゥの懸念でもあった。だが、改めてどのような人物かと問われると、あの男のことをろくに知らない自分に気づく。――エクレイタ王の命をうけた、開拓団の統率者。ニチニキ(開拓村)を建て、テサウ(砦)を築いた男。マシゥを裏切り、略奪行為を行った首謀者。ビーヴァにとっては、母の仇でもある。

 マシゥが砦にいた頃、コルデの態度は素っ気なかったが、それでも、露骨に敵意をみせることはなかった。男たちが彼の指示に従っているさまは、人望すら感じさせた。

 マシゥは唇を噛み、項垂れた。ビーヴァたちに希望を与えられないことが、口惜しい。

「……頭のいい男だ、と思う。私は、すっかり騙された。君たちは、気をつけた方がいい」

 ビーヴァは、眉間に皺をよせて黙りこんだ。

『そうだ』 マシゥは考えた。――自分たちだけではない。コルデはエクレイタ王と、その頭上にいますレイム神をもあざむいたのだ。他の神をあおぐ人々を傷つけ、その王と巫女を辱しめる行為のおそろしさに、マシゥは身震いした。ひそかに思う。

 もしかして、コルデは《王》になりたいのだろうか……。


「ビーヴァ、使者どの」

 各々の思考のうみに沈んでいた彼らのもとへ、シャナ族の長がやって来た。その向こうでは、エビとキシムとディールが、ロコンタとワイール族の長たちとともに佇んでいる。彼らは、盟主(アロゥ族長)が去った祭壇の周囲に集まり、話し合いを続けていた。

 カムロは、迷いのないきびきびとした足取りで、マシゥに近づいた。

「使者どの。俺は、シャナ族の長で、カムロという。先ほどは失礼した」

「マシゥです」

 マシゥは、慌てて立ち上がった。一瞬、くらりと世界が揺れる。奥歯をかみしめ、膝に力をこめて踏みとどまり、エビとそう歳の変わらない若い長を見詰めた。

 カムロもまた、マシゥを頭から足の先まで眺めると、なにか得心したように頷いた。

「では、マシゥ。ビーヴァ、一緒に来てくれ。話がしたい。王はああ仰ったが――」

 カムロは、精悍な眉をくもらせた。

「このままでは、我々は、ふたりの王を失いかねない。誓いは誓いとして、出来ることを考えたいのだ」

 マシゥは、ビーヴァと顔を見合わせた。互いの瞳に同じ考えをみいだした二人は、ほぼ同時に頷いた。


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