第二章 夢占(3)



          3


 木々の梢の向こうから姿を現したただ一つの太陽は、やわらかな銀の光で世界を包んだ。己をテティと呼ぶ者も、レイムとして崇める者も、隔てることなく。

 鳥の群れが、澄んだ空を渡っていく。冬をこの地で過ごしたユゥク(大型の鹿)や白鳥たちは、この時期、はるか北を目指して旅に出る。かの地で子育てを行い、秋に戻ってくるのだ。

 その鳥の声に誘われたように、ワイール族の人々が、チューム(円錐住居)から出て食事の仕度を始めた。煮炊き用の革袋に湯を沸かし、肉を煮る。匂いに惹かれて犬たちが吼え、アロゥ族の人々も、疲労の残る顔で起き出してきた。

 ビーヴァは、セイモアと一緒にシャム(巫女)の家を出た。戸口で待っていたソーィエを連れ、家へ向かう。王は彼と食事をともにすることを望んだが、犬たちの様子が気になると言って辞退した。マシゥは、王の傍にいれば安全だろう。

 ソーィエが、耳をぴんと立て、尾を揚げて歩く。セイモアも、いつもとは違う集落の雰囲気に、興奮しているようだ。ビーヴァは俯き、そっと溜息をついた。

 壊された家、燃え残った柱が、まだ残っている。顔や腕を腫らした同族の人々がいる。――襲撃の爪痕を目にすると、青年の気持ちは否応なく沈んだ。人々が、母親を殺された第一の被害者として自分をいたわり、同情してくれているのが、いたたまれない。

 母の死によって痺れていた心が、ようやく動き出した。途端に、おしよせる苦痛と後悔に苛まれる。己の行為が招いた結果は、受け入れがたかった。

 いっそ、消えてしまいたいと思う。

「…………」

 ビーヴァは、人々の視線を避け、足早に広場を通り過ぎた。その姿に、キシムが気づいた。彼女は、女たちと一緒にチュームの解体作業を行っていたが、手を止め、青年を見た。切れ長の眼を細めたが、声はかけなかった。



 家の焼け跡には、モミの緑枝が捧げられ、小さな山を作っていた。氏族の人々が供えてくれたものだ。ビーヴァはその山を見詰め、しばらく佇んだ。

 脳裡に、在りし日の母の声が蘇る。

『お前が帰ってきそうな気がして、早めに戻ってきたんだよ。』

『なんだい、母を宜しくお願いしますって。お前にお願いしてもらわなきゃならないほど、あたしゃ老けちゃいないんだよ。いっぱしの大人ぶって、いい顔するんじゃないよ。』

 ……いつも、息子のことを案じていた。彼が元気なときも、そうでないときも。母親とは、そういうものかもしれないが。

 今頃になって、母はいないのだということが、実感となって沁みてきた。もう、この世で逢うことはない。魂の宿るべき身体を喪ったかのような喪失感が、胸に迫る。

 眼の奥が熱くなり、ビーヴァは唇を噛んで、拳に力をこめた。それから、そっと溜息をつく。『嘆くな』 と己に言い聞かせる。

 今は、嘆くときではない。――母が生きていれば、そう叱咤しただろう。――自分ひとりが遭った災難ではないのだ。エビの立場を考えよ。ラナを守るのは、乳兄妹の自分の役目ではなかったか。最も不幸な者であるかのように、自惚れてはならない……。

 彼は、心の中で母に詫びると、喧騒に背を向け、エビの家へ向かって歩き出した。作業を続ける人々の傍らを、黙々と歩く。ソーィエとセイモアは、素直について来た。

 高床式の倉庫へ近づくと、預けていた彼の犬たちが、一斉に駆けて来た。

 ソーィエは尾を振り、早速、仲間と挨拶を交わした。セイモアも、ビーヴァに跳びつこうと、競って駆け回る。ビーヴァは、彼らをかき分けて進み、倉から干した魚を取り出した。犬たちと一緒に預けていたものだ。

 テサウ砦の男たちは、彼らが蓄えていた毛皮や食糧を、手当たり次第に奪って行った。ワイール族の人々が持ってきてくれたからいいものの、この調子では、すぐに食糧が尽きるだろう。

 ビーヴァは、また気持ちが重くなるのを感じた。ラナたちのことだけでなく、自分たちの食べる物の心配もしなければならないとは――

「ビーヴァ」

 鬱々としてしゃがみこんでいた彼の耳に、聞きなれた声が入って来た。ビーヴァは顔を上げ、朝の光にふちどられた人影を見た。

「エビ……」

 ビーヴァは、ほっとした。マシゥの処遇については任せると言ってくれていたが、やはり、少し気になっていたのだ。

 友は、まっすぐ彼に近づいて、片手に提げていた魚の束を差し出した。彼らがヤーヤーと呼ぶ小魚だ。毎年この時期に、群れを成してオコン川を上ってくる。

 ヤナギの葉のように細長い魚のからだは、日差しを反射して虹色に輝いていた。細く裂いた樹皮を鰓に通したものを手渡し、エビは、硬い表情で訊いた。

「大丈夫か?」

「エビこそ」

 ビーヴァが言うと、彼は肩をすくめた。

 ソーィエたちが、鼻を鳴らす。セイモアが、青年の口を舐めて催促する。ビーヴァは、魚を一匹ずつ彼らに与えた。唸り声、がつがつと歯を噛み鳴らす音、舌なめずりの音が、辺りに響く。

 エビは、その様子を眺めながら問いかけた。

「あいつは?」

「長のところに居る」

 ビーヴァは、小声で答えた。視線は、犬たちの方へ向けている。

「今は、落ち着いている。長と一緒に居れば、大丈夫だろう」

「そうか」

 エビの口調は苦かった。両手を腰に当て、軽く舌打ちする。ビーヴァは、彼を見上げた。

「エビ。マシゥは――」

「分かっている」

 エビはすかさず片手を振り、彼の台詞を遮った。ビーヴァは口を閉じる。エビは、濁った声で繰り返した。

「分かっている……。だが、俺たちは」

 ビーヴァは、彼の言わんとするところを察して項垂れた。同じことを考えているのだと理解する。

 マシゥの所為ではない。彼らをここへ呼び寄せてしまったのは、自分たちだ。あの日、一頭のユゥクの足跡を追いさえしなければ。テサウを目にして、印を残しさえしなければ――。

 ビーヴァの胃は、キリキリと痛んだ。

 エビは首を振り、独語のように呟いた。

「今年は、ヤーヤー(シシャモに似た小魚)が少ない。奴らの所為だと思うか」

「…………」

「当分、狩りどころではないな」

「…………」

 ビーヴァには、答えることが出来なかった。


 ――ビーヴァは、今もマシゥを嫌ってはいなかった。真面目で誠実な男だ。こちらを理解しようと努力してくれていることには、好感を持っている。こんなことが起きなければ、友人でいられただろう、と思う。

 けれども、自分たちはやはり、共に暮らすことは出来ないのかもしれない。

 ビーヴァは、テサウ砦周辺の風景を想い浮かべた。衝撃的で、忘れることは出来なかった。

 エクレイタの男たちは、土を掘り、木を根こそぎ抜いて、大地を裸にしていた。石を積み上げ、水を汚し、川の流れを変えていた。そこには、あらかじめ棲むものたちへの遠慮が感じられない。木のテティ(神霊)、土の中に棲むテティ、水に棲むテティの暮らしを、考えている様子がない。

 森の民が木を伐るときには、念を入れて選び、テティに許しを請う。樹皮の一部を剥ぎ、枝の一部をもらうことはあるが、根こそぎ抜くことは決してしない。

 土の中には虫たちが棲み、ネズミたちが暮らしている。リスが埋めた木の実も残っている……。掘りかえし、ただひとつの草を増やそうとするなど、考えられない。

 大地の姿(地形)を変えてはならないと、教えられてきた。テティ(神々)の怒りにふれると。

 青年は、小さく嘆息した。


「あれは何だ?」

 エビの口調が変化したことに気づいて、ビーヴァは顔を上げた。彼は眼を細め、オコン川の方角を眺めている。犬たちはとうに気づき、揃ってそちらを向いて動きを止めていた。

 ビーヴァは立ち上がった。

 村はずれから、ざわめきが近づいていた。人々の話し声、犬たちの吼える声。唸り声と、それをたしなめる声。ざくざくという蹄の音……。

 挨拶を交わす男たちの先頭に、カムロ(シャナ族の族長)がいた。頬に月の刺青を入れたロコンタ族の長は、王によく似た顎髭を生やしている。氏族長たちは、それぞれ角を切ったユゥク(大型の鹿)の背に跨っていた。

 手に手に弓矢を持ち、マラィ(刀)を佩いた男たちが、氏族長の後ろに続く。ある者は徒歩で、ある者はユゥクに乗り、足下に犬を従えている。眉をひそめ、痛ましげに集落を見渡す彼らの後方に、数え切れない枝角が揺れていた。

 ユゥクの群れだ。

 ビーヴァは目を瞠り、ごくりと唾を飲んだ。

 ロマナ(湖)の西岸に暮らすシラカバ(シャナ族の守護神)と月(ロコンタ族の守護神)の民は、ユゥクを飼育する技術を持っている。しかし、ひと群れをまるごと連れて移動してくるなど、見たことも聞いたこともない。アロゥ族の苦境を知って、配慮してくれたのだろうか。

 カムロの騎乗するユゥクの傍らに、ひときわ大柄な白毛の牡がいた。あれが、群れの長なのだろう。

 思いがけない救援の到着に、人々は歓声をあげた。子どもたちが数人、彼らを追って駆けて行く。エビの表情も明るくなった。

「行こう。ビーヴァ」

 言われるまでもなかった。



 シャナ族とロコンタ族の男たちは、ユゥクの群れを率いて村の広場に入った。人間たちが止まると、群れもおとなしく足を止めた。なかには、牝と仔も交じっている。

 カムロは、反芻を始めるユゥクの背から降りると、驚いている人々をやや得意げに見渡した。

「カムロ!」

 キシムは、ぽかんと口を開けてこのさまを眺めていた。我にかえって呼びかける。カムロは、男装のシャム(巫女)をみつけると、華やかな顔をほころばせた。

「キシム! 待たせたな」

「待たせたなって……」

 咄嗟に、言葉が出てこない。キシムは、ロコンタ族長に目礼をすると、目をまるくして群れを眺めた。

「ぜんぶ連れて来たのか」

「シャナから五十頭、ロコンタから五十頭だ。充分だろう」

「充分って……あのな」

「お前には、こいつだ」

 カムロは飄々と答え、外套の懐に片手を突っ込んだ。もぞもぞと探り、金色の毛の固まりを引っ張り出す。

 キシムの眼が、さらに大きく見開かれる。犬たちが、さっそく近寄って匂いを嗅ぐ。

 エビとともにやって来たビーヴァは、カムロに首を掴まれてぶら下げられ、おびえて四肢を縮めている仔犬を見ると、眼を細めた。

『ルプス(狼)か。いや』

 夕陽に染まったような金赤毛の仔犬の顔には、注意して見ればそれと気づく程度に、黒い縞が入っていた。ルプスと犬の血を半分ずつひくと、こういう模様があらわれる。

『あいのこ、か……』

 ビーヴァは眉をひそめた。


 橇犬の身体を大きくし、勇猛な猟犬を得るために、犬とルプスをつがわせることは、しばしば行われている。発情した牝犬を森の木につなぎ、牡ルプスの訪れを待つ方法だ。ときには、ナムコ(集落)を彷徨いでた犬が、ルプスの群れに加わることもある。

 ルプスは厳格な掟を持ち、子どもをつくることが出来るのは、群れのなかで第一位の牡と牝に限られている。犬は追い出されるのが普通だが、まれに子を生して飼い主のところへ戻ってくる。

 しかし、ムサ(人間)にとって都合のよい犬を得ることは難しい。多くのあいのこはルプスのさがを濃く持ち、橇を牽こうとしない。気性が荒すぎたり、用心深すぎたり、気侭であったりして、狩りにも使えない。結局、犬にもルプスにも受け入れられない、はぐれものとなる。

 犬は人にちかいが、ルプスはそうではないからだ。テティ(神)をムサの思い通りにすることは出来ない……。


 ――そんなビーヴァの懸念をよそに、キシムは、ぱあっと顔を輝かせた。

「覚えていてくれたのか。ありがとう」

 両手で仔犬を受け取り、胸に抱く。ビーヴァは、彼女の声に思いがけない艶を聞きとり、どきりとした。セイモアは、興味津々に仔犬の匂いを嗅いでいたが、戸惑ったように尾を下げた。

 キシムは、青年とセイモアを交互に見て、笑った。

「セイモアを見ているうちに、オレも欲しくなったんだ」

 カムロは、片手の甲で鼻をこすった。

「ルプスを、というわけにはいかなかった。カヒツ爺さんのところの牝犬が あいのこを産んだというから、譲ってもらった。牝の方が、扱いやすいだろう」

「いや、嬉しいよ。名前は?」

「爺さんは、スレイン(『紅の風』の意)と呼んでいた。真の名は、お前がつけろ」

「スレイン……」

 キシムは、心細げに啼く仔犬に頬をすりよせ、うっとりと囁いた。ビーヴァは、また鼓動が高まるのを感じた。――狩人の役には立たないルプスやあいのこでも、シャム(巫女)にとっては違うのかもしれない。――そうして、カムロの表情に気づく。

 若き氏族長は、頬を染め、視線をおよがせた。エビをみつけると、今度は大きく腕をひろげた。

「エビ」

「カムロ」

 男たちは、抱き合って友情を確かめた。エビは、彼から身を離すと、いささか決まり悪そうに一礼した。

「もう、長だったな。この度は、残念なことを」

「なに」

 カムロは一瞬笑い、さっと頬を引き締めた。

「我々の場合は、数年前から承知していたことだ。準備もしていた。貴公らは違う」

 深い眼差しをビーヴァに当て、声を低めた。

「承知していてさえ、いざとなると取り乱すものだ……。まして、此度のことは、我々の想像をこえていた。貴公らの傷心は、拝察するにあまりある。出来ることがあれば、遠慮なく言ってくれ」

 ビーヴァとエビは、項垂れて謝意をしめした。言葉だけではないいたわりが、彼らの胸を温める。

 ――と。

「兄上」

 ロコンタ族の長が、溜息まじりに囁き、ひざまずいた。他の男たちも、一斉に頭を下げる。カムロが片方の膝を折ったのを見て、エビとビーヴァ、キシムも、姿勢を正した。

 彼らの王(アロゥ族長)は、感慨無量の面持ちで、一同を見渡した。髭とともに声が震える。

同胞きょうだいよ。よく、来て下さった!」

「兄上……」

 ロコンタ族の長は立ち上がり、腕をひろげて王と抱き合った。血をわけた兄弟の再会をよろこび合う。その隣で、カムロも、ワイール族の長と不敵な視線を交わした。

「新しき長の誕生にお祝いを申し上げる、シラカバの同胞よ。……なんとも、見事なユゥクだな」

「遅れて申し訳ない、ワタリガラス(ワイール族の守護神)の兄よ。我々のちかいに、まにあうだろうか」

「不足があろうはずがない」

 ワイール族長は、豪放に笑った。カムロの肩に手を置いて

「これで、心置きなく事に当たることが出来る。感謝する、シラカバと月の同胞よ。さて、王よ。いつでも奴らと戦うことが出来ますぞ」

 男たちの間に、ぴりりと緊張が走った。

 ビーヴァは、エビとカムロから、王に視線を移した。王はロコンタ族長から離れ、黙って佇んでいる。その後ろに、マシゥがいた。刺青のない白い頬をこわばらせて、こちらを見詰めている。

 妻と幼い子どもを残し、独りきりでこの遠い地へやって来た。ふたつの民族の友誼を結ぶために。同胞に裏切られ、命の危険にさらされても、なお彼らを信じ、争いを抑えようとしている。――マシゥは、どんな気持ちでこの遣り取りを眺めているだろう。

 灰色の瞳が、不安げにビーヴァを見て、王を見る。ビーヴァは彼を気の毒に思った。戦いが始まれば、マシゥは無事ではすまないだろう。殺されるか、よくても追放される。今度は、庇うことは出来ない……。

 王は、すぐには応えず、項垂れて考え込んだ。いぶかしげな沈黙が、場を支配した。男たちは顔を見合わせ、犬たちはそわそわと身じろいだ。

 ワイール族の長が呼ぶ。既に答えを察している口ぶりだった。

「王」

 王は顔を上げ、静かに応えた。

「……同胞よ、待って欲しい。私は、いくさを行うつもりはない」

 ロコンタ族の長は眼を細め、カムロは息を呑んだ。ビーヴァは、マシゥが眼を瞠り、それから背筋を伸ばすのを見た。

 王はマシゥに肯いてみせた。一同に向き直ると、声に力をこめて繰り返した。

「戦うつもりはない。我々は、シャム(巫女)を捕らわれている。幼い子どもと女たちと、真の王たる者を、無事に取り戻すことが先決だ」

「しかし、王――」

 カムロは口ごもり、エビを見た。エビは唇を固くむすんでいる。

 王は、ゆっくり首を横に振った。

「戦えば、捕らわれている者たちの身が危うくなる。さらに、多くの者が傷つくだろう。……同胞よ。私は、話し合いで事を解決したい。使者どのと共に、奴らのところへ行くつもりだ」

 穏やかな声は、人々の胸に重く響いた。

 男たちは、再び互いの顔を確かめた。そこに希望を見出せる者は、誰もいなかった。


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