第二章 夢占(2)


          2


 炎は勢いよく燃え上がり、広い部屋をあたためていた。緋色の明かりに浮かびあがる男たちの顔は、刺青のせいでいかめしく見える。アロゥ族とワイール族の長だけでなく、大勢の男たちが、ことの成り行きを確認するために集っていた。

 エビの姿はなかった。マグとキシムを含む若者たちは、下座(部屋の入り口に近い方)に腰を下ろしている。マシゥにとっては、傍らにビーヴァがいてくれることが、唯一の心の支えだった。

 その青年は、彼のやや後方で胡坐を組み、きまり悪そうに項垂れている。

 移動につづく監禁で、マシゥは疲れきっていた。寝不足と空腹で、頭が上手く回らない。しかし、弱音を吐くわけにはいかなかった。

 戦いを止めるために、闘わなければならない。コルデに蹂躙された人々の心をなだめ、エクレイタ王の願いをかなえるために。これ以上、争いを大きくしてはならない……。


 彼はまず、今回の襲撃で犠牲者が出たことを悼んだ。開拓団の行動はエクレイタ王の命令を受けたものではなく、王は友好を望んでいることを繰り返した。自分にとっても今回の出来事は驚きであり、コルデに憤りを感じていること、彼らの力になりたいと思っていることを、強調する。

「お願いです」

 マシゥは、王の前に両手をつき、深々と頭を下げた。

「貴方がたのお怒りは解ります。しかし、どうか、待って下さい」

 王は、胸の前で腕を組み、口を閉ざしている。黒い瞳は、考え込んでいる風でも戸惑っている風でもあった。その横顔を見て、ワイール族の長が代わりに答えた。

「使者どの」

 言葉遣いが元に戻っていることに、マシゥは気づいた。王より少し若く見える族長は、右頬の白い傷跡を、思案げに軽く掻いた。

「汝の言葉をどれだけ信じてよいものか、我らには判らない。だが、タミラの息子が血のあがないを放棄した故、我らは汝を殺さない」

 エビも、そんなことを言っていた。マシゥは、ちらりとビーヴァを顧みた。青年は、瞼を伏せている。

 ワイールの族長は続けた。

「我らが汝に望むのは、この地を去り、二度と戻って来ないことだ。私が汝であっても、そうする……。何故、未だに留まっているのだ?」

「私が、王の使者だからです」

 マシゥは、両手を着いたまま答えた。

「エクレイタ王の希望は、貴方がたと私たちの間に、友誼を結ぶことです。将来この地を訪れる民のために、貴方がたの力を借りたい。ところが、コルデたちが、だいなしにしてしまった」

 マシゥは唇を噛み、拳を握っていかりを抑えた。出来るだけ平静な口調を心がける。

「私たちエクレイタが、皆あのような者たちだと、誤解されたくないのです。……私は、貴方がたを、好きです。戦争など、起きて欲しくない」

 眼を閉じて、マシゥは息を継いだ。慣れない言葉を使って人を説得することは難しい。ビーヴァが心配そうにこちらを見詰めているのを感じたが、ここは自分で言わなければならなかった。

 マシゥは、片方の拳を胸に当て、懐の矢柄を確かめた。

「これは、脅しではなく。もし、貴方がたがコルデに――あの男たちに復讐すれば、エクレイタ王は、この地へ兵をさしむけるでしょう。悪いのはこちらであっても、自国の民を守るために、王はそうしなければならなくなります。そうなってしまったら、私の力では、止めることは出来ません。……テサウにいるのは男たちばかりですが、ニチニキには、女性と子どもたちもいます。どうか、待って下さい」

 では、どうすればいいと言うのか。俺たちだって、子どもたちを囚われているんだぞ。というどよめきが、後方で起こった。男たちの間に、怒りと動揺がひろがる。

『わかっている。私だって、今すぐあそこに行ってコルデの野郎を殴りつけてやりたいんだ!』 マシゥは、叫びたくなるのを必死にこらえなければならなかった。


 ビーヴァは眉間に皺を刻み、考え込んでいた。母を殺され乳妹を奪われた彼には、誰よりもコルデを憎む理由があるはずだったが、事態の複雑さを理解して困惑していた。――マシゥを殺さなくて良かった。使者を殺されては、エクレイタ王は彼らを赦さなかっただろう。

 ざわめきは次第に大きくなり、真夏の湿原に群れる蚊の羽音のように部屋を満たした。不満と疑念が渦をまき、炎と魚油灯を揺らめかせる。その光を浴びて座している王は、腕を組み、眼を閉じてじっと動かない。

 男たちの囁きに、怒声が雑じりはじめた。誰かが、マシゥを捕らえてコルデと取引しようと言っている。『私は構わないが、コルデには通用しないだろうな』と、マシゥは思った。彼は既に、あの男にとっての自分の価値を知っていた。

 人々の不安にむきだしの梁が震えはじめた頃、ようやく、アロゥ族の長が口を開いた。

「使者どの」

 途端に、霧が晴れるようにざわめきが引いていった。マシゥは、内心ほっとした。王は、以前と変わらぬ口調で彼を呼んでくれた。

 王は、うすく眼を開け、悲しげに言った。

「貴公の言いたいことは解った。……ひとつ、誤解しておられるようだ」

 え? と思い、マシゥは顔を上げた。王は、ゆっくり頷いた。

「我々の掟は、身内の骨を拾う(仇討ちをする)ことを認めているが、それは骨の数だけ、殺された者の数だけと決まっている。今までのところ、殺されたのはタミラ一人。その息子が購いを求めない以上、我々が復讐を行うことはない」

 マシゥは、ビーヴァを顧みた。ビーヴァは彼に肯いてみせ、居心地悪そうに身じろいだ。

 王は、淡々と続けた。

「我々の望みは、女と子どもたちを早く返して欲しい、ということと、無理な要求を取り下げ、我々を放っておいて欲しい、ということだ。……しかし、それも、貴公の王の望みとは違うのだな」

「…………」

 マシゥが答えられずにいると、王は、そっと嘆息した。

「氏族の間で諍いがあったのは、もう、伝説となるほど昔のことだ。長い間、我々は、戦ったことがない。他人にこんな仕打ちをすることが出来る者がいる、ということが、信じられない」

 ワイール族の長が、いたわりをこめた眼差しを王に向けている。

 マシゥは恥じ入った。王の言葉によって、彼らがどんなに穏やかな暮らしを営んできたのかが解る。他人を騙したり傷つけたりすることなど思いもよらなかった人々のところへ、憎しみを運んできたのは、自分たちなのだ――。

 王は眼を伏せ、囁いた。抑えきれない苦悩が、低い声を震わせた。

「考えさせてくれ。あのような者たちに、どう抗えばよいのか、どうすれば、子どもたちを無事に取り戻すことが出来るのか。私には、判らないのだ……」

 王の嘆きに感応して、人々はしんみりと黙り込んだ。それで、その日の話し合いは終わりとなった。


          *


 夜が更けると、ワイール族の人々は、広場に建てた自分たちのチューム(円錐住居)へ移った。手当てを終えた負傷者も自宅に(或いは親族の許に)帰ったので、シャム(巫女)の家は急に静かになった。

 残ったのは、王と、王を警護するサンという若者、身の回りの世話をする女たち、帰るところのない老人、それに、マシゥとビーヴァだ。マシゥは、再び客として遇されていた。

 彼らは、沈痛な面持ちで火を囲み、食事をとった。ウバユリの根の団子を焼いたものと、ホウワゥ(鮭に似た魚)の汁、温めた酒が出された。

 ビーヴァは、ずっと黙っていた。沈んだ横顔から内心を窺うことは出来ないが、自分の矢が結果的にコルデたちを招いてしまったこと、母を殺されてしまったこと、マシゥを誤解したことなどに、責任を感じているようだ。

 マシゥには、彼を慰める術がなかった。それでも、青年が傍にいてくれることは嬉しかった。エビのことを思うと、気がふさぐ。

 ビーヴァが理解してくれ、王に取り次いでくれただけでも幸運なのだ。マシゥはそう考え、『仕方がない』と自分に言い聞かせた。けれども、寂しさはぬぐえない。故郷を遠く離れ初めて得た友人に見放されることは、心にこたえた。今更だが、コルデを止めることは出来なかったのだろうか、と考える――。

 食事を終えたマシゥは、力尽きて眠りに落ちた。


 じくじくという左足の痛みに、マシゥは目を覚ました。

 炉の中で、炎は明るく輝いている。横になったまま視線をめぐらせると、サンが胡坐を組んだ姿勢で居眠りをしていた。王は、毛皮をかぶって眠っている。

 まだ、夜は明けていないらしい

 ビーヴァは起きていて、胡坐を組み、手元で何か作業をしていた。傍らには、いつの間に来たのか、セイモアが寝そべっている。白い狼の仔は、床にべたっと腹をつけ、前足の上に顎を乗せた格好で、つまらなそうにマシゥを見た。

 屋根の上を通り過ぎる風に乗って、物悲しい笛のような音が聞こえてきた。セイモアが、ぴくりと耳を動かして頭をもち上げる。マシゥも、長々と引き伸ばされた咆哮に耳を澄ませた。

「ルプス(狼)だ」

 ビーヴァが、マシゥが目覚めていることに気づき、ぼそりと呟いた。仔狼の頭に片手をのせる。

「ユゥク(大型の鹿)の群れが、北へ渡っていく。狩りをしているんだろう……」

 セイモアは、再び足の上に顎を乗せた。耳は立てたまま、風の行方に注意を向けている。

 ビーヴァは、ちょうど新しい薪を運んできた女を呼びとめ、小声で話しかけた。女は、頷いて去っていった。

 青年は、荷袋から骨の針を取り出し、靴の修繕をはじめた。ユゥクの腱の糸で、破れたところをつくろう。その手つきは、決して慣れたものではなかったので、マシゥは胸が痛んだ。

「……どうした?」

 眺めていると、ビーヴァが声をかけてきた。マシゥの動きが気になったらしい。彼は寝転んだまま左脚を折り、膝を抱え、足の指を揉んでいた。

 マシゥは曖昧に微笑んだ。

「ああ。少し、痛いんだ」

 ビーヴァは眉を曇らせた。

「見せてみろ」

 それで、マシゥが毛織の足袋を脱いでみると、足先から外側の指にかけて赤紫色に変わっていた。凍傷だ。緊張していたので気づかなかったが、昨夜のうちに出来たらしい。

 春とはいえ、この辺りの夜はかなり冷える。火の気のない小屋に閉じ込められていたのだから、仕方がない。

 マシゥは苦笑して、揉む作業を続けた。

 ビーヴァは顔をしかめると、荷物の中から(母と一緒に家を火葬した彼は、身のまわりの物を袋にまとめていた)小さな箱を取り出した。シラカバの樹皮を編んで作られた小箱には、黄褐色の獣脂が入っている。それを掌で温め、やわらかくした。身振りで、足指に塗るよう促す。

「ゴーナのあぶらだ。ヤナギの葉を混ぜてある」

「へえ。あ、ありがとう」

 マシゥは微笑んだが、青年の表情はほぐれなかった。硬い口調で訊く。

「いつからだ?」

「昨夜だと思う。火がなかったから」

「大丈夫だ。まだ、軽い」

 マシゥが小箱を返そうとすると、ビーヴァはかぶりを振った。耳たぶにも塗るよう促す。

「よくこすっておけ。油断すると、黒くなって腐る。脚をまるごと一本失うこともある」

「そ、そうなのか」

 マシゥは、念を入れて足指をもみ、冷たくなっている耳たぶにも膏をすりこんだ。改めて、この地の寒さの厳しさと、旅の間、ビーヴァとエビが気を遣ってくれていたことを知る。――二人は、防寒のために風よけを作ったり、穴を掘ったりしていた。あれは、彼ら自身のためだけではなく、薄着なマシゥを守るためでもあったのだ。

 そうしていると、先刻の女が、毛皮を一枚持って戻って来た。マシゥの肩にかけ、温めた酒を入れた器を差し出す。マシゥは胡坐を組み、礼を言って器を受け取った。

 ビーヴァは、彼の仕草を見守っていた。黒い瞳は、いささか当惑しているようだ。森の民は、室内にいるときには、イラクサの繊維を織った内着や、うすくなめした革の衣一枚で過ごすことが出来る。南方の人間の身体の弱さが意外なのだろう。

 マシゥは、酒のぬくもりが身体にひろがるのを感じて、ほっと息をついた。青年に微笑みかける。ビーヴァは笑わず、硬い表情で彼を見返した。

 よい機会と思い、マシゥは彼に話しかけた。

「以前から、訊いてみたかったんだ。君たちは、どうして、こんな――といっては失礼かもしれないけれど。寒いところで、暮らしているんだ?」

「どうして、って……」

 ビーヴァは口ごもり、眉間に皺を刻んだ。マシゥは時々、彼にとっては当たり前すぎて疑問に感じたことのないことを訊いてくる。今回の問いも、青年の意表を突いていた。

「生まれたときから、ここに居る。祖父のまた祖父の代から」

「南の、もっと暖かい土地へ行こうと考えたことはないのか? 他の暮らしをしてみたいと思ったことは?」

 ビーヴァは肩をすくめた。マシゥから視線をそらし、セイモアを撫でる。

「ロマナ(湖)の向こうに人が住んでいるなんて、考えたこともないのだから、行こうと思うはずがない……」

 ビーヴァが手を離すと、仔狼は鼻を鳴らして彼の掌を舐めた。マシゥはその様子を眺めながら、滑らかな声を聞いた。

「それに、俺は、ここが好きだ。仲間がいるし、狩りも出来る」

「そうか……」

 マシゥは、しみじみと頷いた。ビーヴァの言葉は素朴で、素直に心に入ってくる。民族は違っても、こういうところは同じだと思う。

 ビーヴァは、そんなマシゥを見詰め、首を傾げた。もの言いたげに口を開け、閉じる。マシゥがそれに気づく前に、低い声が会話に入った。

「昔、この辺りは、今よりずっと暖かかったのだ」

 二人は同時に振り返った。炉の傍で眠っているとばかり思っていた王が、身を起こしている。サンを迂回し、こちらへ近づいてきた。

 ビーヴァは項垂れ、マシゥは恐縮した。

「スミマセン。起こしてしまいましたか」

「いや、起きていた。考えなければならぬことが、沢山あるからな……」

 王は、見張りの若者を起こさぬよう、囁き声で答えた。マシゥを見詰める瞳は、深く澄んでいる。胡坐を組み、長い顎髭を片手で撫でると、静かに語り始めた。


「昔、ここは、今よりずっと暖かく、雪のない土地だった。ロマナのほとりには丈の長い草が生え、ユゥクや長角ヤギ(アイベックス)や、牙のテティが暮らしていた。アンバ(虎)もゴーナ(熊)も、今より大勢いたのだ。

 ところが、あるとき強い風が、吹雪を連れてやって来た。吹雪は一年じゅう続き、次には黒い雨が降った。嵐が過ぎると、太陽が三人、月が三人あらわれた。晴れた日には、三人の太陽が地上を照らしたので、森は燃え、大地は融けた。湖は沸きたち、ムサ(人間)と魚がたくさん死んだ。多くのテティ(獣)が、飢えに苦しんだ」

 マシゥは目を見開いた。犬使いやビーヴァたちから彼らの神話を聞いていたが、王の話は、それらとは異なっている。太陽が三つあったというのは、聞いたことがない。ぽかんと開きそうになった口を慌てて閉じ、突然この話を始めた王の意図を考える。

 王は、彼の反応には構わず続けた。

「夜も、月が三人も現れて、明るすぎて眠れない。困ったテティ(神々)は相談した。そこで、シジュウカラの兄弟が――」

「シジュウカラ、ですか」

 マシゥは、思わず訊き返した。エクレイタの神話では、人々の窮地を救うのは、英雄となるべく生まれた人間と決まっている。レイム(太陽神)の光を浴びた女の腹から、卵に入って産まれてくるのだ。王族は、その子孫だと言われている。

 それがここでは、掌に乗るほど小さな鳥なのか。

 王は、真顔で肯いた。

「そうだ」

 ビーヴァも、至極まじめに答えた。

「シジュウカラのテティ(神)だ」

 ビーヴァは全く驚いていない。彼らにとっては馴染みの物語なのだろう。マシゥは、黙っておくことにした。

 先刻の女が、王のために酒を運んで来た。王は礼を言って器を受け取り、喉を湿らせてから続けた。

「――シジュウカラの兄弟が選ばれて、旅に出た。ゴーナやアンバ、ハッタ・テティ(梟)と戦い、かれらの力を得て強くなったふたりは、天の老人(天神)が燃やす炎(オーロラ)の中に飛びこんで、ムサに姿を変えた。己の骨から矢を作り、地の果てまで行って太陽が昇るのを待ち構えた。

 兄のシジュウカラが一番目の太陽を、弟が三番目の太陽を射落として、昼間のぼる太陽をひとりにした。弟のシジュウカラが一番目の月を、兄が三番目の月を射落として、夜を暗くした。このとき、射落とされた月の欠片が天に残り、今いる月の傍で輝く星になった」

 マシゥは改めて、彼らの言葉を知った。小鳥、ゴーナ、アンバといった獣のことを、王は『彼ら』と呼び、『ひとり・ふたり』と数えている。風も月も太陽も、人間と同じように表現する。――彼らには、それらを区別する思想がないのだ。

「太陽はひとり、月もひとりになった。地上は冷えて固まり、再びムサが暮らせるところになった。夜に狩りをするものたちだけのために月は輝き、テティは安堵した。

 使命を終えた兄弟は、天の老人のところへ帰った。世界の秩序を取り戻したふたりは、テティ・ナムコ(神々の国)で暮らすことを許され、天の老人の娘たちのなかから、金と銀の鳥の娘を娶ることを許された。彼らは、今も天で暮らしている」


 薪のはじける音が、小さく聞こえた。セイモアが、あふっと欠伸をする。王が話を締めくくったのちも、ビーヴァは動かず、マシゥはしばらく考え込んでいた。

 王は、マシゥの反応を窺うように、軽く首を傾げた。

「貴公らは、太陽のテティ(神)の血を引く民だと聞いている。テティを射落とす我々は、不敬に当たるのだろうか」

「え? いいえ、とんでもない」

 マシゥは、咄嗟に瞬きを繰り返した。何故、王がそんなことを問うのかが解らない。

 王は瞼を伏せ、やや淋しげに言った。

「我々は、テティのいるところでしか、生きていくことが出来ぬ……。私も、貴公らに尋ねたい。我々にとって南は暑すぎ、貴公らにとって、ここは寒すぎるだろう。生まれた土地を離れ、何故、やって来た。己のテティのいない土地で、どうして暮らしていけるのだ」

 マシゥは、王の言葉の真摯さに胸を衝かれ、ごくりと唾を飲んだ。ビーヴァも、こちらを見詰めている。

 マシゥは言葉を選び、ゆっくりと答えた。

「私たちは、パンサ(麦)の民です。レイム神(太陽神)のご加護の下、土を耕し、種を蒔き、ウシやヒツジの乳を搾って暮らしています」

 自分たちの生活について話すマシゥの脳裡に、青く輝く空と、どこまでもひろがる緑の畑が現れた。眩しいレイムの輝きが……。懐かしさに、思わず胸が熱くなったが、彼はぐっと耐えた。

「私たちは、採れたパンサを王のところに集め、王は、それを使って民に恩恵を施します。船を造り、家を建てるために使うのです。石や毛皮と交換することもあります」

 ビーヴァが、不思議そうに尋ねた。

「どうやって、草から舟を作るのだ? 草の実が、石や木に変わるのか?」

 マシゥは、どう説明しようかと考えた。

「……私たちの船は大きいので、造るために、木をたくさん伐って運ばなければならない。家も、大勢の男たちが、石と土を固めて造る。その者たちに食べさせるために、必要なのだ」

「ふうん……」

 ビーヴァは、分かったような分からないような顔になった。自給自足が基本の彼らには、個人が必要とする以上のものを造る思想は、理解しにくい。


 エクレイタの民は、集団で働かなければ生きてゆけない。集団で開墾し、集団でパンサを育て、刈り入れる。天候を占う王の指揮の下、飢饉に備えて食糧を蓄える。

 ビーヴァたちも氏族のために働くことはあるが、規模が違う。自ら生きるためだけではなく、集団のために働き、報酬として食を得る――エクレイタの『分業』という仕組みは、彼らにはない。

 マシゥは、どちらの暮らしが是か非かということは、考えていなかった。今では、寒さの厳しいこの土地では、主にパンサに頼って生きるエクレイタのやり方は、通用しないのだと解る。それでも、コルデたちがやって来たのは――

 マシゥは項垂れた。彼らにこれを告げることは、苦しかった。

「私たちの掟では、土地は、そこを耕した者に与えられます。パンサや木の実は、それを育てた人のもの。誰かの土地で暮らす獣は、その土地を所有している人のものです。生かすも殺すも、彼らの自由なのです」

「土地は、誰のものでもない」

 ビーヴァが答えた。黒い瞳は澄み、口調は囁きに近い。けれども、そこに表れた思想は、苛烈なほど明確だった。

「――強いて言うなら、そこで暮らすテティ(動物たち)のものだ。そして、テティはテティ自身のものだ。……俺は、セイモアを所有してはいない。彼は、自分の意志でここにいる」

 名を呼ばれた仔狼が、頭を持ち上げ、親しげに尾を振った。期待のこもった眼差しで、青年を見上げる。ビーヴァは、幽かに微笑んで彼を撫でると、真顔に戻ってマシゥを見詰めた。

「いったい、誰が母なる大地を所有し、切り取ってムサに与えるのだ? そんなことが出来るのは、天の父だけだろう。貴方の王は、テティ(神)なのか?」

「そうです。そう、言われています……」

 マシゥは、彼の視線を受け止めるのが辛くて、顔を上げることが出来なかった。彼らと自分たちの決定的な違いは、ここにあるのだと感じる。

 レイムの直系の子孫であるエクレイタ王は、天を支配するのだ。彼の行為によって天候が決まり、パンサの採れる量が左右される。

 王の許しがなくとも、この地を開拓したコルデたちは、ここを自分たちの土地だと思っているだろう。もしかしたら、ビーヴァたちをも所有したつもりになっているのかもしれない。家畜のように。


「…………」

 ビーヴァは黙り込んだ。漠然と察していたことを理解して、憮然とする。己の顔が蒼ざめるのが分かった。

 自分たちは、なんというものをナムコ(集落)に招き入れてしまったのだろう。

「……わかった」

 眼を閉じて二人の会話を聴いていた王が、囁いた。長い髭が溜息とともに揺れる。眼を開け、冷静にマシゥを見た。

「使者どの。話してくださり、感謝する。どうやら、思っていた以上に、我々の違いは大きいようだ」

 マシゥは、深々と一礼した。そうすることしか出来なかった。

 夜明けの白い光が、窓を被う毛皮の隙間から差しこんできた。マシゥの灰色の髪は、その光を浴びて鈍い銀色に輝いた。

 逆に、ビーヴァの胸には、暗く苦いものが満ちていた。

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