第二章 夢占(ゆめうら)

第二章 夢占(1)



          1


『ああ、ロマナが歌っている。風のテティ(神霊)が競っているんだわ』

 硬い土の上に横たわり、表を吹きすさぶ風の音を聞きながら、ラナは思った。幼い頃、タミラにしてもらった物語を思い出す。

 ――ロマナ湖には、三人の恋人がいます。アムナ山からやってくる北風のアムバイ、西の山脈から雪を運んでくるハァヴル、そして、南からやってくる暖かなクルトゥクです。風のテティは、美しい女神の歓心を得ようと、競って波をおこします。彼らの力の差によって、その年の天候と魚の獲れ具合が変わるのです……。


 あたたかな火の傍で、歌うように語る乳母の声を聞いていた。まどろんでいたラナは、か細い赤ん坊の泣き声に目を覚ました。

 ロキが、申し訳なさそうに囁く。

「すみません。お起こししてしまいましたね」

「気にしないで、ロキ」

 ラナは、のろのろと身を起こし、ほつれた髪を掻きあげた。途端に、寒さがずんと肩にのしかかる。うす暗い室内に淀む湿った空気は、衣の中にまで入り込んでいた。

 ラナは、つきかけた溜息を呑みこんだ。土と水と埃と、自分たちの汗と排泄物と、赤ん坊の乳のにおいが混じり合い、呼吸を詰まらせる。溜息は、ただでさえ濁っている空気を悪化させるだけのように思われた。

 ロキは、衣の胸をひらき、下の息子に乳を含ませている。ラナは、彼女の腕の中を覗きこんだ。

「大丈夫?」

「ええ、はい。そうあって欲しいのですが……」

 ロキは、不安げに繰り返した。乳飲み子を抱いた他の母親が、そっと近づいて、彼女の背を撫でる。

 ラナには、項垂れることしか出来なかった。


 半地下のこの部屋に閉じこめられて、三日が経つ。女たちの心は、風にゆらぐ灯火のように揺れていた。

 石と泥を固めて造られた壁は厚く、光と風を遮断する。一つだけの窓は湖に面し、扉の前には槍を構えた男が常に座っている。

 毎日ひと壺の水が与えられたが、食べ物は全く与えられなかった。火の気はなく、炉の灰は冷えきっている。女たちは身を寄せ合い、むき出しの土の上で眠った。排泄は、部屋の隅に場所を決めて行うしかなかった。

 子どもたちは怯えて、母親の傍を離れようとしない。乳飲み子を抱いた母親は、ひときわ憔悴していた。赤ん坊に飲ませる乳が出なくなったら、どうすればよいのだろう。

「何故」

 女たちは、顔を寄せ、ひそひそと話し合った。そうしたところで答えがみつかるわけでもないのだが、狭い部屋におしこめられた状態で沈黙していると、不安が高じて気が狂いそうになるのだ。

「何故、彼らはこんなことをするのだ。私たちが、彼らを怒らせるようなことをしたのだろうか」

「そんなはずはない。きちんと使者をもてなしたではないか」

「ならば、何故、奴らはナムコ(村)を襲ったのだ? 私たちを閉じこめる理由は?」

「わからない」

「もしかして、テティの下された罰なのだろうか」

「…………」

 ラナは、黙って彼女たちの会話を聴いていた。心の中では、最後の問いを否定したくて、声をあげていた。王とシャム(巫女)の名において、テティがこんなことをするはずがない、と。

 けれども、否定しきれない煩悶が、少女の口を閉じさせていた。

『もし、テティが罰を下したのだとすれば。それは、私にだわ』――畏れながら、考える。

 神々の掟に背いたつもりはない。しかし、シャムの修業を怠ったというのなら、責められても仕方がない。自分は巫女として未熟で、求められる力を発揮することが出来なかった。その所為で、テティのことばを読み違えた。

 何より――若き狩人の面影が心に浮かび、その鮮やかさに、ラナはおののいた。

 決して、恋してはならないひと。彼とかつての暮らしに心を残す余り、己の立場を見失った。ただ想うことさえ、許されないのだとしたら……。

『私のせいだわ』

 ラナは唇を噛み、腕をまわして自分の身体を抱いた。改めて、責任を痛感する。亡き母なら、余計な想いに囚われて使命をないがしろにすることなどなかったろう。

『母さま、教えて。私はどうしたらいいの』

 呼びかけても、こたえは返って来ない。


 ふいに、おし殺した嗚咽が、ラナの注意を引いた。

「お願いだよ、飲んでおくれ。少しでいいから」

 水瓶の傍らに腰を下ろし、女が肩を震わせていた。腕には、二歳になる幼子を抱いている。気づいた女たちが、彼女を慰める。

『ハルキ……』 ラナの胸が、じくりと痛んだ。

 彼女の息子は、襲撃の日から熱を出していた。舟に揺られたのも良くなかったのだろう。今ではぐったりとして、水を飲むことさえ出来なくなっている。ラナには、子どもを癒すことが出来なかった。

 ハルキは、凍える指先を水に浸し、懸命に我が子の口を湿らせていたが、これまで耐えていたものが崩れたように泣き始めた。その声は、聞くものの胸を引き裂き、女たちは項垂れた。

「わたし――」

 気づくと、ラナは喋っていた。声は遠く、自分のものではないようだった。

「今度、扉が開いたら、出してくれるようお願いするわ」

 はっと、数人の女たちが顔を上げる。その中で、ハルキの瞳にかすかな希望の光が差すのを、ラナは見た。ラナは彼女に頷いてみせ、己にも言い聞かせるつもりで続けた。

「彼らの長に会って、話をしてくる」

「いけません」

 ロキが、強い口調で遮った。涙に濡れて縁の赤くなった目で、少女を見る。ラナは、膝に置いた自分の手を見下ろした。

「でも、このままでは……」

「ラナさまは、駄目です」

「罠ですよ」

 ロキ以外の女たちも、口々に言う。ラナは、ハルキの瞳がみるみる翳るさまが見える気がした。

「お母さん、おなかがへった」

「おうちにかえりたいよ……」

 弱々しい声で、子どもたちが訴える。何百回も繰り返された台詞だ。宥める母親たちも飢え、追い詰められている。それでも、彼女たちはラナを引き止めた。

「ラナさま。あの男たちがどうしてこんなことをするのか、私たちには分かりません。けれども、良い心を持っているとは到底思えません。私たちを閉じこめ、飢えさせて、思い通りにしようとしているのです。罠に嵌ってはいけません」

「でも――」

 ラナの言葉は、ハルキの叫び声にひったくられた。

「でも、この子が死んでしまう! 私たち、みんな、殺されるんだわ!」

 女たちは、慌てて彼女を抑えようとした。

「おやめ! ハルキ」

「しっかりして」

「大丈夫。大丈夫だから……」

 わっと泣き崩れる彼女に呼応して、子どもたちが一斉に泣き出した。女たちは、急いで彼らを鎮めなければならなかった。

 ラナは、ハルキに投げつけられた言葉より、己の無力さを改めて突きつけられた心地がして、愕然とした。

 ロキは赤ん坊を抱きなおし、もう一人の息子を脇に引き寄せた。洟をすすり、ラナの前に身を伏せる。

「どうか、ご自重ください」

 しぼりだすような声だった。

「貴女はシャムなのです、ラナさま。先代の遺された、ただ一人の御子。テティの定めた、私たちの王……。長い間、お待ちしていました。貴女の身にもしものことがあれば、私たちは終わりなのです」

 二人の女が、ロキと並んで頭を下げた。部屋にいるほかの女たちも、或る者は子どもを抱き、或る者は涙をぬぐいつつ敬意を示す。ハルキさえ、友に促されて頭を下げた。

「…………」

 ラナは首をめぐらせて、ぼんやりとそのさまを眺めた。目は乾き、涙が出てくる気配はない。泣くことすら許されていないのだと感じる。

 女たちの姿に、入巫を終えた日、小屋をでた自分をひざまずいて迎えた父王の姿が重なった。『これが民だ』そっと思う。

『私の民なんだわ……』

 あの日、自分を囲む世界の全てが変わったと思った。無邪気に過ごしていた子どもの時間が恋しく、負わなければならない責任から目を背けていた。モナ・テティ(火の女神)と父王の庇護の下、ゴーナの毛皮を重ねた寝床でまどろむように、優しい夢を見続けていたかったのだ。

 けれども、それは許されない。

 ラナは囁いた。

「わかったわ……」

 でも。

 彼女は、自問せずにいられなかった。

『テティの声が聞こえない巫女、民のために何も出来ない王とは、いったい何だろう』と――。


          *


「よう、トゥーク。親父さんはみつかったか?」

 防壁へ向かう少年に、男たちが声をかける。つづく嘲笑を聞くまいと、トゥークは唇を噛み、顔を伏せた。胸に抱いた土製の壺の中で、水がぽちゃぽちゃ音をたてる。転がる小石や木片につまずかないよう、足を運ぶ。

 犬使いは、いなくなっていた。

 少年は捜したが、砦の中ばかりか住んでいた小屋からも、父の姿は消えていた。息子が出かけている間に、ニチニキ(開拓団の作った町)へ行ったのかもしれない。或いは、森へ逃げたのかも。――そう、トゥークは考えることにしていた。心の隅で、もしかして父は殺されてしまったかもしれない、と思いながら……。

 

 襲撃を終えて帰還した男たちは、最初の日こそ奪ってきた酒や食糧を喰いあさっていたが、翌日には、それらを片付けた。コルデの指示は徹底していたので、誰一人、分け前を要求しなかった。干し肉やシム団子、オロオロの毛皮は、一箇所に集められ、ユゥクの皮で覆われ保管された。

 次に彼らは、貧弱な芽を出しているパンサ(麦)の畑には目もくれず、アロゥ族から奪ったキィーダ(皮張りの小舟)を分解し始めた。ヤナギの木枠から、別のものを組み立てる。

 彼らが橇を作っていると知ったトゥークは、コルデの意図を理解した。

 この地の夏は短く、『ヤマブドウの実が赤くなる月』には、雪が降りはじめる。それから半年以上の間、大地は凍結し、耕すことは出来ない。男たちは、秋になるとテサウ砦にわずかな人数を残して、ニチニキへ引き上げる。

 帰る準備をしているのだ。

 ニチニキには、彼らの連れてきたエクレイタ族の女と子どもたちがいる。『あの女は、まだ生きているだろうか』――思い出しかけて、トゥークは首を横に振った。舌打ちして、今の仕事に意識を戻す。

 毎日、捕らえた女たちのところへ水を運んでいく。コルデに命じられたのでなければ、やりたくない仕事だった。女たちは、襲撃の際に彼が果たした役割を知っているからだ。

 トゥークは、防壁に開いた穴をくぐり、じめじめした通路へ入った。白く曇った空の下から土の壁に囲まれた場所へ入ると、一瞬、視界が黒く覆われた。

 暗がりの中に、槍を抱えて壁にもたれている男の姿がぼうっと現れる。

 トゥークは壺を抱えなおし、扉に近づいた。見張りが、慣れた手つきで閂を外す。

「ご苦労だな」

 トゥークは答えず、クズリの巣穴のような部屋に足を踏み入れた。途端に、えた臭いが鼻を突く。彼の背後で、音を立てて扉が閉じられる。

 少年は、しばらくそこに佇んで、闇の中で息を殺している女たちを見詰めた。


 コルデの予想は正しかった。閉じ込められ、食を絶たれた女たちは、日ごとに衰弱していた。トゥークは、身を寄せ合う女たちと、彼女たちの後ろに隠れてこちらを窺っている子どもたちの顔を、一人一人確認していった。どの顔もやつれ、目だけが異様に輝いている。

 トゥークの目は、やがて、女たちの向こうにうずくまっているラナに止まった。思いつめたシャム(巫女)の横顔を見て、眼を細める。

 テティ(神々)への信仰の残る少年の心には、シャムをうやまう感情も残っている。はじめのうち、彼は、コルデにテティの罰が下るだろうと考えていた。神聖な巫女――ラナを、縄で縛り、攫い、閉じこめたのだから。

 しかし、一日経ち、二日経っても、コルデの様子は変わらなかった。砦の男たちは、平然と暮らしている。

『どういうことだ』

 トゥークはいぶかしみ、考えた。巫女の装束を身に着けていないラナは、小柄で、無力で、頼りなく見える。

『何故、テティはこいつを助けない。本当にシャムなのか?』

 氏族の許で穏やかに暮らしていた頃なら決して浮かばなかっただろう疑念が、頭をよぎった。

『テティは、ここにいるのか……?』


「なに、じろじろ見ているのよ」

 頬に月の刺青のある女が、鋭い声を投げつけてきた。トゥークは我に返り、視線を逸らした。無表情を装い、戸口に置かれた壺の傍らへ向かう。残り少なくなった水瓶の中に運んできた水を注いでいる間、刺すような眼差しを頬に感じた。

「あんた」

 囚われて三日も経つと、大胆になったのか。一人の女が、掠れた声をかけてきた。

「あんた、あたしたちの言葉が解るんだろ」

 質問ではなかった。言葉とともに、二十二組の視線が彼を射る。トゥークは、彼女たちを見るまいと努めた。身体の向きをかえ、扉に手をかけると、腕を掴まれた。

「無視するんじゃないよ。どうして奴らの手先になっているのさ」

「ニレ、やめなよ」

 他の女が宥めたが、女は手を離そうとしなかった。血走った目で少年を睨んでいる。衣の上から、指がぎりりと彼の腕にくいこんだ。

「あの」

 涼やかな声がした。トゥークはそちらを向きかけ、慌てて顔を伏せた。シャムに対する礼儀を意識したわけではない。恐ろしかったのだ。

 月の刺青の女が言う。

「ラナさま、おやめ下さい」

「あなた、トゥークって言ったわよね?」

 ラナは、女たちをかきわけて彼に近づいた。トゥークは顔を伏せたまま、瞳をぐるぐる動かして逃げ場を探した。腕を掴まれているので、動くことが出来ない。

 ラナは、はりつめた、かすかに震える声で囁いた。

「お願い。私たちをここから出して。それが出来ないのなら、せめて、火と食べ物をちょうだい」

「ラナさま!」

 月の女は、急いで彼女を抱きかかえ、トゥークから引き離そうとした。まるで、声をかけただけで巫女の身が穢れると思っているかのように。早口に囁く。

「先ほど申し上げたばかりではないですか」

「お願いするだけよ」

「いけません。こんな奴に」

「でも、ロキ」

 シャムは、トゥークが意外に思うほど辛抱強い口調で、ロキを宥めた。

「彼は、あの男たちの言葉が解るのよ。話をしてもらいましょうよ」

「こいつは裏切者です」

 ロキは、憎しみをこめて少年の顔を指差した。トゥークはたじろぎ、呼吸を止めた。

 シャムの声に、溜息がまじった。

「ロキ……」

「ラナさまも、ご覧になったはずです。こいつは、私たちと同じ森の民でありながら、テティと氏族を捨て、奴らの手先となっている者です」

『そうだ』 胸の中で、トゥークは呟いた。――そうだ。ただし、俺たちを捨てたのは、お前たちの方だがな。

「私たちの言葉を、どんな風に捻じ曲げて伝えているか判らないんですよ。信用してはなりません」

 そう言うと、月の刺青の女は、シャムを背に庇って後ずさりした。その目は、少年を睨んで離さない。

 トゥークの内から、にわかに凶暴な怒りが湧き起こり、膨れあがって彼を満たした。水を入れたばかりのかめを倒してやろうか、殴ってやろうか、と思う。その時、ロキの腕の中の赤ん坊が目に入った。母の胸にしがみついている幼い子どもの、恐怖にみひらかれた瞳を見た途端、彼は気勢をそがれた。

 トゥークは己の感情に戸惑い、立ち尽くした。女たちの囁きが耳に入ってくる。

「ロキの言うとおりだわ」

「裏切者」

「よくも、私たちの前に顔を出せたわね」

「…………」

 ラナは、そんな彼を見詰めたものの、何と言えばよいか判らなかった。

 ――と。

 ざっざっと遠慮のない足音が近づき、扉が開かれた。女たちが一斉に身をこわばらせるなか、一人の男が、頭をぶつけないよう背をかがめて入ってきた。

 男は、開いた扉の前に足を開いて立つと、両手を腰に当て、じろりと一同を見渡した。トゥークをみつけ、声をかける。

「コルデ団長からの伝言だ。伝えろ」

 男は上機嫌だった。わざわざ注意しなくとも、息に酒の臭いが混じっているのが判る。トゥークは眉をひそめた。

 男は、太い声を部屋全体に響かせた。

「お前たちのうち誰か、ここを出て、俺たちに奉仕する者はいないか。いれば、そいつは勿論、一人につき一人分、食い物を与えてやる」

 トゥークは、硬い口調で男の台詞を繰り返した。森の民の言葉に訳された内容を聴くにつれ、女たちの間に動揺がひろがった。

「一人分?」

 月の刺青の女が、不審そうに訊き返す。男はゆったりと頷いた。

「そうだ。一人出れば、一人分。二人出れば、二人分の食い物を、残りの奴に与えてやる」

 ロキとは違う赤ん坊を抱いた女――ハルキが、すがりつくように彼を見上げた。

「子どもは?」

「子どもは駄目だ。邪魔になる」

 男は即座に答えた。迷いはなかった。

 ハルキは、いっそう強く我が子を抱きしめた。他の女たちは顔を見合わせたが、黙っていた。トゥークと違い大人の男なので、恐れているのだ。

 トゥークの腕を掴んだニレという女が、声をひそめて彼を急かした。

「あたしたちを出してくれって、言いなさい」

「…………」

「ちょっと。聞こえないふりするんじゃないよ。子どもたちを出しなさいよ!」

「…………」

 トゥークは、反抗的な気持ちで口を閉ざしていた。ニレの瞳は怒りに燃え上がったが、どうすることも出来ない。

 二人の遣り取りの解らない男は、その様子を面白そうに眺めていたが、改めて一同を見渡した。

「どうした。誰もいないのか?」

 ハルキが、肩を震わせて泣き始めた。女たちが慰める。

 トゥークは、ラナが口を開いて何事かを言いかけ、ロキが慌ててそれを制するのを見た。巫女の行動に注意を向けていると、すぐ傍らで声がした。

「本当だね?」

 ニレだった。女たちが息を呑む音が、部屋の空気を震わせた。トゥークも目をまるくして、女の横顔を見詰めた。

 ニレの顔は青ざめ、唇は震えていた。それでも、彼女はまっすぐ男を見上げた。

「本当に、一人が出たら、食べ物をくれるんだね?」

「……本当だ」

 トゥークが彼女の言葉を伝えると、男の目に品定めするような表情が浮かんだ。口元がだらしなくゆるむ。節の太い無骨な手が伸びて、彼女の顎を支えた。

「ここには、女がいないからな。ちゃんと仕えるなら、喰わせてやる」

 ニレは、男から眼を逸らさず、掠れた声で言った。

「わかった……。あたしが出る」

 女たちの間から、悲鳴があがった。

「ニレ!」

「駄目よ。私が話を――」

「ラナさま!」

「あたしには、子どもがいないから」

 ニレは、赤ん坊を抱いた女に向き直り、その手に触れて囁いた。

「食べさせてあげなよ、ハルキ……」

「…………!」

 ハルキは、泣き濡れた瞳を凝然と見開いた。


 男がニレを連れて部屋を出て行くのを、女たちは、凍りついた表情で見送った。トゥークは、ラナと、彼女を必死にひきとめているロキをちらりと見遣り、踵を返した。扉を閉め、すばやく閂を差す。

『間違いない』

 意気揚々と引きあげる男の背を見詰め、トゥークは考えた。――この男は、シャム(巫女)を一瞥もしなかった。命じられていないからだ。

『コルデは気づいていない』

 捕虜たちの中に、彼らの巫女、真の王と呼ばれる者がいることに。それが誰か、知らないのだ。

「…………」

 トゥークは防壁の外へ出ると、足を止め、後ろを顧みた。地底に通じる暗い穴の向こうに、ラナの白い顔を想い浮かべる。それから、コルデのもとへ帰って行った。




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