第五章 帰還(6)



          6


 パチリと、枝のはぜる音にまぶたを開けたマシゥは、

「気がついたか。オレが、分かるか?」

 湯気のたつウオカ(酒)とともに差しだされた微笑に、一瞬、うろたえた。

 栗色の髪をひとつに編んで肩に流し、赤瑪瑙めのうの瞳に、生命のの刺青を入れた頬。華奢な男性の格好をしたシャナ族のシャム(巫女)を、見詰めるうちに――涙で、にじんだ。

 うわごとのように、繰り返す。

「キシム……キシム!」

「俺もいるぞ」

 苦笑を含む声に振り向くと、カムロが、片方の眉をもち上げた器用な表情で見返した。

「カムロ……!」

「帰って来たな、使者どの。待っていた」

 クンクンという甘えた鳴き声がした。スレインが、ソーィエの鼻を舐めている。ソーィエは、訴えるようにキシムを見上げ、彼(彼女)は、赤毛の犬の頭に手をのせた。

 マシゥは、自分がチューム(円錐住居)の中にいることに気づいた。カムロたちが、彼らと焚き火の上にチュームを建て、救けてくれたらしい。酒を受け取ろうと動いた拍子に痛みを感じて見ると、しびれていた左腕の血色は、随分よくなっていた。

 マシゥが、左手を握ったり開いたりして感触を確かめていると、キシムが、ソーィエを撫でながら説明した。

「ソーィエが、ずっと温めていたんだ。こいつがいなかったら、今頃、その腕は凍っていた」

「…………」

『ソーィエ! マシゥを守れ。離れるな……!』

 ビーヴァの最期の言葉が胸をえぐり、マシゥの喉を詰まらせた。彼は懐をさぐり、シャマン(覡)の杖を取り出した。ふるえる声を絞りだす。

「キシム、カムロ。……すまない。ビーヴァは――」

「知ってる」

 キシムは、ぽつりと答えた。杖を受けとり、眼を伏せる。マシゥが見たことがないほど、寂しげだった。

「あいつが、お前の居場所を、教えてくれた」

「え……」

 マシゥが瞬きを繰り返していると、ふわ……と冷気が吹き込んだ。

 チュームの入り口の毛皮を掻き分けて、白いルプス(狼)が外へ出ていくところだった。藍色の夜に、融けて行く。

 その後姿を見送り、カムロは言った。

「さて。動けるか? 使者どの。休んだら、出発しよう。……ビーヴァの願いを、叶えるのだ」


          *


 太鼓の音は止まっていた。

 ニチニキ邑の壁の上から降り注いでいた矢も、途絶えていた。門扉は閉ざされたままだ。辺りは静まりかえり、人の動く気配はない。犬の声すら、聞こえない。

 ラナは、胸の前で祈るように手を組み、ワイール氏族長は、松明を手に佇んでいた。壁の内側で何が起きているのか、判らない。

 エビたちは、どうしているだろう。トゥークは……。無事に女たちを救い出せただろうか、と考えていると、風に乗って、声が聞こえた。

「ラナ様!」

「ラナ様……族長!」

 吹きすさぶ風の中に、女たちの声を聴きとったラナは、首をめぐらせた。彼女の許へ、ばらばらと人影が集まってくる。

 ワイール氏族長の喉から、歓喜の声があがった。

「おお……!」

「ラナ様! 族長!」

「ニレ! みんな……!」

 サン(アロゥ族の男)とルーナ(ワイール族の男)に連れられて逃げてきた女たちは、ラナとワイール氏族長の前まで来ると、跪いた。

 ラナは駆け寄り、ニレの手をとった。族長がさしだす松明の明かりの下、頬に掌をあてて相手をたしかめ、抱きしめる。

「良かった! みんな、生きていてくれて……!」

「ラナ様。ハルキが」

 ニレは項垂れた。ラナは頷き、彼女の顔を両手でささえた。泣きぬれた瞳を、覗き込む。

「知っているわ。もう、弔いは、済ませたのよ」

「そうでしたか……。それから、ロキが――」

「ロキ!」

 ラナは、彼女たちの中に、ロキを探した。女たちが、すすり泣く。

「ロキは、どうしたの? みんな、一緒ではないの?」

「ロキは……」

 ニレの言葉は嗚咽に呑まれ、その先を続けることは出来なかった。

 サンが、片方の膝をついた姿勢で、神妙に答えた。

「ロキは、動けなくなっていました。エビが、とどめを刺したのです」

「とどめって……」

 ラナは、絶句した。喜びで熱くなっていた身体が、すうっと冷える。

 貞節を守り、エクレイタ族の男たちに従わなかったロキは、暴行を受けていた。それで、動けない身体になってしまったのだろうか。夫であるエビがとどめを刺したのは、慈悲というべきなのだろうか……。

 ラナは、打たれたように顔を上げ、改めて、彼らひとりひとりを確認した。

「エビは?」

 戻って来たのは、八人の女たちと、サンとルーナだけだ。サンは、口惜し気に唇を噛んだ。

「エビは、どうしているの? 他のみんなは?」

「まだ、中にいます」

 ルーナが、門を顧みて答えた。その声は悲痛だ。

「トゥークも。扉を開けるまで、戦うのだと言って――」

「開けるって……」

 ラナは、茫然と呟いた。

 ワイール氏族長が、ぎりりと歯を噛み鳴らした。


 夜の底にひろがる雪原に、一頭のルプス(狼)が現れた。

 銀のルプスは、雪より白い毛を風になびかせながら、彼らの方へやってきた。足音をたてず、静かに……するすると、一定の歩調で。急いでいる様子はなかった。三角形の耳を立て、尾を水平に掲げ、近づいて来る。左の耳には、引き攣れた大きな傷があった。

 夜明けにはまだ時間があるはずだが、《彼》だけが、淡いあけぼのに包まれて見えた。藍色の瞳が、光を反射してきらめいている。

 否……《彼》自身が、輝いているのだ。ルプスの輪郭をふちどる蒼白いほのおを、ラナはた。

「セイモア?」

 息だけで、囁く。ラナのシャム(巫女)の目は、ルプスの傍らに寄り添う人物をとらえた。

 涙が、あふれだす。

「ビーヴァ……」

《……やっと、現れたな》

 ラナにとっては、久しぶりだった。彼女の隣に、母巫女ははみこが現れて、ほっとした口調で告げた。

《我ら、テティ(神霊)の王……。汝の、守護霊だ》

「…………!」

 ラナは、これ以上はないほど眼をみひらいた。

 ビーヴァがセイモアと一緒に近づくと、母巫女は、うやうやしく一礼して姿を消した。

 セイモアが、くぅんと鼻を鳴らして、動けずにいるラナの頬を伝う涙を舐める。

 ビーヴァは、先代の巫王が消え去るのを、黙って見送った。ラナを見て、ワイール氏族長と女たちを見て、再びラナに視線を戻す。巫力のない人々には青年のすがたは観えておらず、ただ、突然現れたルプス・テティ(狼神)に戸惑っている。

 なつかしい声が、少女の頭のなかに響いた。

《ラナ……。俺の声が、聞こえるか?》

『ビーヴァ!』

 ラナの言葉は、声にならなかった。セイモアの首にしがみつき、凝然と見詰める。

 ビーヴァは、目を逸らさなかった。入巫の儀式の前と同じように、正面から、彼女の視線を受けとめる。

 でも、それは、彼が死んでいるからできることだ……。ラナにも、ビーヴァが既に死んでいると理解できた。

 ビーヴァは、そっと囁いた。

《ラナ。……もう、やめよう。森へ還ろう》

「ビーヴァ」

 ビーヴァは、眉をくもらせた。セイモアの身体を通じて、ラナの苦痛が流れ込んできたのだ。少女がどれだけ苦しんだのか、どれほど傷つけられたのか……るというより、感じとった。

《ごめん……守れなくて。俺は、誰も、たすけることが出来なかった。ごめん……》

 ラナは、セイモアの肩に顔を押しあて、首を振った。いたわりの感情が伝わってくる。青年の優しさが、ひび割れた胸に沁みた。

 ビーヴァは、再び言った。

《森へ、還ろう。ラナ》

「ずっと、一緒に居てくれる……?」

《ああ》

 ビーヴァは眼を閉じ、溜息をついた。

《これからは、いつも、一緒だ……。》

 ラナは、声もなく泣き崩れた。セイモアにしがみつき、霜白色の毛に顔をうずめる。熱い涙が、あとからあとから溢れ、若狼の毛についた氷を融かし、肌を伝った。


「ワイール氏族長! 兄者!」

「ラナ様! 族長!」

 叫び声と、ユゥクのいななきが聞こえた。雪を蹴りたてて駆けてくる二頭のユゥク(大型の鹿)の背に、カムロとキシムと、マシゥの姿をみつけ、ワイール氏族長は片手を挙げた。

「おう、兄弟! ここだ!」

「族長……!」

 マシゥは、乗せてもらっていたカムロのユゥクから、転がり落ちるように降りた。雪の上に、跪く。走ってついて来たソーィエが、セイモアに駆け寄り、ラナと相棒のにおいを嗅いで尾を振った。

 ワイール氏族長の頬に、不敵な笑みが浮かんだ。

「使者どの、戻ってこられたか。また会えて嬉しいぞ」

「はい。エクレイタ王のことばを、お伝えに参りました。どうか、戦闘をお止め下さい」

 ラナは面を上げ、マシゥを見た。森の人々の視線が、彼に集中する。

 キシムは、スレインを連れて、セイモアの後ろに立った。彼(彼女)には、ビーヴァが観えていた。テティ(神霊)となった彼が、ルプス(狼)に寄り添い、マシゥを見守っている。

 ビーヴァは、ちらりとキシムを振り返り、悪戯っぽく微笑むと、マシゥに視線を戻した。

 マシゥは、ラナとワイール氏族長の前に両手を着き、頭を下げた。唇が割れ、血がにじんでいた。頬骨の上には氷がつき、鼻の頭には凍傷がある。

「戦いをやめてください。我らエクレイタ族の王より、謝罪を申し上げます。コルデという、ならず者の犯した罪について、心より謝罪を……。偉大なる森の王(ラナの父)と、犠牲になった罪なき子どもたち、女性たち、ディールに……衷心より、お悔やみを申し上げます。改めて、和解と協力を、お願いしたいのです。彼らの安らかな眠りと、我々が、ともに生きるために……!」

「……謝罪、だと?」

 ワイール氏族長は、片手を顎髭にあて、首を傾げた。カムロと仲間たちを見遣る。

 マシゥは肯いた。

「はい」

「だが……奴らは、どうする?」

 氏族長は、とがった顎を動かして、ニチニキの壁を指した。眉間には、深い困惑の皺が刻まれている。

「我々は、奴らをこの地より追い返すために、戦っているのだが……」

「その件に関しては……残念ですが、私には、お約束できません」

 マシゥは、再度、雪に額を埋めた。ワイール氏族長は、黙り込んだ。

 平伏したまま、マシゥは続けた。声は、とっくにれている。呼吸のたびに咽喉のどの奥が裂ける痛みがはしったが、構わなかった。

「彼らは、すぐにここを離れることは出来ないのです。食糧はなく、移動の手段もありません。何より、この寒さの中でむらを離れれば、凍死してしまいます」

「…………」

「ニチニキ邑には、女性と子どもたちもいます。どうか、慈悲をもってお助け下さい……。私が、彼らを説き伏せます」

 ワイール氏族長は、仲間たちと顔を見合わせた。女たちは救出したが、壁の向こうでは、まだエビたちが戦っているのだ。

 氏族長は、眼を細め、感情を抑えて問い返した。

「説得すると言うのか。貴公が、奴らを」

「はい。王のことばは、彼らに向けたものでもありますので……」

 そう言うと、マシゥは立ち、ニチニキ邑の門へ向き直った。カムロから松明を受け取り、決然と、顔を上げて歩き出す。彼の足元を、ソーィエが、同様に決死の面持ちで、尾を揚げてついて行く。

 ラナはセイモアの首にしがみついたまま、男たちは固唾を呑んで、その様子を見守った。


 右手に松明を掲げ、左手に杖をついて。マシゥは、門の前に立った。大声で呼びかける。

「ニチニキの民よ! エクレイタ王の臣民よ! 私はマシゥ、王の使者だ。王の詞を伝えに来た。門を開けよ!」

 沈黙が応えた。アムバイ(北風)が、彼の頬と門扉を叩き、うなり声をあげて雪煙をまきあげる。松明の炎は、消えそうに揺れたが、持ちこたえた。

 マシゥは、再度、しわがれた声を張りあげた。

「王のめいだ、戦いをやめよ! 扉を開け、我に答えよ!」

 ハァヴル(西風)が、甲高い悲鳴をあげて吹き去った。

 数秒のためらいの後、ギギギィーッと耳障りな音を立てて、扉がほそく開かれた。明け方の紫色の空の下へ、数人の人影を吐き出す。

 マシゥの背後で、森の男たちが、どよめいた。

 トゥークが、エビを支えながら出てきて、雪の中に片方の膝をついた。立ち上がろうとして、倒れこむ。女たちが、悲鳴をあげて駆け寄った。エビの身体には、数えきれないほどの矢が刺さっていたのだ。

 数秒おくれて、マグが。ユイとチャンクが、よろめきながら出て、やはり雪に倒れこんだ。

 彼らの足跡には、血が滴っていた。雪が、みるみる緋色に染まっていく……。

 マシゥは唇を噛んだ。森の男たちが気色ばむ。しかし、続いて十数人のニチニキ邑の男たちが、弓矢や槍を構えながら出てくると、彼らは自制するようすを見せた。

 松明を手にした男が、マシゥの顔を照らした。疲労と凍傷と無精髭に埋もれた顔の中で、灰色の瞳が、ほのおを浴びて金色にきらめいた。

「確かに、マシゥだ。生きていたのか……。王都に帰っていたのか?」

「そうだ。王の使者が、還って来た。武器を収めよ」

「王の兵は?」

 弓矢を構えた男の一人が、うわずった声で叫んだ。怯えきっていることは、明らかだった。

たすけは、まだ来ないのか?」

「援けは来る。ただし、条件がある」

 マシゥは、男を憐れに感じながら、厳しい口調で言った。

「我らの王の命令だ。武器を捨て、女たちを解放せよ。これ以上、森の民との戦闘は許可しない。戦いをやめて待て。そうすれば、食糧を送る」

「なんだと……?」

 ニチニキ邑の男たちの間に、呆然とした空気が漂った。やじりが揺れ、槍の穂先が揺れた。

 マシゥは、一喝した。

「もう一度言う。戦いをやめよ! そうすれば、支援は来る。兵は来ない! 王の望みは、和睦である!」

 エクレイタ族の男たちは、不満げに顔を見合わせた。

 一人が、忌々しげに応じた。

「分かった……王の命令なら、仕方がない。ただし、オレたちにも、条件がある」

 松明を掲げた男は、森の民を顎で示した。

「連中を、下がらせろ。奴らが退けば、オレたちも、戦いをやめてやる……。あんたは、こっちへ来い」

 松明を持っていない方の手で、手招きした。マシゥがいれば、彼らは攻撃をしてこないと考えたのだろう。

 マシゥは、コルデの手下だった男を、憐憫の情をもって眺めた。それから踵を返し、ワイール氏族長とラナに向き直る。頭を下げ、頼んだ。

「……退いていただけるか? 氏族長どの」

 ワイール氏族長は、マシゥから、ラナに視線を移した。カムロを、キシムを、仲間たちの顔を、順に見る。

 エビの傍らで項垂れていたマグが、拳を握って立ち上がった。左脚は、血に染まっている。

「駄目だ! こいつらは、エビを殺した! 仲間たちを! 赦すわけにはいかない!」

『ああ……』 マシゥは嘆息した。ニチニキ邑の男たちが、武器を構えなおす。

 その時だった。

 セイモアが、ラナの腕をすり抜けて、ふわりと跳んだ。音もなく、マシゥとマグの間に、着地する。息を呑むマグを、蒼くかがやく瞳で見据え、ひと声

 

 グゥウーッ……


 と、威嚇した。

 マグは、茫然と立ち尽くした。

『セイモア。ビーヴァ……』 

 マシゥは、嗚咽をこらえなければならなかった。彼の目にも、黎明の光に透けるビーヴァのすがたが、ルプス(狼)に重なって観えたのだ。

「お願いです。どうか――」

 マシゥは、これが最後だと思った。彼のなかにはもう、森の民に伝えるべき言葉が残っていなかった。

「……ビーヴァは、貴方たちを救けるために、生命を賭けたのだ。彼の死を、無駄にしないでくれ……」

 しばらく、誰も、何も言わなかった。

 やがて、ワイール氏族長がマグに近づき、その肩に片手を置いた。しんみりと言う。

「ルプス・テティ(狼神=森の神)は、使者どののことばよみしたもう……。」

 氏族長は、ラナを見た。若き巫王(ラナ)とうなずきを交わし、マシゥに答えた。

「我らは、テティの民だ。テティに従おう」

「……ありがとうございます」

 マシゥは、ゆっくり、深々と一礼した。


 森の民が動かなくなったので、ニチニキ邑の男たちは、矢と槍を構えつつ、門の内側へ戻っていった。

 マシゥの傍らに、ルシカがやって来た。彼の背に片手をあてて、入るよう促す。

 マシゥは、セイモアを見た。マグを。ワイール氏族長とラナ、カムロ、キシム、トゥーク、エビ……森で得た仲間たち、ひとりひとりを見詰め、最後にもう一度、ビーヴァを観た。

 心のなかで、呼びかける。

『ありがとう。……さよなら、ビーヴァ』

 ビーヴァは微笑み、朝日に融けるように消えていった。ひとり残ったセイモアが、ぱふりと尾を振る。

 ソーィエが、マシゥの足元をするりとすり抜けて、邑へ入った。

 マシゥが入ると、扉は、再び閉ざされた。直後、疲労困憊した彼は、その場に倒れこんだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る