終章

終章~神霊の森へ



 二日後、なんとか動けるようになったマシゥは、むらの男たちを指揮して、犠牲者の弔いを行った。

 一連の戦いで、ニチニキ側の死者は、四十人を超えていた。ただ一矢で急所を射ぬかれ、喉や心臓をひと突きされた遺体を目にしたマシゥは、森の狩人たちの戦士としての能力に舌をまいた。これでは、エクレイタ王が兵を送っていても、たどり着く前に、邑は全滅しただろう。

 それからマシゥは、壁の内側で生命いのちを落としたエビの仲間たち――ロコンタ族のワンダ、シャナ族のカナとホゥク。そして、エビの妻ロキ――の遺体を、カムロとワイール氏族長に引き渡した。

 門の前で待っていた氏族長たちは、身を清められ、毛皮で丁寧にくるまれた彼らの遺体をたしかめると、死者を丁重に扱ってくれたことへの礼を述べた。そうして、改めてマシゥに、森の民の撤退を告げた。

 さらに十五日後、エクレイタ族の王都より、支援部隊が到着した。

 王に命じられてやってきた人々は、食糧と、主に燃料を運んできた。武器はなく、代わりに、毛織物や干し肉や加工されたぎょくなど、森の民への贈り物を持参していた。

 マシゥとルシカは、王の謝罪の品をもって外へ出たが、今度は、彼らは現れなかった。二人は、贈り物を、森の入り口に供えておくしかなかった。

 部隊はニチニキ邑にとどまり、一方で、故郷に帰りたいと望む者たちを帰らせた。約半数の住民が入れ替わった。

 そしてマシゥは、エクレイタ王から、開拓団長になるよう命じられた。

 新しい団長の指揮の下、邑の再建が始まった。雪に閉ざされている間、彼らは壁をなおし、建物を修繕し、食糧を貯えることに専念した。《女の庭》の塀もとりはらった。人と、動物たち――南方から連れてきた牛、馬、犬、鶏たち――の健康には問題があった。マシゥは、彼らを癒すことが先だと考えた。

 王は支援を続け、真冬でも、王都とニチニキ邑の間に、人と物資の往復が続けられた。大規模なものではなかったが、開拓者を孤独に陥らせないためには、重要な措置だった。

 おかげで、邑の人々は、雪と氷と長い夜のなかでも、希望をつなぐことが出来た。


 冬の間、マシゥは、泣いて暮らした。

 彼は、身も心も傷だらけだった。特に、心の傷がひどかった。雪が降ったといって泣き、風が強いといって泣き、晴れた夜空を見上げて泣き、焚き火を見て笑いながらむせび泣いた……。そうしたことの全てが、ビーヴァの記憶に結びつき、彼は、感情を制御することが出来なかった。

 馬の世話をしている最中に、青年の言葉を思い出し、手当たり次第に物を投げつけて暴れ、泣き崩れたこともある。マシゥが泣き出すたびに、ソーィエは駆け寄り、彼が落ち着くまで、顔をぺろぺろ舐めた。

 報告をうけたエクレイタ王は、友を心配し、任を解いて自分の許へ呼び戻そうとしたが、マシゥは断った。

 彼は、ビーヴァのそばにいたかった。青年が愛した森のそばに……。

 それで、三度目の支援部隊が到着したとき、マシゥは、牛車の上に、ジルを抱いたテリーを見つけた。王が送り出したのだ。

 テリーは、マシゥが負った傷の深さを理解し、寄り添った。ソーィエも、ずっと彼のそばにいた。


 エクレイタ王の森の民への贈り物は、いつの間にか、なくなっていた。


 春が来た。雪が融けると、マシゥはソーィエを連れて、ビーヴァの遺体を探しに出かけた。

 ロマナ湖畔は、新しい若い木々に覆われつつあった。マシゥは、ビーヴァと別れた場所を正確には覚えていなかったが、これと思うところを、しらみつぶしに捜索した。しかし、みつけることは出来なかった。

 せめて、外套の切れ端、靴の片方、髪のひとすじだけでも……。求めたが、全く、何も見つけることは出来なかった。

 まるで、最初から青年が存在していなかったかのように。

 ルプス(狼)の群れが、ビーヴァをばらばらにして運び去ったとは、考えたくなかった。キシムたちが彼をみつけ、手厚く葬ってくれたのだろうと、マシゥは思うことにした。――そう思うことで、彼の心は、やっと落ち着きを取り戻した。

 マシゥの手には、ビーヴァの額帯ひたいおびと、矢柄やがらの首飾りが遺された。そして、なにより大切な彼の相棒、ソーィエが……。


 マシゥは開拓団長となったが、ニチニキ邑の畑を拡げることは許さなかった。今ある壁の内側のみ、耕させた。木を伐ることを遠慮させ、森の民がするように枝を切り、樹皮を剥ぎ、倒木を利用した。

 ニチニキ邑の周囲の荒野へは、若木を植えた。邑の中にも、彼らでも世話の出来そうな木を選んで植えさせた。

 ルシカが、こうしたことを手伝ってくれた。

 短い夏が過ぎ秋になると、ニチニキ邑の人々は、おそるおそる壁の中から出て、木の実を集めた。キイチゴやスイカズラ、マツの実、クルミなどだ。ウサギやキツネを狩ることも出来た。ゴーナ(熊)やルプス(狼)との遭遇を恐れて、彼らはすぐに壁のなかに引っ込んだ。湖が、ホゥワウ(秋鮭)などの魚を与えてくれた。

 マシゥは、レイム神(太陽神)だけでなく、湖や森のテティ(神々)にも感謝を捧げた。ビーヴァたちがしていたように、木々に挨拶を行い、狩った獲物には、額に掌をかざして魂の安らぎを祈った。

 隣では、幼いジルが、父のふるまいを真似していた。

 森の民のすがたは見かけなかった。

 彼らは、その気になれば、エクレイタの人々から完全に姿を隠して行動することが出来るので、ひょっとしたら、近くにいたのかもしれないが……。ワイール氏族も、シャナ氏族も、みかけなかった。

 マシゥも探さなかった。ロマナ湖の三人の娘たち(川の女神)の上流に、彼らのナムコ(集落)は、もうないはずだった。敢えて、それを確かめようとはしなかった。


 冬が来て、また、春が来た。ニチニキ邑と王都の間には、牛と人によって踏み固められた《道》が出来つつあった。

 家々の軒先から、融けた氷のしずくが垂れ始めたころ。邑の門を、叩く者がいた。

 森の民が来たとの報せを聞いて、マシゥは、急いで門へ向かった。毛皮の外套を着た男の、独特の紋様を縫いとりした額帯ひたいおびと、その下の黒髪を見たとき、一瞬、ビーヴァの面影が彼の目頭を熱くさせたが、勿論、違った。

 トゥークだった。

 刺青のない少年は、背が伸び、青年になっていた。肩幅も広がり、ますます、犬使いの父に似て見える――『いや、ディールだ』 と、マシゥは思った。翳りのある精悍な顔立ちは、誰よりも、兄に似ていた。他に、ワイール族の男が、二人いた。

 彼らは、ユゥク(大型の鹿)の肉と毛皮、シラカバの小箱、琥珀などを持って来ていた。

 驚くマシゥに、トゥークは、相変わらずぶっきらぼうなエクレイタ語で言った。

「ワタリガラスの眷属(ワイール氏族の別名)より、挨拶に参った。氏族長が、あんたに、よろしくと言っていた。……俺たちは、北へ行く。もう、ここへは来ない」

「そうか……。長は、お元気か? 他のみんなは? ……ありがとうと、伝えてくれ」

 トゥークは、マシゥの問いには答えず、荷物を置くと、立ち去ろうとした。その肩に、ルシカが声をかけた。

「トゥーク。あんた、上手くやってるの?」

 かつて、父とともに氏族を追放された女の声に、トゥークは足を止めた。少し迷ってから、振り返る。ちらりとルシカを見て、すぐに眼を伏せた。

「……族長おさは、よくしてくれている」

「怪我は治ったの? お母さんには、逢えたのかい?」

 この問いに、トゥークは、むっつりと黙り込んだ。

 マシゥは、ハラハラした。ルシカはルシカなりにトゥークのことを気に懸けているのだろうが、彼の方がそれを望むかは、別の問題だ。

 話題を変えようと、マシゥは訊ねた。

「そのう……北には、何があるんだい?」

「……俺たちワイール氏族の、故郷がある」

 トゥークは顔を上げ、答えた。口調は淡々としていたが、表情は少し和らいだ。

「俺たちは、ここよりずっと北の地からやってきた。アロゥ氏やロコンタ氏族とは、同盟を結んでいた……。ハヴァイ(山脈)の向こうに、あまりいい猟場はない。北へ行ってみるつもりだ」

「そうか。気を付けて……」

 トゥークは、改めてルシカに向き直った。彼が頭を下げたので、マシゥとルシカは驚いた。

 顔を伏せたまま、トゥークは言った。硬いが、真摯な口調だった。

「……俺は、昔、あんたに酷いことを言った。あんたにも、親父にも……。赦されるとは思わないが、もう会うことはないだろうから、謝っておく。あんたは、俺に、親切だった」

「…………!」

 ルシカは、絶句した。みひらいた瞳から、涙が流れ出す。

 トゥークは、彼女の反応には構わず、マシゥを見た。

「あんたもだ、マシゥ。……親父と俺は、あんたのことを、嫌いじゃなかった」

「……ありがとう。最高の誉め言葉として、受け取るよ」

 マシゥが微笑むと、トゥークは、うすい唇をひき結び、踵を返した。仲間とともに、森へ去っていく。

 彼らの姿が見えなくなるまで見送ったマシゥは、貰った肉の包みの上に――シラカバの樹皮でくるみ、革ひもで結んだところに。敵意のないことを示す折れた矢が、挿してあるのを見つけた。


          *


 ある晴れた秋の日、マシゥは、テリーとジルとソーィエと一緒に、テサウ砦の近くへ出かけた。

 コルデの死後、砦は、完全に放棄されていた。マシゥは、ここに足を踏み入れるつもりはなかった。アロゥ族の王が殺され、ディールと子どもたちが殺された(マシゥ自身も殺されかけた)、忌まわしい場所だからだ。

 想い出すだけで、心が破れそうになる。

 今も、中州に立ち入ることは出来なかったが、近くの森から眺められるくらいには回復した。朽ちた壁や石積みが、新しく生えた木々やくさむらに覆われようとしているのを見ると、ほっとした。

「ソーィエ! こっち、こっち」

 キイチゴをみつけたジルが、はしゃいで呼ぶ。ソーィエは、すっかり彼に懐いていた。赤褐色の尾の下の白い毛が見えるほど、高く掲げて振り、駆けていく。

 テリーが、ヤマブドウの蔓を編んだ籠にキノコを集めながら、微笑んだ。

「勝手に行かないのよ、ジル。足元に、気を付けて」

「わかってるー!」

 明るい笑い声と、ソーィエの吼える声を聴きながら、マシゥは木々の梢を仰いだ。

 シラカバ、サルヤナギ、ミズナラ、カンバ……モミ、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)、トウヒ、コチョア(クルミ)。ビーヴァとエビに教えてもらった木々の名前を、口の中で唱える。

 すべてが、偉大な森のテティ(神々)だ。

 耳の先に長い毛を生やしたリスが、モミの枝を渡って行った。鳴いているのは、ツグミかゴジュウカラだろうか。マシゥには、鳴き声の区別は出来ない。

 ビーヴァが小声で口ずさんでいた詩句うたを、マシゥは思い出した。


    プルシュヌギン クゥイヌィギン テヤグァル ウル ヴィヤ 

    (モミとサルヤナギの木立を歩いて行け)

    タ ウィキラン クォグル イヴル、クォグァル ヴィヤ 

     (よからぬ考えを抱かず、滑らかな心で歩いて行け)……


 視線を下げ、オコン川の川面にきらめく陽光に眼を細めたとき、それを見つけた。

 立派な枝角を生やした、ユゥク(大型の鹿)だった。対岸の、木立ちと叢の境目に現れて、水を飲み始める。一頭……二頭。息を殺して数えるマシゥの前に、幻影が現れた。

 森の民の若い男だった。額帯を結び、栗色の髪を、一本の辮に編んで垂らしている。頬には、生命の樹の刺青があった。魔除けの縁どりのある衣を着て、脚絆きゃはんを穿いている。肩に矢筒を負い、腰にはマラィ(刀)を挿している。皮製の靴は音をたてず、ユゥクの傍らに立って、その首を撫でた。

 花びらのように降り注ぐ金色の木漏れ日と、川面に反射する陽光が、彼の姿をふちどっている。

『美しい……』 と、マシゥは思った。

 森の民は、あるべくして、この容貌すがたなのだ。ユゥクと同じく、生きるための全てを森から得て、森へ還す。彼らこそ、神霊の森に相応しい……。

 幻が、こちらを見た。片手を挙げ、笑った。

「おーい、マシゥ!」

 ぼんやり見惚れていたマシゥは、我に返った。同時に、目を疑う。

「……キシム?」

 呟き、ごくりと唾を飲む。

 考えるより先に、身体が動いた。

「キシム! ……キシム!」

 マシゥは駆けだした。太い木の根も、膝を叩くノバラの茂みも、ものともせず。悪い方の足を滑らせてよろめき、水の流れに踏みこみ、水滴しずくを盛大に跳ね上げる。泣き笑いの衝動がこみあげた。

「おい、ちょっと待て、マシゥ」

 彼が川に入ってくるのを見て、キシムの方が慌てた。上下の岸を見遣り、手を振って合図する。

「待てって! 危ないぞ。オレが、そっちへ行くから」

 流れが浅くなっているところをみつけると、彼(彼女)はユゥクを残し、川面にのぞく岩の上を、軽やかに跳んでやって来た。マシゥの前へ立つと、はにかんだ笑みをみせた。

「久しぶり……。元気そうで、良かった」

「キシム……」

 マシゥは、溺れた魚のように口をぱくぱく動かした。涙があふれて、言葉が出ない。キシムは、困って首の後ろを掻いた。――と、


 ウォン、ウォン! 


 キシムをみつけたソーィエが、吼えながら駆けてきた。ちぎれんばかりに尾を振っている。キシムだけではない。後から川を渡って来た、すらりとした牝狼――あいのこのスレインに駆け寄ると、互いに鼻を舐めて挨拶をした。

 テリーとジルも、キシムに気づいた。テリーは、ジルと手をつないで離れたところに立ち、男装のシャム(巫女)に会釈をした。

「キシム、ひとりか? カムロは? ロコンタ氏族長は、お元気か?」

 やっと言葉が出るようになった。マシゥの矢継ぎばやの問いに、キシムは苦笑を返した。

「二人とも、元気だ。特にカムロは、嫌になるほど元気だよ。新しいナムコ(集落)を造るのに忙しくて、来られないんだ」

「そうか……」

「お前に、よろしくと言っていた。それと……あいつが、逢いたがっていたんだ」

 キシムが、肩越しに川の方を顧みた。つられてそちらを見たマシゥは、眼を瞠った。


 草をむユゥクの背後から、一頭のルプス(狼)が姿を現した。白銀色のルプスだ。馴れているのか、キシムのユゥクは、逃げようとしない。

 《彼》は、静かに川に近づくと、するすると岩を伝い、こちらへやって来た。

 マシゥの記憶より、ひとまわり大きい。堂々とした成年の狼、威厳ある森の神だった。右耳と、傷のある左耳を順にたてて顔を寄せ、そっと彼のにおいを嗅ぐ。深い藍色の瞳が、まっすぐにマシゥを見詰めた。

「あ、セイモア……。ビーヴァ?」

 《彼》をなんと呼ぶべきか、マシゥは解らなかった。

 キシムは微笑んだ。

「もちろん、セイモアだよ。どういう仕組みかは知らないけど、普段、ビーヴァは眠っているような感じなんだ。セイモアの邪魔をしないように。……ときどき現れて、嵐や、ユゥクの居場所を教えてくれる」

 ソーィエと互いに鼻を舐めて挨拶をすませると、セイモアは、再びマシゥに近づいた。マシゥは、跪いて《彼》を迎えた。太い首に腕をまわし、たてがみに顔を埋める。

 セイモアは、豊かな尾を、ファサリと振った。

『ビーヴァ……!』

 泣きたいような気持ちで、マシゥは祈った。もう一度、青年に逢いたかった。姿を観たい、声を聴きたい、と思う。しかし、それは、叶わぬ願いだ……。

「もっと早く、来たかったんだが」

 きまり悪そうに、キシムは言った。

「その……心配、したんだ。お前が、あんまり悲しんでいたから。かえって傷つけるんじゃないかと」

「…………」

「だけど、オレたちは、もうすぐ西へ向かう。ここへ来るのが難しくなる。その前に、直接 逢っておきたかった」

「西へ?」

 マシゥは、顔を上げてキシムを見た。ずずっと洟をすする。

 キシムは、頷いた。

「ハヴァイ(山)の向こう側の麓には、ユゥクに食べさせる苔が、あまり生えていないんだ。それで、オレたちは、もっと西へ行くことにした。オレたちと、ロコンタ氏族は」

「そうか……。春に、トゥークが来た。ワイール氏族は、北へ行くと言っていた」

「ああ」

「アロゥ氏族は、どこにいる? ラナ様は、どうしている?」

 キシムは、幽かに唇をゆがめた。

「それは、相手がお前でも、答えられないよ……。オレたちの王の居場所は、教えられない。ただ、元気にしているとは、答えておこう」

「ああ。そうだよな……」

 マシゥは頷いた。彼らと自分たちの間に起きた出来事を思えば、無理もない。それが解るだけでも、十分なのだ。

 マシゥは、涙をぬぐい、セイモアの額に自分の額を押し当てた。藍色の瞳の奥の、雲母のかけらをのぞきこむ。

「来てくれて、ありがとう。セイモア、キシム、スレイン……」

「……オレたちは、ずっと、お前を観ていた」

 テリーとジルを見遣り、マシゥを見て、キシムは囁いた。瑪瑙色の瞳が、あかく輝く。

 マシゥは、眼を閉じて、彼(彼女)の声を聴いた。

「マシゥ。お前たちを……。これからも、きっと、そうするだろう」

 マシゥには、シャム(巫女)のことばの意味はよく解らなかったが、眼を閉じたまま、頷いた。

 その時、

《マシゥ》

 脳裡に響いた《声》に、マシゥはまぶたをあけた。呼吸を止める。

「……ビーヴァ?」

《そうだ。マシゥ。……ありがとう。俺たちを、救けてくれて。ソーィエと、森を、守ってくれて》

 ぶわり。マシゥの眼から、止まっていた涙が、再びあふれ出した。胸がふるえ、唇がふるえた。声が出せない。

 やわらかな、優しい声。間違えようのない、ビーヴァの《声》だった。

《お礼を言いたかったんだ。貴方に。……エクレイタ王にも。ジルと、テリーにも》

「ビーヴァ」

《ありがとう……。俺は、貴方に会えて、良かった……》

 セイモアは、固まって涙を流すマシゥを、じっと見詰めた。それから、ふいと視線を外すと、踵を返した。

 彼らが帰ろうとしているのを察して、ジルが呼びかけた。

「セイモア! セイモア、だよね?」

 白いルプスは、足を止め、小さな友人を振り向いた。親しみをこめて、尾を揚げる。ソーィエと互いのにおいを嗅ぎ、再び、身体の向きをかえた。もう、振り返らない。

 ルプス・テティ(狼神)とキシムに、マシゥは声をかけた。

「また、逢ってくれるか?」

 この問いに、キシムは無言で微笑み、ビーヴァが応えた。

《いつでも。何処にでも、俺はいるよ……》

 来たときと同様、彼らは、静かに川を渡って行った。マシゥは、跪いたまま見送った。テリーとジルが、傍にやって来る。

 ソーィエは、マシゥの隣に立ち、ゆっくりと尾を振った。

 セイモア、スレイン、キシムの三人は、対岸で待つユゥクのところまで、歩いて行った。そこから、ルプスたちは足を速め、森のなかへ駆け去った。

 キシムは、ユゥクの一頭にまたがると、マシゥたちに手を振った。

 マシゥは、手を振って応えた。そうして、ジルとテリーと、ソーィエを両腕に抱き、いつまでも見送っていた。






~『EARTH FANG』完~


 長い物語におつきあい下さいまして、ありがとうございました。本編は完結です。

 外伝が四編(前日譚が二編、後日譚が二編)ございます。そちらも宜しくお願い申し上げます。

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