外伝

『不思議な小太鼓』

不思議な小太鼓(1)


*本編開始約10年前。子どもの頃のビーヴァ(10歳)とラナ(4歳)の話です。




           1.


「ラナ! おーい。……ラーナー!」

 くすくすという笑い声が聞こえた。

 濃い緑に染まった森のなか。木漏れ日をまきちらして、少女が駆けて来た。まだ、幼児といっていい年齢だ。額帯ひたいおびの下の黒髪は編まれておらず、外衣の袖とともに、ひらひらと翻る。イラクサを編んだ夏の上着は、上質のものだった。

 少女は、絶えずくすくす笑いながら、木の家の角を曲がり、高床式の倉庫の梯子の陰にしゃがんだ。

 幼さを残した少年の声が呼ぶ。

「ラナー!」

「もう、行こうぜ、ビーヴァ」

 丈の高いイバラの茂みをかきわけて、五人の子どもが現れた。十歳前後の三人の少年と、二人の少女だ。頬に刺青はなく、少女たちの髪は分けられていない。まだ、一緒に遊んでよい年齢だった。

 彼らは、ベニマツの幹の周りや、シラカバの木陰を探しながら、集落へ近づいて来た。

 ビーヴァと呼ばれた少年は、困って眉根を寄せた。

「でも」

「ラナと遊ぶと、いつもこうだ。みつかっているのに、出てこない。終わらないだろ」

「…………」

「王の家に逃げ込まれたら、オレたちは入れないんだから、ずるいや。魚捕りに行こうぜ、ビーヴァ」

「うん……」

 ビーヴァは、途方に暮れて、王の家を見遣った。

 仲間たちの不満は、もっともだった。どだい、十代に入ったばかりの彼らと、幼いラナが、一緒に遊ぶことに無理があるのだ。

 王の娘のラナは、ビーヴァの乳兄妹だ。彼女は、同年代の子どもたちと遊ぶより、ビーヴァと一緒にいたがった。ビーヴァたちは、一応、彼女に合わせてかくれんぼや鬼ごっこといった単純な遊びを行うのだが、我儘なラナは負けを認めず、いつまでも逃げ回って困らせる。

 王であり氏族長でもあるラナの父の家は、普段は、大人でも勝手に入ることを許されていない。そこへ逃げ込まれては、追いかけようがなかった。

 乳兄妹のビーヴァ、以外は。

 ビーヴァは、溜息をついた。

 どうせラナは、隠れて、探しに来るのを待っているのだろう。彼しか来られないことを、知っていて。放っておけば、日暮れまで出てこない。

 そして、自分が母に叱られる。

 ビーヴァは、しょんぼりと肩を落とした。

「いいよ、マグ。俺、ラナを探してくる」

「え?」

 一緒に魚を捕りに行くと思っていた少年たちは、怪訝そうに振り向いた。

「行かないのか?」

「行けない……。ラナを見つけないと、母さんに怒られる」

「仕方ないな」

 マグは、肩をすくめた。子どもたちも、これがビーヴァの役目だと承知している。彼のことは好きだが、結局のところ、ラナはビーヴァを独り占めしたいのだ。

「じゃあ、またな。ビーヴァ」

「がんばってね」

 女子たちが、手を振って励ます。ビーヴァは、ぎこちなく片手を挙げて、これに応えた。


 くすくす、くすくす。押し殺した笑い声が聞こえてくる。

 ビーヴァは、しぶしぶ、少女を探して歩き始めた。王の家の裏をまわり、犬たちがつながれている囲いを覗きこむ。

 困らせられはするが、ラナのことは嫌いではない……と、思う。可愛い妹だ……と、思っている。ただ、こんな時はどうしても、自分だけが損をしている気分になる。

『あーあ。俺も、早く刺青を入れたいな……』

 年上の友人であるエビとニルパは、去年、身体に刺青を入れた(=成人した)。アロゥ氏族を表す、炎の紋様だ。左の頬だけでなく、首筋から胸まで広がるエビの刺青は、それはそれは、みごとだった。

 成人したエビたちは、もう、ビーヴァたちと遊んではくれない。それどころか、同氏族の女性とは、目を合わせることも、直接口を利くことも許されない。

 しかし、今のビーヴァには、『刺青を入れたら、ラナに振り回されなくて済む』 ことが、ずいぶん魅力的に思われた。

「ラナー?」

 かなり、おざなりに呼ぶ。高床式倉庫の床をくぐると、王の家の戸口で、見慣れた衣の裾が、ひらりと揺れて吸い込まれるのが見えた。

 ビーヴァは、何度目かの溜息をついた。諦めをこめて、足を踏みだす。

 少年は、急ぐことなく、入り口へ向かった。王の家は、一般のむらびとの住まいよりは大きいが、つくりにおいて違いはない。ゴーナ(熊)の毛皮に覆われた入り口をくぐり、前室に入ってなかをうかがうと、東の『テティ(神霊)の窓』の下に、人影が見えた。

「ラナ……」

 少年は、思わず、声をひそめた。

 大人たちは出払っているのだろうか。家のなかに、人の気配はなかった。中心より少し奥に造られた炉では、薪がくすぶっている。モナ・テティ(火の女神)はご在宅だ。ということは、じきに誰かが戻ってくるだろう。

 炉の上の火棚には、開いたホウワゥ(秋鮭)の身が掛けられていた。真新しいイトゥ(神幣)が見える。イラクサを編んで作った円座が、いくつか敷かれている。

 テティが出入りする東の窓の下には、イトゥと、ユゥクの肉と、手毬やシラカバの小函などが捧げられていた。その傍らに、長持ちがあった。先代の巫女、ラナの母の持ち物が収められていると、ビーヴァは聞いたことがある。

 長持ちの前に、少女はちょこんと座っていた。

 もう、笑ってはいない。

 ビーヴァは、少し迷ったのち、チコ(皮靴)を脱いで部屋にあがった。後ろから、少女に近づいていく。ラナは振り返らなかったが、彼の気配に気づいたらしい。蓋に手をあてて言った。

「見て、ビーヴァ。母さまの箱よ」

「ラナ……」

 案の定、遊んでいたことを、すっかり忘れている。ビーヴァは溜息をついた。

「ラナ。だめだよ」

 妹が長持ちの蓋を開けようとしているのを見て、ビーヴァは慌てた。

「母さまのだろ?」

「もう、私のよ」

「え?」

「父さまが、言ったんだもん。次のシャム(巫女)は、ラナだって。母さまの道具を継いで、立派なシャムになるようにって。だから、これは、私のよ」

 うきうきと言いながら、少女は、蓋の上に置かれていたイトゥ(神幣)やモミの緑枝などを床に置き、美しい彫刻の施された蓋の角に、手をかけた。枝角を生やした二頭のユゥクが向かい合い、小鳥のとまった生命の樹が浮き彫りされている。ところどころに琥珀や翡翠の嵌めこまれた蓋は、見た目は重そうだったが、案外、すぐに持ち上がった。

「あ、開いた」

 ラナも意外そうだった。嬉し気に呟くと、蓋をずらして置き、半分ほど開いた箱の中を、身をのりだして覗き込んだ。

 ビーヴァが止める暇はなかった。少年は、妹の行為を止められず、かといって、一緒になかを見てはいけない気持ちがして、おろおろと左右に瞳を動かした。『やはり、いけない。元どおりにしようよ』と、言いかけたとき、背後から声をかけられた。

「ビーヴァ」

 穏やかで、落ち着いた声だった。しかし、ビーヴァは内心とびあがり、おそるおそる振り向いた。

 狩り装束の父が、弓を肩にかけた姿で立っていた。

「父さん……」

「こんなところで、何をしているんだ? タミラは?」

「ケイジ、父さん!」

 ラナは、無邪気に笑って振り向いた。その手に握られているシャム(巫女)の太鼓を見て、ケイジは、普段ほそい眼をまるく見開いた。

「ラナ。それは……」

「見てみて! すごいでしょ。母さまの太鼓よ」

 赤ん坊のころから一緒に暮らしている乳母夫婦に対しては、遠慮がない。ラナは、夫婦のことを、親しみをこめて、ケイジ父さん、タミラ母さんと呼んでいる。実の両親のことは、父さま、母さま、と呼び分けているのだ。

 アロゥ族の《一の狩人》ケイジは、族長の信頼も厚い。活発でよく喋る妻のタミラとは対照的に、ケイジは、温和で物静かな男だった。息子と同じ黒い瞳を動かして、ビーヴァを見た。

 ビーヴァは無言で、『俺じゃない』と、首を振った。

 ケイジは、ラナに視線を戻した。ラナは、革張りのまるい太鼓を、珍し気に眺めている。

「……しまっておいた方が、良いのではないか?」

「だって、私のだもん!」

「シャム(巫女)のものだよ、ラナ」

 やわらかく言う。ラナが、首飾りや、ハッタ(梟)の羽根のついた冠を取り出そうとしているのを、無理に止めはしない。ことわりを理解させようとする、大人の口調だ。

「もちろん、ラナがシャムとなる日のために、用意されているものだ。それまでは、ここで眠っている。シラカバのテティ(神霊)の香気を吸い、朝日のテティの光を浴びて、ちからを蓄えているのだ。みだりに起こしてはいけないよ」

「……そうなの?」

 ラナは、ケイジを見上げた。ケイジは、ゆっくり頷いた。


 さわさわと、人の話し声が近づいて来た。

「ケイジ。ビーヴァ?」

 三人が振り返るのと、入って来た人影に声をかけられるのは、ほぼ同時だった。ケイジとビーヴァは、顔を伏せて一礼し、ラナは、きょとんと眼を瞬いた。

 身のまわりの世話をする数人の女たちとともに、王がやってきた。

「父さま!」

「ラナもいたのか。どうしたのだ? こんなところで」

 娘が答える前に、父王は、彼女の手の太鼓に気づいた。開いた長持ちの蓋と、乳兄妹の少年の顔を見て、事情を察した。

 父王は、ケイジよりも厳しかった。

「また、ビーヴァを困らせていたな」

「ちがうもん。見せてあげていたのよ」

「それを、困らせると言うのだ」

 父王は、両手を腰にあて、わざとしかめ面をしてみせた。ビーヴァが、あわわとうろたえる。

「マグたちは、向こうで魚を獲っていたぞ。ビーヴァが、こんなものを、わざわざ観たがるはずがない。お前がわがままを言って、つきあわせたのであろう」

「私のだって、言ったじゃない」

「母上の長持ちだ。母上と私の許可なく、開けてよいとは言っていない」

 ラナは、ぐっ……と言葉を呑んだ。

 それから、みるみる少女の顔がくずれ、黒い瞳に大粒の涙がうかんだ。ビーヴァは、さらにうろたえた。父王とケイジは、黙ってその様子を眺めている。

 ラナは、うわあん、と泣き出した。泣きながら、盛大に赦しをこう。

「ごめんなさい。ごめんなさあぁい!」

「分かれば、よい」

 父王は、威厳をもって頷き、娘が泣きやむのを待った。

 少年は、眉根をよせ、まるで自分が叱られたように身をすくませた。ケイジが、苦笑して、息子の肩に片手を置く。女たちも、微笑んでいる。

 やがて、ラナが、ぐすぐすとしゃくりあげながら泣き止むと、王は、彼女に巫女の道具を片付けさせた。それが終わると、娘の我慢をねぎらうことも忘れていなかった。

 王は身をかがめ、ラナの頭に片手を置いて、顔を覗き込んだ。

「食事を終えたら、ビーヴァと一緒に戻っておいで。母上の太鼓の由来を、教えてあげよう」

「いいの?」

 すすりあげて鼻の頭を紅くしていたラナは、大きな眼を瞬かせた。父王が頷くと、ぱあっと微笑んだ。

 ケイジが、軽く首を傾けた。

「よいのですか?」

「今日は時間がある。ラナには、覚えてもらわなければならないからな……。ビーヴァも、来ておくれ。他の子どもたちに、声をかけて欲しい。我が語りを手伝ってくれ、と」

 この誘いに、ビーヴァは瞳を輝かせてうなずき、改めて、父とともに頭を下げた。


          *


「まあ、そんなことがあったの」

 北の地の夏の夕暮れは、ほの白い。

 幼いラナは、ビーヴァと並んで炉を囲み、コンタ芋のシム団子と、ヌパウパ(ヤマニラ)とフキの汁を食べていた。乳母のタミラは、子どもたちの様子を見守りながら、夫に、温めたウオカ(酒)の入った器を手渡した。

「母巫女さまの、太鼓をねえ」

「先代(ラナの母)が最後にあれを使われたのは、ラナが生まれて間もない頃だったから、覚えていないだろう。……ビーヴァ、お前は、覚えているか?」

 ビーヴァは、焼いたシム団子をほおばり、噛み切ろうと努力している最中だったが、父の言葉にうなずいた。ラナは、両手に汁のはいった椀を持ち、兄を見た。

「そうなの?」

 ビーヴァは答えようとして、ふごふごと口の中で音をたてた。タミラが、行儀が悪い、と眉を寄せる。

 ケイジが代わりに答えた。

「病のテティ(神霊)を、鎮めるためだった。冠をかぶり、面をつけ、それは見事に舞っておられた……」

 ケイジが眼を細めたのは、ありし日の巫王ふおうの姿を想いうかべたのかもしれない。

 タミラは顔をそむけ、そっと眼尻をぬぐう仕草をした。ラナは、横目で見守った。――熱病が流行した年、ラナの母は死んだ。同じ時期に、タミラとケイジの生まれたばかりの息子も、病で命を落としたのだ。

 ラナは、汁椀の中にのこった具を口に入れ、訊ねた。

「母さまは、しっぱい、なさったの?」

 タミラは息を呑んだ。ビーヴァも、眼をまるくした。

「まあ。誰が、そんなことを?」

「だれも。でも……死んじゃったでしょう? テティをしずめられなかったから?」

 タミラは咄嗟に返事ができなかったが、ケイジは、優しく微笑んだ。

「いや。立派に鎮めてくださった。だから、ラナもビーヴァも、こうして生きている」

 ラナはビーヴァを見上げ、ビーヴァは、ラナを見た。少女が納得したように微笑んだので、タミラはほっとした。

 ケイジは、ウオカ(酒)を口に運び、干した魚を手にとった。

「とにかく……。そのように霊力ちからのある太鼓を、もてあそんではいけないよ、ラナ。間違えて、ケレ(悪霊)を喚びよせてしまうこともあるのだ」

「はあい」

 ラナは、にこにこと答えた。あまり反省している風ではないが、ケイジは肩をすくめ、それ以上いうのはやめた。干し魚をかじり、酒を飲む。

「さて」

 ケイジは、空になった酒の器を炉端に置くと、片方の膝を立てた。

「俺のトレン(板琴)を出してくれ、タミラ」

「持っていくの?」

「王が太鼓を使われるのなら、俺も、何か奏した方がよいだろう」

 タミラが父の長持ちから楽器をとりだすのを見て、ビーヴァとラナは、『わ』の形に口を開いた。

 トレン(板琴)は、小さな子どもの背丈ほどもあるベニマツの板に、ユゥク(大型の鹿)の腱やイラクサの繊維をよってつくったげんを張ったものだ。森の民では、『男の楽器』といわれる。

 冬の夜、嵐のテティ(神霊)を鎮めるときや、夏の祭りの際に用いる。ケイジがそれを膝にかかえ、五本の絃をつま弾いて音程をたしかめる様子を、ラナとビーヴァは、わくわくしながら眺めた。

 ケイジは、二人の子どもたちを見て、片方の眉を持ち上げた。トレンを抱え、立ち上がる。

「では。行こうか、ラナ。ビーヴァ」

「はい」

「待っておくれ。あたしも行くから」

 タミラは、家族の食器をてばやく片付けると、夫についていった。


 薄紫色の宵は、いつまでも明るく、松明は必要なかった。

 トレンを手に王の家に向かうケイジの後ろで、ラナは、ビーヴァに甘えていた。

「抱っこして、ビーヴァ」

「えー?」

 ビーヴァは、一度はしぶったが、両手をひろげてせがむ童女を、抱きあげた。少年にはラナは大きく、よろめいてしまう。

「おもっ! 重いよ、ラナ」

「ラナ、重くなんかないもん。ビーヴァが弱いだけだもん」

「弱くなんかない。ラナが重いんだよ」

「ちがうもん!」

 きゃっきゃと笑っては、唇を尖らせる。少女と息子のやり取りを耳にしたケイジは、足を止めた。

「代わろうか、ビーヴァ」

「いい。できる……」

 ビーヴァがトレンを運んでくれるなら、ケイジがラナを運ぶ、という申し出だったのだが。ビーヴァは、両腕でラナを抱え、首を振った。そうしながら、右へよろめき、左へかたむいてしまう。ラナは、きゃっきゃと笑い続けた。

 タミラは、息子が大切な王の娘に怪我をさせないかと、気が気ではなかったが、ケイジは、表情をかえることなく、見守っていた。

 やがて、ビーヴァは苦心の末、ラナを背負うことに成功した。少女を背中にのせ、ゆすって位置をただすと、足を踏みしめて歩き始めた。

 ラナは、上機嫌だ。

「わあい。重い? ビーヴァ」

「平気だ……。じっとしてろよ」

「うん」

 ラナは、幸せそうに頷くと、ビーヴァの首に腕をまわしてしがみつき、肩に頬をおしあてた。

 ケイジとタミラは、息子の足取りが安定したのを見ると、歩きつづけた。



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