第五章 帰還(5)



          5


 フンフン、キュウキュウ。ものがなしいセイモアの声で、マシゥは目を覚ました。焚き火とビーヴァをまもりながら、居眠りをしてしまったらしい。見ると、火は、炭化した薪にまとわりつく小さなほのおになっていた。慌てて身体を起こし、用意していた樹皮をくべる。

 炎がぱっと燃えあがり、明るさと暖かさが増した。教えてくれたセイモアの頭を撫でたマシゥは、ビーヴァが、膝を抱えて坐っていることに気づいた。

「ビーヴァ、目が覚めたのか。起きて、大丈夫か?」

 教えてくれればいいのに。安堵して話しかけたマシゥだったが、ビーヴァは、黙って彼を見返しただけだった。

「ビーヴァ?」

 様子がおかしいと思ってよく見ると、青年の顔は、夜が透けそうなほどしろく、蒼ざめていた。悲しげで、苦しそうに見える。そのまま消えてしまいそうに思われて、マシゥは手を伸ばした。

 ギョッとする。

 坐るビーヴァの傍らに、眠っている《ビーヴァ》がいた。マシゥが居眠りをする前と変わらない姿勢で、眼を閉じている。毛皮の外套の上には、うすく雪が積もっていた。

 マシゥは、氷河の洞窟の出来事を想いだした。

『これは、ビーヴァの魂か?』

 案の定、マシゥの右手は、坐っている青年の肩を通り抜けてしまった。呆然とする彼に、ビーヴァは囁いた。

《……もう、意識を保つことが出来ないんだ》

「ビーヴァ」

《マシゥ。ソーィエを連れて行ってくれ。……ここを、離れた方がいい》

「え?」

 瞬きをくりかえすマシゥの耳に、風にのって、長くひきのばされた叫びが聞こえた。

 ソーィエが、ぴくりと耳を動かし、立ち上がる。セイモアが、落ち着きなく鼻を鳴らした。

《ルプス(狼)だ》

 ビーヴァは、抑えた声で説明した。

《群れが、狩りをしている。こちらへ向かっている》

「こちらへって」

 もう一度、朗々と、高い声が響いた。確かに、先ほどより近づいている。マシゥはぞっとした。

「え、ええと」

《食糧を持って行け》

 ビーヴァは、あくまで冷静だった。

《俺にはもう、必要ないから……。俺の外套と杖を、持って行ってくれ。杖は、キシムに渡してくれ》

「ビーヴァ。そんなことより、早く起きて――」

 横たわっている青年を起こそうと、彼に触れたマシゥは、その冷たさに息を呑んだ。霊魂のビーヴァが、眉をくもらせる。

「……ビーヴァ?」

『息を、していない?』

《……俺を、置いて行け》

「そんなことが、出来るわけがないだろう!」

 マシゥは叫んだ。目の前で起きていることが信じられず、青年の身体をゆさぶった。

「ビーヴァ、おい! 嘘だろう? 起きろ!」

《…………》

「起きてくれ、頼むから! ルプスに喰われてしまうぞ、ビーヴァ!」

 ゆさぶっても、叩いても、青年がまぶたを開けることはなかった。すっかり冷えた身体は、彼が死んでもう時間が経っていることを伝えていた。マシゥは、彼を抱きしめた。何とか、息を吹きかえしてくれるよう願う。

「ビーヴァ! お願いだ。眼をあけてくれ……!」

 こんなことが、あってはならない。

 青年を抱いて、マシゥは啼いた。己の身が引き裂かれる悲しみに。他に何が起ころうとも、これだけは、起きてはならなかった。

 ソーィエが悄然と耳を垂れ、うなだれる。セイモアは、細い声でキュウゥンと鳴き、不安げに雪原をかえりみた。

 ルプスの群れの声が、近づいている。

 霊魂のビーヴァが、そっと話しかけた。

《マシゥ》

「…………」

《急いでくれ。このままでは、貴方とソーィエが、殺されてしまう》

「いやだ」

 凍りついたビーヴァの頬に顔をこすりつけ、マシゥは首を振った。

「ビーヴァ。君も一緒だ」

《マシゥ》

 遺体を持ちあげようとして、尻もちをつく。ビーヴァは、なだめる口調になった。

《落ち着いてくれ、お願いだから。……もう、死んでいるんだ》

「…………」

《俺は、セイモアのなかにいて、貴方に話しかけている。どうか、置いて行ってくれ。……それはもう、ぬけがらだ。寒さも痛みも感じないから、大丈夫》

「何が大丈夫なんだよ、ビーヴァ! こんな……こんなことって!」

《言っただろう?》

 とりみだすマシゥに、ビーヴァは、辛抱づよく語りかけた。

《……俺たちは、ユゥク(大型の鹿)を食べる。ユゥクは俺の血となり、肉となる。……ユゥクの衣(毛皮)を、俺は着る。ユゥクは俺の一部になり、俺はユゥクと兄弟になる》

 マシゥの頬を流れる涙は、髭と顎の先で凍りついていた。ビーヴァの声は、子守唄のように、彼の胸に響いた。

《ルプス・テティ(狼神)が、俺を弔ってくれる。だから、大丈夫……。俺は、ルプスの、兄弟になるんだ》

『ビーヴァ!』

 マシゥの叫びは、声にならなかった。彼の言う『とむらい』を想像しただけで、気が狂いそうに感じる。遺体をかき抱き、駄々をこねる幼子のように、何度も首を振った。

 けれども……心のどこかで、青年の言葉を受け容れている自分がいた。

 こんなことが、あってはならない。認めたくない。理解できない、と思う。一方で……ビーヴァにとっては、こんなにも正しく、筋のとおった話はないのだろう、と思われた。

 森のテティ(神々)にとっては――


 ウォーゥールールールーヨーオォーン……!

 ウオッフ、ウルルルルーヨーオーオォーン……!


 マシゥたちの匂いを嗅ぎつけたのだろう。ルプスが仲間を呼ぶ声が、大きくなった。

 ソーィエが、警戒の唸り声をあげる。セイモアは、焦れて、マシゥの背中に額をおしあてた。

 ビーヴァが呼ぶ。

《マシゥ》

「…………」

《行ってくれ、マシゥ! 俺のために……。ソーィエを、俺の仲間を、たすけてくれ》


 ウォン! ワォウ、ガウッ、ガウッ!


 ソーィエが、主人を護ろうと牙をむき、夜に向かって吼えたてた。セイモアが、《彼》の肩に肩をぶつけ、中断させる。驚いたソーィエが跳びさがると、セイモアはすぐに駆け戻り、再びマシゥの背中を押した。外套の袖をくわえ、逃げるように促す。

 マシゥは、決断しなければならなかった。


 マシゥはぐいと眼をこすると、青年の遺体を横たえた。髪をなでつけ、丁寧に外套でくるむ(とてもではないが、脱がせることなど出来なかった)。

 額帯ひたいおびはもらったが、矢柄やがらの首かざりは、そのままにしておいた。シャマン(覡)の杖をあずかると、最後にもういちど彼の頬をなでて別れを惜しみ――あふれた涙と氷と鼻水で、マシゥの顔はぐしゃぐしゃだった。――意を決して立ち上がった。

 マシゥがソーィエの首に巻かれた革紐を引っ張ると、赤毛の犬は抵抗して暴れた。セイモアが、相棒をなだめるように、肩をすりよせる。

 マシゥは、荷物を持ち、雪に足をとられながら歩きだした。背後で、近くなったルプスの唸り声や牙の鳴る音が聞こえたが、振り向かないよう努力する。群れがビーヴァの遺体に気をとられているうちに、出来るだけここを離れなければならない……。

 ビーヴァの声が、聞こえた。

《……ありがとう。マシゥ》


          *


 マシゥは、ビーヴァが好きだった。本当に、ほんとうに。心の底から好きだったのだと、思い知らされた。

 杉の若木を思わせるしなやかさも、不思議にひろい雰囲気も……。長い黒髪をなびかせて森を駆ける、ルプス(狼)のような凛々しさも。晴れた夜空のような、黒い瞳の静けさも。ロカム(鷲)さながら、幻影のそらを舞うさまも。

 野生の獣のように、美しいと思っていた。神がみに対する敬虔さに、慎ましさに感動し、優しさに胸をうたれた。……彼を守りたいと思った。彼のために、彼がいるから、森の民をたすけたいと思ったのだ。

 そのビーヴァを死なせて、どうするのだ。

 レイム(太陽神、善の神)の信徒としての価値観も、彼を苦しめた。ビーヴァ自身が望んだとはいえ……たいせつな友を、置き去りにした。命の恩人を獣の餌にして逃げた、という思いは、彼をさいなんだ。

 いっそ、死んでしまいたい……。

 マシゥは、ソーィエを連れ、荷物を抱え、不自由な身体で雪を掻き分けて進んだが、ニチニキ邑にたどり着く前に、雪の中へ倒れこんだ。ビーヴァを真似て雪洞を掘り、火を熾したが、もう、一歩も前へ進めなかった。

 可哀想な、ソーィエ。忠実なソーィエも、主人を亡くして嘆いていた。ろくに餌を食べず、地に伏せて、じっと動かない。

 セイモアはビーヴァをうちに宿し、その存在を感じ続けているためか、特に悲しんでいる様子はなかったが(彼のすがたが見えないので、不思議そうではあったが)。ソーィエは、時折ビーヴァが話しかける声に反応はするものの、立ち上がることができずにいる。

 若狼のなかで、ビーヴァは、気を揉んでいた。どうしたものか、と思う。このままでは、使命を果たす前に、マシゥとソーィエが死んでしまう。

《……キシム》

 夜の空に舞い上がり、彼は、喚んだ。

《キシム、すまない。使わせてくれ――》


 その頃、キシムは、カムロと並んでベニマツの下にいた。

 夜はすっかり濃くなり、松明は明々と燃えている。時折、風に煽られて、あかい火の粉が雪に散る。その光に照らし出されるニチニキの門は、未だ開かれてはいない。

 男たちの投石はまばらになっていたが、応戦の矢は、彼らが近づくのを防いでいた。

 ラナは、彼らの前に佇み、じっと門を見詰めている。雪を含むハァヴル(西風)が、少女の長い黒髪をなびかせ、毛皮の外套の裾をはためかせる。矢が届くぎりぎりのところに立つ彼女を、ワイール氏族長が、一、二歩後退させた。

「キシム」

 カムロが、暗い口調で窘めた。

「お前は下がれ。憑かれるぞ」

 先代の巫王でなくとも、ケレ(悪霊)の怨念を、氏族長たちはおそれていた。キシムも理解している――いったい、何人が、あそこで既に殺されただろう。

 エクレイタ族が去っても、ムサ(人間)の血で穢れたこの地に、棲むことは出来ない。

 解っていた……。それでも去りがたく感じていたキシムの胸に、突然、《声》が響いた。

 ドクンと、鼓動が耳に響く。呼吸が止まる――。

「……キシム?」

 眼を開いたまま倒れる彼(彼女)を、カムロは、大急ぎで支えた。



「このっ……ばっかやろう!」

 開口一番。キシムに怒鳴られて、ビーヴァは苦笑した。

 二人は、ロマナ湖も、ニチニキ邑も、針葉の森のひろがりも一望できる夜空に、幽体となって浮いていた。

 霊魂は、現身うつしみを持たない。蒼白くかがやく身体は、まとう衣とつながり、ヤマドリの尾のように細く長い軌跡を描いていた。ところどころ、濃紺の空と銀の星が透けて観え、一本に編んだ髪が、風に揺れている。

 宙に浮く彼らの周囲を、時折、白い光が飛び、白鳥やキツネといったテティ(動物たち)のすがたを現しては消えた。

 守護霊たちには構わず、キシムは、半分透けているビーヴァにかみついた。

「ばか、あほう! 生きて還って来いって言っただろうが。何をやっているんだ、まったく」

《……キシム》

 どなり、ののしりながら、キシムは泣いていた。ぼろぼろぼろぼろ、こぼれる涙を拭おうともせず、思いつく限りの罵声を浴びせる。

 ビーヴァは腕をひろげ、彼女に近づいた。優しく抱き寄せ、口づける。

《約束を守れなくて、ごめん》

「……オマケに、こんなところに喚びだしやがって」

 唇が離れても、まだ、悪態をついている。ビーヴァは、ほっとして微笑んだ。キシムだ……キシムで良かった、と思う。

「笑っている場合か、あほう。どうなっているんだ、いったい? どうするつもりなんだよ、これから」

《セイモアの身体に、憑依させてもらっている》

 ビーヴァの口調は、相変わらず穏やかだった。

《俺の身体は、もうないから……。死んだのは初めてだから、よく分からないけれど。時がくるまでは、一緒にいられるんだろう》

「だろう、って、そんないい加減な」

《……キシム。ごめん。時間がないんだ》

 呟くと、ビーヴァは、己の右手を、キシムの胸に刺しこんだ。幽体の指がつらぬくと同時に、そこから熱のない蒼い炎が出て、彼女を包んだ。キシムは、眼と口を大きく開け、のけぞった。声もなく、身を震わせる。

 ビーヴァは、左腕で彼女を支え、右腕を肘まで刺し入れると、無造作に抜き取った。舞い散る光の粉のなかで、くずおれる彼女の身体を、抱きとめる。

 キシムは、しばらく喘いでいたが、彼の胸に手を当て、かすれる声で苦情を言った。

「殺すつもりか、お前」

《霊魂なんだから、死なないよ》

「そういう問題じゃあない!」

 真面目なのか、ふざけているのか。淡々としているビーヴァに、キシムは怒ったが、全く力が入らなかった。ビーヴァは、そっと彼女を抱きしめた。頭を支え、自分の胸に、彼女の顔を押し当てる。

 キシムは眼を閉じ、ふるえる息を吐いた。

「……契約なんだな」

 いつか、夢占ゆめうらを行ったとき、テティ(動物霊)がビーヴァの身体に飛び込んで行ったことを、キシムは思い出した。祖霊から引き継ぐ守護霊とは異なり、霊力のつよいテティ(神霊)がムサ(人間)の巫覡ときずなを結ぶ、やり方なのだ。

 ビーヴァは、肯いた。

《そういうこと》

「で? オレの意思は?」

 ビーヴァは、思いがけないことを言われ、瞬いた。キシムの顔を見る。

 キシムは、彼を睨みつけた。

「お前がオレと契約を結んだことは、解った。でも、オレの意思は? お前、確認したのか?」

《あ……》

 ビーヴァは、絶句した。みるみる意気消沈して、項垂れる。

《ごめん。俺……。俺はキシムのマムナ(真の名)を知っているから、早く契約を結ばないといけないと、思って……。つり合いが、とれないから――》

 キシムは、胸の前で腕組みをして、じっと彼を睨んでいたが、やがて、諦めたように溜息をついた。肩をすくめ、視線を逸らす。

「……まったく。こちらの意思にお構いなしとは、テティ(神霊)らしいやり方だな」

《…………》

「本当に、テティになっちまったんだな。ばかやろうが……」

 宙を睨み、洟をすする。眼のふちが赤くなっている。キシムの横顔に、ビーヴァは何も言えなくなった。

 ビーヴァは、キシムが好きだった。一緒に生きて行きたいと思っていた。もし、キシムも同じ気持ちでいてくれたのなら、嬉しいと思う……。

「で?」

 キシムは面をひきしめ、改めて彼を見た。瑪瑙色の瞳に、毅然とした意志が宿る。ビーヴァの好きな表情だ。

「オレを喚んだ理由は? それだけじゃないよな」

《ああ》

 ビーヴァは、頷いた。

《キシム。マシゥを、救けてくれ》

「あいつも帰って来たのか。どこにいる?」

 ビーヴァは、眼下に広がる雪原の一点を指さした。強風にいまにも消えそうになっている焚き火がある。

 キシムは、ロマナ湖と焚き火を見比べ、方向を確かめた。

「分かった。迎えに行こう。……お前は?」

《俺は、セイモアと一緒に、ラナを止めに行く》

 ビーヴァは、ニチニキ邑と森の境界を見て言った。迷いのない精悍な横顔を見詰め、キシムは頷いた。

「分かった。……後で会おう」

 ビーヴァは、ふわりと彼女に微笑むと、地上へ降りて行った。幽体とひとつづきになった衣の袖が翼のようにひろがり、長髪がなびくのを、キシムは見送った。それから、ビーヴァに貫かれた胸を片手でおさえ、息をつく。

 生命を奪われるかと思うほどの、甘美な衝撃だった。

『……ばか。どうして、生きているうちに喚ばなかった。……契約なんかしなくたって。オレは、いつだって――』

 舌打ちして、頭を振る。涙がこぼれそうになるのをこらえる。

 キシムは、必死に気持ちを立て直して、自分の身体へ戻った。


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