第五章 帰還(4)



          4


 一日行かないうちに、馬の脚は雪に埋もれ、先へ進めなくなってしまった。

「帰らせてやってくれ、マシゥ。……アリガトウ」

 ビーヴァは、馬たちが苦労しているのを見るに忍びず、懇願した。それで、騎者たちは、四頭の馬と一緒に引き返すことになった。

「気をつけて行かれよ、マシゥどの。……使者どの、お元気で」

「ビーヴァどの。レイム(太陽神)が、御身とともにありますように!」

 男たちは、たかく手を振り、別れを告げた。

 馬たちが白い息を大量に吐きながら踵を返し、木立のなかへ消えるのを、ビーヴァとマシゥとソーィエとセイモアは、見えなくなるまで見送った。

 そして、彼らは再び、二人と二匹になった。

 ソーィエが、くうぅんと鼻を鳴らし、セイモアが、ぱふりと太い尾を振った。男たちは、頷き合った。

 マシゥとビーヴァは、ビーヴァが作った滑り板を、チコ(皮靴)の底にくくりつけた。本来なら、形を整えたベニマツの板にオロオロ(大型のネズミの一種)の毛皮を張り、美しい彫刻を施すのだが、急ごしらえの今は、トウヒの倒木から割り出した板に、キィーダ(皮舟)に使っていた皮を張っただけの代物だ。それでも、ないよりはましだった。

 膝の上まで雪に埋もれていた男たちは、なんとか、雪の上に、沈まずに立つことが出来るようになった。

 ビーヴァが先を行き、マシゥは杖をつきながら、おそるおそる進んだ。ソーィエとセイモアは、凍った雪の上をえらんで踏み、或いは、新雪のなかを跳ねて行く。

 白く凍りついた森の中を、彼らは、巣立ったばかりの雁の子のごとく、のろのろと進んだ。


 二十日ぶりに見るロマナ湖は、完全に凍った水面に雪が積もり、その上を、風が吹き抜けていた。アムバイ(北風)がごおっと音を立てる度、雪と氷の粉が煙さながら舞い上がり、渦を巻き、顔を叩いた。無数の針で刺されるような痛みが走る。

 毛皮の外套を頭からかぶり、腕で顔をかばって、彼らは進んだ。いくらも行かぬうちに、マシゥは派手につまづいた。

「わっぷ!」

 マシゥは、初めて履く滑り板を必死に操ろうとしたが、どう滑ったか判らぬうちに、雪に足を取られてしりもちをついた。腰が半分埋もれてしまい、起き上がることが出来ない。ソーィエが駆け寄り、ウォンと吼えた。

 ビーヴァは、急いで引き返してきた。

 青年とソーィエとセイモアは、もがくマシゥを、雪のなかから掘り出した。ようやく姿勢を立てなおし、固まった雪に座りなおした時、マシゥは、すっかり息があがってしまっていた。

 ビーヴァも、荒い息を吐いていた。両膝に手をついて、呼吸をととのえる。

「休もう、マシゥ。待っていてくれ」

 そう言うと、二匹を連れて歩きだした。すこし離れ、低い斜面に細い木がまばらに生えている所へ行くと、脱いだ滑り板を使って雪を掻きはじめた。

 ソーィエとセイモアが、嬉々として彼を手伝う。

 マシゥが観ていると、彼らは、凍った地面が現れるまで雪を掘りさげ、くぼみをつくった。斜面に雪を積みあげ、風を避ける場所をつくる。ビーヴァは、焚き火の支度をして、マシゥを手招きした。

 マシゥは、半ば這ってそこへ向かった。

 ビーヴァはお茶を淹れ、凍らせていたライチョウの肉を、焼いて食べられるようにした。火は、本当にありがたかった。『もし、ビーヴァがいてくれなかったら……』 数十回くりかえしたことを、マシゥはまた考えた。

 ソーィエとセイモアは、大喜びで、油がしたたる肉にかぶりついた。彼らも、今日は働いたのだ。

 ヌパウパ(ヤマニラ)を漬けたウオカ(酒)で身体をあたためながら、マシゥは、ビーヴァがぼうっとしていることに気づいた。

「ビーヴァ?」

 青年が考え事をするのはいつもだが、普段と違う雰囲気だ。吹き上がる雪煙を眺めていた彼は、呼ばれて、はっと瞬きをした。ビーヴァ自身、気づいていなかったらしい。

 マシゥは、首を傾げた。

「どうかしたかい?」

「いや。なんでもない……」

 マシゥは、揺れる木の枝を見上げた。

「風がやんでくれるといいな」

 ビーヴァは、霜のついた睫毛を伏せ、かぶりを振った。

「ロマナ(湖)の辺りは、冬は、いつもこうだ……。風が吹いた方がいい。吹雪になれば、誰も、戦おうとはしない」

 マシゥは、青年が仲間の身を案じているのだと解った。

 ビーヴァは、ふかい溜息をついた。マシゥは、急に心配になった。

「ビーヴァ?」

 顔色が悪い。そういえば、彼は、先ほどから何も食べていない。食事をしたのはマシゥとソーィエたちだけで、ビーヴァは、お茶しか飲んでいなかった。

「失礼……」

 マシゥは、動かせる右腕を伸ばして、ビーヴァの頬に触れた。彼の手は冷たいはずだが、ビーヴァは、ぴくりともしなかった。マシゥは、眉間に皺を寄せた。蒼ざめた青年の肌は、ひどく熱く感じられたのだ。

「……君の方が、具合が悪いんじゃないか。ビーヴァ」

 ビーヴァは、かすかに首を横に振った。外套の襟をひきよせ、背を丸める。はあ、と再び息を吐くと、ソーィエの頭を撫でて雪を落とし、眼を閉じた。

「疲れただけだ。休めば……すぐ、治るよ」

 ビーヴァはそう呟いたが、マシゥは、胸の奥から黒々とした不安が湧きおこるのを感じた。騎者の男の言葉を、思い出す。

『使者どのは、具合が悪そうだ。このまま、先へ行ってよろしいか?』

『いつからだ?』 気づかなかったことが、悔やまれる。否、気づこうとしなかったのだ。そんなはずはないと、決めつけていた。

『どうして、俺は――』

 ビーヴァは、もぞもぞと身体を動かした。坐っていることに疲れ、滑り板を敷いて横になろうとしている。手を貸そうとして、マシゥは、ぎくりとした。

 ビーヴァの頭巾が脱げ、編んだ黒髪がこぼれた。同時に、先ほど触れた頬の下、首筋に、小さな赤い皮疹が見えたのだ。

『まさか……』

 マシゥの鼓動が、にわかに速くなった。同じ皮疹の痕のある、幼子の姿が浮かんだ。

『そんなはずはない。ジルは治っていた。それに、あれは子どもの病気だ。どうして、ビーヴァがかかる?』

 心の中で、否定する。しかし、どんなに頭で打ち消しても、ビーヴァの皮疹は消えなかった。

 マシゥは、横たわるビーヴァの髪をととのえ、頭巾をかぶせた。ビーヴァは、されるに任せている。

「何か、食べられそうかい?」

 訊ねたが、青年は眼を閉じたまま、ぐらりと首を揺らしただけだった。今は、ただ眠りたいのだろう。

 マシゥは、毛皮の外套ごしに、彼の背を撫でた。

「大丈夫……すぐ、よくなるよ。今は休もう」

『大丈夫、大丈夫だ……』 マシゥは、祈るように繰り返した。


          *


 ドンドン、ドンドンドン。

 太鼓の音が響く。マツの木枠にユゥク(大型の鹿)の皮を貼ったものや、丸太のなかをくりぬいたものを、女たちが叩いている。その中には、ラナもいた。

 ドンドン、ドンドンドン……。

 それは、ニチニキ邑へ攻撃をしかける合図だった。

 樹氷で真っ白になった森を背に、男たちを従えて立つワイール氏族長が、槍を掲げた。ハァヴル(西風)が、彼の衣の袖をひろげ、ワタリガラスの紋様を羽ばたかせる。傾いた陽光が、石槍の穂を、焔の色に輝かせた。

 ワイール氏族長は、ときの声をあげた。

「行け! 兄弟よ!」

「おおーっ!」 と、男たちは応えた。革製の投弾帯を振り、一斉に石を放つ。なかには、人の頭ほどの大きさのものもあった。森と壁との間の荒野を超え、丸太を並べた壁へと降りかかる。

 ドカドカという衝撃音と、木々の割れる音、男たちの喚き声、女たちの太鼓の音が重なった。

 ニチニキ邑の者たちも、手をこまねいているわけではない。たちまち、反撃の矢が飛んできた。石の雨の合間をぬって、射かけてくる。しかし、森まで届くものは少なく、あっても、石に撃ち落とされていた。

 キシムは、この様子を、苦い気持ちで眺めた。隣のカムロも、胸の前で腕を組み、眉根を寄せている。

 もちろん、キシムにも、仲間をたすけたい気持ちはある。王(ラナの父)の無念を晴らし、殺された子どもたちと、ディールの仇を討ちたい……という想いは。だが、どうしても、これがよい結果に結びつくとは思えないのだ。

 亡き王とのちかいに背いているから、というだけではない。目の前の敵を倒したとして、それだけでは終わらない予感があった。

《はじまったな》

 キシムのすぐ後ろで、声がした。振り向かずとも、シャム(巫女)には、誰かが解った。声に出さず応える。

『はい』

《憐れな……。真の王の到着を待つことは、出来なかったか》

 先代の巫王ふおう(ラナの母)は、シャムの仮面を手に、ニチニキの壁を見詰めていた。飛んでいく石の軌跡を目で追い、唇をゆがめている。

 キシムは、そっと訊ねた。

『どうなるのです? これから』

《我らは滅びる》

 巫王は、あっさり答えた。緋色の光を宿すひとみで、ちらりとキシムを見た。

《そう、警告した……。自らを救けようとしないものを、誰も、テティ(神霊)さえ、援けることはできぬ。なんじは理解しておろう》

『でも、ラナ様は――』

《機会はあった》

 巫王のことばは厳しかった。途方もなく哀しい声で、糾弾する。

現身うつしみのムサ(人間)には、現身だからこそ、出来ることがあろうに。その選択をしなかったのは、汝らだ。テティは、霊魂にしか、はたらきかけることは出来ぬ。我らに何が出来よう。……よ》

 刺青の入った腕を伸ばし、ニチニキの門を指した。

《汝には、観えるであろう。あそこで、ケレ(悪霊)が生じている……。あのケレ(憎しみ)を、汝は祓えるか? あのケレ(絶望)を、我は、どうすることも出来ぬよ……》

 キシムは、壁を観た。日差しを背に、門は、暗紫色の影の固まりとなってそびえている。キシムは、己の内にも、暗い絶望が沁みこむのを感じた。


 太鼓と投弾の音を合図に、堀のなかで雪をかぶって隠れていた男たちは、立ち上がった。ニチニキ邑の陰を踏んで近づき、壁の下に身をひそめる。

 十人のうち九人は、木の仮面を着けていた。手に手に石槍と弓矢とマラィ(刀)を持っている。一人が手を振り、少年を呼んだ。

 トゥークは無言で頷くと、丸太の壁に掌をあて、隙間を探し始めた。コルデを殺し、ラナを連れて逃げたときに、通った場所だ。少年の観たところ、この辺りの壁は、以前と変わりがない。中の人々が修繕していなければ、今も、ほころびは残っているはずだ。

 あった……。

 トゥークは身をかがめ、慎重に木を押した。隙間なく丸太を並べ、足元を土と石で固めた壁のうち、一部がゆるみ、ぐらついている。一本をずらし、斜めに立てかけ、その隙間から手を入れ、さらに一本……もう一本、と外していった。

 少年が、かがんでやっと通れるくらいの隙間が空いた。

 トゥークは、男たちに頷いてみせると、先にそこをくぐり抜けた。畑に近い場所だ。建物はなく、戦いの音は遠い。彼は、壁のそばにうずくまり、雪原に身をさらすのを避けた。

 エビたちが、音もなく滑りこんでくる。

 トゥークは、灰青色の空にそびえるやぐらを指して警戒を促すと、壁に沿って進み始めた。《女の庭》を目指す。

 男たちは、強風を避けて岩壁に身を寄せるオオツノヤギの群れさながら、列になって進んだ。途中、櫓の上にいる見張りが独りだと気づくと、チャンク(ロコンタ族の男)が矢を放った。

 見張りは、叫ぶ間もなく、喉を射抜かれて落ちた。

 建物のある場所に来ると、彼らは、ばらばらに別れた。エビが、仮面を上げて顔を出し、トゥークを促す。トゥークは、《女の庭》へ向かった。エビと三人の男たちが、ついて来る。

 太鼓の音が近くなった。ニチニキ邑の男たちの叫ぶ声が聞こえる。犬たちが吼えている。

 エビたちは、獲物を狙うロカム(鷲)が地上に落とす影のように、音もなく、素早く、家々の間を駆けた。

 《女の庭》は、静かだった。女たちは、どこかに避難しているか、門の周りで戦う男たちの手伝いをしているのだろう。仕切りの塀に、見張りはいなかった。

 トゥークは、塀の扉を開け、エビたちを入れた。牛の飼われている囲いの中で、鶏が羽ばたき、痩せた犬が吼えたが、無視する。

 女たちの家に近づくと、頭から毛織の布をかぶった人影が、数人、不安そうに立っていた。彼らは、人影を迂回し、彼女たちの視界に入らぬよう身をかがめて走り抜けた。一番大きな建物の陰に入る。

 マグが、そこに独りでいた女にとびかかり、羽交い絞めにした。

「ロキは、どこにいる?」

 女は、ルシカだった。勿論、そうと判ったから、彼らは彼女を捕らえたのだ。

 首に腕を回され、後ろ手に締め上げられたルシカは、エビの仮面に悲鳴を呑んだ。怯えた黒い瞳がトゥークをみつけ、状況を理解した。

 ルシカは、かすれ声で言った。

「あ、あんた……エビだね?」

「答えろ。女たちは、どこにいる?」

「遅かったよ……」

 ルシカは、溜息をついた。身振りで、逃げたり大声をあげたりしないことを示す。それで、男たちは顔を見合わせ、マグは彼女を放した。

 ルシカは、絞められた首を片手でさすりながら、彼らを案内した。

 女たちが寝泊りしている建物の裏口から、ルシカは中に入った。エビたちは、仮面をくびの後ろに掛け、マラィ(刀)と弓矢を手に、警戒しながらついて行った。

 薄暗い部屋を仕切る布をかき分けていくと、一番奥に、ロキが寝かされていた。傍にいたニレが、息を呑んで立ち上がる。ルシカは、唇の前に指を立て、シィーッと合図した。

 エビは、愕然と、変わり果てた妻を見下ろした。

 トゥークがコルデを殺した夜、暴行を受けたロキは、内臓の一部を傷つけたのだろう。それきり、起き上がることが出来なくなっていた。仲間たちが介抱していたが、やせ細り、息も絶え絶えになっている。折れた脚は、あらぬ方向へ捻じれ、こけおちた頬は色あせ、刺青は黒ずんでいた。

 それでも、熱にうるむ瞳に宿る光は澄んで、エビを映した。

「……あんた……」

 ロキは、骨と皮ばかりになった両腕を、差し伸べた。エビは、彼女を抱きしめた。ニレと、異変を察した仲間の女たちが、すすり泣く。

 エビは、ぎりりと音がするほど、奥歯を噛みしめた。低い声で、うめく。

「どうして、こんな……」

「ロキは、自分を守ったんだよ」

 仲間の女の一人が、小声で説明した。声は、途中で涙に呑まれた。

「ラナ様を守り、自分を守って……。全部、あんたのためだよ……」

「…………」

 エビの肩に腕をまわし、ロキは、息だけで囁いた。すぐ隣にいたニレが聴き取り、息を呑む。

 エビは、妻の髪をなでて頷いた。耳たぶに口を寄せ、囁き返す。

「分かった……。レンギは、無事だ。安心しろ」

 ただ一人生き残った息子の名を聞くと、ロキは眼を閉じ、安堵の涙を流した。吐息が、くぐもった呻きに変わる。

 トゥークは眼をみはり、ニレは顔を背けた。

 エビは、ロキを抱いたまま、右手に持ったマラィ(刀)を、彼女のあばらの下に刺していた。狩人なら間違えようがない角度で、心臓をえぐる。

 こと切れた妻を、エビは、そっと横たえた。女たちが、泣き崩れる。

 血濡れた刀を提げて立ち上がるエビに、ニレが言った。

「あたしも、殺して行っておくれ……」

「駄目だ」

 エビは、きっぱり拒絶した。瞳に、狂おしい光が宿っている。その目でニレを見据え、他の女たちを見据えた。

「お前たちは、生きろ。救けに来たんだ。ラナ様が、待っている。どうか、生きてくれ……!」

 来たとき同様、音を立てずにエビたちが去り、女たちが出ていくと。後に残ったルシカは、ロキの遺体に掛け布をかぶせ、涙を落とした。


 建物の陰から出た途端、

「キエェーッ!」

 叫び声をあげて斧を振り下ろしてきたエクレイタ族の女を、マグは槍で突き殺した。

 戦いは、《女の庭》へも拡がっていた。敵をみつけた男たちの喚く声が聞こえる。

『エクレイタ族の女たちは、よくしてくれたわ。傷つけないで……』 

 出かける際、ラナに懇願されたことを、エビは思い出した。『それは、奴ら次第です』 と応じたのだが。

『やはり、都合よくはいかないな……』 と、舌打ちした。

「サン(アロゥ族の男)とルーナ(ワイール族の男)は、女たちを連れていけ。マグ、来い!」

 《女の庭》を囲む塀を出ると、エビは、素早く指示を与えた。サンとルーナが頷き、女たちを集めた。入って来た壁の穴を目指し、走りだす。

 マラィ(刀)を握り直したエビは、トゥークが後ろについて来ていることに気づいた。

「お前は、女たちと一緒に行け!」

「嫌だ!」

 トゥークは叫び返した。石槍を構え、向かってきた男を殴り倒す。動きに迷いはない。

「俺も行く!」

「…………」

 エビは、唇をゆがめて嗤った。

 冬の日は急速に暮れ、邑は、紫の宵闇に覆われようとしていた。エクレイタ族の男たちが掲げる松明の明かりが、家々の影を、生き物のように動かした。

 エビは、建物の間をぬって門を目指した。途中で遭遇した男たちを、槍で突き、刀で薙ぎ払う。

 マグは、折れた槍を弓に持ち替え、矢を放った。ほぼ同時に、左から駆けて来た仲間が、敵の矢を受けて倒れた。

「ユイ!(ワイール族の男)」

 トゥークは、思わず叫んだ。

 門はもうすぐだった。仲間を助けようと走り出たトゥークは、櫓の上の男たちが、外へ向けていた矢を、一斉にこちらへ向けるのを目にした。息を呑む。

「トゥーク!」

 エビは、少年の前に跳び出した。


          **


 熱は高いが、三日ほどで下がる。皮疹は全身に現れるが、十日もあれば消える。――マシゥは、子どもの頃の経験を思い出し、知識を反芻はんすうした。一度かかれば、二度と罹ることのない病だ。たいしたことはない。自分も、ジルも、平気だったのだから……。

 けれども、期待に反して、ビーヴァの熱は一向に下がらなかった。皮疹は増え、食欲はさらに落ちた。青年は、わずかな雪を口に含む以外は何も食べなくなり、ほぼ一日中、眠り続けた。

 傷ついた野生の獣が、傷が癒えるのをじっと待つように……。

 ソーィエは、主人の傍らにぴたりとくっつき、離れようとしなかった。セイモアは、時折辺りの見回りに出かけ、つまらなそうに戻って来た。

 何故、ビーヴァの熱は下がらないのか。自分の知らない病気なのだろうかと、マシゥの心は千々に乱れた。

 ビーヴァは、彼が先に進めないことを焦っているのだと思ったらしい。熱にかすれた声で、囁いた。

「すまない……。俺が、足を止めている」

「君が謝ることはない」

 マシゥは唇を噛んだ。本当に焦っているのは、ビーヴァの方だろうに。

 ビーヴァは、うすく眼を開けて、彼を見上げた。

「マシゥ。腕は……大丈夫か?」

 マシゥの左腕は、殆ど動かせなくなっている。もとより血色は悪く、むくんでいたのだが、今では、感覚もなくなりつつあった。いずれ、凍って落ちるのかもしれない。

『頼むから、こんな時くらい、自分の心配をしてくれよ』

 言いたかったが、マシゥは、声を出すことが出来なかった。泣き出しそうだったのだ。

『ああ、そうだ。ビーヴァの為なら、役に立たない腕の一本くらい、ギヤ神(闇の神)にくれてやろう……』

 マシゥは、努めて明るい口調で言い返した。

「……ああ。君がいなければ、私は何も出来ない。だから、早く元気になってくれよ、ビーヴァ」

 きゅううん、と、ソーィエが啼いて、主人の顔を舐めた。ビ―ヴァは、幽かに微笑んで、眼を閉じた。


 夜が更けてから、異変が起きた。

 ソーィエとセイモアに挟まれて眠っていたビーヴァが、突然、身を起こした。窪地を這い出て、雪に向かって吐き始める。食べていないので、殆どが胃液だ。咳こみ、嘔吐し、吐くものがなくなっても、から嘔吐をくり返した。

 マシゥは、驚いて彼に駆け寄った。うずくまるビーヴァの背を撫でさする。

「ビーヴァ、ビーヴァ! 大丈夫か?」

 くんくん、きゅうきゅう。ソーィエたちも慌てふためき、辺りを駆けまわった。主人に身をすり寄せ、顔と手を舐めまわす。ビーヴァは声もなく、二匹を押しのけ、崩れるように倒れこんだ。再び、空嘔吐が始まる。

「ビーヴァ!」

 マシゥは慄然とした。ほんとうに、どうすることもできない。

『苦しい、苦しい……!』身体をふたつに折り、身の内を荒れ狂う嵐に耐えながら、ビーヴァは思った。凛とした横顔を、想い浮かべる。切れ長の、美しい赤瑪瑙めのうの瞳。うちがわから輝いているような肌を。

『キシム……!』 

 ぼうとして、ビーヴァは、歯を食いしばった。我が身を犯す病に、思い至ったのだ。

『駄目だ。うつしてしまう……』

 キシムに、ラナに――。病が治らないかぎり、森へは戻れない。

 嘔吐がやっと止まると、今度は、全身がふるえはじめた。カチカチと、奥歯が鳴る。ビーヴァは、ガクガクふるえる手をさしのべ、相棒の首の周りの毛をつかんだ。ぐいと耳を引き寄せる。

 にごった声で、囁いた。

「ソーィエ! マシゥを守れ。離れるな……!」

 ソーィエは、金緑色の瞳をみひらき、ぶるりと身を震わせた。

 ビーヴァは、もう一方の手を、白銀色のルプス(狼)に伸ばした。脳裡には、懐かしい仲間の姿が、現れては消えた。

『キシム……エビ。カムロ……。王、ラナ……。母さん……』

「セイモア。ちからを、貸してくれ……!」



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