第五章 帰還(3)



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 三日ほど雪が降りつづくと、ロマナ湖の水面は、白く凍りついた。湖の三人の娘たち――オコン、サルゥ、ブルカ川の岸辺も、流れがゆるやかなところは凍っている。これから寒さが厳しくなるにつれ、氷は厚くなり、やがては湖を徒歩で渡れるほどになると、森の民は知っていた。

 ラナたちは、吹雪を避け、森のなかにチューム(円錐住居)を建てた。エビたち九人を含む、五十余人の仲間たちだ。狩りの出来ない彼らは、連れてきたユゥク(大型の鹿)を一頭、殺さなければならなかった。

 彼らは、何度か、ニチニキ邑を攻撃した。槍や投石によって、数人のエクレイタ族の男たちを殺した。けれども、門は破れず、未だ壁の内側へ攻め入ることは出来ていない。

「塀のなかへ入る方法があると、言っていたな?」

 ワイール氏族長は、そう、トゥークを促した。しかし、

「俺は、お前を信用しない」

 合流したエビの一言が、少年を黙らせた。エビたちは、ラナを立てて彼を殺すのは止めたが、赦すつもりは全くなかった。それで、トゥークは口をつぐみ、蒼ざめた顔を背けた。

 ワイール氏族長は、溜息を呑んだ。仕方なく、彼らは、武器をととのえながら機会を待った。


 あれから、トゥークは何故か、ラナから少し離れるようになった。日中は、ワイール氏族長の傍にいる。少年の方から話すことはなかったが……。族長に教えてもらって自分のチュームを建て、夜は、独りで寝ている。それで、キシムはラナに近づき易くなった。

「ラナ様?」

 強い北風に小雪が舞う夜。キシムは、チュームの外から声をかけた。

「ちょうど良かったわ、キシム。身を清めたいの。手を貸してくれる?」

 部屋の中央で、ラナは独り座っていた。相手がキシムと解り、ほっとした様子だ。

 キシムはうなずき、渡された木の器で積もった雪をすくい、部屋に入った。火のそばに器を置いて、雪を融かす。

 ラナはその間に、額帯ひたいおびを解き、外衣を脱いで帯を緩めた。襟をくつろげて、準備をする。

 キシムと一緒に、金赤毛のあいのこ(スレイン)が入ってきて、ぷるぷると雪をふるい落としたので、ラナは微笑んだ。《彼女》を、膝の上に抱きあげる。

 やがて、雪が融け、水ができた。キシムは、布に水を染ませ、絞ってラナの肩にのせた。冷たい布が触れた瞬間、少女は小さく身を震わせたが、声はたてなかった。

 ラナのしろい肌には、無数のテティ(動物たち)と星の刺青があった。話には聞いていたが、キシムは、目にするのは初めてだった。黒髪を肩へ置き、優しく背中をぬぐいながら、感嘆して呟いた。

「凄い……」

「タミラ(乳母・ビーヴァの母)が、彫ってくれたの」

「痛かったでしょう」

 美しさより痛々しさを感じて言うと、ラナは、スレインの背を撫でながら、うすくわらった。

「あまり覚えていないの。薬が効いていたから……。その後の、テティ(神霊)との契約の方が、恐ろしかったわ。」

 キシムは、眼を細めた。夢占ゆめうらの際、ビーヴァの身体に無数のテティが飛び込んで行った光景を、思い浮かべる。

 テティに選ばれて、ビーヴァはシャマン(覡)になった。血によって巫力を継ぐアロゥ族のシャム(巫女)の刺青は、あの光景を模しているのだろうか。

「…………!」

 痩せた背中をぬぐっていたキシムは、ラナの左の乳房の下に、あざをみつけた。まだあかい、指のあとだ。腕にも、右の腰にも……。トゥークの仕打ちを想像し、彼女(彼)のはだは、ざわざわと総毛立った。

 ラナは、キシムの視線に気づいた。さりげなく衣を羽織り、痣を隠す。

「……ありがとう。あとは、自分でするわ」

 キシムは布を洗ってラナに手渡すと、少女の髪を梳かすことにした。二本の辮をほどき、丁寧にほぐしていると、またラナが話しかけてきた。

「キシムは……まだ、ここにいてくれるの?」

「見届けるのも、オレの役目でしょうから」

「…………」

「ラナ様。どうしても、戦うのですか?」

「ニレや、ロキを、たすけたいの。私のせい、だから――」

「…………」

「私は、何もできなかった。テティの声を聴くことも、病を治すことも……。それでも、ロキたちは、私を守ろうとしてくれたわ。テティを信じて、生きようとしていた。……そのせいで、ひどい目に遭ってしまった」

 襟をひらいて胸元を拭いていたラナは、手を止め、項垂れた。

「私がいたせいで、彼女たちは、あそこから逃げることができなかった……。ニレは、自分はけがれたから、ナムコへは帰れないと言っていた。私は、私も同じだと、言いたかった。……同じように、穢れたわ。森へ還って、シャム(巫女)の顔をして、テティの許で暮らすことは出来ない。ビーヴァとは――」

 声がふるえ、途切れた。キシムは、そっと訊いた。

「ビーヴァがお好きなんでしょう? ラナ様」

「好きよ」

 ほろり、ラナは泣き出した。透明なしずくが、頬をすうっと伝い落ちた。たからもののように、囁く。

「大好きよ……。でも、もう、逢えないのでしょうね」

「ビーヴァが、貴女に言ったのですか? 貴女たちが穢れていると?」

「いいえ。ただ、驚いていたわ……私には、テティの声が聞こえないと言うと。何か理由があるんだろう、って……。この所以だなんて、思っていないのでしょうね」

 キシムは、少女の背中を見詰めた。『穢れとは何だ?』と、考える。

『ビーヴァが、そんなことを言うわけがない……』

 意に添わぬ男に辱められるのが穢れなら、それは、テティ(神霊)ではなく、ムサ(人間)の価値観だ。ただせいを生きぬくことを是とするテティが、そのために敵に身をゆだねたからといって、咎めるはずはない(それなら、オレはどうなる、と、キシムは思った)。

 テティが忌避するのは、殺人と、血が濃くなる結びつきだ。だから、ビーヴァはラナに近づけない。

 ――思ったが、キシムは、ラナに言えなかった。彼女たちの心が、あそこで殺されてしまったと、理解した故に……。

 スレインが、あふっと欠伸をして、身体をまるめた。ラナは、衣を整えながら、呟いた。

「シャムでなくなっても……私は、ニレを救いたい。ロキたちを救けて、どこかで、ひっそり生きていけるなら……テティの加護を受けられなくても、かまわないわ……」


          *


 騎者たちは、殆ど寝ずに馬を走らせた。馬上で眠り、馬上で食事をする、という調子だ。馬が疲れると交代し、また疲れると元の馬に戻った。ビーヴァは、馬たちに無理をさせたくはなかったが、任せるしかなかった。

 生まれて初めて乗馬するビーヴァにも、怪我をしているマシゥにとっても、かなりきつい行程だった。

 ソーィエとセイモアは、とても元気だった。二匹にとっては、新しい遊びなのだ。

 ソーィエは、尾を高く揚げ、馬たちの先頭を、右に行ったり左に行ったりしながら走った。セイモアは、彼らから少し離れたところを、ルプス(狼)流に静かに駆けた。尾を水平に伸ばし、自分の前足の踏んだところを後ろ足で踏む、滑るような走り方だ。――疲れを知らぬその姿は、風の神霊を思わせた。

 一行は、キィーダ(皮舟)で下った河の岸辺を、さかのぼった。

 エクレイタの《道》は消え、雪に覆われた森にかわった。木々の枝や倒木が行く手を阻み、凍った根が馬の蹄を滑らせる。上流に近づくにつれ、雪は深く、寒さはいっそう厳しくなり、進む速度は落ちていった。

 四日目の夕方。ついに、彼らは足を止め、馬から降りた。

 流石に、疲労がひどい。杖にもたれて呼吸を整えるマシゥの隣で、ビーヴァは、連れの男とともに、乗ってきた馬の脚を心配していた。

 ソーィエとセイモアは、まだまだ元気だ。二匹は腰を下ろし、前脚についた雪を舐めとりながら、男たちを眺めた。

 ビーヴァは、モミの大木に挨拶をすると、樹皮を剥がして敷き、彼らの居場所をつくった。乾いた苔と石を使って、火をおこす。煮炊き用の皮袋に雪を詰めて融かし、フウロソウのお茶を淹れる。青年の手際を、彼を知らない二人の男たちは、感心して眺めた。

 食糧が乏しくなっていた。ビーヴァは、ソーィエとセイモアを連れてぶらりと森へ入り、すぐに、二羽の大きなカマバネライチョウを獲って来た。矢は使わなかった。ベニマツの枝に革ひもを輪にして結び、ただ鳥の首にひっかけて来たのだ。

 驚くマシゥに、ビーヴァは、

「上流の川が凍ったから、下りて来たんだ。この鳥は、ちょっと変わっている」

 と、説明した。

 その夜、彼らは、新鮮なライチョウの肉に舌鼓をうった。

 言葉が解らないので直接会話は出来なかったが、騎者の男たちも、ビーヴァを気に入っていた。マシゥは、青年が好かれるのは、自分のことのように嬉しかった。

「マシゥどの」

 食事を終え、寝支度を整えていると、騎者の一人が、心配そうに声をかけてきた。

「何だ?」

「その……使者どの(ビーヴァのこと)は、具合が悪そうだ。このまま、先へ行ってよろしいか?」

「え?」

 マシゥは、瞬きをして、ビーヴァを振り向いた。青年は、もう一人の男と一緒に、馬たちの身体を点検している。

 マシゥは、内心で首を傾げた。

 言われてみれば、ここ数日のビーヴァは、いつもより無口だ。だがそれは、故郷の人々を案じているのと、慣れない乗馬で緊張しているせいだと思っていた。ほかに、変わったところはない……狩りもしていたし、食欲もある。

 一緒に乗馬していた男には、何か、気づくことがあったのだろうか?

 マシゥが考えていると、ビーヴァたちが戻ってきた。

「ビーヴァ、きみ――」

「マシゥ。馬たちを、帰らせた方がいい」

 マシゥは話しかけたが、珍しく、ビーヴァに遮られた。青年は眉を曇らせ、かたい口調で言った。

「ひとりは、右前の蹄に石が刺さっている。ひとりは、後ろ脚だ。こっちのひと(馬)は、すねが腫れて、熱がある。……彼らの蹄は、ユゥク(大型の鹿)と違い、森を走るのには向いていない」

 一頭一頭を示して、説明する。マシゥが呆気にとられていると、騎者の男が口添えした。

「使者どのの話では、あと一日進めば、湖の南へ着くそうです。それ以上は、馬では無理かと……。そこまで、送らせて下さい」

「ロマナ(湖)まで、彼らを連れて行くのは無理だ。マシゥ。俺が、滑り板(ミニ・スキー)を作る。歩いて行こう」

「承知した」

 マシゥは頷いた。『気のせいだよな……』と、思う。

 一瞬、ビーヴァの顔色が悪く見えたのは、焚き火のせいだろう。彼は、大丈夫だ。――マシゥは、自分に言い聞かせた。


「マシゥ」

 夜半、滑り板を作りながら、ビーヴァが小声で話しかけてきた。マシゥは、重くなっていたまぶたをこじ開けた。

 騎者の男たちは毛織の外套にくるまり、とうに眠っている。マシゥの傍にはソーィエがいて、背中をあたためてくれていた。

 セイモアは、ビーヴァの横に寝そべり、蒼い瞳をきらめかせて馬たちを見張っている。

 マシゥは、欠伸を噛みころした。

「なんだい? ビーヴァ」

「エクレイタの王は……友と呼んでいた。貴方のことを」

「ああ」

 マシゥは苦笑した。ふっと、肩の力を抜く。ビーヴァは、簡単な単語なら、エクレイタ語が解るようになっていた。

「私の父は、先代の王の近習だった。だから、私とあの御方は、幼馴染だ。子どもの頃、よく一緒に遊んだ……。畏れ多いことだが、今も私を、そう呼んでくださる」

「…………」

「ひととなりは、よく存じあげている」

 ビーヴァに申し訳ないと思いながら、マシゥは囁いた。

「悪気のない方なのだ……。よくも悪くも大らかで、楽観的でいらっしゃる。開拓団のことも、他意はなく、単に知らなかったのだろう。本当に、こんなことになるとは思っておられなかったのだ」

 完成した滑り板を傍らに置き、ビーヴァは、膝の上で腕を組んだ。揺れるほのおを見詰め、呟く。

「……ムサ(人間)なんだな、と思って」

「ええ?」

 マシゥは哂った。

「もちろん、人間だよ。レイム神が人間の女と子をなした、その子孫だといわれているが……。王は、人であらせられる。迷いもすれば、間違えることもある。だからこそ、私たちの話を、聴いて下さる……」

 ビーヴァの相槌はなかった。

 マシゥが見ると、青年はすでに眠っていた。疲労の濃くにじむ寝顔を見詰めるうちに、マシゥも眠り込んでいた。


          **


 翌朝は、よく晴れた。自分のチュームから出て青空を見上げたキシムは、溜息をついた。

 これで、戦わない理由はなくなった。エビたちは、再びニチニキ邑を攻めるだろう――と。

 はしゃぐスレインを放って、膝まで積もった雪を踏み固めていると、ユゥク(大型の鹿)の啼き声が聞こえた。雪が凍って自力で餌を掘り出せないのかと、振り向いたキシムは、

「よお、キシム。いい朝だな」

 のほほんとした声に、一瞬、耳を疑った。

「カムロ!」

「エビたちも、いるのか。どうやら、間に合ったな」

 シャナ氏族長(カムロ)は、ちょうど到着したばかりだった。ユゥクの背に乗り、疲れた顔を角の間からのぞかせる。三人の仲間を従えていたが、彼らも、ユゥクから降りてはいなかった。

 キシムに声をかけながら、カムロの目は、離れたところに佇むワイール氏族長とトゥークと、エビたちを見つけていた。

 キシムは息を吐いた。自分でも思いがけないほど、安堵していた。

「来てくれたのか、本当に」

「迎えに来るって、言っただろう」

 ユゥクから降りながら、カムロは、やや憮然と応えた。こちらに気づいたワイール氏族長に、片手を挙げて挨拶する。

「シラカバの兄弟! もう、ハヴァイ(山)を降りて来られたのか」

「ハァヴル・テティ(西風の神)の援けをいただいたので……。ワタリガラスの兄上、戦況は、いかがか?」

 キシムはスレインを連れ、カムロは、三人の従者とユゥクの手綱を引いて近づいた。エビは、仮面をくびの後ろに掛けて顔を出し、会釈をした。カムロは、エビのやつれた様子に眉を曇らせたが、何も言わず頷き返した。

 ワイール氏族長は、片手を自分の腰にあて、苦笑いをみせた。

「攻めども破れず、といったところだ。壁の前で、うろうろしているよ。それで、次の策を考えていた」

 そう言って、トゥークに顎をしゃくる。無表情に彼らの会話を聴いていたトゥークは、足元の雪に視線を落とし、喋り始めた。

「ここが、俺たちのいる場所だ。壁は、こういう風に、邑の周りを囲んでいる。南にも門があって……。見張りがいるのは、ここと……ここだ」

 トゥークは、トウヒの枝を使い、凍った雪にニチニキ邑の図を描いていた。門と塀、やぐらの位置を、指し示す。

『エビがよく聴く気になったな』と、キシムは思った。後で聞いたところでは、ワイール氏族長がトゥークに説明を求め、エビたちは傍らでそれを聞く、という形らしい。

 エビたち――だった。いつの間にか、マグとサン(アロゥ族の男たち)、ワンダ(ロコンタ族の男)やホゥク(シャナ族の男)もやって来て、仮面を外して聴いていた。

 トゥークは、敢えて彼らを見ず、淡々と説明する。

「広場の周りに、家がある。道の両側に、畑がある。今の時期は、何も生えていない……。こっちが、《女の庭》だ」

「《女の庭》?」

 聞きなれない名称に、ワイール氏族長は首を傾げた。

「何だ? それは」

「女たちが暮らす場所だ。コルデが作った」

 トゥークは、顔をあげて答えた。こわばった頬に、かすかに苦い感情がよぎる。

「もともと、エクレイタ族は、女を多く連れて来てはいなかった。寒さで死んで、さらに減った。それで……男たちの間で、奪い合いが起きたらしい」

 キシムは、眉間に皺を刻んだ。野蛮な話だ、と思う。

 ワイール氏族長も、顔をしかめた。

「殺し合いを防ぐために、コルデは、男と女の棲む場所を区切ったんだ。間に塀があって、昼間は別れて暮らしている。夜や、特別な時だけ、一緒に棲む」

「よく解らぬが……女たちは、そこにいるわけだな?」

 ワイール氏族長が、確認する。トゥークは肯いた。

 地底から響くようなエビの声が、割って入った。

「お前の言うことが事実だと、どうやって証明する?」

 トゥークは、ぴくりと頬を引き攣らせたが、応えず、エビを見ようともしなかった。眼を伏せる。

 キシムは、少年を庇って口をひらくべきか否か、迷った。


「私が、知っているわ」

 澄んだ声が響き、男たちは、一斉に頭を下げた。その視界に、小さな皮靴が入ってくる。重さがない者のように、ふわりと雪を踏んで近づき、スレインの頭を撫でる。

 ラナは繰り返した。

「私なら解るわ、エビ……。トゥークは、嘘をついていない。ニチニキの中は、こうよ」

 エビはふんと鼻を鳴らし、口髭をこすった。足元の図を確認する。

 マグ(アロゥ族の男)が、トゥークを睨み、訊ねた。

「コルデの居場所は、どこだ?」

「コルデは、もういない」

 トゥークは、ぼそりと答えた。

「俺が、殺した」

「…………!」

 男たちは、キシムも、今度は度肝どぎもを抜かれた。眼をむき、息を呑む。あるいは、口を開いたものの、咄嗟に言葉が見つからない。

「お前――」

 ワイール氏族長が、呆れ声で言った。

「――そんな大事なことを、何故言わなかった?」

「訊かれなかったからだ」

『ああ、そうだ』 キシムは、溜息をついた。

 これまで、誰も、トゥークの話を聴こうとしなかったのだ。自分も。ワイール氏族長が、話しかけるまでは……。

「……何故だ?」

 また、エビが訊ねた。射るように少年を見据えている。

「何故、殺した?」

「……ディールと、親父の仇だからだ」

 一瞬、少年の視線が揺れ、声にくらい感情が含まれた。しかし、すぐに元の無表情に戻る。

 ラナが、足元の図を見詰め、囁いた。

「本当よ……。トゥークは、コルデを殺して、私を救けてくれた……」

「もうひとつ、教えろ」

 エビは、胸の前で腕を組み、重心を左脚に移した。トゥークは、ちらりと眼だけで彼を見た。

「ルシカが言っていた病とは、何だ?」

「やまい?」

 トゥークは、今度は顔をあげてエビを見た。思い当たらない。

 エビは、少年の動きひとつひとつを見逃さない、狩人の目で彼を見ていた。

「ハルキを殺した、エクレイタ族の病だ。奴らにとっては何でもないが、俺たちには、命取りになるという」

「…………?」

 トゥークは、眉根を寄せ、首を一方へ傾けた。本当に、心当たりがない。言葉にして応じる。

「知らない……。病なら、奴らは、しょっちゅうかかっている。ルシカが死にかけて救けられたのは、ニチニキで暮らす前のことだ」

 軽く唇を尖らせ、拗ねたように顔を背けた。

「俺は、奴らと何年もつき合って来たが、そんな病に罹ったことはない。――俺も、親父も」

「分かった。誰でも、全員が罹るわけではないらしいな」

 エビは結論づけた。塀の中に残った仲間の身を案じているラナに、頷いてみせる。マグと、シャナ族のホゥクとも、相槌を交わした。

「……では。トゥーク」

 ワイール氏族長が、おもむろに口を開いた。顎の先にさがる尖った髭を撫でて、

「我らに、教えてもらおう。お前の入り口は、どこだ?」

 トゥークは、藍色の影を宿した黒い瞳で、長を見た。キシムは、はじめて、少年の目に憎しみ以外のいろを見たと思った。

 トゥークは、トウヒの枝を持った腕を伸ばし、雪に描いたニチニキ邑の壁の三か所に、穴をうがった。

「ここは、下に積んだ石が、動かせる。……ここには、隙間がある。俺がやっと通れるくらいだ。建物の陰になっていて、奴らは気づいていない。……ここは、木が外れるようになっている」

「《女の庭》に最も近いのは、そこだな」

 ワイール氏族長は、眼をすがめた。ラナは、トゥークが自分を連れだした場所のしるしを見下ろした。

 トゥークは頷き、付け加えた。

「奴らが、なおしていなければ……」

「分かった」

 ワイール氏族長は、力強くうなずいた。顔をあげてトゥークを、エビと異形の男たちを、カムロを、キシムを見て、ラナを見る。一人ひとりと視線を合わせ、よくとおる声で言った。

「我らが門を攻撃し、奴らの注意をひこう。その間に、侵入するか? 女たちを救けるために」

「ああ。そうさせてもらう」

 仮面に手をかけ、かぶり直そうとしながら、エビは応じた。

「すぐ行くか? 夜を待つか?」

「日暮れがいい」

 エビと仲間たちは空を仰ぎ、風向きを確かめた。

「暗いと、女たちを逃がすのに困る。……今夜は駄目だ。また、雪が降る。風が吹けば、身動きがとれなくなる」

「分かった。合図をしよう」

「ラナ様」

 エビは、突然、ラナに声をかけた。項垂れて話を聴いていた少女は、はっとした。

 エビは、感情のこもらない硬い口調でつづけた。

「《女の庭》の中の様子を、覚えておられるか? ロキたちの居場所を、知っておきたい」

「ええ。分かるわ……」

 ラナは、殆ど息だけで囁いた。

 カムロが、つまらなそうに片手を挙げた。

「俺は――」

「貴公は駄目だぞ、カムロ」

 ワイール氏族長が、すかさず、苦笑してたしなめた。

「考えてみろ。これ以上、氏族長がナムコ(集落)へ戻れなくなっては、月の兄者(ロコンタ氏族長)は、白髪を通り越して禿げてしまう」

「解りましたよ」

 カムロは、大袈裟に肩をすくめ、ため息交じりに言った。

「俺は、見物します。……もし、兄上(ワイール氏族長)の身に何かあれば、残った者を連れて、ここを離れましょう」

「よろしく頼む」

 冗談めかした会話だったが、男たちがカムロに向ける眼差しは温かかった。彼らは死を厭わないが、敗れたときに、ラナや他の者たちの身を案じていたのだ。

 カムロは、挙げていた手をキシムの肩に置き、キシムは唇を噛んだ。もう、シャム(巫女)に出来ることはない……。


「おい」

 立ち去りかけたエビは、足を止め、トゥークに呼びかけた。雪に描いた図を見下ろしていた少年は、びくりと肩を揺らした。

「お前……俺たちと、一緒に来るか?」

 トゥークは、呼吸を止めてエビを見た。マグと、ワイール族のユイとルーナも、少年を見詰めている。

 コルデの手引きをした、裏切り者。タミラと王と、ディールを死に追いやった元凶……。エビたちは、当初、少年を殺すつもりだった。ニチニキ邑への手引きをもちかけ、もし少年が引き受けるなら、その日和見を理由に殺そうとさえ考えていた。

 だが、今は。少年が、自ら父と兄の骨を拾った(仇を討った)と、知った今は――。

 見張りの目を盗んでニチニキ邑へ侵入し、女たちを救い出す。可能なら、内側から門を開け、外の味方と合流する。――敵地へ入り込むため、生命を落としかねない役目。危険だが、重要な役目だ。

 トゥークは、ゴクリと唾を飲んだ。ユイとルーナから、ワイール氏族長へ視線を移す。長は、無言で彼を見返した。

 カムロを、キシムを、最後にラナを見遣り、再びエビを見ると、少年はひとつ頷いた。






 作者 注)カマバネライチョウ(鎌羽雷鳥);アイヌ名「ニヨルン」 北海道~南シベリアに生息するライチョウの一種。体長36cm、羽の先端が鎌状に細くなっているためにこの名があります。和名に「バカヤマドリ」とあり、本当に、銃や弓矢なしで簡単に捕まえることができるそうです。他に、オオライチョウ、エゾライチョウ、クロライチョウなどが分布しています。

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