第五章 帰還(2)



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「おい、お前」

 近習の一人が、ぼんやりと立ちつくすビーヴァに声をかけた。ソーィエとセイモアが、身をかたくする。

 ビーヴァは、自分が声をかけられているとは解らなかった。男は、やや苛々と腕を伸ばした。

「お前だ。何をしている――」

「触るな!」

 グウゥーッ! とソーィエが唸るのと、マシゥの声が同時だった。男は、ビーヴァも、驚いて彼を見た。

 マシゥは、男を鋭く睨みつける。

「彼は、レイム(太陽神)の信徒ではなく、王の民ではない。大切な客人だ。触れてはならない」

「…………」

 それで、男は毒気を抜かれて腕を下ろした。ソーィエが、むきだしていた牙を収める。

 ビーヴァは、マシゥに感謝した。ソーィエは威嚇だが……声を出さず、警告を発しないルプス(狼)が攻撃をしかければ、男の命はなかった。

 若狼は、ビーヴァの背後に立っている。きわめて静かに。警戒していることは明らかだ。ビーヴァやマシゥ、ソーィエに危険が及ぶことがあれば、《彼》は、遠慮なく襲いかかるだろう……。

「久しぶりだな、マシゥ。我が友よ」

 彼らの緊張に動じることなく、掛け布の向こうから、落ち着いた声がした。なめらかに響く男の声は、想像していたより若いものだったので、ビーヴァは、かるく眼をみひらいた。

 改めて平伏するマシゥに、声は、穏やかに続けた。

「無事でなにより、と言いたいところだが……怪我をしたのか。その腕は、どうしたことだ」

「我が君。光の御子よ」

 マシゥは顔を上げたが、両膝は床につけたままだった。ビーヴァに、『大丈夫だ』と頷いて見せる。

「まずは、使命の半ばで帰参しましたこと、お詫び申し上げます。急ぎ、お報せしたいことがあり、戻って参りました」

 王の返事は聞こえなかったが、正面の人影は頷いた。マシゥの左手に立つ近習の男が、促した。

「申してみよ」

「はい。実は――」

 マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。効果をもたせるために間を置き、切りだした。

「コルデが、裏切りました」



 マシゥは、順を追って、これまでの経緯を語った。

 開拓団がロマナ湖畔に造ったニチニキ邑と、テサウ砦の様子。犬使いの父子に出会い、森の民の言葉を教えてもらったこと。ビーヴァとエビの《しるし》を得て、アロゥ族の集落を訪ねたこと。

 偉大なる森の王との出会い。ビーヴァたちの信仰と暮らし方についても、マシゥは語った。パンサ(麦の一種)に頼らずに森の恵みを得て生きる、人々の在り方を――。

 森の王は友好を望み、マシゥは、他の氏族へそれを伝えるために旅立った。

 ところが、コルデたちが、全てを台無しにしてしまった。

 エクレイタ王の命に背き、マシゥを無視して……。コルデたちは、アロゥ族の集落を襲った。王の娘をはじめとする若い女たち、幼い子どもたちを攫い、人質とした。ビーヴァの母は、この時に殺されてしまった。

 コルデたちの目的は、彼らのぎょくと食糧と、森に棲む水鼠すいその毛皮だった。それと、美しい女たち――。

 話し合いで事態を解決しようとした森の民の王(ラナの父)を、コルデは殺してしまった。生きながら首級を斬りおとす残忍な仕打ちを話すとき、マシゥの声は憤怒にふるえた。コルデは、ディールと罪なき子どもたちを殺害し、マシゥまで殺そうとしたのだ。

 マシゥは、傷ついた左腕を右手でつかみ、唇を噛んだ。

 九死に一生を得たマシゥを救ってくれたのは、ビーヴァだった。森の人々は、どこまでも彼に親切だった。最後まで復讐をためらっていた彼らに、マシゥは畏怖すら覚えていた。

 ……話の途中で、エクレイタ王は、マシゥの身体を気遣い、椅子を勧めた。ビーヴァにも、坐るよう促した。しかし、マシゥは跪いたままだったので、ビーヴァも立ち続けた。

 マシゥは、話し終えると、再度平伏した。額を床にこすりつけ、両腕を前方に投げだし、こいねがう。

「王よ。どうか、お願いです」

 啼くように声がふるえるのを、おしころす。

「このままでは、森の民は、コルデによって滅ぼされてしまいます。復讐は復讐を呼び、終わりのない戦いとなるでしょう。それは、レイム(太陽神)の御意思ではないはずです」

「…………」

「顧みれば、開拓団の境遇は悲惨です。極寒のかの地では、パンサはうまく育たず、飢えた彼らは仲間を喪い、絶望していました。その恨みが、無辜むこの子どもたちへ向かったのです」

「…………」

「どうか、開拓の人々に慈悲を、コルデに罰を与えたまえ……。森の民をお救い下さい。彼らの王と子どもたちを殺害したことを謝罪し、和睦するのです。どうか、王自ら、《レイムの道(太陽神の慈悲と正義)》をお示しください」

「…………」

 エクレイタ王は、沈黙していた。

 マシゥは、伏せた姿勢で王の返答を待ったが、それはなかなか与えられなかった。掛け布の向こうで、人影がわずかに動くのが、ビーヴァには見えた。戸惑っているらしい。

 ビーヴァは、言葉は解らなかったが、何か問題が生じていると感じた。

 やがて、王の合図を受けた近習が、口を開いた。

「マシゥ」

 マシゥは、ゆっくり面をあげた。その頬はこわばっている。

 男は、困惑のこもった口調で告げた。

「マシゥ。……コルデは、殺されたのだ」

「…………!」

「つい、三日前だ」

 マシゥは、眼をみひらき、身を起こした。灰色の瞳に狂おしい光が宿る。

 彼を気の毒に思った近習は、諭すように続けた。

「三日前、ニチニキ邑から、使者が参った。その者たちによると、コルデは既に殺され、邑は森の民によって包囲されているということだった。……既に、開拓民が数名、殺害されている」

「マシゥ」

 ビーヴァは、尋常ではない気配を察し、囁きかけた。

「マシゥ。何があった? なんて言っているんだ? ……頼む。教えてくれ」

「……コルデが殺されたんだ。ビーヴァ」

 ビーヴァも息を呑んだ。思わず、掛け布の向こうを顧みる。

 マシゥの声は、どうしようもなく震えた。

「戦いが、始まってしまった。森の民が、ニチニキを包囲していると――」

「それで、」

 二人の会話が途切れるのを待って、近習は続けた。

「ニチニキの民は、救けを求めてきたのだ。食糧と、馬と、武器と兵を寄越してほしい、と。異民族をたおし、生き延びるために」

「何と応じられたのですか?」

 マシゥは、跪いたまま、身体を前方へのりだした。片方の膝をすすめ、右手を着く。

「王よ。彼らのげんを、信用なさったのですか」

「……森の民が、パンサを奪いに来たと言ったのだ」

「虚言です!」

 補足した近習に、マシゥは叫びかえした。腕をひろげ、ビーヴァを示す。

「彼らは、祖父のまた祖父の代から、あの森で暮らしてきたのです。このビーヴァは、昨夜、生まれて初めてパンサを食べた。パンサがなくとも、彼らは生きて行ける!」

「控えよ、マシゥ」

「マシゥよ」

 王が声をかけてきた。やわらかな声は、幼子に言い聞かせるかのごとく響いた。

「……私は、エクレイタの王だ。エクレイタの民を守るのが、私のつとめだ」

「非は我らにあるのですぞ!」

 マシゥの声は、血を吐くようだった。なだめる近習の手をふり払い、唾を散らした。

「王よ。私は、貴方の使者です。私の言と奴らの言の、どちらを信用なさるのですか? コルデの罪は明白です。奴など、殺されて当然だったのです!」

「マシゥ、落ち着け」

「数において圧倒的に勝る我らが、兵を率いて攻撃すれば、彼らは本当に滅びてしまう! レイムが、そのようなことを、許されるとお思いか!」

 右手の拳で床を叩き、マシゥは訴えた。血のにじむほど唇を噛み、項垂れる。

 王は黙っていた。マシゥのふるまいは無礼と言えるものだったが、咎める声はなかった。

 別の近習の男が、彼の傍らにしゃがみ、静かに説明した。

「王は、できるだけ早急に、食糧と兵を送ることを約束なさったのだ。準備をしていたところだ」

「…………」

「ニチニキの使者は、こう言っていた。我々が間に合わない場合は……森を焼きはらうことも、仕方がない、と」

「焼く?」

 マシゥは、呆然と呟いた。近習は、同情をこめて頷いた。

 ビーヴァは、息を呑んだ。この単純な単語は、彼にも理解できたのだ。――『焼く』だって?

(なにをだ……?)


 沈黙が部屋を支配した。

 吹き込んだ風が、掛け布と光を揺らし、さわさわと葉擦れのような音をたてた。光を反射して輝く床を見下ろしたビーヴァは、マシゥの膝の下に、何か絵が描かれていることに気づいた。色はなく、石の表面の磨き具合と凹凸の差で、浮かびがる。

 それは、紋章だった。ときどき、マシゥが胸の前で描いていたことを想い出す。光の神のしるしだ。

「マシゥ」

 やがて、王が声をかけてきた。項垂れていたマシゥは視線をあげたが、王を見てはいなかった。

 王の口調は相変わらず穏やかだが、声に、少し傷ついた響きが含まれているのを、ビーヴァは聴き取った。

「友よ……。私はなんじに、王のことばを預けて向かわせたのだ。その汝の言を、信用しないということが、あろうか」

「……申し訳ありません」

 マシゥは、かすれた声で応えた。

 掛け布のむこうで椅子に座っていた人影が、立ち上がった。布をかき分け、段差を降りてやってくる。近習たちは、一斉に片方の膝をつき、右手を胸にあててこうべを垂れた。マシゥは顔を上げていない。

 近づいてくる王を、ビーヴァと二匹の牙の兄弟だけが、立って迎えた。

 王は、マシゥと同年代の男だった。背格好も、マシゥに似ている。テリーより褐色がかったヤマブキ色の髪と、ゆたかな髭が目を惹いた。深い碧の瞳で、ビーヴァを見る。

 王が青年を眺めるように、ビーヴァも、王の全身を眺めた。襟元にのぞく下衣の色は、藍だ。白い毛織の長衣を重ね、裾には金糸と銀糸で細かな刺繍が刺してある。太陽とパンサ――図式化された植物とレイム神の模様だと、ビーヴァにも理解できた。

 物腰は、優雅と言えた。紺碧の瞳には智慧が宿り、口元は微笑んでいるように見える。髪と髭には、白髪が交じっていた。

『マシゥと同じだ』と、ビーヴァは思った。神の子、光の御子と呼ばれるが、エクレイタ族の王は、人間だ……。

 王は、しばらくビーヴァを見詰めると、ソーィエとセイモアに視線を移した。フッと微笑む。瞳が、寂しげに翳った。

容姿すがたが異なり、言葉も、仰ぐ神も異なる。とはいえ――」

 王は、ビーヴァに話しかけた。言葉は解らなかったが、口調は、歌うように優しかった。

「――ふたりの《王》が、互いに手を結ぼうとしたものを。ならず者に邪魔をされたとは、口惜しいな」

「…………」

「マシゥ」

 ビーヴァから視線を外さずに、王は、マシゥに呼びかけた。マシゥは、顔を伏せたまま応じた。

「はい」

「どうすればよいと思う? 友よ」

「いま一度、使者をお送りください」

 石畳の床に向かって、マシゥは、吼えるように言った。王が、彼を顧みる。

「ニチニキ邑へ……開拓の民を、見捨てることはしないと。同時に、森の民とのいくさは、これを禁じるとお命じ下さい。森の民へは――」

 マシゥは、耐えきれずに泣き出した。嗚咽を呑み、歯を食いしばり、ふるえる声で訴える。

「――謝罪を。どうか……王の名で。彼らの安全を、お約束ください。我々が、共に生きてゆくために」

 王は、マシゥの前に片方の膝をつき、かがみこんだ。彼の傷ついていない側の肩に、手を置いた。

「……行ってくれるか?」

 マシゥは顔を上げた。泣き腫らした眼で王を見据え、力をこめて頷いた。

「御意!」


          *


「どういうことなの? マシゥ。あなた、帰ったばかりなのに、また行くなんて」

 王宮から戻るなり荷造りを始めた夫を手伝いながら、テリーは不安を隠せなかった。

 ビーヴァは、彼女に繕ってもらった衣に着替え、外套を羽織った。青年の頬はこわばり、雪よりも白くなっている。

 表では、彼らを送るようにという王の命令を受けた二人の男たちが、四頭の馬を連れて待っている。

 ――マシゥは、王との話し合いの内容を、ビーヴァに説明した。彼らより一足先に、ニチニキ邑から使者が来ていたこと。コルデが殺され、邑は森の民によって包囲され、窮した開拓民は、王に救援を求めたこと。食糧と、兵と武器と馬を要求し、森の民と戦うつもりであること。

 救援が間に合わない場合、彼らは森を焼きはらうつもりだと語ると、ビーヴァは、さあっ……と蒼ざめた。

 エクレイタ王は、マシゥの言葉を信じてくれた。開拓民と森の民、双方を救うと約束してくれた。――それを伝えるために、マシゥは再び、使者として行かなければならなかった。

「すまない、テリー。みなの生命いのちが、かかっているんだ」

 テリーの手をとり、マシゥは告げた。それで、彼女は何も言えなくなってしまった。

 ビーヴァと同じ森の民の装束に身を包み、毛皮の外套を羽織りながら、マシゥは奥歯を噛みしめた。

『生命……まったく、その通りだ』

 森を焼きはらう、とは。なんと恐ろしいことを考えるのだろう。

 今では、マシゥにも、森に棲むのは人だけではないと解っている。木や草花、昆虫たち、ハッタ(梟)やユゥク(大型の鹿)やキツネ、リスにアンバ(虎)にルプス(狼)にゴーナ(熊)……全ての生き物が、生きる場所をうしなってしまう。それは、ニチニキ邑に暮らす者たちも同様で、森の民を退けても、かの地で暮らすことは出来なくなるはずだった。

 ビーヴァは、すっかり血の気を失っている。マシゥの支度を待つ彼のもとに、ジルが近づいた。首をかしげ、彼の顔を覗き込む。

「びーば……行っちゃうの? そうえ、せいもあ、も?」

「…………」

 寂しげな幼子を見て、ビーヴァは表情を和らげた。腰を下ろすと、ジルは彼にしがみついてきた。ビーヴァに頭をなでてもらい、ソーィエに手を伸ばす。

「元気でね、そうえ。また来てね」

 ソーィエは、神妙に耳を下げ、くうぅん、と鼻を鳴らした。

 マシゥが声をかけてきた。

「行こう! ビーヴァ」

「待って、ふたりとも」

 慌ただしく出て行こうとする二人に、テリーは駆け寄り、焼しめたパンサの団子(ナン)の包みを手渡した。腕をひろげ、ビーヴァを抱きしめる。女性とそんな挨拶をする習慣のないビーヴァは、呼吸を止めた。

 テリーは、小さな子どもにするように、青年の額を撫でた。

「気をつけて……。レイム(太陽神)が、貴方の道を照らしますように」

「テリー……アリガトウ」

 ビーヴァが片言のエクレイタ語で礼を言うと、テリーは身を離し、微笑んだ。眼尻にうかんだ涙を指先でぬぐいとる仕草を見ると、ビーヴァは切なくなった。

 おそらく……まず間違いなく、二度と、テリーとジルに逢うことはない。そう承知しているだけに、二人の好意が身に沁みた。ビーヴァは、かすかに、テリーに母の面影を重ねていたのだ。

 マシゥは、改めてテリーとジルを一緒に抱きしめると、身をひるがえした。青年を呼ぶ。

「ビーヴァ!」

 ビーヴァは、母子に一礼して別れを告げた。

「雪があまり深いところへは、馬では行けませんぞ。ニチニキ邑まで、辿り着けるかどうか」

 危惧する騎者に、マシゥは毅然と応えた。

「構わない。行けるところまで、送ってくれ。そこから先は、自力で行く」

 騎者は、怪我のために独りでは乗れないマシゥを、馬の背に押し上げた。ビーヴァも、もう一人の男の後ろに乗せてもらう。残り二頭は、替え馬だ。

 ソーィエとセイモアは、彼らの足元を駆けていく。二匹は、期待に満ちた瞳でビーヴァを見上げ、尾を振った。

 テリーとジルが見送る前で、彼らは、一斉に駆けだした。


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