第五章 帰還

第五章 帰還(1)


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 冬の朝日は白く、窓から凛とした光を投げかけてくる。その光に感謝を捧げ、マシゥは着替えた。裾長の麻の衣に碧色の毛織の外衣をかさねる、エクレイタの正装だ。灰色の髪を梳き、水瓶の水面に顔を映して髭をととのえていると、居間から、叫び声が聞こえた。

「わあっ、マシゥ!」

「駄目よ、ビーヴァ。じっとして!」

「びーば、待って!」

 ジルの笑い声までする。妻子が青年に何を仕掛けたのかと、マシゥはぎょっとして部屋を出た。

「……ビーヴァ?」

「あ、マシゥ。彼に、説明してちょうだい」

 ビーヴァは、テリーと食卓を挟んで対峙していた。外套を脱ぎ、うすい魚皮の衣を身に着けている。解けかかった長髪が肩にかかり、眼を大きくみひらいているさまは、追い詰められたウサギのようだ。

 ソーィエとセイモアは、とっくに卓の下に逃げ込んでいた。

 卓上には、湯気ののぼる手桶が置かれ、テリーの手には、お湯にぬらした布が握られている。マシゥは、だいたいの事情を察し、苦笑した。

 テリーは、客人をもてなす為に、湯を用意した。洗顔や髪を梳くためだが、ビーヴァには、理解できなかったのだろう。それで、彼女は青年を手伝おうとして、怯えさせてしまったらしい。

 マシゥは、片手で顔を覆った。思い出す限り、森の民に、お湯で身を清める習慣はない。ビーヴァは、料理や繕い物を含め、身のまわりのことは全て自分でこなす。女性に――それも人妻に、こんな風に迫られたことはないだろう。

 こみ上げる笑いを噛み殺し、マシゥは妻をなだめた。

「テリー。ビーヴァのことは、そっとしておいてくれないか」

「だって、王にお目にかかるのなら、髭くらい剃らないと……。それに、服も、替えた方がいいんじゃない。あなたの服を、貸してさしあげたら」

「…………」

 ビーヴァは、不安げに、マシゥとテリーを見比べている。マシゥは、困って自分の顎に手を当てた。

 実のところ、マシゥは、ビーヴァの格好については、全く気にしていなかった。彼は、森の民だ。王に拝謁するからと言って、装束を替える必要などないと考えていた。しかし、改めて女性に指摘されると、心配になった。

 半月の間、彼らは旅を続けてきた。当然、着替えなどしていない。マシゥは身を清めたが、ビーヴァはそのままだ。本来うつくしい黒髪はほつれ、べんは解けかかっている。顎には無精髭が生えていた。魚皮製の上着は、ところどころ縫い目が綻び、土やユゥク(大型の鹿)の血で汚れている。下履きや脚絆きゃはんも、草臥れていた。

 王に対し礼を失するとは、思わない――マシゥとて、旅装束のまま、彼らの王に会ったのだ。だが、ビーヴァが小汚い男だと思われるのは、マシゥにとって残念だった。

 彼は頷き、青年を呼んだ。

「ビーヴァ。テリーは、王に会うのなら、着替えた方がよいと言っている。……私の服を貸そう。着てみるかい?」

「着替え?」

 ビーヴァは、小声で繰り返した。未だ怯えた顔でテリーを見ていたが、それなら話が分かるという風に、うなずいた。ほかほか湯気の立っている布を大袈裟に迂回して、マシゥの許へやってくる。

 テリーは肩をすくめた。マシゥは、彼女に片目を閉じてみせ、ビーヴァを部屋に招き入れた。


 男たちが身支度をしている間に、テリーは食事の準備をした。今朝は、キノコと芋と青菜を煮た汁だ。もちろん、パンサを焼いた団子もある。

 ジルは、卓の下で、ソーィエとセイモアと遊んでいる。二匹は、幼児に危害を加えられるわけではないと理解して、おとなしかった。テリーは気をつけていたが、ジルに抱きつかれても、頭や背中を撫でられても、二匹が嫌がる様子はなかった。

 やがて、マシゥが、ビーヴァを連れて戻って来た。セイモアが立ち上がり、尾を振って迎える。

「どうだ? テリー」

 得意げに、青年を立たせる。ビーヴァは、刺青のある側の頬を彼女に向け、眼を伏せた。

 テリーは、頭の上から足の先まで、しげしげと彼を眺めた。

 ビーヴァは、自分で身を清め、髪を梳き、辮を編み直した。マシゥは、彼の黒髪と額帯ひたいおびの色に合わせて、紺の長衣をみつくろっていた。浅黄色の下衣のうえに重ね、緋色の帯を締める。すべて、マシゥが若いころに着ていたものだ。はきものは替えていなかった。チコ(皮靴)とは違い底が木製のくつを、ビーヴァは嫌がったのだ。シャマン(覡)の杖と長刀は、そのまま帯に挿していた。

 無精ひげがなくなると、ビーヴァは、さらに若く見えた。額帯と頬の紋様が、鮮やかだ。

「まあ。素敵ね」

 テリーが微笑んで言うと、マシゥは、ビーヴァも、すくなからずほっとした。

 テリーは、密かにときめいて思った。『これは、若い娘が、放っておかないでしょうね……』

 異民族であっても、青年の凛々しさは解る。無駄のない引き締まった体躯と、澄んだ夜空の瞳、控えめで優しい雰囲気は、好感がもてた。テリーは、弟ができたような気分で、嬉しくなった。

「二人とも、食事にしましょう。ビーヴァ、あとで、貴方の服を貸してちょうだい。出掛けている間に、つくろっておくわ」

 マシゥは、席につくよう青年を促した。テリーの言葉を訳して伝えると、ビーヴァは、恐縮して頭を下げた。テリーは微笑み、彼の前に料理を置いた。

 ジルが、卓の下からはい出して、青年の膝にのぼってくる。すっかり懐いた幼子を、ビーヴァはひょいと抱きあげた。


          *


 太陽が昇ると、空気は暖められ、明け方の刺すような寒さはやわらいだ。マシゥとビーヴァは食事を終え、家を出た。もちろん、ソーィエとセイモアも一緒だ。

 テリーは、ジルを抱いて彼らを見送った。ジルの手には、ビーヴァにもらったルプス(狼)の玩具が握られていた。

 マシゥは、鶏の鳴く庭を出ると、杖をついて歩きだした。ビーヴァは、ソーィエとセイモアを連れ、彼のあとをついて行く。

 マシゥの家は、王の住む建物を囲む石造りの塀の内側にあった。広大な『外庭』の一隅に、王宮で働く人々の家が、集まっているのだ。同じ形の建物に同じつくりの庭があり、鳥や犬が飼われている。ビーヴァは、面白いと思った。

 地面には、霜柱が降りている。彼らは、シャリシャリ音をたてる氷を踏んで、王宮へ向かった。

 エクレイタ族の着物は軽く暖かいが、ビーヴァには、わきや腰の周りがすうすうして心許なかった。気にしないよう努め、マシゥの肩に話しかける。

「マシゥ。訊ねてもいいか?」

「なんだい?」

 彼の方から質問とは、珍しい。マシゥは、歩きながら応えた。

 人々が庭の木戸を開けて、外へ出てくる。木桶を手に共同の井戸へ向かうさまを横目で見ながら、ビーヴァは言った。

「前から気になっていた……。貴方が留守の間、テリーは、どうやって狩りをしていたんだ?」

「…………?」

 マシゥは、瞬きをして、ビーヴァを見た。青年は、いたって真面目だ。

 森の民の常識では、家長たる男が永きにわたり不在の場合、男の兄弟にあたる者が、妻子の面倒をみる。狩りに出た男が命を落として帰れなくなった場合など、弟が、そのまま兄嫁を娶ることもある。――狩猟をしなければ生きて行けない土地で、男の方が生命を落とす場合が多い故の習慣だ。

 マシゥの家には、テリーとジルしかいなかった。彼の留守中、彼女たちを養っていた兄弟のいないことが、ビーヴァには不思議だった。

 マシゥには、何故ビーヴァがそんなことを訊ねるのか解らなかった。

「どうって……。私たちは、狩りをしなくても食べていけるんだよ、ビーヴァ。パンサ(麦の一種)があれば、肉や魚と交換してもらえるからね。……私の留守中、テリーとジルの面倒は、王がみて下さった。王は二人にパンサを与え、二人は、パンサと交換して得たもので暮らして来たんだ」

「…………」

 この返事を聴くと、ビーヴァは考え込んだ。闇色の瞳に、思慮深い光が宿る。

 青年の脳裡に、昨日、街角で見かけた光景がうかんだ。女が、パンサの実を入れた袋を、イノシシ肉と交換していた。毛皮や、薪とも交換できるようだった。『――あれは、そういうことか』

『採れたパンサを王のところに集め、王は、それを使って民に恩恵を施す』と――かつて、マシゥが言っていたことを思い出す。家長の男がいなくても、パンサがあれば、か弱い女性や子どもたちが、狩りの危険を冒さなくてもよい。なら、悪くない仕組みだと思う。

 そんな仕組みをつくったエクレイタ族の王に、興味がわいた。

 一方、マシゥは、王宮の外庭の雰囲気が、以前と違うことに気づいた。

 早朝だというのに、馬を連れた男たちがいる。食糧らしき大きな荷を積んだ牛車もいる。街から来ているらしい。ひとところに集まる彼らの背や荷台には、弓矢と石槍が備えられている。

『王が、狩りでもなさるのだろうか? この季節に……?』

「ビーヴァ、こっちだ」

 奇妙なことだと思いながら、マシゥは、王宮の広い庭を通りぬけ、さらに内側の塀の門を叩いた。


 門の前には、石槍を掲げた男が立っていた。マシゥと同じエクレイタ族の衣装に、革製の胸当てをつけている。ビーヴァと二匹の犬を見て、眼を瞠ったが、マシゥが短く説明すると、頭を下げて扉を開けた。

 門をくぐると、草木のたくさん生えた場所にでた。紅や緑の葉をつけた木々が並び、匂いの強い黄色い花が咲いている。ソーィエとセイモアは、しきりに鼻をひくつかせて匂いを嗅いだ。

 一歩ふみだしたビーヴァは、足底の感覚の違いに気づき、立ち止まった。形と大きさをそろえ綺麗に表面を磨いた石が、一面に埋められていた。こぶし大の紅い実のついた木の枝をくぐり、建物の中へと続いている。

 マシゥは、先へ進んでいく。

 ビーヴァは、足音をさせぬよう気をつけながら、石畳を踏んで行った。ソーィエとセイモアも、ついてくる。

 王の家は、長方形の石造りの建物で、壁は全体が漆喰で白く塗られていた。防壁の上から見えた、夕日に照らされていた大きな建物だと気づく。扉はなく、なかへ入ると、薄暗い通路があった。ここにも磨いた石が敷き詰められ、ところどころに開いた窓から、日差しと花の匂いが入ってくる。

 通路の先に、部屋が見えた。

 マシゥがビーヴァたちを連れて奥へ進むと、そこにいた者は、男も女も、急いで道をあけた。ビーヴァの刺青と、二匹の犬に驚いていることは明白だった。ビーヴァは、やはり自分は来ない方が良かったのではと考えたが、マシゥは小声で、『大丈夫。大丈夫だから、一緒にいてくれ』と繰り返した。

 部屋の入り口にいた男に、マシゥは話しかけた。ここでは、些か長く説明していた。男は、警戒する眼差しをビーヴァたちに当てると、部屋の仕切り布をかき分けて中へ入った。

 マシゥは、ビーヴァの耳に囁いた。

「大丈夫だ、ビーヴァ。王は、会って下さる」

 確信に満ちた口調は、半ばは己に言い聞かせているようだった。

 しばらくの後――

 鼓動を二百ほども数えただろうか。仕切り布を開けて、先ほどの男が姿を現した。彼らに、身振りで入るよう促す。

 マシゥは、ビーヴァに頷いてみせ、部屋に足を踏み入れた。ソーィエとセイモアにも、手招きする。ビーヴァは迷ったが、マシゥが言うのだからと、二匹を連れて行くことにした。

 二匹は、耳をぴんと立てて鼻をのばし、尾を水平にかざす用心深い姿勢のまま、主人の傍らをすり抜けて中へ入った。


 部屋は、広かった。マシゥの家の三倍はあるだろう。壁には、床から天井までとどく細長い窓がいくつも開いていて、ななめに差し込む光が、数条の光の帯を描いている。床には、通路よりも細かい石が敷かれていた。光を反射して、つややかに輝いている。

 明るさに目がれてくると、何枚もの大きな布が掛けられて、空間を仕切っているのが分かった。どのような織り方なのか、透けるほど薄いみどり色の布には、草花の模様が刺繍されている。わずかな空気の流れにも、ゆらゆらと揺れる。その度に、光の帯は複雑な影を床に描き、まるで春のロマナ湖の波のようだと、ビーヴァは思った、

 掛け布の傍らに、男が立っていた。一人、二人……六人の、王の近習だ。刺繍の施された長衣は優雅だが、腰には刀を佩いている。マシゥたちを威圧するように、部屋の両側に並んでいる。

 前方の床は、一段高くなっていた。やはり薄い布が幾重にも掛かっていて、その先は、はっきりとは見えない。窓と灯があり、数人の人影があった。正面の人物は、椅子に座っている。

 マシゥは、部屋の中央へ進み出ると、近習たちの前で、石の床に両膝をついた。杖を横へ置き、右手と、首に吊った左手を前へ伸ばし、平伏する。低い声で、告げた。

「王よ。マシゥ、ただいま戻りました」


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