第四章 波濤の彼方(6)



          6


 重くなった息子を片腕で抱き上げ、部屋に入ったマシゥは、

「あれ?」

 暖炉のまえにおろす際、ジルの首筋に粟粒のような皮疹をみつけ、眉をひそめた。火明かりのなか、消えかかった痕に、眼を凝らす。

「五日くらい前に、かかったんだよ。もう治っている」

「流行しているのか?」

「ええ。この辺りの子どもにね」

 熱と皮疹をともなう流行り病で、エクレイタ族の子どもなら、誰でも一度は罹るものだ。二人にとっては、珍しいものではなかった。

 ビーヴァには夫婦の会話の内容は解らなかったが、マシゥもテリーも穏やかな表情で話していたので、特に気にとめなかった。ソーィエとセイモアを従え、戸口に立つ。

 もがくジルをおろして、マシゥは彼らを促した。

「入ってくれ、ビーヴァ。ソーィエと、セイモアも」

「そうえ!」

 抱くのにちょうどいい大きさのソーィエを、ジルは気に入ったらしく、《彼》が入ると、さっそく駆け寄った。ソーィエは、ほとほと困った顔になったが、諦めて腰をおろした。セイモアは、ビーヴァの背後に隠れ続けている。

 ビーヴァは、荷物を肩に負ったまま、立っていた。土作りの部屋の中を、ぐるりと眺める。中央に置かれた卓(テーブル)と椅子、天井にのぞく梁と、そこに掛けられた野菜や魚、部屋の間を仕切る布などを見ていると、マシゥが、哂いながら声をかけてきた。

「座ってくれ、ビーヴァ。食事にしよう」

 それで、ビーヴァは荷物を置き、椅子に座った。外套も脱いで膝の上にまるめる。テリーが隣の部屋へ行くのを見送り、牙の兄弟たち(ソーィエとセイモア)の様子を確かめ、暖炉に視線を向けた。

 壁の一部をくりぬき、石で囲まれた火の女神の坐所は、森の民の家にはないものだ。『どこから煙を出すんだろう?』と、考えた。

 ジルは、ソーィエの隣にちょこんと座り、嬉しそうに毛をなでている。

「あら、まあ」

 テリーが、料理を入れた器を手に戻ってきた。青年の姿に、眼を瞠る。

 夕闇のなかでうずくまっていた時には恐ろしかったが、外套を脱いだ青年は、むしろ繊細に見えた。意外なほど若い。頬の刺青と、穏やかな黒い瞳が印象的だ。長身を窮屈そうにかがめ、瞼を伏せている。

 マシゥが説明した。

「女性と目を合わせないのが、彼らの礼儀なんだ。気にしないでやってくれ」

「そうなの?」

 小さな誤解が含まれていたが(ビーヴァが目を合わせられないのは、同じ氏族の成年女性だけだ)、言葉が分からないので、彼が訂正することはなかった。

 テリーは、二人の前に器を置いた。幼子に声をかける。

「ジル。あなたも食べなさい」

「や! そうえも一緒じゃなきゃ、いや!」

「わがまま言わないの。困っているでしょう?」

「ビーヴァ。食べてみてくれ」

 テリーが用意したのは、パンサ(麦の一種)の実を粉にしたものを練って焼いた団子(ナン)、牛の乳で野菜とイノシシ肉を煮た汁、焼いた魚、などだった。どれも、マシゥには懐かしいものだ。

 ビーヴァは、パンサの団子と乳の匂いを遠慮気味に嗅いでいたが、マシゥに勧められ、汁をひとさじ口へ運んだ。眼をみひらく。

 マシゥは微笑んだ。

「うまいか?」

「うん……甘い。美味しい」

 マシゥは、団子をちぎって汁にひたす食べ方を教えた。これも、ビーヴァは気に入った。

「うまいって。テリー」

「良かったわ、口に合って。こちらは、大丈夫?」

 テリーは、別の器に、パンサの酒を入れて差し出した。マシゥは喜んだが、一口飲んだビーヴァは、慣れない味に噎せこんだ。マシゥは笑った。ビーヴァも苦笑し、部屋のなかはひとしきり、やわらかな笑声に満ちた。

 ビーヴァは、半分ほど食べ終えると席をたち、ソーィエとセイモアの許へ戻った。荷袋から干したユゥクの肉を取り出して、二匹に与える。ソーィエから離れようとしないジルには、肉のかけらを渡し、食べさせる役を与えた。

 ジルは、新しい友達が自分の手から餌を食べてくれたので、上機嫌だった。赤毛の犬の頭を、何度もなでる。

 その様子を眺めながら、テリーは夫に話しかけた。

「春までは帰って来られないだろうと思っていたのよ」

「急いで王に申し上げなければならないことがあって、戻って来たんだ。明日、王宮に行く」

「何があったの?」

 テリーは、マシゥの怪我に気づいていた。こめかみや顎に残る傷痕にも。マシゥは、すぐには話そうとせず、酒を口へ運んだ。

 ビーヴァは、荷物の中から、小さな革の袋をとりだした。ジルに見せ、卓へと促す。ジルは、碧い瞳をきらきら輝かせて、ついてきた。マシゥの膝の上によじ登る。

 ビーヴァは袋の口をあけ、卓の上に、白い骨製のおもちゃを並べた。マモント(マンモス)の牙を削って作ったものだ。

「ユゥク……ゴーナ(熊)。ルプス(狼)、マモント……」

 ひとつひとつ動物の名を唱えながら、並べていく。ジルは歓声をあげ、とびついた。

「まあ、ありがとう。よかったわね、ジル」

「いつの間に作ったんだ?」

 マシゥは、半分呆れたが、涙が出そうなほど嬉しくもあった。幼い息子がいると、ビーヴァが覚えていてくれたことに、感動する。

 ビーヴァは、照れくさそうに微笑み、食事に戻った。

 早速おもちゃを使って遊び始める我が子の手元を眺めながら、マシゥは、低くつぶやいた。

「……殺されかけたんだ。コルデに」

 テリーは、ジルの食事を用意しながら、息を呑んだ。

 マシゥは、うなずいた。

「我がエクレイタの開拓団に、殺されかけた。――殆ど死んでいた私を、救けてくれたのは、ビーヴァだ。傷の手当てをして、食べさせてくれた。彼の仲間が、杖を作ってくれた。……彼がいなければ、私は今、ここにいない」

「……ビーヴァ」

 テリーは、にわかに席を立つと、青年の前にひざまずいた。彼の右手をとり、両掌で包みもつ。

 ビーヴァは、うろたえてマシゥを顧みたが、マシゥは、微笑んでいるだけだった。

「ビーヴァ。マシゥを助けてくれて、ありがとう。貴方は、私とジルの命も、救ってくれたわ」

 テリーは、青年の動揺にはかまわず囁くと、彼の手を包んだ両手を、自分の額におしあてた。そっと祈る。

「レイム(太陽神)の祝福が、貴方の上にありますように……」

 言葉は解らなかったが、真摯で温かな気持ちは伝わった。ビーヴァは、おずおずと頷いた。



 マシゥとテリーは、客人のために、寝台を用意した。木製の台のうえに、干した藁と毛織の布を重ね、居心地よく整える。テリーは、眠ってしまったジルを抱き上げ、部屋を出た。

 マシゥは、微笑んで言った。

「おやすみ、ビーヴァ」

 ビーヴァは、ソーィエとセイモアとともに部屋に残されると、観念したように溜息をついた。

 青年がそのまま眠ったと思っていたマシゥは、深夜、ふと眼覚め、彼の寝台が空だと気づき、かるい恐慌に陥った。

『ビーヴァ!』

 扉をあけて、家の外へ出る。

「…………?」

「ビーヴァ?」

 ――が、そこにいた。外套を着こみ、ソーィエとセイモアに挟まれて。壁に背中をあずけ、膝を抱えて座っている。マシゥを見上げ、きょとんと瞬きを繰り返した。

 マシゥは、ほっとした。

「良かった。てっきり――」

『もう、行ってしまったかと思った』

 言葉を呑む。途端に、マシゥの胸に、寂寥がこみあげた。彼が去るということを、思い出したのだ。

 ビーヴァは、マシゥを送って来てくれただけだ。用が済めば、森へ帰る。故郷には、エビやキシム、カムロ氏族長や、ラナがいる。彼を待つ仲間たちが……。

 理解しているつもりだったが、改めて考えると、辛かった。ビーヴァは独り身で、両親はいない。ここで暮らさないかと誘いたかった。せめて、と思う。

『せめて、春になるまで……』

 マシゥは、首を振って考えを断ち切った。怪訝そうなビーヴァに、苦笑を返す。自分の外套を羽織ると、彼の隣に腰を下ろした。セイモアが、迷惑そうに身じろいだが、すぐに身体を丸めて眠りに戻った。

 吐息が白くなった。マシゥは、ビーヴァに話しかけた。

「眠れないのか。寒くはないか?」

「大丈夫だ」

 街へ来てからというもの、すっかり無口になっていた青年は、夜空を仰ぎ、そっと応えた。

「ここは暖かい。でも、なかにいると、風の声が聞こえなくて、落ち着かない。星の歌も……」

『ああ』と、マシゥは思った。ひきとめても、ビーヴァは森へ帰るだろう。ここで暮らすことは出来ない。

 風の声を聴き、星の歌を聴く。彼は、テティ(神々)の申し子だ……。

 遠くを見詰める青年の横顔に、マシゥは問いかけた。

「ここを、どう思った? どう思う? 私たちのことを」

「どうって――」

 ビーヴァは、わずかに苦笑した。まだ着いたばかりなのに、自分などの評価を気にするマシゥが、面白い。膝の上に腕を組み、頬を乗せる。

「――大きいな。こんな大きなものを造る、貴方たちは凄い。……ハタケ(畑)は広い。ウシ(牛)とウマ(馬)は、強くて優しい。良いテティ(動物たち)だ」

「…………」

「パンサ(麦の一種)は、美味しかった……。テリーは綺麗だし、ジルは可愛い。会えて良かったよ」

 歌うように囁く。ビーヴァの声を聴きながら、マシゥは、さらに物悲しくなった。――それでも、あの森のゆたかさには、敵わないのだ。

 マシゥは溜息を呑み、天を仰いだ。今は、彼に顔を見られたくなかった。きっと、自分は嫉妬している。

「明日、王に会いに行く。君も、一緒に来てくれ」

「俺?」

 ビーヴァは、首をかしげた。

「いいのか?」

「王に会って欲しいんだ、君に」

 ビーヴァは、やや不思議そうにしていたが、頷いた。

 

 翌朝、彼らは、家の外で眠っているところを見つけられ、テリーを呆れさせた。


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