第四章 波濤の彼方(5)
5
舟を漕ぎすすめるにつれ、川幅はひろがり、雪は減っていった。森は、高くそびえるモミやカラマツのなかに、枝をひろげたカンバなどが多くまじるようになった。丈の高い草が増え、流れの中の岩は、丸くけずられて小さくなった。岸辺には、常にうすい氷が張っている。
冬越えの準備に忙しいエゾリスや、
ビーヴァは、これらテティ(動物たち)のすがたを見かける度に、櫂を漕ぐ手をとめて見守った。ユゥク(大型の鹿)の肉があったので、狩りを行おうとはしなかった。
マシゥは、この河が、エクレイタの王都の北を流れる河だと気づいた。故郷を過ぎて、さらに東へ下れば、海へ出る。
大きな木がまばらになり、川面に日差しが届くようになった。と思うと、突然、森が途切れた。
彼らは、南の岸に舟を寄せた。
舟が停まると、ビーヴァが先に降りた。キィーダを支え、マシゥが降りるのを助ける。ソーィエは、ぴょんと舟縁を跳び越え、セイモアは、慎重に新しい土地に足を踏み入れた。
キィーダ(皮舟)は、すっかり草臥れていた。木枠の一部は折れ、縁をおおう皮の一部はへこみ、擦り切れている。流木にぶつかったり、川底をこすったりするたびに、修繕しながら漕いできたのだ。
ビーヴァは、荷物をおろすと、キィーダの皮を木枠から外す作業をはじめた。
「
なるほど、とマシゥは感心した。あるものを無駄なく使う知恵に、森の民は長けている。
外した皮を器用におりたたみながら、ビーヴァの目は、地面に埋め込まれた平らな石の列をみつけていた。
王都へと続く《道》だ。
マシゥは、うなずいた。
「こっちだ、ビーヴァ」
保存食(主に、干したユゥクの肉だ)を入れた袋を肩にかけて、歩き出す。ここへきて、マシゥは、初めて先に立った。彼の後ろをセイモアとソーィエが、地面のにおいを嗅ぎながら進む。
ビーヴァは、やや戸惑ったような表情で、ついて来た。
森は遠ざかり、褐色の大地に、うすく雪が積もるばかりとなった。その中を、踏み固められた《道》が続いている。土に埋められた石の間に残るのは、人や犬の足跡だけではなかった。――
ビーヴァは、見慣れない足跡を眺め、不安げに、時折うしろを振り返った。
河が遠ざかるにつれ、荒野は、耕された《畑》へと変わっていった。雪をかぶった
やがて、行く手に、土と石を積み上げて固めた壁が現れた。
「…………」
ビーヴァは、普段ほそい眼をみひらいた。マシゥは、青年の反応を観察した。
テサウ砦やニチニキ邑とは、比べ物にならない高さで、防壁はそびえていた。近づけば、かなり厚みもあると判る――二パス(約八メートル)くらいかなと、ビーヴァは考えた。四角くくりぬかれた穴が、街の入り口になっている。
まだ日は高く、門扉は開かれていた。壁の上に立つ見張りと、通りを行き来する人影が見える。
ビーヴァは、門をくぐる前に足を止め、訊ねた。
「……これは、何のためにあるんだ?」
「街を守るためだ」
ためらうことなく答えたマシゥを、ビーヴァは、澄んだ黒曜石の瞳で、じっと見詰めた。
「風や、嵐や、外敵から。人々を守るためにある」
「…………」
ビーヴァは、黙って荷物を負いなおした。何か、考え込んでいる風情だ。
門番の男たちは、見慣れない装束の男たちと巨大な二匹の犬に、驚いた顔をした。マシゥが頭巾を脱いで笑ってみせると、咎めることはなかった。
街に入ると、途端に、さまざまな音とにおいが、彼らを包んだ。ソーィエとセイモアが、ぴんと耳を立て、鼻をひくつかせる。
子どもたちのはしゃぐ声、それを呼ぶ母親の声。犬の吠える声、扉のきしむ音。牛車の車輪が小石をつぶす音。焚き火、流れる水の匂い。肉の焼ける
森の民のナムコ(集落)では考えられない喧噪に、ソーィエとセイモアは、ひるんだ。
ビーヴァは、うつむき加減に、歩調を変えることなく進んでいく。二匹は、主人の両隣にならんで歩いた。
エクレイタ族の民家は、四角い建物の周囲を土塀でかこみ、内側で鶏や犬を飼っているものが多い。建物自体が、塀の一部になっている場合もある。牛や馬のような大型の獣には、専用の建物があった。
街角には、ビーヴァの知らない常緑の木が植えられていた。根元には石を積んだ井戸があり、家畜用の水飲み場と、人間用の洗いもの場が備わっている。頭から織物をかぶった女たちが、喋りながら水を汲み、青菜を洗っていた。男たちが、牛に水を飲ませ、犂についた土を落としている。
太い角をはやした灰色の牛を、ビーヴァは、まじまじと観察した。ゴーナ(熊)ほど大きいが、ユゥクに似た蹄がある。黒い瞳は優しげだ。
馬も、青年にとっては驚異のようで、しばらくの間、見入っていた。
ある男が、馬の背にくくり付けたイノシシの肉を、女と交換していた。女が布の袋を手渡すと、男は、中身を掌に出して確かめた。黄色いパンサの実だ。――薪を山と積んだ牛車を曳いた男が、羊の毛を背負った男と交渉しているところでも、羊毛と一緒に、パンサの袋が渡されていた。
ビーヴァは足を止め、人々のふるまいを興味ぶかく眺めた。
エクレイタ族は、色白で、茶や緋色など明るい色の髪をしている。瞳は灰色や碧が多い。男性は、髪を短く切る。髭を生やすことはあるが、刺青はない。女性は、人前では頭から布をかぶり、髪をかくす習慣だ。衣は、麻の繊維や羊の毛を織ってつくる。毛皮は、男性の帽子や靴や、防寒着の一部に使われることはあるが、貴重なため、外套のようなものはない。
暖かいので、ビーヴァは頭巾を脱いでいた。独特の紋様をぬいとりした
人目を惹くなという方が、無理だった。
通りすがりに青年を見た者は、みな一様に眼を
ビーヴァは、黙々と歩いた。人々の好奇の視線に気づかないはずはないから、敢えて気にしないようしているのだろう。――マシゥは、青年の温和な人柄に感謝した。しかし、これでは気の毒だ。
マシゥは周囲を見回した。そして、思いついた。
「ビーヴァ。こっちだ」
声をかけ、横道を指す。ビーヴァは、何も言わずについてきた。マシゥは角を曲がった。家々の軒先をくぐり、防壁の下まで行って足を止める。
石段があった。
マシゥは、ビーヴァたちが追いつくのを待って、階段をのぼった。ビーヴァは、ゆっくり歩いてくる。ソーィエとセイモアは、においを嗅いで少し迷っていたが、主人の後をついてきた。
民家の屋根の高さをこえた防壁上の通路に、マシゥは彼らを連れて行った。
夕暮れの空は、あわい紅色に染まっている。白いすじ状の雲が、速く流れていた。冷たい風が吹き抜ける壁の上で、マシゥは、ほっと息をついた。
ビーヴァは、北風に髪と頬をなぶらせながら、街を見渡した。ソーィエとセイモアは、彼の両側にぴたりとくっついている。
土壁に干し草で屋根を葺いた家々が、建ちならぶ。門から伸びる道は、街の中心をまっすぐ貫いていた。幾本もの横道が、格子状に交差している。南の端に、ひときわ大きな建物があった。日差しを浴びて、薄桃色に輝いて見える。防壁は、さらにその向こうへと続いていた。
街の中には、ところどころ木が生えていた。共同の井戸のある場所だ。
ビーヴァは、壁の外へ視線を向けた。風が音をたてて、彼の長髪と外套の裾をはためかせる。
地平線までつづく、広大な《畑》があった。幅広の
南西の方角に、低い山脈があった。エクレイタの国とさらに南方の国々を隔てる、天然の防壁だ。
「…………」
ビーヴァは、黙りこんでいる。マシゥは、彼の横顔を、不安と期待を抱きながら見詰めた。森で育ったビーヴァにとって馴染みのない風景であることは承知している。内心、拒絶されるのではないかと
ピュイイーッ! と、鋭い声とともに、紫の空の一角を、褐色の影がよぎった。
トビだ。エクレイタ族にとっては、畑を荒らすネズミを狩ってくれる鳥だ。――仰ぎ見たビーヴァの眼差しが、少し和らいだので、マシゥは安堵した。
「ビーヴァ。王宮の近くに、私の家がある。寄ってくれ」
ビーヴァは、静かに頷いた。
*
夕闇の迫るなか、マシゥは、自分の家に彼らを案内した。木戸を開け、ビーヴァたちを招き入れると、戸を閉めて言った。
「ここで、待っていてくれ。声をかけてくる」
ビーヴァは素直にうなずき、二匹の頭をなでた。
マシゥは
「ただいま。テリー、いるか? 私だ」
部屋の奥で食事の支度をしていた女性が、振り返り、息を呑んだ。
「マシゥ!」
コッコッコッコッコ……。
案内された場所に腰を下ろし、ビーヴァは、辛抱強く待っていた。ソーィエは彼の右側に座り、セイモアは左側に寝そべっている。二匹の前を、茶褐色の体に黒と白の
ライチョウより小さいが、ヤマバトより大きな鳥を、ビーヴァは、なんという鳥だろうと考えながら眺めた。――体のわりに翼が小さいので、きっと、遠くへは飛べない。走る方が得意そうだ。ここにいるということは、マシゥの仲間だから、狩ってはいけない。でも、美味しそうだ……。
と、
「たあま、んま。……わんわ!」
「……え?」
歌うような声が聞こえ、小さな影が、駆けてきた。慌てて逃げる鳥、眼をまるくするビーヴァには全くかまわず、ソーィエに向かって来る。
セイモアは、立ち上がって身をひるがえし、ビーヴァの背に隠れた。ソーィエも逃げようとしたが、一瞬遅く、幼い手に捕らえられてしまった。
「わんわ!」
「……ええと」
『助けてください、兄貴』と言うように、ソーィエはビーヴァを見た。子どもに抱きつかれて、身動きがとれなくなっている。尾が、後ろ足の間に巻き込まれた。耳が伏せられ、唇がめくれたのを見て、咄嗟にビーヴァは命じた。
「ヨゥ!(止まれ)、ソーィエ。ヨーウ!」
牙をむいて威嚇しようとしたソーィエは、それをやめ、おとなしく座りなおした。首を抱きしめられ、げんなり、という顔になる。
幼児は、柔らかそうな栗色の髪をゆらし、きゃっきゃと声をたてて笑った。ビーヴァの頬にも、微笑がうかんだ。
「わんわ。よお、そうえ?」
「ソーィエ、だ」
セイモアは、ビーヴァの肩越しに、恐る恐る相棒の様子をうかがっている。
扉がきしむ音とともに、マシゥが出てきた。
「ビーヴァ。待たせてすまない。こちらに――」
「きゃあっ! ジル!」
「…………」
ビーヴァは、眼を瞠った。
マシゥの後ろから現れた女性が、巨大な犬に組み敷かれている(ように、見えた)我が子を見て、悲鳴をあげた。セイモアが、両耳をたて、背中の毛を逆立てる。驚いたのは、ビーヴァたちの方だった。
『俺、なにか、まずいことをしたか……?』
胸に届くヤマブキ色の髪と淡い水色の瞳が印象的な女性だった。彼女はすぐに、子どもがにこにこ笑っていることに気づき、頬を
「ああ。ごめんなさい。私――」
「テリー。ソーィエは、大丈夫だ。……ビーヴァ。テリーと、そっちはジル。私の妻と、息子だ」
マシゥの言葉の前半は、ビーヴァには理解できなかったが、女性と子どもの名前は解った。これが、ほんとうに、マシゥの家族なのだ。
ビーヴァは、ソーィエとセイモアの肩をそれぞれ片手で触れて、会釈をした。
今度は、マシゥが彼らを紹介する番だった。ビーヴァを何と呼ぶか、マシゥはすでに決めていた。
「テリー、ジル。白いのがセイモアで、そちらは、ソーィエという。こちらは、ビーヴァ。私の仲間で、親友で……命の恩人だよ」
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