第四章 波濤の彼方(4)



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 仮つくりのチューム(円錐住居)のなかで、トゥークは膝を抱えて座り、まんじりともせずに朝を迎えた。

 かたわらでは、ラナが、彼に背をむけて眠っている。いつもそうだった。滅多に視線を合わさず、言葉を交わすことはない。気を許さず、受け入れることもない。――しかし、常に行動をともにし、まぐわい(性交)を重ねる。この女の考えが、トゥークには解らなかった。

 否……理解しようとしなかったのだ。少年には、どうでもよいことだった。

『お前は、俺のものだ。』と宣言し、ラナは頷いた。言葉どおり、少女は、彼から逃げようとしなかった。仲間のもとへ戻ってからも、拒絶したり、周囲に助けを求めたりはしていない。彼に従い、やりたいようにさせている。

 トゥークには、それでよかった。最初から、王の娘に、期待などしていなかったのだから……。

 白いルプス(狼)を連れた、若いアロゥ族の男。ラナに、真に心を寄せる相手がいることも、どうでもよかった。コルデをはじめ、エクレイタの男たちに穢されたラナが、あの男と添い遂げられるはずはない。

 それなのに。

 ――ラナにとっても、そうだと思っていたのだ。トゥークなど、どうでもよいのだろうと。だから、昨日の出来事は、彼の意表を突いた。

『やめて!……もう、仲間が傷つくのを、見たくない。』

 ケレ(悪霊)の仮面をかぶった男たち。兄(ディール)の復讐に燃える男たちに捕まった時、トゥークは、今度こそ殺されると思った。誰も守ってはくれない。彼を庇い、弁護をしてくれる者はいない。

『そいつこそ、貴女を傷つけた元凶ではないのですか。』

 ……自分でも、そう考えていたのだ。

 だから、シャム(巫女)の言動には、驚くしかなかった。反発する前に、毒気を抜かれた。

『何を考えている?』

 トゥークにとってラナは、憎しみの対象でしかなかった。父と自分を追放した森の民の、真の王。テティ(神霊)の巫女……。今も、眠っている彼女のくびは、無防備にトゥークの前にさらされている。彼がその気になれば、生命を絶つことは容易い。引き換えに、自分が殺されるとしても――

「…………」

 トゥークは眼を閉じ、かぶりを振った。己が今まで考えようとしてこなかったことに直面し、動揺する。

 この状態を、いつまでも続けるわけにはいかないのだ。

 自分は、ラナを殺したいのか。ラナと、生きていきたいのか。――トゥークには、解らなかった。迷いを断ち切るように、チュームを出る。



 夜は、明けたばかりだった。東の空はあわく輝いていたが、天頂から西の空は、未だ藍色に染まっている。ベニマツの木陰には霧が漂い、ユゥク(大型の鹿)たちが苔を食んでいた。紅毛の犬(スレイン)がねそべって、欠伸をしている。女たちが水を汲んできて、ムサ(人間)の食事の支度をはじめていた。

 トゥークがチュームの入り口をかき分けて外へ出ると、女たちは振り向いたが、ラナではないと判ると、落胆したように視線を逸らした。

 焚き火のそばに、ワイール氏族長が佇んでいた。長も彼をみとめ、迎えるために身体の向きをかえた。躊躇う少年に、族長の方から声をかける。

「トゥーク。ここへ来て、話さないか」

 トゥークは迷ったが、今さら、と思い直した。せいぜい項垂れ、むっつりと口を閉ざし、近づいていく。

 朝から不機嫌な少年に、氏族長は、音をたてない溜息をついた。慎重に言葉を選び、話しかける。

「昨日は、話ができなかったが……。ルシカは、生きていたんだな」

「ああ。そうだ」

「一緒に居たのか? エールベ(トゥークの父)は、どうしている?」

 テティ(神々)の掟にしたがい追放した者たちのことを話す際、氏族長の口調は、沈んだものになった。

 トゥークは己の靴の先端を見詰め、顔を上げなかった。

「殺された。奴らに」

「そうか……」

 氏族長は、息だけでささやき、眼を閉じた。ワタリガラスの紋様を描いた頬に、苦悩がにじむ。

 トゥークは、彼と目を合わせないよう努めた。視界の隅で、ベニマツの向こうからやってきたキシムが、こちらに気づいて立ち止まる。

 辺りが次第にあかるくなり、人々の起きだす気配がした。さわさわという葉擦れの音に、押し殺したささやきが重なりあう。

 ふいに、ワイール氏族長が、訊ねた。

「お前、ラナ様のことが、好きなのか?」

 トゥークは、思わず顔を上げてしまい、慌てて逸らした。一瞬だが、自分を見る長の顔に、思い遣りをみつけ、うろたえる。

 少年は、奥歯をかみしめた。そのまま答える。

「……違う」

 話を切り上げたかったが、氏族長の沈黙は、それを許さなかった。

「そうじゃない……」

『むしろ、憎んでいる』という言葉は、胸の奥で消えた。トゥークは唇を噛んだ。キシムがこちらへ歩いてくる。あの女は苦手だ。

 ワイール氏族長は、あくまで穏やかに言った。

「そうか? ならば、なぜ一緒にいる?」

「…………」

「お前、私のところに来ないか。あの御方を、ひとりにして差し上げろ」

「そうして――」

 キシムがそばへ来た。金赤毛の仔犬を従えている。トゥークは二人から顔を背け、苦い声で言い返した。

「――どうするんだ。追放するのか? 親父のように」

 キシムが、はっと息を呑む気配がした。

 自らが放った皮肉の矢の効果をたしかめるべく、トゥークはワイール氏族長を見遣ったが、長の表情は変わらなかった。静かに応える。

「つがうことができずとも、ともに生きるすべは、いくらでもある」

「…………」

「お前もだ、トゥーク。……エールベとルシカは罪を犯したが、お前は違う。なぜ、戻らない? ディール(トゥークの兄)の言葉を、聴かなかったか」

 トゥークは、顔を上げることができなかった。

 偉大なるワタリガラスの叡智に曇りはない。長の声は、少年の胸に沁みるように響いた。

「ディールは、ずっとお前を探していた。もう一度、ともに暮らしたいと望んでいた。……兄の願いを、叶えてやろうとは思わないか」

 少年に耐えられたのは、ここまでだった。トゥークは踵を返し、二人の視線をふりきって歩き出した。人々に背を向け、木立のなかへ入っていく。

 ワイール氏族長は眼を閉じ、ながい溜息をついた。顎の先にさがる髭が、息とともに揺れる。

 キシムは、そっと話しかけた。

「族長」

 氏族長は、片目で彼(彼女)を見た。

「感謝します……。トゥークに、居場所を与えようとして下さった」

「奴にとっては、偽善にすぎぬ」

 首を横に振り、ワイール氏族長は舌打ちした。苦虫をかみつぶし、両手を腰に当てる。

「……なに。夜ごと、ディールが私の夢に現れるのだ。弟を助けてやってくれ、と。貴公のもとへは、現れないか?」

「ディールが?」

 流石のキシムも、眼をみひらいて絶句した。長は肩をすくめ、少年の去った方を眺めた。

「このままでは、トゥークとラナ様は、ともにケレ(悪霊)と化してしまう。何とかしたいと、思ったのだがな……」

「…………」

 キシムには、何も言えなかった。

 チュームから、ラナが出てきた。外套の襟を合わせ、氏族の女たちに話かける。

 ワイール氏族長は眼を細め、再度、煙のような息を吐いた。

「ラナ様が食事を終えたら、出発しよう。今日は、ニチニキへ着くだろう」

 キシムは、無言で頷いた。歩き出す氏族長の背を見送って、スレインの頭に片手をのせる。


《アレは、娘と同質の者だ。》 

 キシムは、先代の王のことばを思いだした。エビと氏族長の声が重なる。

『俺のなかには、憎しみしかない。殺されない限り、止まらない。』

『このままでは、ともにケレと化してしまう。』

『……絶望、か』

 キシムはそっと溜息をついた。同質という詞の意味を、理解する。

 憎しみ、悲しみ、憤り、恨み……彼らには、希望がなかった。明日を信じ、生きていこうという望みが、まったく感じられない。

 故に、テティの声も、氏族長の詞も、届かないのだ。

『ビーヴァ』 耐えかねて、キシムは喚んだ。天を仰ぎ、ねがう。

『ビーヴァ。はやく、還って来てくれ……』


          *


 日が昇るにつれ、ロマナ湖をおおっていた霧は晴れた。ニチニキ邑を目指す一行を、銀色の湖面と青空が迎えた。

 そして、伐り拓かれた荒野と、どこまでも続く壁が。

「…………」

 トゥークは、ふたたび先頭に立っていた。ニチニキ邑を目にした人々の反応を確かめるために、足を止める。

 ワイール氏族長は、片手を腰にあてて眼を細め、ユゥクに乗ったラナは、白い頬をこわばらせた。男たちは弓や槍を持ちなおし、女たちは溜息を呑んだ。

 ロマナ湖の東岸は、山に囲まれたこの地域では、比較的 平坦な場所だった。背の高いベニマツはまばらで、シラカバやサルヤナギが多く生えていた。湿地があり、ユゥク(大型の鹿)の好きな苔が生え、オロオロ(地リス)の巣が多かった。

 その場所に、今は、土と石と伐採した木を重ねた壁が、そびえていた。ロマナ湖の岸に沿って南へ、地平線のかなたをぐるりとめぐり、戻っている。北側に門があった。閉ざされた木製の扉の横には、敵に備えるために、やぐらが建っている。

 森の端から壁までは、五パス(約二十メートル)ほどもあろうか。間の木々は伐り払われ、草は刈り取られて、土がむき出しになっている。うすく雪に覆われた大地には凹凸があり、掘り出された岩や大木の根が、無造作に放置されていた。

 森の民にとっては、異様な光景だった。壁の内側に在るものを、想像できない。

 ユゥクは、足踏みをして、森から出るのを嫌がった。人々も、ひるむ気持ちを抑えられずにいる。

 これは、テティの棲む世界ではない。

 ラナを乗せたユゥクの手綱をとるキシムが、隣に来るのを待って、ワイール氏族長は呟いた。

「さて。どうするか……」

 キシムはもちろん、ラナにも、考えがあるわけではなかった。

 ワイール氏族長は、人々に向き直った。ここまで一緒にやってきた男たち、女たち、一人一人の顔を、順に眺める。ラナを、トゥークを見て、話すために口を開いた。

 その時だった。

 氏族長の背後で、どおんと、何かが崩れる音がした。ニチニキの壁の向こう側だ。人々は息を呑み、族長はいそいで振り返った。北風の中、灰色の土埃と、人々の喚声がわき起こる。

 さらに、ドンドンと、叩きつける音が響いた。バリバリと木が折れ、樹皮の裂ける音が続く。

 アロゥ氏族の男が叫んだ。

「エビだ!」

「戦っているぞ!」

『投弾帯か』 キシムは、苦虫を嚙みつぶした。

 ユゥクやゴーナ(熊)の皮革に石をのせ、振り回して投げる投弾帯は、アロゥ氏族の得意とする道具だ。本来、ハッタ(梟)などの空を飛ぶ相手や、ゴーナなどの大型のテティ(動物)を狩るときに用いる。石の重さや飛ばす距離を自在に変更できるので、特に集団で用いれば、強力な武器となる。

 その道具を、エビたちは、ニチニキの壁に対して使っていた。かなりの大きさの石をぶつけ、櫓の屋根に穴をあけ、柱をへし折る。様子をみに来たエクレイタ族の男が、慌てて身を隠す。数秒ののち、散発的に射かけられた矢が、飛んでくるのが見えた。

 エビたちが優勢にみえたが、キシムは不安になった。投石は、体力を消耗する。ニチニキむらの壁をこわしたとして、その後攻め込む力が、エビたちに残っているだろうか。

 何より――彼らがこの戦法を選んだということは、より深刻な事情をうかがわせた。

『矢が尽きたのか、エビ……』

 目標を正確に射ぬく矢をつくるには、技術も時間もかかる。大量に用意しようとすれば、何日もかかってしまう。すぐにもロキたちを救い出したい彼らの、焦りが感じられた。

 氏族長も、同じことを考えたらしい。吹きすさぶ風に負けじと、声をはりあげた。

「キシム、ラナ様を連れて下がれ。女たちも。……兄弟たちよ、行くぞ! 加勢するのだ!」

 おう! と、男たちは口々に応え、マラィ(刀)と槍をかざした。一斉に動き出す。彼らの流れに呑まれまいと、ユゥクは足踏みを繰り返した。キシムはくつわをとって、なだめなければならなかった。

「あ。私も――」

 ラナは片手を伸ばしたが、キシムは、構わずユゥクを下がらせた。女たちが、彼女を護って身を寄せる。

 男たちについて行きながら、トゥークは振り返り、ラナを見た。底のない闇を宿したくらい瞳を、一瞬、ラナは見たが、声をかける前に逸らされる。

 ユゥクが啼き、犬が吼え、人々が叫ぶ。アムバイ(北風)は、それら全ての音を呑み、凍りかけたロマナの湖面に波をおこした。


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