第四章 波濤の彼方(3)



          3


 久しぶりに観るテサウ砦は、寒気に包まれ、以前にもまして陰鬱だった。ロマナ湖は完全には凍っていないが、水面には霜のような氷が浮かび、粥のようになっている。アムバイ(北風)がおこす波に揺れ、氷の破片がぶつかりあい、しゃりしゃり音を立てた。湖岸の岩にかかる水しぶきが、無数の小さな氷柱を作っている。もう数日経てば、湖は完全に凍り、春まで融けることはないだろう。

 サルゥ川の北岸に沿ってやってきたキシム達は、この光景を目にすると、足をとめた。灰色の空の下、吐息は、たちまち白くなる。

 コルデたちに伐採された中州の森は、もとに戻ってはいない。吹きさらしの荒野にうずくまる砦は、まるで巨大な石の棺だった。ラナ達が最初に囚われ、王とディールと子どもたちが殺された、いまわしい場所だ。

 キシム達は、ユゥク(大型の鹿)を森へ隠し、そっと近づいた。

 砦は静まりかえっていた。人はおろか、犬の声も聞こえない。普通、見知らぬ者がなわばりに近づけば、姿より先に匂いを嗅ぎつけ騒ぐはずだが。

 理由は、すぐに判明した。閉じられた門扉に鍵はかかっておらず、砦の中には、誰もいなかったのだ。

 顔を見合わせる男たちから少し離れて、トゥークは、足元の雪を蹴った。

「雪が降ったから、奴らは、ニチニキ(邑)へ引き揚げたんだろう」

「まだ、日が経っているわけではない」

 ワイール氏族長は、雪の中に残る凍った足跡を眺めた。

「今からでも、追いつけるか? ニチニキとは、どこにある?」

「この先。アムナ山の方角だ。遠くはない。一日あれば、たどり着く」

「もう、到着しているか……」

 氏族長は、三角形にととのえられた顎髭をなで、無念そうに舌打ちした。ニチニキの壁の内側へ逃げこむ前であれば、エクレイタ族の男たちを捕らえることは、容易だったかもしれない。


 ラナは無言で、門の脇にたつ石槍を見上げた。ここに、父王の首級は晒されていたのだ。コルデに持ち去られ、ニチニキ邑へ運ばれたことは覚えているが、その後は判らない。身体も、門のそばに埋められたらしいが、場所の見当はつかなかった。

「キシム」

 スレイン(狼犬の仔)は、凍った地面のにおいをしきりに嗅ぎまわっている。その様子を眺めながら所在なく佇んでいたキシムに、ワイール氏族長は声をかけた。

「シャナ族のシャム(巫女)よ。貴公は、ひき返せ。ラナ様を連れて」

「え……」

 キシムは、眉間に皺をよせた。ラナは、表情を変えなかった。

 二人の顔を交互に見て、氏族長は続けた。

「シャムの手を、ムサ(人間)の血でけがすわけにはゆかぬ。カムロ(シャナ族長)にも言われている。……これは、アロゥ族とワイール族の復讐だ。シャナ族は去るがよい」

「キシムは、そうして」

 ラナが、涼しげな口調で言った。キシムを見て眼を伏せる。

「ここまで、ありがとう。貴女は生きて、伝えてちょうだい。私たちのことを」

『ビーヴァに……』 声にならない言葉が聞こえた気がして、キシムは息を呑んだ。

 ラナは、ワイール氏族長を、まっすぐ見詰めた。

「戦うことを決めたのは、私よ。私は行くわ」

「……父王との盟約に、背くことになりますぞ」

「仕方がないわ」

 頬にかかる髪を顔を振ってはらいのけ、ラナは、ロマナ湖が空と接するさかいを見遣った。北風が、少女の外衣をはためかせ、小柄な体をいっそう小さく見せる。

「……父さまが戦いを望んでいなかったことも、私の役目が、ほんとうはいさかいを鎮めることも、わかっているわ……。でも、それは私たちのあいだのこと。彼らには通用しない」

 キシムとワイール氏族長を見上げ、ラナは、しずかに告げた。

「これは、生き残りを賭けた戦い。私たちと、エクレイタ族の……どちらがこの地で生きるべきかを、問われているのよ……」

 ワイール氏族長は気難しげに眉根をよせ、男たちは表情を引き締めた。

 キシムは、胸の内に不安が煙のように渦巻くのを感じた。『生き残る』というラナ自身が、それを望んでいるとはとても思えなかったのだ。

 

 ラナの脳裡には、ニチニキむらで見た光景が浮かんでいた。

 太陽のいろに輝く、パンサ(麦)の穂。どこまでも拡がる、黄金の地平。

 《テティにることなく、世界を変えるもの――》 かつて、母巫女ははみこが告げたことばを、思い出す。ルシカは、『弱いからだ』 と言った。この地のテティ(神々)は厳しく、弱いものを許さない。だから、エクレイタの民は壁の中に閉じこもり、パンサを育てなければ生きて行くことが出来ないのだと。

 ……いまのラナには、なにが弱さで、なにがつよさなのか、解らなかった。ただ、自分はどちらでもないと感じた。

 テティの声が聴こえない自分は、テティに依ることは出来ない。だが、エクレイタ族とともに生きることは出来ない。

 戦いに敗れれば、彼らはさらに森を伐り拓き、畑を拡げるだろう。ムサ(人間)だけではない。ハッタ(梟)やアンバ(虎)、キツネやリス、ゴーナ(熊)や、無数のテティが、棲みかを追われることになる。

『ビーヴァが、悲しむでしょうね……』

 それだけは容易に想像でき、ラナの胸を切なくさせた。


『ロキたちを、救けなければ。一日も早く』

 ラナは、決意をこめて顔をあげた。

「行きましょう。ニチニキへ」

 ワイール氏族長はうなずき、男たちは武器を握りなおした。キシムは、ラナを乗せるユゥク(大型の鹿)を連れてくるために、踵を返した。


          *


 ロマナ湖畔へ迫る森の境界を、ラナたちは、ニチニキ邑へ向かって進んだ。葉の落ちたカエデやシラカバの木立ちでは、身を隠すことは容易ではない。しかし、ラナを乗せたユゥクも、五十人をこえる森の民も、ほとんど足音を立てなかった。

 トゥークが、先頭を行く。

 これまで、キシムやワイール氏族長の視線を避けて、後方に控えていたトゥークだったが。ワイール氏族長に依頼され、案内を始めた。アムナ山とロマナ湖と太陽の位置からニチニキの方角を判断し、先に進む。

 キシムは、トゥークの背を、警戒して眺めた。この男の内心を、彼(彼女)は思い測ろうとしたが、理解できず、信用できないと感じていた。

『いったい、どうするつもりだ……』

 太陽は、うす灰色の雪雲におおわれた南の空の低い位置をとおり、西の山脈の凍った峰にさしかかろうとしていた。

 彼らのななめ後方から、くぐもった声がかけられた。

「ラナ、様?」

「ワイール族長」

 木陰から聞こえた声に、彼らは足を止め、振り向いた。キシムと数人の男たちが、槍と刀をかまえ、ラナをかばう。

 雪の重みでたわんだベニマツの枝の下から、異形の影が現れ、人々は息を呑んだ。

 四角い木の仮面をかぶった男が、片方の膝をついて頭を下げた。

「ラナ様とワイール氏族長と、お見受けする」

 低く掠れた声に、聞き覚えがあった。ラナは蒼ざめ、ワイール氏族長は眼を細めた。

「……エビか」

「はい」

「ユイと、ルーナが、ここに居ります」

「おお……!」

 ワイール氏族の男たちが名乗りでたので、長の声は歓喜に震えた。

「無事だったか、汝ら」

「はい」

「他の者は? ロコンタと、シャナ族の兄弟は?」

「みな、ここに」

 キシムは刀を下げ、男たちは身構えを解いた。復讐の仮面をかぶった九人の男たちは、それぞれの氏族のうちでも、とくに腕のたつ勇者たちだ。再会は嬉しかったが、彼らは仮面を外そうとはしなかった。

『仕方がない……』キシムは、苦い気持ちで唇を噛んだ。

『自らケレ(悪霊)に憑かれたものの、定めだ』

 人殺しは、掟によって禁じられている。テティ(神霊)の掟に背く者は、ナムコを追放される。本来、二度とシャム(巫女=ラナ)に会うことは出来ないのだ。そうと知っているエビが、敢えて声をかけ、すがたを現したのは、エクレイタ族に囚われているはずのラナを見かけたからに他ならない。

「エビ……」

 ラナはユゥクを降り、蒼白な顔で、両膝をついた。震える手を、エビの仮面にさしのべる。指が触れる寸前、仮面の内側から、硬質な声が問いかけた。

「ラナ様。何故、貴女がここに?」

「…………」

 ラナの手が止まり、呼吸がとまった。唇が、泣きそうに震えだす。片手で口元をおさえ、嗚咽を呑んだ。

 感情を表さないエビの声が、たたみかける。

「貴女ひとり、ですか? 他の女たちは? ……ロキは、どこにいます?」

「エビ。わたし……ロキは。私――」

 ラナの声は、言葉にならなかった。小さな子どもに戻ったように、しゃくりあげる。

 エビは、溜息をついた。

「……貴女より、そいつに訊いた方が、はやそうだ」

 地底から響く声で呟く。ほぼ同時に、彼の両隣りにひかえていた仮面の男たちが、跳びだした。ひるむラナ、息を呑むキシムの前を横切り、身を翻そうとしたトゥークにとびかかる。

 トゥークは、雪の中に倒され、押さえこまれた。

 ラナの悲鳴が響いた。

「やめて!」

 トゥークをとりおさえた男たちは、その声に動きを止めた。人々の視線が、ラナに集中する。

 少女は、両手で顔を覆った。

「やめて……。もう、仲間が傷つくのを、見たくない……」

「仲間、ですか」

 エビの冷めた声が、仮面の内側から繰り返した。単調に続ける。

「そいつこそ、貴女を傷つけた元凶ではないのですか?」

「…………」

 ラナは、顔を覆ったまま、首を横に振った。

 人々の間を、やや呆然とした空気が流れた。

 トゥークが逃げそうにないと見て、男たちは、彼から手を離した。トゥークは立ち上がり、衣についた雪と土を払った。刺青のない少年の頬は、血の気を失い、こわばっていた。キシムの視線を避け、顔をそむける。

 キシムは、トゥークからラナへと、視線を戻した。ラナは、うずくまったまま、エビの仮面へ両手を伸ばしていた。

 乾いた声が、たしなめる。

「……いけません。俺は、ケレ(悪霊)です」

「私も同じよ……。顔を見せて、エビ」

 ラナは、ためらうことなく仮面に触れ、それを外した。エビは、仕方がない、と言う風にまた息をついた。アロゥ族一の狩人の姿を、キシムは息を殺して見た。

 キシムの知っている、陽気で朗らかで精悍だった男の顔は、そこになかった。陽に焼け、風と雪にさらされ、容赦なく削られた険しい顔だった。頬から顎を、無精ひげが覆っている。額にかかる髪の下から、哀しみをたたえた黒い瞳が、ラナを見詰めた。

 ラナは、彼の頬のモナ・テティ(火の女神)の刺青に掌をあて、泣きくずれた。それで、エビは困って眉尻を下げた。そうすると以前の面影が戻ったので、キシムは少しほっとした。

「ラナ様」

「ごめんなさい、エビ。ごめんなさい……」

「貴女が謝ることはない」

 エビは、周囲に視線をめぐらせた。じろりとトゥークを見据え、キシムとワイール氏族長を見上げ、肩をすくめる。表情から険しさが消え、声に同情が含まれた。

「貴女は、何も悪いことをしていない。泣かないで下さい」

「でも、エビ……。ロキ(エビの妻)は、まだ、あそこに居るのよ。ニレも、ハルキも、みんな――」

「それが判っただけで、充分だ」

 エビは、仲間と目配せをした。仮面の男たちのうち数人が、面を外し、うなずき返す。

 エビは、ラナの手を取り、自分から離させた。

「ラナ様。貴女に、やってもらいたいことがある」

「え……?」

おさ(ワイール氏族長)も、来ていただけますか。こちらです」

 エビは立ち上がり、一同を促した。ワイール氏族長は、胸の前で組んでいた腕をほどき、うなずいた。



 ニチニキ邑へ向かっていたラナたちは、目標を北へ替えた。今度は、エビが案内する。サルヤナギとシラカバの林を抜け、モミやベニマツの間を歩いていく。落葉したキイチゴの茂みが、足元で乾いた音を立てた。

 オコン川に沿って進むうち、日差しはいよいよ弱くなり、木々の根元には紫の影がたまるようになった。

 まだ細いモミの若木の前で、エビは足を止めた。仮面をつけた仲間たちも、外した者も。神妙な表情でたたずむ彼らの前には、土が小さく盛り上がっていた。比較的あたらしいイトゥ(御幣)が、数本たてかけられている。

 ワイール氏族長が、眼を細める。

「墓か?」

「はい」

「誰の墓だ?」

 ラナがキシムの手をかりてユゥクから降りるのを待って、エビは答えた。

「ハルキです」

 少女は息を呑み、黒い眼をこれ以上ないほどみひらいた。エビは、無表情にうなずいた。

「ルシカという女の話では、殺されたのではなく、やまいで死んだのだそうです。」

「ルシカがいたか、そうか」

 ワイール氏族長は、嘆息した。右頬に残る白い傷跡を、苦々しくゆがめる。

「トゥークが生きていたのだ。ルシカが生きていても、不思議ではない。奴らのところへ、身を寄せていたわけだ」

 キシムは、トゥークを見た。少年は、墓を見ようとはせず、彼らから離れて立っている。相変わらず、何を考えているのか、表情から窺うことは出来ない。

 ラナは、よろよろと墓へ近づくと、再びひざまずいた。両手を雪のなかへつき、肩を落とす。折れそうな細い背中を見下ろしながら、エビは、ワイール氏族長に説明を続けた。

「……エクレイタ族の病だそうです」

「何?」

「奴らにとってはどうということのない病ですが、我々にとっては命とりになると。だから、近づくな、と――」

「ルシカが、そう言ったのか。」

 氏族長は、顎髭をなでて首をかしげた。聞いたことのない話だ。エビも、肩をすくめる。

「俺には、意味がわかりませんが……。アロゥ(氏族)のナムコ(集落)へ持ち帰るわけにはいかず、放っておくわけにもいかず。ここへ埋めさせてもらいました。……ラナ様に、弔っていただきたい」

「…………」

 ラナは顔を上げ、赤く腫れた眼で、エビを見た。ワイール氏族長とキシムを見て、うなずいた。

「わかりました。……キシム。手をかして頂戴」

 氏族長はもちろん、巫女たるキシムに、断る理由はない。スレイン(狼犬)を抱いて顎の毛をなでながら、男装のシャムはうなずいた。


          **


 本来、森の民は、火葬を行って死者を弔う。しかし、ハルキはすでにモミの木の根元に葬られていたので、掘り出すことはしなかった。

 幼子と死に別れ、ムサ・ナムコ(現世)に未練を残したであろう彼女のテティ(霊魂)をなぐさめるのが、ラナの役目だ。

 人々は、シラカバとサルヤナギの樹皮と枝を集め、略式の祭壇を作った。イトゥ(御幣)とモミの緑枝をささげ、ウオカ(酒)をふりかけて、順に祈る。女たちのなかには、ハルキの境遇に想いを寄せ、泣き出す者もいた。

 キシムに教わった祝詞のりとを唱え、祭壇に火をつけるラナの頬も、かわくことはなかった。

 すっかり日の暮れた森の片隅で、弔いの声は、いつ果てるともなく続いた。


 キシムは、祝詞が始まると後方へさがり、ラナを見守った。少女がシャム(巫女)として葬儀を行うのは、初めてだ。心配したが、案外、ラナは落ち着いていた。キシムは、スレインを足元に従え、ユゥクの手綱をベニマツの幹に結わえながら、安堵していた。

「キシム」

 聞きなれた声に振り向くと、仮面を外したエビが、片手を軽く挙げてやって来るところだった。

「久しぶりだな……。お前に、訊きたいことがあるんだ」

 エビは、彼(彼女)と並んで立ち、ラナの方を眺めながら、小声で話しかけてきた。

「何だ?」

「マシゥは、どうしている?」

 てっきり、氏族の女性に預けた我が子のことかと思ったのに。エビが、最初にマシゥのことを訊ねたので、キシムはかるく驚いた。

「……重傷だったが、命は助かった。エクレイタ族の故郷へ帰った」

「そうか。良かった」

 エビの無精ひげだらけの頬に、やわらかな微笑がうかんだ。

「心配していたんだ。帰れるほど元気になったのなら、良い。……これで、心置きなく、戦える」

 キシムは、エビの横顔を見詰めた。穏やかな狩人のまなざしに、どこか空疎で不吉な危うさを感じた。

 エビは彼女を見ず、スレインを見下ろした。

「ビーヴァは、どこにいる?」

「……マシゥを、送って行った。セイモアと、ソーィエも一緒だ」

 キシムが囁くと、エビは、一瞬目をみひらいた。それから、ゆっくり笑い出す。低い声をのどの奥で転がし、肩を揺らした。

「そうか。あいつらしい。これで、本当に、思い残すことはなくなった……」

『そんな風に、言うなよ』 言いたかったが、キシムののどは言葉を発することはなかった。

 最初から、エビが死を覚悟していることは、解っていた。

 食べる目的以外で、テティ(動物たち)を殺す者。怒りや憎しみにかられ、ムサ(人間)を殺す者。――これらは、ケレ(悪霊)に憑かれた者として、ナムコ(村)を追放される。二度と、森の民の仲間に戻ることは出来ない。ほんとうなら、こうして言葉を交わすことはないのだ。

 エビは、手にした仮面を、裏返したり表に戻したりしていたが、改めて自分の顔にかぶせた。

「ハルキの遺体を引き取ったとき……俺たちは、七人、奴らを殺した」

 決して、キシムを見ようとはせず、己の内面を見詰めて、彼は続けた。

「これから、さらに大勢、殺すだろう。その中には、エクレイタ族の女と子どもも、含まれているかもしれない」

「女たちは――」

 キシムの声は、かすれた。ごくりと唾を飲む。

「――エクレイタの女たちは良くしてくれたと、ラナ様は言っていたぞ」

「奴らは、タミラ(ビーヴァの母、ラナの乳母)を最初に殺した」

「…………」

「俺の息子も、殺された……。女と子どもを殺されなければ、奴らは、自分たちのしたことの意味が、解らないだろう」

 キシムは、背筋が凍る心地がして、男の仮面を見た。粗削りな目鼻に、墨と血で描かれたケレの紋様。切れ目に覗いているはずの瞳を探したが、見つけることは出来なかった。

 数秒の沈黙ののち、男は、自嘲気味に呟いた。

「これが、ケレだ」

「エビ……」

「俺のなかには、憎しみしかない。誰かに殺されない限り、止まらない……。キシム、俺を、はらえるか?」

「…………」

 キシムは、唇を噛んだ。シャム(巫女)の杖を握る手に、力をこめる。――ちから不足ということは、明白だった。

 エビは、フッと嗤った。声に、憧憬の響きが交差した。

「俺は、ビーヴァのようには生きられない。王(ラナの父)のようには……。キシム、あいつ(ビーヴァ)を頼む。ラナ様を」

 そう言うと、彼(彼女)が止める間もなく、踵をかえした。後ろで待っていた仲間とともに、闇のなかへ、融けるように消える。

 キシムは、立ち尽くすことしか出来なかった。



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