第一章 父と子(4)



          4


 アロゥ族の家には、必ず東の壁に、テティ(神霊)が出入りするための窓がある。狩りで得たテティ(動物)の体や毛皮、弓矢、スルク(矢毒)などを祀り、イトゥ(木製の神幣)とウオカ(酒)を供えている。

 その窓の下に、タミラの遺体は安置されていた。

 ラナの家には、タミラの他にも傷ついた者や家を失った人々が集められていた。襲撃の日から、彼らと彼らの手当てをする女たちの喧騒が絶えることはなかったのだが、今、母に付き添う青年のために、人々は息を殺していた。

 もっとも、誰が騒ごうと、ビーヴァの耳に入るとは思われなかったが……。

 青年は、母の遺体の傍らに腰を下ろし、じっと見詰めていた。亡くなって数日が経つので、女たちの手で既に身体は清められ、装束もととのえられている。

 窓から差し込む淡い光に浮かびあがる顔は、化粧を施され、眠っているように穏やかだ。それでも、ごまかしようのない死臭を、セイモアとソーィエは嗅ぎ取っていた。

 ソーィエは耳を下げ、鼻を鳴らした。主人の傍らに寄り添い、頭を垂れてしゃがみこむ。セイモアは、もう少し大胆に近づいてタミラの掌のにおいを嗅いだが、すぐ戻ってきて、ビーヴァの膝に身体をすりよせた。

 二頭とも、タミラが冷たくなっていることと、ビーヴァが意気消沈していることは理解していたが、二つの事実を結びつけることが出来ず、困惑していた。

「…………」

 後から来てこの光景を目にしたエビも、友になんと話しかければよいか分からなかった。

 もがりは、死者の身体から最期の息が去ってから、葬儀までの期間をいう。テティ・ナムコ(神霊の国)へ魂が旅立つ前に、身内の者が、蘇生をねがってたま呼びなどの儀式を行う。

 タミラは愛想がよく、世話好きで、村の女たちから慕われていた。先代のシャム(ラナの母)が亡くなってからは、ラナの乳母として王をささえ、氏族の女たちのまとめ役になっていた。

 ビーヴァが留守であっても、王の指示をうけた女たちが、彼女のために必要なことがらを、全てきちんと行っていた。

 けれども……だからといって、ビーヴァの心が慰められるわけではない。

 王が、ワイールの族長とキシムを連れてやって来た。エビは、苦い思いを呑み下して、友を促した。

「ビーヴァ」

 泣いているかと思われたが、ビーヴァの目に涙はなかった。硬い表情で振り返る。

「弔いをしなければならないんだが……。いいか?」

 問われると、青年は項垂れ、躊躇いつつ頷いた。

 王が、ビーヴァの肩に手を置いた。キシムは彼を、探るように見詰めていた。


 アロゥ族の葬儀は、故人の家で行われる。

 ビーヴァの家は、幸い無事に残っていた(食糧とオロオロの毛皮を貼った滑り板は奪われ、橇は壊されていた)。人々が見守るなか、毛皮と樹皮に包まれたタミラの身体は、家の周りを三度めぐったのち、部屋の中に運びこまれた。女たちが窓辺に敷き詰めた真新しいイトゥの上に、安置される。

 新たな涙と嗚咽が流れるなか、アロゥ族の長は、そっとビーヴァに耳打ちした。

「我らは、多くのものを失った。お前が望むなら、このうえ大切なものを持ち去られぬよう、モナ・テティ(火の女神)に願ってもよかろうと思うのだが……」

 彼らのしきたりでは、家主たる女性が死んだ場合、家財も同時に火葬してテティの国(死者の国)へ送ることになっている。狩人たる男性の場合は、狩猟道具と犬を送る。

 長が口にしたのは、家族を失った青年への同情であった。

 ビーヴァは、首を横に振った。

「いえ。うちがなければ、あちらで母が困るでしょう。……父が、待っていると思います。早く送ってやって下さい」

 長は、彼の夜空のような瞳を見詰め、頷いた。

「承知した」

 男たちは刀を佩き、ビーヴァも額帯ひたいおびを結びなおした。

 祭司王でもある長は、氏族の者の前にたち、炉に向かって胡坐を組んだ。ユゥクとアンバ(虎)の姿を彫刻したシラカバの冠をかぶり、ハッタ(梟)の羽根で作られた刷毛を持ち、神霊をぶための玉を首にかける。ウオカを炉に注ぎ、イトゥを振って、火の女神に祝詞のりとを捧げた。

 祝詞の間に、村人たちは一人ずつタミラの枕頭に近づくと、彼女の顔を撫で、いっそう声をあげて泣いた。こうすることで、故人との別れを惜しむのだ。

 女たちの声は、次第に合わさってひとつの歌のようになり、人々の心を振るわせた。

 王が謡う――


   いとおしいタミラ

   我らが姉であり 母であったひとよ

   別れを言うことになろうとは 思ってもみなかった


   あわれなタミラ

   いつも優しく 子どもらを導いてくれたひとよ

   こんなことが貴女の身におころうとは 我らは思ってもみなかった……


 ――カタン、と板を踏む音がした。

 ビーヴァは、シャム(巫女)の装束をまとったキシムを見て、思わず目を瞠った。他の者も、ラナの母(先代の巫女)が逝去して以来十数年ぶりに目にする巫女の正装に、圧倒されている。

 キシムは、枝分かれしたユゥクの角とロカム(鷲)の羽根の冠をかぶり、朱と墨で彩色した木の面で顔を覆っていた。シャラシャラと音のする骨やギョクをぶら下げた白い衣をまとい、太鼓と杖を手にしている。

 彼女は、迷うことなくビーヴァの正面に来て腰をおろすと、面をあげ、深々と一礼した。

 赤みがかった褐色の瞳が、炎を浴びてきらりと光った。その鋭さに、ビーヴァは一瞬気圧されたが、しきたりどおり頭を下げて彼女を迎えた。

『いつもは男の格好をしているのに、シャムのときは普通なんだな……』どうでもいいことを、ふと考える。

 キシムは、王とも挨拶を交わすと、改めて顔を覆い、立ち上がった。衣の袖と裾に縫いつけられた羽根と玉を揺らし、太鼓を叩いて踊り始める。

 彼らの守護神たる火の女神に、死者を先祖のところへ連れて行ってくれるよう祈る。


   美しきモナ・テティ(火の女神) ムサ(人)の母 あわれみ深き神よ

   畏れながら 願い奉ります

   ここに我らが姉 タミラ 葬送を執り行うとて 集まりし者

   言うまでもなく 行いすぐれ テティ(神々)をうやまいし者なれば

   イトゥ ウオカ ホウワゥ(鮭に似た魚) 供え奉る


   聡明なるモナ・テティ 寛大なる母 生命いとおしむ神よ

   貴女の指示に従い 願い奉ります

   ムサ・ナムコ(人間の国)を去る者 シャナとアロゥを結びし者 タミラ

   父の名は ウカル 母の名は サトゥラン 

   これらの品を携え かの地へたどり着かんことを


      テティの窓に鎮座する シラカバの神 

      恵み深き イェンタ・テティ(狩猟の神)

      雄弁なる エンジュの神

      天空の勇者 スカルパ・テティ(雷の神)


      これらの神々 同胞の力 すべてを集め願ったものの

      我らが姉を とどめること叶わず


      今はテティ(神霊)の姿となりし者

      葬送の儀 すべてを託し 氏族の墓標へ モナ・テティの御名を描き

      死者の名を記し 我らともに授けた

      知らぬことなからん


   偉大なる天神の娘 双子の母 モナ・テティよ

   畏れながら 願い奉ります

   新しきテティ ムサ・ナムコとの絆を断ち 

   貴女の加護のもと 迷うことなく兄神のもとへたどり着かんことを……



 二匹の犬が捌かれ、料理されて運ばれてきた。旅立つ死者のために、氏族全員で共食するのだ(捌かれた犬たちは、テティ・ナムコへ向かう霊を案内することになっている)。

 ビーヴァは、キシムの太鼓に合わせて拍子木を叩き、唱和しながら、犬の肉の入った汁を少しだけ口に運んだ。

 儀式は次第に盛り上がり、悲しみ極まった女たちの泣き声が、部屋に響いた。

 ビーヴァは、自分の心が痺れていることを、他人事のように感じていた。


 祈り終えると、彼らは、タミラの身体を樹皮で覆った。ここでも別れの儀式があった。

 男の場合、遺体の傍らにユゥクの角製のマラィ(片刃の刀)を添え、女の場合、故人の最も貴重な玉を添える。ビーヴァが選んだのは、母から預かった翠玉の首飾りだった。父が母に贈ったものなので、母に返すことにしたのだ。

 そして、一同が外へ出ると、王は家に火を放った。

 人々が見守る中、タミラは、彼女の家とともに燃え上がった。


          *


 儀式が終わったのは、辺りが薄暗くなった頃だった。その間、ビーヴァは、ソーィエたちとともに家の前に腰を下ろし、炎が全てを運び去っていくさまを見詰めていた。

 エビは、涙ひとつ見せずに淡々としている友を、案じていた。――彼も、妻子を攫われているのだが。それにしても、ビーヴァは静かすぎる。もしかして、あまりに悲惨な出来事に、心のどこかが壊れてしまったのではなかろうか。と思う。

 炎が燃え尽きると、人々は、モミの緑枝を並べて遺体を覆った。こうして雨露をしのぎ、三日後、灰と骨を氏族の墓地へ葬るのだ。

 王は、仮面を外すキシムに礼を述べた。

「よい弔いであった。礼をいう、シャナ族のキシムよ」

「…………」

 キシムは、神妙な表情で頭を下げた。

 王は、影のように佇むビーヴァに話しかけた。

「ビーヴァ。よければ、私の傍にいてくれないか」

 ビーヴァは項垂れていた顔をあげ、王を見た。王は、おもむろに頷いた。

「タミラは、乳母として立派にラナを育ててくれた。だからと言うわけではないが。ビーヴァ、私は、お前を息子のように思っている」

「…………」

「今、ラナは連れ去られ、タミラは去った。私には、お前が必要だ」

 王の深い声は、かすかに震えていた。

 真摯な申し出であったが、ビーヴァは眼を伏せ、すぐには答えなかった。嫌がっているわけではない。事態の急な変化に、頭がついていけていないのだ。

 本来、葬送の儀式は、数日かけて行われる。死に装束や墓標の作成などにも時間をかけて、遺族が別れを受け入れるための準備を行う。

 それが――ビーヴァは出かけていて、戻ったときには、既に母は死んでいた。氏族の歴史の中で、彼女のような死に方をした者は、はじめてだろう。

『無理もない』と、エビは思う。無愛想なキシムも、流石に心配そうに青年を見守っていた。

 やがて、ビーヴァは、消え入りそうな声で囁いた。

「ありがとうございます。でも、今は……時間を下さい」

 王は、落ち着いた顔で頷いた。

「分かった。待っている」

 そう言うと、ワイール族の長に声をかけ、踵を返した。キシムが、シャムの太鼓と仮面を手について行く。

 エビは、ビーヴァの肩に手を乗せた。

「ビーヴァ。俺のうちへ来い」

 軽く揺さぶって、注意を引く。自分でも思いがけないほど、しんみりとした口調になっていた。

「今は、俺も独りだ。それに――」

 ビーヴァは、力なく頷いた。エビは彼に近づき、囁いた。

「――俺たちには、しなければならないことがある。だろう?」

「…………」

 ビーヴァは顔を上げ、ナムコに戻って以来、はじめてまともにエビを見た。友の目を見詰め、そして、静かに肯いた。


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