第一章 父と子(5)
5
永遠かと思われる夜が明け、壁板の隙間から、白い光がさしこんできた。縛られた腕で膝をかかえてうずくまっていたマシゥは、顔を上げ、小屋のなかを見回した。
水と干した魚と、寒さをしのぐための毛皮を与えられていたが、とても食事をする気になれず、まんじりとも出来なかった。心の中では、コルデに対する怒りが、激しく渦を巻いていた。
どうしてこんなことに……と思う。一刻も早くエビとビーヴァに会って、誤解を解きたい。
人の話し声が聞こえ、足音が近づいてくると、彼の鼓動は速まった。
閂が外され、扉が耳障りな音をたてて開かれる。逆光にしずむ影のなかに見慣れた顔をみつけたマシゥは、急いで立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。
「エビ、ビーヴァ」
「出ろ」
マグが、彼の手首を掴んで引き起こす。マシゥは、眩しさに眼を細め、よろめきながら外へ出た。
槍や刀を手にした男たちが、小屋の周りを囲んでいる。男装のキシムの姿もあった。エビは、彼から数歩離れたところに立っている。ビーヴァはマシゥに横顔を向け、彼を見るまいとしていた。
マシゥは、ごくりと唾を飲み下した。かすれた声で懇願する。
「エビ、話を聞いて欲しい。どうか――」
しかし、エビの表情は険しく、瞳には暗い敵意が宿っていた。その眼差しに出合うと、マシゥの声は、しりすぼみに消えていった。昨日と同じく、自分の評価が既に決められていることに気づく。
もはや、彼らにとって、マシゥが本当にコルデと共謀していたかどうかということなど、どうでもよいのだ。コルデと同じエクレイタの民であるということが、結ばれつつあった絆を断ち切ってしまった。
マシゥは、今までそんな障壁を感じたことはなかった。ビーヴァとエビは、彼が何者かということより、どんな人間であるかをみて、受け入れてくれていた。彼らの間に、互いの所属する民族に関する偏見は全くなかった。
それが、たった一夜で変わってしまったのだ。
コルデという男の所為で……。
――気づいたとき、マシゥは、粉々に砕かれるような気分を味わった。言いたかった言葉のほとんど全てを失ってしまう。
男たちは、肩を落とす彼を連れて歩き出した。
エビたちは、ナムコ(村)を出て、東の森へ入って行った。マシゥは、腕を縛られたまま引かれて歩いた。頬に触れる日差しは暖かく、風にそよぐ葉ずれの音はやわらかかったが、景色を鑑賞している余裕はない。どこへ向かっているのか判らなかったが、しばらく行くと、少しひらけた場所に到着した。
そこでマシゥは、苦いエビの声を聞いた。
「お前を招いたのは、俺たちだ。だから、俺たちには責任がある」
マシゥはギクリとして、彼を見た。それから、ビーヴァを顧みる。
マシゥは、二人がテサウ砦の近くに置いた『しるし』に導かれて、この地へやって来た。コルデは彼を囮にして、ナムコ(集落)を襲った。
全ては、一本の矢から始まったことだ。
今更のように二人の立場に思い至ったマシゥは、ぞっとして立ち尽くした。頭から、ざあっと音を立てて血がひいていく。背筋を冷たいものが流れ落ちた。
「ビーヴァ」
青年は、彼と視線を合わせようとしなかった。項垂れ、貝のように口を噤んでいる。
妻子を攫われたエビ、母を殺されたビーヴァの心情を思うと、マシゥの声は震えた。
「エビ……」
「こっちだ」
エビとマグは、両側からマシゥの腕を掴み、後ろ向きに引き摺るように連れて行った。ビーヴァから離れ、一本のエゾマツのところまで来ると、そこで彼を突き飛ばした。
マシゥは木の幹に背中をぶつけ、尻餅をついて座り込んだ。不平を言う気持ちは起きなかった。マグがイラクサの縄を使って彼の身体を幹に縛りつけるのを、茫然と見守った。
エビが、彼の懐に片手を入れ、灰色の瞳を睨みながら言った。
「こいつは、返してもらうぞ……」
抗議するいとまもなく、ビーヴァの矢が取り出され、持ち主の手に戻された。ビーヴァは、平板な眼差しでそれを眺めると、ぽいと足元に投げ捨てた。――それにまつわる記憶も、全て棄て去るかのように。
そして、マシゥは一人ぼっちにされた。
十数歩の距離をおいて、ビーヴァとエビが立っている。他の男たちは、彼らを遠巻きにした。さらに離れた木陰に、女たちが隠れている。
何度見渡しても、ワイール族とアロゥ族の長の姿はみつけられなかった。
『すると、これは私刑なのだ』
理解したマシゥの身体に、震えが走った。身体の芯が、すうっと寒くなる。
王は、二人が自分たちの手でことを終わらせることを許可したのだろう。或いは、命じたのかもしれない。マシゥに釈明の機会を与えず、二度と彼らを惑わすことのないように。
凝然と見開かれたマシゥの瞳に、ビーヴァの姿が映った。エビが、彼に一本の矢を手渡している。場を支配する痛いほどの沈黙の中、声にならない囁きを、唇の動きから読み取ることが出来た。
「タミラは、お前の母親だ。お前が決めろ」
ビーヴァの闇色の瞳に、小さな火が点る。青年は、無言で顔を上げ、弓に矢をつがえた。マシゥに向かって引き絞る。仕草は無造作だったが、彼がこの距離で的を外すはずがない。
もう、声は届かない……。
キリリと弦の鳴る音が聞こえた気がして、マシゥは眼を閉じた。せめて、一撃で仕留めてくれることを願う。
――どれくらい、経ったろう。
いつまで待っても痛みが来ないことに気づいたマシゥは、おそるおそる片目を開けた。ビーヴァは矢を足元へ向け、じっと彼を見詰めている。相変わらず無表情で、精気のない眼差しから、考えを読み取ることは出来ない。
フッフッという音が聞こえ、頬にあたたかな息がかかった。マシゥは、もう片方の眼も開けてみた。セイモアが、藍い瞳で彼を見詰め、ぱふっと尾を振った。
足の先では、ソーィエが、彼の靴のにおいを嗅いでいた。二匹とも、マシゥの縛られている理由が分からないので、遊んでいると思っているらしい。
マシゥは、すこし拍子抜けした。ビーヴァが動く気配はない。しかし、彼が呼びかけようとすると、いきなりまた弓を向けてきた。
「…………!」
今度は、身構える隙がなかった。矢は、マシゥの腕をかすめ、彼を縛っている縄を貫き、マツの幹に突き刺さった。
ドスッという衝撃に続き、ビイィー……ンと鈍い音をたてて、矢羽根が震えた。
マシゥは、これ以上はないというほど眼を見開き、息を止めていた。
セイモアが、楽しげに瞳を輝かせ、ぴょんと跳ねた。ソーィエは、耳を立てて尾を振った。男たちの間から、溜息がもれる。キシムは肩をすくめ、首を振った。
わざと外したことは、誰の目にも明らかだった。
ビーヴァは、矢を放った姿勢で佇んでいたが、やがて腕を下ろし、弓を下げた。マシゥから視線を逸らし、項垂れる。ソーィエとセイモアが足元に駆け寄ったが、目に入っていない風だった。
マグはビーヴァに近づいて、その肩に手を置いた。他の男たちも、一人ずつ彼に近づき、軽く触れて去っていく。女たちは、木立へ消えた。
誰もが無言だった。
「…………?」
マシゥは、呆然と周囲を見回した。
キシムが瑪瑙色の瞳でじろりと彼を睨み、踵を返す。そして、マシゥとエビとビーヴァと、二匹だけが残された。
「…………」
エビは眉間に皺を刻み、胸の前で腕を組んで、複雑な表情をしていた。友の選択を是とするべきか非とするべきか、悩んでいるのだ。けれども、最初から取り決めがしてあったのだろう、ビーヴァの背にねぎらうように掌を当てた。
ビーヴァは友をちらりと見遣り、再び眼を伏せた。悄然と佇む姿は、まるでたった今ひとを殺してきたかのようだ。事実は全く逆であるのに、彼の方が打ちのめされている……。
ビーヴァは弓を肩に負い直し、エビを残して歩き出した。ナムコとは反対の方向へ向かう彼の後を、ソーィエとセイモアが、尾を振りながらついて行った。
マシゥは、声をかけたいと願いながらかけられず、もどかしい気持ちで青年を見送った。それから、エビを顧みる。
エビは、むっつりと口を閉ざし、渋い顔で彼に近づいた。傍らにしゃがみこみ、腰に提げた鞘から小刀を取り出す。
「エビ……」
マシゥの口の中はからからになっていたので、唾を何度も飲み込まなければならなかった。言いたいこと、訊きたいことは無数にあるのだが、言葉をみつけることが出来ない。
エビは、彼を無視した。視線を合わさず、声をかけることもしない。矢を抜き、縄の結び目を断ち切ると、手首を縛っていた革紐もほどいて、マシゥを自由にした。
マシゥは、すぐには立ち上がることが出来なかった。痛む腕をさすりながら、精一杯の想いをこめて彼を仰ぎ見た。
エビは立ち、そんな彼を見下ろした。黒い瞳はもの言いたげだったが、結局、無言のまま踵を返した。ビーヴァが去ったのとは反対の方角――村へと、帰っていく。
そして、マシゥはひとりになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます