第一章 父と子(3)
3
『なにかの間違いであってくれ』
ユゥクの背に揺られながら、マシゥは、心の中で唱えていた。
『誰か、嘘だと言ってくれ……』
マシゥたちが出発した直後に、コルデ率いる砦の男たちが集落を襲い、火を放った。アロゥ族の人々を傷つけ、女性と子どもたちを攫い、毛皮と食糧を奪い、舟を盗んだ。さらに、子どもたちとの交換条件に、
マグ(アロゥ族の青年)の報告を聴いたマシゥは、愕然とした。
ビーヴァの母親が殺され、攫われた者のなかにエビの妻と子と、彼らの大切な巫女――王の娘が含まれていると聴くと、マシゥの身体は震えはじめた。頭の中が真っ白になる。
『なんということを……』
レイム神の御名を呟き、胸の前に紋章を描く。そうしながらビーヴァを見たマシゥは、青年が蒼ざめて今にも倒れそうになっていることに気がついた。エビは、黒い眼をこれ以上はないほど大きく開けている。
和やかだった歓迎の宴は、不審と戸惑いを含む沈黙に支配された。
マグは、マシゥの胸に槍の穂先を向けたまま、ワイール族の長に報告を続けた。憎しみに掠れた声を聞いているうちに、マシゥは、自分がコルデと謀って彼らを陥れたと思われていることに気がついた。
『そんな――』
誤解だ、と言いたかった。
けれども、母の死を告げられたときのビーヴァの顔を見ると、彼は言葉を失った。トゥークがコルデを手引きしていたと聞くと、『謀られた』と思った。
犬使いは、コルデの指示で、言葉を教えてくれたのだ。無骨な男のぎこちない親切も、自分を騙すためのものだったのだろうか。そう考えると、マシゥは、腹が立つより哀しくなった。
犬使い父子だけではない。エビ、ビーヴァ、ワイール族の人々……。この地で得た温かなものが、一人の男の悪意によって遠ざけられ、急速に冷え固まっていく。
マシゥは、無力感に打ちのめされた。
ディールは項垂れた。こちらも、父と弟の消息を知った喜びが、絶望にとってかわられたようだ。
ワイール族の長は、報告を聴き終えると、眉間に皺を刻み、顎を撫でた。
「俄かには、信じがたいことであるが」
視線が、マシゥの上で揺れた。
「さて、どうしたものか……」
「こいつを殺させて下さい」
マグは、額から血を流しているマシゥを睨みつけた。槍は、彼の喉を狙っている。
「この男は、我々を騙し、仲間を傷つけた。我が氏族の敵だ」
「ま、待って下さい」
「まあ、待て」
弱々しいマシゥの声と、落ち着いた長の声が重なった。長は、マシゥの隣に座っているビーヴァを、いたわるように眺めた。
「それは、王の意向ではなかろう。ここでこの男を殺したとて、子どもたちが帰ってくるわけではない。……いや、生きたままナムコ(集落)へ連れ帰り、王の判断を仰ぐべきだ。それによって、我々の今後も変わる故」
それで、マグは不承不承槍を下げた。マシゥは、ほうと溜息をついた。しかし、気を抜くことは出来なかった。
長は、今度は厳しい表情でマシゥを見据えた。口調と眼差しから、先刻までの温かさは微塵も感じられない。
「かの氏族には、身内のいる者も多い。急ぎアロゥ族のナムコへ向かい、同胞の無事を確かめねばならぬ」
炎が投げかける光の環の辺縁で、男たちが頷く。長は、凛とした声をはりあげた。
「我こそ、と思う者は申し出よ」
たちまち、数人の男が名乗りをあげ、女たちの中にも手を挙げる者がいた。アロゥ氏族から嫁いで来た者や、逆に嫁いでいった娘の親兄弟たちだ。姻戚ではなくとも、純粋に手伝いを申し出る若者たちもいる。
長は、彼らを頼もしげに眺めた。
「俺も行きます」
項垂れていたディールが、顔を上げる。翳のある硬い表情を、長は無言で見詰めた。
「族長」
それまで黙って話を聴いていたキシムが、片手を挙げた。ビーヴァとマシゥをちらりと見て、長に向きなおる。毅然とした面は、男たちと比べて遜色がない。
「アロゥ族のナムコへ、オレも行きます。カムロ(シャナ族の長)とロコンタ族には、ホウク(シャナ族の男)が報せましょう」
この申し出に、長はほっと息をついた。
「そうしてくれるか」
ホウクが頷く。キシムは、マシゥを横目で見て続けた。
「オレたちには、ユゥクがあります。歩くより速い」
長は、改めて一同を見渡した。
「では明日、夜明けとともに出発する。みな、心しておくように」
――そして今、マシゥは手首を縛られて、ユゥクの背に乗っている。
マグは彼に対する憎しみを隠そうとせず、自由にさせておくことを拒んだ。それで、エビが彼の両手を身体の前でくくり、キシムがユゥクを提供した。
こんなことをしなくとも、マシゥに逃げるつもりはなかったし、森の中で彼らから逃げおおせるとも考えられなかったのだが……。歩く速さのことを考えれば、彼をユゥクに乗せるのは正しい選択だと言えた。
族長は、有志の者を十五人選び出した。女たちは食糧を、男たちは武器を携えている。キシムがユゥクの手綱を引き、一行は徒歩で進んだ。
『どうか、間違いであってくれ』
マシゥは祈り続けた。
『誰か、嘘だと言ってくれ……』
あれから彼は、エビとビーヴァと話をすることが出来なかった。マグが、常に隣で見張っているからだ。二人の方も、彼にどう接すればよいか判らないらしい。エビは眉間に皺を刻み、ビーヴァはずっと項垂れている。
ともに旅した日々を思い、交わした言葉を思うと、マシゥの胸は痛んだ。タミラのことはよく知らないが、母への想いが民族によって変わるはずがない。もともと不思議な透明感をもつビーヴァが、今では精気を失った影のように見え、マシゥは我が身をかきむしりたくなった。
なんとか、誤解を晴らしたい……。
けれども、ワイールの族長は、彼に釈明の機会を与えてはくれなかった。すべてはアロゥ族のナムコに到着し、事実を確認してからだと言う。
セイモアは、もうビーヴァの外套の懐に入れないほど大きくなっていたので、彼の足元をソーィエと並んで歩いた。時折遅れつつ、嬉しげに尾を揚げ、ぱたぱた振っている。事情を知らない仔狼と赤毛の犬だけが、上機嫌だった。
一行は、嵐のあとでいっそう緑の濃くなった森の中を、粛々と進んだ。
森で二晩を過ごし、三日目、うす紅色の朝の光にひたされたオコン川の対岸にアロゥ族の集落が見えると、マシゥの鼓動は速くなった。ユゥクに乗ったまま橋を渡り、サルヤナギの木立を抜けていくうちに、彼のささやかな希望は、落胆へと変化した。
そこかしこに、瓦礫が散らばっていた。火を点けられ、倒された家と倉庫の残骸だ。壊れた橇や土器の破片もある。歯が抜けたようにまばらになった建物の間で、アロゥ氏族の人々が、片づけをしていた。
村人たちは、ワイール氏族長の姿を認めると手を止め、頭を下げた。男たちは足を止めることなく、頷き返す。疲れきった様子の女たちを見て、キシムは眉根を寄せた。
「ひどいな……」
エビとビーヴァ、ディールも、顔面は蒼白になっている。
以前来たときには辺りを元気に走り回っていた子どもたちの姿が、今はひとりも見当たらない。マシゥの背中を冷や汗が流れ、再び身体が震えはじめた。ユゥクの背に乗って肩を落としている彼を見ると、アロゥ氏族の人々は顔を見合わせ、ひそひそと囁き合った。
一行は、村の広場へ入って行った。そこが、被害の最も大きな場所だった。
王の家は、きれいに無くなっていた。真っ黒になった柱と茅が、片隅に積み上げられている。雨で洗われた地面には、未だに、篝火の跡が残っていた。ものの焦げる臭い、血の臭い、恐怖と怒りの残響が、辺りに漂っているように感じられる。
焼け跡の隣には、新しいシャム(巫女)の家があり、女たちが忙しげに出入りしていた。マグが一行の到着を報せに行くと、王が姿を現した。
白いすじの増えた顎鬚を垂らした族長は、憔悴した顔をぱっと輝かせた。
「ワイールの兄弟! よくぞ来て下さった」
両腕をひろげ、駆け寄ってくる。途端に、ワイール族の人々が――キシムとビーヴァ、エビも、一斉に跪いたので、マシゥは目を瞠った。
ワイール族の長は立ち上がり、一礼して王を迎えた。
「王よ。報せを聞き、急いで参上した。シャムが攫われた、と――」
「うむ」
疲労と悲しみにやつれた王は、周囲を目で示し、うめくように答えた。
「全く思いがけぬことであった。彼らの善意を信じていたのだが……」
その眼がマシゥを認め、細くなった。
「お前は――」
両腕を縛られた状態でユゥクの背から降りようとしていたマシゥは、慌てて頭を下げた。
ワイール族の長が、ビーヴァの背を押し出した。
「ちょうど、我がナムコに到着したところでした」
青年を見ると、王の瞳は曇り、吐息は震えた。視線を上げるビーヴァに、王は頭を下げた。
「すまぬ……。父ばかりか母までも、私は、守りきることが出来なかった」
「…………」
ビーヴァは囁いたが、言葉は声にならなかった。王は頷き、シャムの家を示した。
「今、
「…………」
それで、ビーヴァは、こわばった表情で歩きだした。主のいないラナの家に向かっていく。ソーィエとセイモアは、迷わず彼について行き、エビは、マシゥを振り返りつつ後を追った。
マシゥは、何とか話のきっかけをつかもうとした。
「あ、あのっ」
もがく彼がユゥクから落ちそうになったので、仕方なく、マグが手を貸した。腕を捕らえられたまま、マシゥは、王に訴えた。
「本当に、コルデが、これをやったのですか? 何かの間違いでは……。行き違いがあったのでは、と思うのです」
「…………」
しかし、王はひややかに彼を見詰め、視線を逸らした。ワイールの族長に話しかける。
マシゥは、己の処遇が既に決められていることを察し、ぞっとした。マグに連れて引かれながら、言葉の違いを忘れて叫んだ。
「お願いです、話を聞いて下さい!」
引き立てられていく彼を、人々は、凍ったような表情で見送った。キシムは、鼻を鳴らすユゥクの顔を撫でて落ち着かせると、一歩前へ出て、アロゥ族の長に一礼した。
男の姿をした彼女に、王も気づいた。
「貴公は……シャナ族の」
「はい」
キシムは肯き、赤みがかった褐色の瞳で王を仰ぎ見た。
「タミラは、我らが姉妹(同じ氏族出身の女性の呼び方)だと伺っています。差し支えなければ、弔いをさせて下さい」
王は、彼女をしばらく見詰めたのち、長い吐息まじりに囁いた。
「我らの許に、今、シャムはいない故……願ってもないことだ。よろしく頼む」
キシムは、神妙に頷いた。
*
「どうか、話を聞いて下さい!」
マグと名を知らぬもう一人の男に両脇を抱えられ、引きずられて行きながら、マシゥは繰り返し訴えた。
「コルデの考えなど、私は知らなかった! これは、エクレイタ王の御命令とは違う。誤解しないで下さい!」
「うるさい。黙れ!」
業を煮やしたマグが彼を殴り、マシゥの眼前に火花が散った。口の中に、血の味が広がる。
二人は、唇の端から血を垂らしている彼の襟首を掴むと、高床式の倉庫の梯子を昇り、中に押し込んだ。
「わっ!」
背中を押されたマシゥは、腕を縛られているために身体を支えられず、前のめりに倒れた。板に顎を打ちつけて、また昼間の星を見る。座り込む彼に、マグは吐きすてた。
「しばらく、ここに入っていろ。いずれ、王がお前をどうなさるか決める」
「お願いです。王に取り次いで下さい」
踵を返す彼の外衣の裾を、マシゥは掴んだ。
「ビーヴァに……どうか」
「…………」
紫色に腫れあがった額の下から見上げる灰色の瞳の真摯さに、一瞬、マグは心を動かされたようだったが、その手を振り払って扉を閉めた。閂を掛ける音がして、足音が遠ざかる。
マシゥはうずくまり、縛られた腕で頭をかかえた。噛み締めた奥歯の隙間から、嗚咽がもれる。
「ビーヴァ、エビ……」
懐の中で、折れた矢柄が、彼の胸に触れていた。
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