第一章 父と子(2)
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ガツンという衝撃に、ラナは目覚めた。はっとして顔を上げると、櫂を手にしたトゥークと目が合う。二人は、すぐに視線を逸らした。少女の傍らでうずくまっていた子どもたちが、不安げに身じろぎする。
舟は、見知らぬ場所に辿り着いていた。
「降りろ」
男たちに急かされて、立ち上がる。水に濡らさぬよう外套の裾を持ちあげ、舟縁をのりこえながら、ラナは周囲を見渡した。
嵐を避けて一夜だけ岸に泊まったことを除けば、彼女は、ずっと舟内に閉じ込められていた。硬い地面を踏んでいても、身体はまだ揺れていると感じる。舟の木枠を掴み、眩暈が過ぎるのを待った。
アロゥ族の集落から流れてきたオコン川は、濁った雨水を集めて川幅をひろげ、ロマナ湖とまざり合っていた。長い年月をかけて運ばれた土砂が堆積した中州には、木が生い茂り、小さな森となっている。その半分が削られて、灰色の土を晒していた。石と泥を固めた壁が、眼前にそびえている。
違う。見知らぬ場所ではない……。
青空を切り取るとがった砦の稜線を眺め、ラナは考えた。入巫の儀式の際、母に見せられた風景を思い出したのだ。あの時、自分は空からこれを見下ろしていた。河口を挟んだ対岸の森では、エビとビーヴァが様子を窺っていた――。
「こら、さっさと歩け!」
「あっ」
背中を押されて、ラナはよろめいた。傍らにいたトゥークが、咄嗟に手を伸ばして彼女の腕を掴み、支えた。ラナは驚き、思わずその手を振り払った。掴まれたところを庇って身を縮める。
トゥークも自分の行動に驚いていた。少し憮然としたものの、言葉は発さなかった。
コルデは荷物を背に、さっさと砦へ入っていく。舟から降ろされた女たちは、我が子の許へ駆け寄った。赤ん坊を抱いた女が、ラナのところへやってくる。
「ラナさま!」
「ロキ……」
ラナは、ほっと息をついた。エビの妻は、長と同じロコンタ氏族出身の若い女だ。目元の切れ上がった大きな瞳で少女を見詰め、頭を下げた。
「ご無事で何よりです。うちの子の傍にいていただき、ありがとうございました。こんなことになってしまい、申し訳ありません」
「ロキの所為じゃないわ」
ラナは、トゥークに聴かれることを憚って、声をひそめた。
「誰も、こんなことになるなんて、思っていなかったのだもの……」
彼女を慰めるつもりの言葉が、己に突き刺さる。ラナの胸は、じくりと痛んだ。
再会を喜び合う母子を、男たちが急きたてる。その様子を横目でうかがいながら、二人は並んで歩き出した。
ロキが言う。
「これからどうなるんでしょう、私たち」
「分からないわ」
「ラナさま」
眠っている赤ん坊を抱きしめるロキの頬は蒼ざめ、月の紋様が鮮やかに浮かび上がっていた。息だけで囁く。
「奴らは何者なんでしょう? うちの人が連れて来た人に、関係があるんでしょうか」
ラナは、
「今は、そんなことを言っても仕方がないわ。ここから逃げることを考えないと」
「そうですね……」
腰にしがみつく息子の頭を撫でながら、ロキは周囲を見渡した。
女たちは、怯えたユゥクの群れさながら、男たちに追いたてられて進んだ。砦を囲む壁は、一部が切れて入り口になっている。石の屋根と厚い木の扉が、彼女たちを迎えた。その門をくぐり、ひらけた場所に入って足を止める。
ラナは、無数の視線に気づいて顔を上げた。
防壁のおかげで、外を見ることは出来ない。四角い石造りの家が並んでいる。その間から、たくさんの顔が彼女たちを見詰めていた。若い者、やや歳をとった者、子どももいる。どの顔にも刺青はなく、眼差しは
女性の顔は見当たらない。家の中に入っているのだろうか。
ラナは、息が詰まる心地がした。ここには、ヤナギの芽を包む白い綿毛も、モミの緑枝の囁きも、シラカバの梢できらめく木漏れ日もない。空は狭く、風は淀み、小鳥の声は聞こえない。伐り倒され、先端を削って並べられたベニマツは、石に挟まれて死んでいるようだ。
こんなところで、どうして生きていけるのだろう。
異様な雰囲気に怯えた子どもたちが、か細い声で泣き始めた。移動の間、わずかな食事しか与えられていなかった彼らは、みな飢えていた。母親たちは、我が子を抱いて身を寄せ合った。
ロキが、ラナを背に庇う。彼女は、シャム(巫女)を守らなければならないと考えていた。
トゥークは、そんな母親たちの様子を、うす氷のはったような瞳で眺めていた。
コルデは、ヒツジのように集まった女たちを観て、目を
「ご苦労だった。次の仕事まで、ゆっくり休んでくれ。お前たちは、こいつらを角の部屋へ連れて行け」
トゥークを含む数人の男たちが、槍や鞭を手に、女たちに近づいた。言葉は解らなかったが、身の危険を感じた女たちは、素直に指示に従った。
ラナは、ロキの隣を項垂れて歩いた。唇を噛む。少女がはじめて経験する屈辱だった。
女たちは、砦の南西の角へ連れて行かれた。防壁に開いた穴に入る。薄暗い通路を進み、じめじめした半地下の部屋へ通される。彼女たちの喉から、押し殺した嘆きがもれた。
「中へ入れ。ぐずぐずするな!」
男たちは、躊躇っている女たちの腰を槍の柄で小突き、押し込んだ。子どもたちが、また泣き始める。火の気のない湿った部屋の中に、ラナは茫然と立ち尽くした。
「あっ、待って!」
女たちの背後で、ばたんと音を立てて扉が閉ざされる。幾人かがすがりついたが、無駄だった。子どもの泣き声が大きくなる。身体を染め、骨に沁みこむような闇の中に、彼女たちは取り残されてしまった。
ラナは、手探りで部屋の中を動き回った。目が慣れてくるにつれ、冷めた灰の積もった炉や、枯れ草を敷いた石の寝台などが、判るようになってきた。――誰かが、ここで暮らしていたらしい。黴と埃のにおいをかき分けて進むうちに、壁に嵌め込まれた小さな木の扉に気づいた。板と板を継ぎ合わせた隙間から、白い光が糸のように差し込んでいる。
「ここに、窓があるわ。ロキ、手を貸して」
扉の横木に手をかけて引き抜こうとしていると、片腕に赤ん坊を抱いたロキがやって来て、背後からそれを押した。途端に、流れ込んできた光に頬を叩かれ、ラナは眼を細めた。風が、波の音を運んでくる。水と木の匂いが、淀んだ空気を動かした。
一ナイ(約四十センチ)ほどもある厚い壁をくりぬいて作られた窓は、小さな子どもなら通り抜けられるほどの大きさがあった。期待して肩を押し込んだラナは、絶望の呻き声をあげた。
「そんな……」
窓のすぐ下で、湖の水面が揺れていた。
トゥークは、かつてマシゥが使っていた部屋にラナたちを閉じ込めると、他の男たちと共に団長の部屋へ向かった。道すがら、時々後ろを振り返った。
男たちは、コルデの部屋の前で、奪ってきた品の分配を始めていた。
ユゥクの毛皮があった。干した魚も。生命の樹の紋様を彫刻したシラカバの小函、磨いた玉の腕輪、瑪瑙、琥珀の首飾り。貴重な石細工に、男たちは大喜びだった。いつの間に奪ってきたのか、毛皮のついたゴーナ・テティ(熊神)の頭をかぶって踊り出す男を見て、トゥークは目をまるくした。酒を飲んでいるらしい。
コルデは、丸めた鞭を肩にかけ、干し肉を齧りながら、滑り板を手にしていた。縫い止めてある腱糸を切りほどき、底に張ってある毛皮を剥がす。湾曲したマツの板を露わにすると、無造作に足元に投げ棄てた。残ったオロオロの毛皮を、満足げに眺める。
他の男たちも、同じことをした。棄てられた板が見る間に山となり、剥がされた黒い毛皮が男たちの手の中でひらひらと揺れる。
トゥークは、眼を細めてこの光景を眺めた。
「これだけあれば、けっこうな量のパンサ(麦の一種)と交換出来ますぜ、ダンナ」
部下の一人が提案する。コルデは、毛皮を撫でながら、フンと鼻を鳴らした。
「必要となればな。」
干し肉を口に含んでいるせいで、彼の声はくぐもっていた。唇の端を吊り上げ、
「食糧があるうちは、そんなことをする必要はない。石は、ニチニキの連中にくれてやれ」
「奴ら、本当に持って来ますかね?」
別の男が言う。閉じた門の方を見遣ったのは、そちらから現れるものを期待してか、恐れてか。上目遣いに団長を顧みた。
「水鼠の毛皮三百枚で、本当に女たちを帰してやるんで?」
「まさか」
コルデは含み笑いをした。男の肩に腕をまわし、引き寄せる。そうしながら、鈍く輝く碧の瞳が、離れたところに佇むトゥークを映した。
トゥークは、背筋がぞくりとした。
にやりと口元だけで嗤い、コルデは、少年にも聞こえる声で言った。
「俺は、奴らが持っているものを寄越せと言ったんだ。女も犬も、食糧も。帰してやる義理はない」
「しかし、いつまでもここに置いておくわけにはいきませんぜ。食い物が足りなくなる」
「水だけを与えておけ」
男たちが、革袋に入った酒をまわしてくる。受け取って口にそそぎ、コルデは、愉快そうに笑った。
「三日もすれば、女どもは音をあげる。そうしたら、好きにしろ。ガキや赤ん坊は、殺して構わん。女さえこちらに置いておけば、連中はどうとでもなる」
コルデはトゥークを見て、片手を挙げた。
「なあ、小僧。俺たちも、そろそろ奴隷を持ってもいい頃だと思わないか?」
「…………」
トゥークは、胸の奥からこみあげるものをかろうじて呑み込むと、踵を返した。走り去る少年の背中に、男たちは、下卑た哄笑をあびせた。
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