第二部 裏切の報酬

第一章 父と子

第一章 父と子(1)



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 冬用のチューム(円錐住居)の入り口は、ユゥク(大型の鹿)とゴーナ(熊)の毛皮によって被われていた。爪のついた巨大なゴーナの毛皮を眺めてぽかんと口を開ける友人に、トゥークは言ったものだ。

「すごいだろ。父さんが、独りで狩って来たんだぞ」

 氏族一の狩りの腕前をもつ父は、少年の誇りだった。

 その父が、追放される。


 ――その夜、トゥークは、兄とともにユゥクの毛皮をかぶって横になったものの、まんじりとも出来ずにいた。頭の中では、掟を破った者に追放を言いわたす族長の声と、項垂れてそれを聞く父の横顔が、浮かんでは消えていた。ナムコ(集落)の中心にしつらえられた評定の場で、仲間たちが見守るなか、告げられたのだ。

 それは、少年にとって、ゆたかな情愛に満ちた日々が終わりを告げた瞬間であった。

 追放された者は、誰にも見られぬよう、夜が明けぬうちに集落を離れなければならない。わかっていても、見送ることは許されない。トゥークだけでなく、兄と母も、寝床の中で息を殺しているはずだった。

 風が、長く引き伸ばした悲鳴をあげていた。夜明けが近づくにつれ、冷気がチュームの中に沁みてくる。背中をあたためる炎の力を感じながら、疲れたトゥークがうとうととしかけた時、囁くような声が聞こえた。

 はっと、彼は眼をみひらいた。

 ゴーナの腕が、命あるもののように揺れて、元の位置に垂れ下がる。犬の唸る声、雪を踏む足音が、かすかに聞こえた。

 咄嗟に、トゥークは起き上がり、炉の中から火のついた薪を一本掴むと、外へとびだした。


 炎は、北風にあおられながら、降りしきる雪を照らし出した。

 雪片は、風に吹き上げられ、木々の枝をかすめ、次から次へと渦を巻く。大地の底が抜け、天は遠ざかる。少年は、果てのない虚無に吸い込まれそうに感じた。

「父さん!」

 口を開けると、粉雪がどっと舞い込んで、息を詰まらせる。頬が、風に触れた部分から、みるみる凍っていくのが分かる。トゥークは、痛みに耐えて目を凝らし、声をかぎりに叫んだ。

「待って!」

 激しくなっていく雪が、闇を覆い隠そうとする。その中で、灰色の影が動くのが見えた。そちらへ向かおうとした少年は、雪に足をとられて転倒した。薪が落ち、火が消える。

 膚を刺す痛みに呻きながら身を起こす。彼の腕を、何者かが引っ張った。

「トゥーク」

 別の火が、父の顔を照らし出した。雪焼けした頬には、紫の凍傷が出来ている。傍らで松明を持つ女が、心配そうに少年を見下ろしていた。

 父は、凍った髭の隙間から、早口に言った。

「来てはいけない。帰れ」

「行かないで」

 父の腕を掴み、トゥークは訴えた。

「行ったら死んでしまう。ここに居て」

「トゥーク……」

 父の顔が、苦痛に歪んだ。女は、不安げに彼を顧みた。

 吹雪の夜にナムコを出れば、凍死する危険がある。のみならず、トゥークは、父が死ぬつもりであると感じていた。狩人のほまれを得ながら掟を破り、全てを奪われて追放された父に、生きる意志があるとは思えない。

 カチクとリィヤのように、イングとリングゥンのように――二人が共に死ぬことを、おそれていた。

 父は、息子の肩をそっと押した。

「死にはしない。だから、帰れ」

「いやだ!」

 父の手は乱暴ではなかったが、トゥークはよろめいた。目に涙が溢れてくる。少年は、外套の袖で目元をこすると、憎しみをこめて女を指差した。

「お前が悪いんだ! お前が、一人で行けばいい。父さんはここに居て。行っちゃ嫌だ!」

「トゥーク」

 父に叱責されてトゥークは口を噤んだが、女を睨み続けた。女は、力なく項垂れた。手にした松明の炎が、今にも消えそうに揺れる。

 父は白い息を吐くと、少年の前にかがみこんだ。両手を息子の肩にそえる。

「これは掟だ。聞き分けのないことを言うな。帰って、母さんの傍にいろ」

「嫌だ! なら、一緒に行く」

 少年は、足を踏み鳴らした。父の頬が、さらに苦しげに歪んだ。

「父さんが行くなら、俺も、一緒に行く! 絶対に、行っちゃ嫌だ!」

 泣きながらしがみつく息子を、父は、困って見下ろした。女も、少年をなだめる言葉をみつけることが出来ない。立ち尽くす彼らは、そのまま雪の柱になるかと思われた。

 男は、息子の腕を掴んで体から引き剥がすと、その顔を覗きこんだ。真摯な黒い瞳が、泣きはらした赤い目を見詰めた。

「……本気か?」

 トゥークは頷いた。女が、はっと息を呑む。

「あんた……」

「本当に、一緒に来るか?」

 女には構わず、父は繰り返した。トゥークは、真剣に頷いた。二人の瞳の間を、火花が走った。

 父は無言で立ち上がると、息子の腕を掴んで歩き出した。膝まで雪に埋もれてよろめく少年を、ぐいと引く。力強い手に手を預け、トゥークは懸命に歩いた。


          *


 トゥークと父と女は、ロマナ湖のほとりで暮らし始めた。ワイール族は、ホウワゥ(鮭の一種)やユゥクの移動に合わせてナムコを移動させる。かつての仲間にみつからぬよう隠れて暮らす三人は、次第に湖の東岸へと移って行った。

 生活は、苦しかった。父がいくら腕のよい狩人でも、よい猟場を得られなければ、獲物にはありつけない。三人は、たびたび飢えに襲われた。そんな時、トゥークは癇癪をおこして父と女に当たったが、二人は無言で堪えた。

 トゥークは、仲間のところへ戻ろうとは考えなかった。掟を破って父について来た以上、戻ることは出来ないと理解していたし、自分がいることで父の自殺を防げればと願っていた。だから、たまに森で仲間の姿をみかけても、声をかけることはしなかった。

 実際、トゥークの父が死のうとすることはなかった。だが、うるおいのある暮らしともいえなかった。

 やがて雪が融け、黄色いフクジュソウの花が咲き、白い夜が訪れた。キイチゴやコケモモが実り、リスがマツの実を齧る音が森に木霊すると、風が冷たくなった。天神の燃やす炎(オーロラ)が、何度か夜空を彩った。

 寄るべなき者たちの上に、時は通常の数倍の重さでのしかかった。

 三人の心には、澱のように疲労が溜まっていった。父の背は曲がり、女の皺は増え、頬はこけた。トゥークの背は伸びたが、肉づきは悪かった。少年の成長に必要ななにかが、あの日欠け落ちたままだったからだ。

 飢えと孤独が、三人をいっそう無口にした。

 四度目の夏が過ぎる頃になると、トゥークは、自分が何故生きているのか解らなくなっていた。


 その年の秋に彼らを見たとき、少年は特に驚かなかった。そんな感情は、とうにしなびていた。

 色が白く、テティ(神々)の刺青のない民。エクレイタの開拓者たちは、まず湖の東岸に拠点を定めた。森の木を伐り、それを重ねて囲いを造り、土を掘って種を蒔く。石で家を建て、毛むくじゃらの家畜を飼う。――変わったことをする連中だな、と思っただけだった。

 彼らが森へ入り、同じ獲物を追わない限り、問題となることはない。トゥークは無関心を決めこんだ。

 父と女は気にしていた。特に父は、彼らが根こそぎ木を伐ってしまうのを観て、眉をくもらせた。それだけなら、本当に関わることはなかったろう。

 五度目の冬に、女が倒れた。

 日ごろの無理がたたったのか、女は高熱を発し、寝込んでしまった。ホウワゥの煮汁やヌパウパ(ヤマニラ)を漬けた酒の効果もなく、彼女は何も口にすることが出来なくなり、どんどん衰弱していった。

 途方に暮れる父の背中を、トゥークは冷ややかに眺めていた。

 死ねばいい……と思っていた。

 女はそれまで、少年に辛く当たったことはなかった。むしろ三人で暮らしはじめてからは、気を遣っていると感じられた。それでも、彼にとって、女は常に邪魔者だった。

 この女の所為で、自分たちの平和な暮らしは壊れたのだ。母は傷つき、父は追放された。こいつさえいなければ、こんなことにはならなかったはずなのに。

 死んでしまえ……。そうすれば、父と自分は解放される。父と一緒に逝くことも、仲間の許に還ることも許さない。

 冷めた憎しみのなかで、トゥークはそう考えていた。

 しかし、父は違った。

 女がいよいよ死にそうになると、父はうろたえた。かつての若さも美しさも色褪せた身体をかき抱いて、名を呼んだ。そうして一夜を過ごすと、少年の止める間もあらばこそ、彼女を背負い、積もった雪の中を歩き出した。

 晴れた日だった。南から来た人々は、塀の中で火を焚き、パンサ(麦)の芽を踏んでいた。扉を叩き、男は待った。

 トゥークは、父の後ろで息を殺していた。

 しばしの躊躇いの後、扉が開かれ、手に手に槍や斧を持った男たちが姿を現した。足元で、犬が吼えている。栗色や灰色の髪を持つ白い肌の人々は、不審そうに彼らを眺めた。

 一人が病気の女に気づくと、くいと顎を振って促した。父は頭を下げ、女をぶつけないよう気をつけながら中へ入った。トゥークの鼓動は速くなったが、父と離れるわけにはいかないので、後に続いた。

 赤毛の女たちが近づき、父親の背から、病人を下ろした。毛織りの布で大切にくるみ、大急ぎで運び去る。その間、男たちは槍を構え、父子を囲んでいた。

 トゥークは父と並んで立ち、瞳に力をこめて彼らを見返した。

 二人の正面にいた男が、一歩前へ進み出た。先ほど、中へ入るよう促した男だ。ゆるく巻いた栗色の髪の下で、トゥークのはじめてみる碧色の瞳がきらめいた。

 男は、思案げに鞭の柄で己の肩を叩きながら、口を開いた。二人の知らない言葉だった。

「……それで。お前たちは、何者だ?」




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