第五章 蒼き炎(6)



          6


 濃紺の宵闇の底で、緋色の花が咲いた。

 炎は夜空を慕い、訴えるように腕を伸ばし、囁きかける。緑と紫の光の矢を放ち、大量の金粉を噴きあげ、力尽きてくずおれる。何度も繰り返す、飽きることなく。その様子を、マシゥは、『闇がなければ、光が輝くことはない』というエビの言葉を想いながら眺めた。

 マシゥたちは、焚き火を囲む輪の中にいた。

 ワイール族は、チュームという彼らの住居の間に、客人を迎える場を設けた。丸太の上にユゥクの毛皮を敷いた椅子を並べ、腰を下ろす。マシゥの左隣にビーヴァが、右隣にエビが座り、キシムと連れの男は、彼らの向かいに座った。

 酒がまわされ、新鮮な肉が炙られた。ビーヴァが狩ったキツネの肉も、料理されてふるまわれた。アロゥ族のものとは違う味付けに、マシゥは喜んだ。

 しかし、人々は、マシゥのもたらした情報に戸惑っていた。

 犬使いとトゥークは、ワイール氏族の者だった。

 ディールという青年と族長が、言葉すくなに語ったところによると。――昔、犬使いの男は、氏族の禁忌に触れて村を追放された。彼の妻と、ディールとトゥークの兄弟は、仲間の許で暮らすことを赦されていたのだが、父親は、幼いトゥークを連れて行ってしまった。

 以来、ディールたちが探しているが、二人は行方不明だという。

『ああ、それで』――マシゥは納得した。犬使い父子が、コルデたちと一緒に居ながら、何故、二人だけで暮らしていたのか。アロゥ族を訪ねた際、トゥークが彼らと隔てをおこうとしていた理由を、理解できた気がした。しかし、

『追放とは。厳しいな……』

 マシゥは、犬使いの横顔を想った。無骨で無口なあの男を、彼は好いていたので、少し気の毒に感じた。

 極寒のこの地では、仲間たちと離れて生きるのは難しいだろう。彼らの掟はよく知らないが、それほどの罰を受けなければならないような悪事を働く人物とは、思えない……。

「いったい、何をした、です?」

 訊ねたが、長は苦い顔をして答えなかった。代わりに訊く。

「女はいなかったか?」

「女、ですか」

 マシゥは首を横に振った。思い返してみても、父子の周囲に女性の気配はなかったと思う。

「そうか……」

 長は嘆息し、腕を組んで考え込んだ。ディールは、無表情に焚き火を見詰めている。若かりし頃の犬使いを想像させる精悍な男を、マシゥは感慨深く眺めた。

 年齢は、エビとそう変わらないだろう。顔立ちはトゥークに似ているが、背は高く、数倍逞しい。長い黒髪をきれいにまとめ、後ろで編んでいるところは、氏族の他の男と変わらないが、どこか他人を寄せ付けない憂愁を感じさせるのは、事情を知ったからかもしれない。切れ長の目は深く、一直線に結ばれたうすい唇は、意志の強さを感じさせた(本当に父親によく似ていると、マシゥは思った)。

 マシゥの視線に気づき、ディールは彼を見た。低い声が、独語のように囁いた。

「六年前のことだ……。トゥークは十歳だった」

 すると、今は十五・六歳ということか。小柄な少年の姿を思い浮かべ、マシゥは頷いた。年頃も合う……。


 この話を、ビーヴァたちは、黙って聴いていた。ビーヴァは、炎を挟んだ対側にいる、キシムが気になっていた。ディールが現れたとき、彼女は彼を知っているような素振りをしたからだ。

 けれども、ディールの方は彼女を見向きもせず、二人が会話することはなかった。

 今、キシムは眼を伏せ、敢えて話題の中心人物を見ないようにしている。

『何か、あるんだろうか』彼女とディールとマシゥを見比べて、ビーヴァは考えた。

 トゥークという少年が何者だったのかは理解した。マシゥがあの矢の意味を知っていたことも(犬使いという男が教えたのだろう)。――どうも、それだけではなさそうだ。

 ワイールの族長の口調にも、ディールという男の言葉にも、まだ語られていない事情があるように思われた。

 キシムが顔を上げ、彼を見た。炎を浴びて紫色に輝く瞳と出合い、ビーヴァは慌てて視線をそらした。

『ばかだな、俺は。何を考えている?』

 自嘲気味に思う。

『キシムにどんな事情があろうと、俺には関係ないじゃないか……』

 ビーヴァの傍らの袋には、母の腕輪と玉が入っている。その存在が、急に重く感じられた。


「ところで」

 ワイールの族長が、彼らを見た。髭に覆われた口元は、曖昧に微笑んでいる。

「使者どのの仲間が我らを知った理由は分かった……。いつから、アロゥ族の者と行動をともにしているのだ? 我らの王は、何と仰っている?」

 それで。ビーヴァたち三人は顔を見合わせ、微笑んだ。

 マシゥがビーヴァの矢を取り出し、彼らとの出合いについて語ると、エビが、彼らエクレイタの風俗について、聞き覚えたことを披露した。見知らぬ民の話を、ワイールの人々は、興味津々と聴いた。

 最後に、ビーヴァがアロゥ族長の意向を説明すると、ワイールの長は、眼を閉じ、呟いた。

「王は、そう仰ったか。あの御方らしい」

 再び眼を開いたとき、長の頬には、戸惑ったような苦笑が浮かんでいた。

「事情は理解した。シャナ族とロコンタ族にも、知らさねばならぬだろう。だが、我らはどうするかな」

 ちらりと横目でディールを見遣り、唇を歪めた。

「……知らなかったとは言え、我らの同胞が世話になっていると聞けば。私の方から、汝らの長に、挨拶に伺わねばならぬと思うのだが。如何か?」

 この言葉に、ディールははっと顔を上げ、族長の顔を見詰めた。何人かの男たちが頷いている。ディールは項垂れ、小声で感謝の言葉を呟いた。

 マシゥは、心の底から安堵した。

「それでは……」

「うむ」

 長は、重々しく頷いた。

「王の御考えに背くわけにはゆかぬ故、許可を得なければなるまいが。いずれ、私がテサウ(砦)に伺おう」

「ありがとうございます」

「そういうことなら、俺が伝えます」

 エビが、マシゥとビーヴァの表情を確かめながら提案した。

「二人はこれから、シャナ族とロコンタ族のところへ行く予定です。俺は帰らなければならないので、王へは、俺が伝えましょう。こういう事情ですから、多分、いけないとは仰らないのでは?」

「エビ」

 マシゥは、胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。エビは片目を閉じる。

 族長は、頼もしげに頷いた。

「そうしてくれると、ありがたい」

「承りました」

 彼らと自分たちの間にあった溝が、急速に埋められていく。目に見えない何本もの糸が、自分たちを結び合わせてくれているように、マシゥは感じた。

「あのう……」

 おずおず切り出す彼を、族長は、穏やかな瞳で見た。

「何だ?」

「さしでがましい、と思います。すみません。でも……犬使いさんを、赦してくれません、か?」

「…………」

 ディールがマシゥを見た。長は、黙って眉を曇らせた。同族の人々が見守るなかで、長は、ゆっくり、諭すように答えた。

「トゥークに罪はない。故に、我々も、かの少年を迎えることに異存はない。だが、その父となると」

「すみません。事情を知らないのに……」

 マシゥは、消え入りたい気持ちになって項垂れた。

 長は、静かに首を横に振った。寂しげに微笑む。

「本当は、我々も、赦したいと考えているのだ。心のうちでは、とうに赦している。ただ、奴の犯したのが、テティ(神々)の掟ゆえ――」

 長は言葉を切ると、いちど深く、深く嘆息した。押し殺した声で続ける。

「――なにも、命までとる気はない。生きていて欲しいから、追放したのであるし……。テティの許で罪を改め、戻って来てくれるなら、迎え入れるにやぶさかではない。だが、奴自身がそれを拒むのであれば、我々としては、成すすべがない」

 長は肩をすくめると、マシゥを見て、再び微笑んだ。

「故に、使者どのには感謝している。汝は、我らの壊れた絆を結びなおす機会を与えてくれた。……あとは、奴がここへ来て、奴自身のことばで、傷つけた者たちに謝罪してくれることを願うだけだ。その中には、奴の息子も含まれている」

 頷きながら、マシゥはディールを見た。犬使いの息子は、背筋を伸ばして座り、まっすぐ長を見詰めている。父に似た厳格なかおに、内心の動きは量れない。

 マシゥは、そっと溜息をついた。

 ビーヴァは、キシムを見た。彼女は、胸の前で腕を組み、硬い表情でディールを見詰めていた。

 長は、シラカバの木の杯を掲げ、一同をぐるりと見渡した。

「さあ、この話は終わりだ。我らの新たな友人に、酒をまわそうではないか」

 それで、男たちは相好を崩し、食事を再開した。女たちが、新たな料理を運んでくる。なみなみと酒の入った杯を渡されて、マシゥは目を白黒させた。


 それまで、ビーヴァの足元に寝そべって与えられたご馳走(ユゥクの大腿骨)をごきげんで齧っていたソーィエが、突然起き上がり、嬉しそうに尾を振った。のみならず、一声鋭く吼えたので、一同は驚いた。

 人々の視線を横切って、灰色の影が、光の中に飛び込んできた。一直線に駆けてきて、ビーヴァにぶつかる。ビーヴァは、後ろ向きに倒れそうになった。

「うわっ」

 ソーィエが、さらに大きく吼える。マシゥの杯から、酒がこぼれた。

 影は青年に乗りかかり、爪で衣をかきむしった。くんくん鳴き、激しくあえぎ、ところ構わず舐めまわす。濡れた毛皮を掴んで相手を引き剥がしたビーヴァは、目を瞠った。

「お前……セイモア?」

 それで、マシゥはほっとして、肩の力を抜いた。エビが、声をあげて笑い出す。突然の闖入者に腰を浮かしかけたワイール族の男たちも、息をついた。

 ビーヴァは、ルプスの顔をのぞき込み、叱りつけた。

「ラナと一緒にいろって言っただろう。どうやって来たんだ?」

 けれども、仔狼は全くこたえていない様子で、瞳を輝かせ、ちぎれんばかりに尾を振って、彼の顔を舐めるだけだった。ビーヴァは渋面になった。

「まあ、来ちまったものは仕方がないさ、ビーヴァ」

 エビが笑ってなだめる。この時まで、彼らは、これが大事のはじまりだとは思っていなかった。

 ところが

 笑って仔狼を撫でようと手を伸ばしたマシゥの頭を、突然、雷が直撃した。目の奥で火花が散り、額が燃え上がる。衝撃に、マシゥは杯を取り落とし、椅子から転がり落ちた。茫然と額にあてた彼の掌を、ぬるりと生あたたかいものが伝った。

 噎せるような血のにおいが拡がる。ソーィエが唸り、セイモアは悲鳴をあげて、椅子の下にもぐりこんだ。

 エビとビーヴァは立ち上がり、口々に叫んだ。

「マシゥ!」

「誰だ? 何をする!」

「マシゥ! 大丈夫か?」

「何者!」

 族長の大喝に、男たちが一斉に立ち上がる。ビーヴァに助け起こされながら、マシゥはぼんやりその様子を見た。視界が揺れ、吐き気がこみあげる。殴られたのだということを、他人事のように理解した。

 彼の前に、輝くあかを背にして、一人の男が立っていた。長い棒のようなものを手にしている。石槍だと気づくのに、時間はかからなかった。

 男は踵を返すと、ワイールの族長に向かって一礼した。

「お騒がせして申し訳ありません、族長」

「マグ?」

 エビが、驚いて呼んだ。

「マグ、だって?」

 男が誰なのか、やっとビーヴァにも理解できた。ワイールの男たちが、顔を見合わせる。

 マグは、身を起こそうとするマシゥの胸に、槍の穂先を突きつけた。

 ビーヴァには、わけが分からなかった。

「どうしてここに?」

「そいつから離れろ、ビーヴァ! 騙されるな」

 マシゥを指差して、マグは、憎々しげに怒鳴った。疲労と怒りと、抑えきれない嘆きに、若い声はかすれた。

「こいつは、タミラの仇だ!」






~『EARTH FANG』第一部 神々の詞~

   完


 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。

 第二部へ続きます。

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