第五章 蒼き炎(5)
5
碧の光にひたされた木立を、銀色の風が、音もなく通り過ぎる。小鳥が鳴き、ネズミが巣穴に駆け込み、再び顔をだして様子をうかがう。苔を食んでいた一頭のユゥク(大型の鹿)が、まだ枝分かれしていない角の生えた頭をもち上げ、白いルプスの仔を珍しそうに眺めた。
ナムコで暮らすことに慣れ、完全に野生とは言えなくなっているセイモアにも、森が危険だという感覚は備わっていた。群れをはぐれた仔狼を狙うものは、大勢いるのだ。冬ごもりを終えたゴーナ(熊)、餓えたクズリ、意地悪なキツネ、夜目の利くハッタ(梟)……。
木や草や花、ウサギやネズミなど、森は、無数のにおいに満ちている。その中で、ビーヴァとソーィエの足跡は、闇に描かれた光の線のように《彼》を導いた。セイモアは、地面にぶつかるほど鼻を下げ、尾を水平に伸ばし、一心不乱に駆け続けた。
暗くなると、仔狼の蒼い瞳の中には金と銀の火が点り、雲母のようにきらめいた。
冷たい風に乗って、雨のにおいがした。木の枝が大きくたわみ、はじけ、葉と葉がぶつかって音をたてる。《彼》は足を止め、鼻を鳴らした。くおおん、と呼ぶ。
返事はない。
どうしようかと考えていると、いきなり、大粒の雨が降ってきた。ぽつり、ぼとりと頬を叩く。足元から震えが上り、仔狼は、小さく咳をした。
急激に強さをます雨風に打たれながら、仔狼は、足跡を探し続けたが、寒さに敵うものではなかった。仕方なく、倒木の下に身をひそめた。地面を掘って濡れた身体をおしこみ、震える後足の間に鼻を突っ込む。
ビーヴァが恋しかった。ラナが。パチパチと音を立てて輝く光の壁を想い、血のしたたる肉の味を想い出す。飢えと渇きと、何より孤独がつらかった。
風は、うなり声をあげて天空を駆けめぐった。
――落ち葉と小枝と泥を捏ね合わせ、それを凍らせた団子になって、セイモアは目覚めた。隠れていた脇腹と鼻先だけが、白銀色に輝いている。
森は、静けさを取り戻していた。
隠れ家から這い出し、例のごとく身体を震わせる。脚を伸ばして身体をあたためながら、セイモアは、鼻を動かした。水の匂い、泥の匂いに、恐怖と血の匂いがまじっている。
景色が変わっていた。
そこかしこで山肌が崩れ、土が剥きだしになっていた。マツの大木が、折り重なって倒れている。焦げたにおいがするのは、落雷の所為だろうか。
木漏れ日が地上に降りそそぎ、森は明るくなっていた。スギの木の枝の隙間から、青空がのぞいている。
仔狼は、濡れたシダの葉をちろりと舐めて喉を潤すと、追跡を再開した。途切れた匂いを探して、歩き始める。けれども、すぐに、ぞっとして立ち止まった。
足跡がない。匂いがわからない!
目を見開き、鼻を鳴らして、夢中であたりを嗅ぎまわる。足跡は、きれいに流されていた。ビーヴァの匂いは、あわい幻のように残っていたが、方向を嗅ぎ分けようとしているうちに、樹液と泥の匂いにまぎれてしまう。
仔狼は慌てた。怒り、おびえ、焦る気持ちは、声になって溢れ出た。甲高い鳴き声を、聞きつけたものがいた。
《彼》は、ギクリとして動きを止めた。他の全てを圧倒する気配が、背後に迫っていた。
崩れた岩の間から現れたそいつは、ちびルプスを見据え、舌なめずりをした。長い爪の生えた足で巨体を運び、のっそり倒木をのりこえる。金と黒の縞模様が、肩の上で盛り上がる。
仔狼の全身の毛が、ざあっと逆立った。耳が寝そべり、尾が後ろ足の間で縮む。唇がめくれ、小さな牙が現れた。
琥珀色の瞳のまんなかの黒い点に呑みこまれたセイモアは、動くことが出来なくなった。
動けば、殺される。
それは、もはや捕らえたも同然の獲物を、ゆっくり眺めすかした。前足の跡を後ろ足で踏む慎重な足どりで、近づいていく。鞭のような尾が、茂みに当たって音を立てた。頭を下げ、腰をかがめて力をたくわえる。――喰うものと喰われるものの間で、何万回となく繰り返されてきた瞬間だ。
ガサリ、と音がした。
ハッと、アンバは跳びさがった。全く思いがけない方向から現れた気配に、身構える。セイモアも、すくんだまま、耳をそちらへ向けた。
誰かが森の中を歩いている。
アンバ(虎)は、忌々しげに首を振ると、自分の足跡を器用にたどって後退した。ベニマツの木陰に入ってから、身を翻す。
セイモアは、ぶるりと身震いすると、新たな敵に備えた。足跡の主は、こちらに気づいていないようだ。ぶつぶつ独り言を言っている……。
仔狼の耳がぴんと立ち、尾が左右に揺れ始めた。二本足で歩く、尻尾のない獣。ビーヴァの仲間の匂いに気づいたのだ。喜びに口を開け、素早くあえぐと、後を追って駆け出した。
**
キシムは、外套の頭巾をはねあげて顔を表すと、じろりと彼らを見下ろした。特に、マシゥを。
エビが、喜んで手を挙げる。
「おう、キシム。久しぶりだな。そっちはカムロか?」
後から現れたもう一頭のユゥクに、近づいていく。
「違う。ホウク(男の名)だ。今日は、オレたちだけだ」
そう応えながら、彼女の赤みがかった褐色の瞳は、マシゥを見据えていた。改めてビーヴァを眺め、フンと鼻を鳴らす。
「……ひどい格好だな。嵐に遭ったか?」
半ばいたわり、半ば呆れている口調に、ビーヴァは項垂れた。胸が破れそうにドキドキして、口が渇く。彼女をまともに見ることが出来ない。石を呑んだように喉の奥がふさがり、声を出すことが出来なかった。
マシゥは、キシムの頬の刺青を、新鮮な気持ちで眺めた。犬使いともエビたちとも違う図柄は、何を表しているのだろう。華奢で色白で、髪と瞳の色がうすいキシムは、その外見だけなら、エクレイタの民に似て見えた。
エビが戻ってきて、にやにや笑いながら、ビーヴァの肩に腕をまわした。
「そうなんだ。危うく凍え死ぬところだった。そっちはどうした? まさか、本当に会いに来てくれたとか」
キシムはユゥクから降りると、素っ気無く答えた。
「オレたちの長が死んだ。それで、カムロはナムコ(村)を離れることが出来ない。今年の夏至祭りには参加出来ないと、報せに来た」
「シャナの族長が……」
エビの頬がさっと強張った。ビーヴァは視線を上げる。
夏至祭りは、年に一度森の民が集まる盛大な祭りだ。氏族長たちや、シャム(巫女)も参加する。しかし、父親を亡くしたカムロは、一年間は喪に服さなければならないので、祝いの席に出ることが出来ない。それを他氏族に伝えるのが、新しい族長の最初の務めだ。
テイネを送って行った時、高齢の長が臥せっていたことを、二人は思い出した。ビーヴァは、神妙な気持ちになった。
「そうか。とうとう……」
「すまない。事情を知らず、ふざけちまって」
キシムは、肩をすくめて弔辞を聞き流すと、鞭を握った手を腰に当て、再びマシゥを見た。
「ところで。そいつは誰だ? 見たところ、アロゥでも、ワイール族でもなさそうだが」
「ああ。紹介しておこう」
エビは頷くと、きょとんとしているマシゥの腕を引っ張った。背中に両手をあてがい、キシムの前に押し出す。
「エクレイタ族のマシゥ。王から王へ、
「は、はじめまして」
「…………」
こんな紹介で大丈夫かと危ぶんだが、案の定、キシムは不審そうに眉根を寄せた。エビからビーヴァに視線を移す。ビーヴァに説明する気がないとみると、マシゥを睨んだ。
眼光の鋭さに、マシゥは怯んだ。と同時に、珍しい瑪瑙色の瞳を、美しいとも思った。
キシムは、頭のてっぺんから足の先までマシゥを眺めると、まっすぐ彼の瞳を見詰めた。
「使者か。アロゥ族の王に会ったのか?」
「は、はい」
「その、えれくたが」
エビがすかさず訂正する。
「エクレイタ」
「――えくれいた族が、何の用だ?」
睨み殺しそうな視線をエビに当てて、キシムは言った。エビが「おおこわ」と呟き、肩をすくめる。(エビも初対面はかなり怖かったぞ、と、マシゥは思った。)
「……あのさ」
それまで黙っていたビーヴァが、遠慮気味に声をかけた。キシムとエビとマシゥを等分に見て、ナムコ(集落)を目で示す。
「後にしないか。今は、挨拶が先だろう」
一同が顧みると、ワイール族の人々が、並んでこちらを見ていた。槍や剣を手にした男たちだけでなく、女性と子供たちもいる。
エビは表情を引き締め、キシムと連れの男は、軽く一礼した。近づいてくる男たちを、マシゥは観察した。
アロゥ族と同じ黒髪、黒い瞳の人々だった。日に焼けた褐色の膚に刺青を刺し、毛皮の衣を着ているところも同じだ。しかし、アロゥの人々より、やや小柄な印象がした。前髪を下ろさず、髪を全て後ろで括っているので、額が広く見える。
大人の男は、全員、髭を生やしていた。アロゥの長ほど長くはないので、尖った顎がますます尖って見える。彫は浅く、眼は切れ長で、猛禽を思わせる。頬に描かれた刺青を見て、マシゥは息を呑んだ。
犬使いと同じ、鳥の紋様だった。
『連中のテティは、ワタリガラスの姿をしている。』――エビの言葉が、頭をかすめた。
男たちは、彼らの傍まで来ると、改めて全員を見渡した。刺青と反対側の頬に白い傷のある壮年の男が、口を開いた。
「アロゥ族と、シャナ族の者か。何用だ?」
マシゥ以外の全員が一斉に頭を下げたので、マシゥも慌てて顔を伏せた。そのまま、キシムの声を聞く。
「突然押しかけて申し訳ない、ワタリガラスの兄弟よ」
女性だと知らされていたが、自分より明らかに目上の男性に対しても、キシムの態度は毅然としていた。
「シャナの新しい族長カムロより、春のご挨拶を伝えに参った」
これだけで、ワイールの人々には理解できたようだ。男たちは顔を見合わせ、女たちは囁き合った。
最初に話しかけてきた男――ワイールの族長は、眼を細め、表情を曇らせた。
「……すると、遂に亡くなられたか。カムロが気を落としていなければよいが」
キシムとホウクは、無言で項垂れて、謝意を示した。
長は、エビとビーヴァに向き直った。マシゥを見て、首を傾げる。
「モナ・テティ(火の女神)の眷族が、どうなされた。その姿は。先刻の嵐で、怪我をしたのか?」
ビーヴァが、エビに脇腹を突つかれて、顔を上げた。
「はい。いいえ、大丈夫です。あの、ええと――」
首を振り、言い淀む。
「私も、長の
やはり、自分で言った方がよさそうだ。
そう考えたマシゥは、ビーヴァの肩に手を置いて、彼を黙らせた。不安げな黒い瞳に、頷いてみせる。男たちの視線の先に進み出て、一礼した。
アロゥ族のところで練習した成果か、今度は、わりとすんなり言葉が出た。
「はじめまして。私は、ロマナ湖の南より、来ました。エクレイタ王の使者です」
「…………」
ワイールの長は、顎に片手を当て、片方の眉を持ち上げた。
キシムがじっとこちらを見詰めている。マシゥは、出来るだけ丁寧な発音を心がけた。
「ロマナ湖の近くに住んでいます、私たち。レイム(太陽神)とパンサ(麦の一種)の民。貴方がたと友だちになりたくて、来ました。先に、アロゥ族の王に、お目にかかりました。それで、今度はワイール族に会って――」
「エビよ」
突然、長はくだけた口調でエビを呼んだ。アロゥ族の一の狩人は、有名人だ。
エビは、苦笑して応えた。
「はい」
「この男は、何を言っているのだ? ロマナの南に、人の住む土地があると?」
「信じられないでしょう?」
相槌を打ちながら、エビの目は、いたわるようにマシゥを見た。「任せておけ」というように、片目を閉じる。
「俺たちも、はじめは信じられなかったのです。……俺とビーヴァも、この目で観ていなければ、未だに信じていないかもしれません」
「ビーヴァ」
アロゥ族の長より若いワイールの族長は、立ち尽くしている青年を見た。ビーヴァは、頭を下げる。長は、胸の前で腕を組み、右足に体重をかけた。
「……お前たちの観たものについては、いずれ詳しく教えて貰うことにしよう。解せぬのは、ロマナの近くに住みながら、我らがこの者たちを知らぬことだ。――我らは、春と秋に移動する。半年間、凍ったテティ(ロマナ湖の女神)の許で過ごす。――我らが知る前に、汝らが我らを知っているのは何故だ?」
「あ、あの――」
「汝の言葉は、我らと同じものではないな」
厳しい口調でマシゥを遮り、長は、正面から彼を見据えた。
「奇妙な言葉だ。どこで覚えた? 誰に教わったのだ?」
「…………」
マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。
どうやら、ワイール族の長は、アロゥ族の長より警戒心が強いらしい。トゥークが一緒でない所為もあるだろう。ここで疑われては、せっかくの彼らの厚意が無になってしまう……。
ビーヴァが、心配そうにこちらを見詰めている。マシゥは、意を決して切り出した。
「……貴方がたの仲間です」
「何?」
長は、眼を細めた。
マシゥは、慎重に、祈るような気持ちで繰り返した。
「貴方がたと同じ、鳥の刺青を入れた男、です。名前を知りません……。私たち、犬使いと呼ぶ、しました。彼と、彼の息子のトゥークに、教えていただいた」
視界の隅で、エビが頷くのが見えた。
「トゥーク?」
族長の眼が、糸のように細くなり、眉間に皺が刻まれた。同時に人々がどよめいたのを、キシムは鋭い視線で見渡した。
マシゥは頷いた。
「はい」
「トゥークと言ったか、今。汝は会ったのか。その父に?」
「? はい」
どうしたというのだろう。ざわめく人々を、マシゥは、不思議な気持ちで見た。エビとビーヴァも、首を傾げる。
長は、苦虫を噛み潰したような表情になった。その後ろから、若い男の声がかけられた。
「本当か?」
「ディール」
長が振り返る。
ビーヴァは、キシムが舌打ちする音を聞いて、彼女の横顔をみた。彼女は、苦々しげに呟いた。
「ディール……」
「トゥークに会ったのか? 本当に?」
歩み出た男を見て、マシゥは、あっと息を呑んだ。エビも、目を瞠る。
犬使いの曲がった背が伸びて、若返ったような――トゥークが成長し、頬に刺青を入れたような。見覚えのある顔立ちの男が、翳を宿した瞳でマシゥを見詰めた。
「……あいつは、俺の弟だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます