第五章 蒼き炎(4)
4
ぬけるような青空だった。
どこかで小鳥が鳴いている。
根こそぎ抜かれた木々が折り重なって倒れ、崩れた土砂に運ばれた岩石が散乱する。荒れ果てた野原の向こうに、雪を
一本の腕が生え、手近な草の葉を掴んだ。続いて、もう一本。そこから肩が伸び、ビーヴァが姿を現した。
青年は、荒い息を吐き、二・三度頭を振って悪夢と土をふりはらうと、穴の中に屈みこみ、仲間の外套を引っ張った。エビが、片方の腕で目をかばいながら出てくる。泥だらけになったソーィエが、勇んで跳び出した。
最後に助け出されたマシゥは、よろめいて膝をついた。
三人とも、しばらく口を利くことが出来なかった。
穴の周りに腰を下ろし、呼吸をととのえる。なぎ倒された草の上で、水滴が空を映し、日の光を反射している。吹きぬける風は冷たいが、あの凶暴さはない。樹液の苦い匂いがした。
奇跡のような気分で天を仰ぎ、周囲を見る。三人の視線が出合い、互いの茫然とした顔を映し出した。風の匂いを嗅いでいたソーィエが、おもむろに身体を振った。
鼻の頭から尻尾の先まで、ぶるぶると毛皮を波うたせ、遠慮なく泥水を飛ばす。男たちは、呻き声をあげて顔をそむけた。再び顔を見合わせたとき、彼らの中から、何かが落ちた。
エビがふきだした。
それから笑いが、ゆっくり全身に拡がった。声を抑え、肩を揺らし、片手を腹に当てがう。身体が右へ傾き、濡れた草の上に倒れこむ。うつ伏せになってひくひく震えていたが、ついに我慢できなくなり、声をあげて笑い出した。仰向けに転がり、四肢を投げ出して大笑する。
マシゥとビーヴァは、呆気にとられてこの様子を眺めていたが、改めて顔を見合わせると、やはりふきだした。三人の笑声が、絡み合って回りながら空に登り、やがて雲間に消える。
息切れを起こしたマシゥが自分の顔をこすると、泥がべったり袖についた。
狭い穴にぎゅうぎゅうに押し込まれていたお陰で凍死はまぬがれたが、お世辞にも格好のよい生還とは言えなかった。エビの外套の袖はやぶれ、爪が剥がれた手は血だらけだ。ビーヴァの黒髪はほつれ、頬には、細かい傷と泥がこびりついている。マシゥの鼻には凍傷が出来、毛織りの外套は泥に染まっていた。
ソーィエだけが、元気いっぱい駆け回っている。
笑いの余韻にひたっていたエビが、むくりと起き上がった。真顔で訊く。
「どうだった?」
マシゥには訳の分からない問いだったが、ビーヴァは動じなかった。無言で微笑むと、懐に手を入れ、そこから輝くばかりの金赤色の毛皮を出してみせた。
エビは、にやりと笑った。
「さすがだな」
ビーヴァは、照れたように肩をすくめた。
「まあね」
「よしっ!」
エビは勢いよく声をかけて立ち上がると、外套の裾を払った。マシゥに片手を差し伸べる。一瞬、戸惑ったマシゥだったが、微笑んでその手をとった。彼を助け起こしながら、エビはビーヴァに声をかけた。
「あの川は、サルゥ(川の名)の支流だ。ワイールのナムコ(村)まで、あと少しだ。頑張ろう」
「そうだな」
キツネを懐に収めて立ち上がろうとしたビーヴァが、森に視線を向け、眼を細める。ソーィエが、主人の傍らに駆け寄った。
「どうした?」
いぶかしんでそちらを見たエビも、動作を止めた。マシゥは首を傾げた。
「何か……?」
「シッ」
エビが、早口に囁いた。
「アンバ(虎)だ。静かに」
『アンバ?』
マシゥには分からなかったが、エビの口調に含まれる緊張と恐れは理解できた。息を殺して、森の中を窺う。
ソーィエが唸り、ビーヴァは彼の肩に手を置いた。
「ヨーゥ(やめろ)、ソーィエ。テティの縄張りに入ったのは、俺たちの方だ」
囁きながら、もう片方の手で、腰の長刀をまさぐっている。マシゥは息を呑んだ。
『何を恐れているのだろう……?』
折れた木の断端は痛々しいが、風は爽やかで、日差しは暖かい。鳥たちが警戒している様子はない――鳴き声が聞こえない。
彼らが見ているものを確かめようと、目を凝らした。
マシゥの視線の先で、ゆらりと木陰が動き、下生えの間から、にじみ出るようにそれが現れた。一瞬、目の錯覚かと思う。木々の落とす影が、身体の上で揺れている。緋色がかった金色の毛皮を、銀の光が縁取っている。
ソーィエの数倍はある体躯を滑るように運び、木立を抜けて、立ち止まる。それが脚を動かすたびに、筋肉が毛皮の表面にさざなみを立てた。まるくひろがった足の先で、鋭い爪が光る。緑の隈取りを施された黄金色の瞳が、まっすぐ彼らを見詰めた。
マシゥの身体に、震えが走った。
耐え切れず、ソーィエの喉から、くぐもった低い声が漏れでた。唇がめくれ、白い牙があらわれる。耳は、頭の後ろにぴったりと伏せられている。
『どうする?』
目だけ動かして、男たちの横顔を伺う。マシゥは、二人が見惚れるようにそれを見ていることに気づいた。刀や弓に手をあて、身構えつつ、憧れているように……。
「アンバ・テティ(虎の神)よ」
エビが、腰を落としたまま進み出て、押し留めるように片手を前へ突き出した。呼びかける。
「我らは、嵐を避けて来ただけだ。ここは汝が場所、騒いですまなかった。すぐに立ち去るゆえ、赦されよ」
マシゥは驚いたが、エビは真剣そのものだった。
アンバは、じっとこちらを見詰めている。彼らに敵意がないことを察したのか、長い鞭のような尾の先を、ひょいと持ち上げた。瞬きをして視線をそらし、歩き始める。重い身体を揺らし、現れた時と同じように、木漏れ日に融けた。
ソーィエの唸り声が止み、牙が唇に隠れた。
三人は、ほぼ同時に嘆息した。
「あれは、言葉が通じたのだと思うか?」
「さあな」
嵐とアンバは、男たちの間にあった遠慮を取り払ってくれた。口調にもそれが感じられ、マシゥは嬉しかった。
ワイール族の集落へ向かいながら、マシゥが問うと、エビは快活に笑った。
「どっちでもいいさ。助かったんだから」
「俺たちとは違うが、ソーィエにも言葉はある」
はりきって前を行く相棒の尻尾を見下ろしながら、ビーヴァは穏やかに言った。
「全部は無理だけど、ソーィエが何を言っているか、俺には解る。ソーィエも、解っている」
ふと、ビーヴァは、マシゥに微笑みかけた。
「貴方もそうだろう、マシゥ。俺たちとは言葉が違う。だからといって、礼を失することはない」
「…………」
マシゥは、少し驚いて彼を見た。それから、照れて鼻の下をこする。――彼らがそんな風に自分を評価してくれていたのかと思うと、嬉しかった。思いがけず目頭が熱くなるのを覚えて、立ち止まる。
二人と一匹は、歩き続ける。
マシゥは、ぐいと目元をこすって彼らに追いつくと、再び訊ねた。
「恐くはないのか?」
「恐いさ、もちろん」
慎重に足元を確かめながら、エビは苦笑した。
「アンバ(虎)は恐い。ゴーナ(熊)もルプス(狼)も、スカルパ(雷)も……。テティ(神々)は、俺たちを優しく見守ってくれているわけじゃない。イエンタ・テティ(狩猟の女神)がユゥク(大型の鹿)を隠せば、俺たちは餓えるし、礼儀に煩いモナ・テティ(火の女神)を怒らせば、家を焼かれることもある」
アロゥ族一の狩人は、ひょいと肩をすくめた。
「それがテティのやり方だからな。俺たちは、従うしかない。ムサ(人間)の都合など、テティはかまっちゃくれないからな」
ビーヴァが、こくりと肯いた。
「…………」
マシゥは無言で、この言葉について考えた。彼らの考え方が、解ったような気がした。自分たちとは違う。
マシゥたちエクレイタの民にとって、この世は、レイム(太陽神、光の神)が人のために用意してくれたものだった。食べるためにパンサ(麦)を与え、ウシや舟を与えたもうた。飢饉や病気はあるが、それらはギヤ(闇の神)がもたらすものだ。
なべて世に在るものは光と闇、善と悪に分かれ、善を司るレイム神は慈悲深く、ギヤは卑しい。闇から生まれ、レイムの血を受けた人の子は、光を目指して歩み続けなければならない。
それなのに、ここでは――軽い眩暈を感じて、マシゥは眉を曇らせた。光と闇、善と悪は混淆し、分けることが出来ない。神々は気ままで恐ろしく、人々は畏れつつもそれを受け入れている。
エクレイタの常識は、ここでは通用しない……。
マシゥの戸惑いを、二人は理解していた。ビーヴァが、ぽつりと呟いた。
「そうか……。貴方たちにとって、闇は悪だったな」
マシゥは、どきりとした。慌てて付け加える。
「レイムに選ばれたもの以外は……」
エビが、フッと唇をゆがめて
「俺には分からんな。アンバ・テティ(闇の神=虎)は確かに恐ろしいが、夜がこなけりゃ、俺たちは寝ることが出来ない。闇がなければ、光が輝くことはない」
マシゥは瞠目した。彼の表情の変化を、二人は面白そうに眺めた。
「吹雪がなければ、春は来ない。ルプスや俺たちがいなければ、ユゥクは森を食い尽くしてしまう」
「雪崩は? 嵐は?」
マシゥが訊ねると、ビーヴァは少し悲しげな顔になった。
「……注意さえしていれば、テティは、雪崩が起こる時期をちゃんと教えてくれる。年老いて弱った木は、風に倒されて、やっと地上に日の光が届く」
「蚊の群れは? ええと、黴や虱は?」
だんだん例えが小さくなってきた。彼らにとって嫌なものを列挙しようとするマシゥを見て、エビは再び笑った。
「蚊がいなけりゃ、夏の家を建てる理由がないだろうが。虱がわくから、身体をきれいにするんだ。俺は、おふくろにそう教わったぞ」
「…………」
マシゥは、ぽかんと口を開いた。
冗談気分のエビとは異なり、ビーヴァは真面目に考えていた。やや困惑した口調で言う。
「マシゥ。ごめん。俺には、よく分からない」
額にほつれかかる前髪を掻きあげ、眉根を寄せた。
「気を悪くしないで欲しい。けれど……貴方の言うことを聞いていると、まるで、全てのテティが、ムサ(人間)に分かる理由をもっていなくてはならないようだ」
「…………!」
頭をがつんと殴られたように感じて、マシゥは絶句した。
エビは、つまらなそうに肩をすくめ、頭の後ろを掻いた。尾を振っていたソーィエが、動きを止める。
ビーヴァは、申し訳なさそうにマシゥを見た。マシゥは、半ば茫然と首を振り、顔の前で手を振って、彼の懸念を打ち消した。
「わかった……。いや、ありがとう、ビーヴァ、エビ。大丈夫だ」
それで。二人は顔を見合わせたものの、喋るのを止めて歩き出した。ソーィエが、跳ねながらついていく。
後について行きながら、マシゥは、しみじみと考えた。『そうか……』噛みしめるように、思う。
ビーヴァたちにとって、テティ(神々)は既に在るもの――全ての物事は、起こることであって、人が区別する対象ではないのだ。人間の基準で量ることは出来ない。善悪に分けることは出来ない。
テティは、人の思惑を凌駕して存在する。
『ただ生きるだけなんだな……』
二人の背を眺めながら、マシゥは、『従うしかない』というエビの言葉を想った。こんなに厳しい気候では、無理もないのかもしれない。
しかし、マシゥは、彼らを愚かだとか卑しいとは、思わなかった。むしろ、神々に対する敬虔な信仰が心地よい。彼らは、マシゥたち以上に、ここで生きる術を知っている。
神霊の森で――。
マシゥが考えているうちに、一行は森を抜け、川のほとりに出た。多量の雨水を含んで濁ったサルゥ川が、滔々と流れている。
エビが、対岸を指差して笑った。
「着いたぞ。あれが、ワイールのナムコだ」
サルヤナギとエゾマツがそびえる森のふちに寄りそうにして、とがった屋根が並んでいた。
太陽は西に傾き、日差しは淡い桃色をおびている。彼らは、丸太を組んで作った橋を渡り、集落に近づいて行った。マシゥは、ワイール族の家の作りが、自分の知っているものとは異なることに気がついた。
エクレイタの家は、石と土を固めて造る。アロゥ族の家は、木を組み合わせ、茅で屋根を葺いたものだ。ワイール族は、円を描いて立てた柱のてっぺんを合わせ、ユゥクの毛皮を張って壁を作っている。皮には、ワタリガラスやハッタ(梟)の絵が、色鮮やかに描かれていた。
白い煙が数条、家の間から立ち昇っていた。夕食の仕度をしているのだろうか。薪のはぜる音、肉の煮えるいい匂いが、風にのって流れてくる。
犬の吼える声が聞こえると、ソーィエは耳を立て、ぱたぱた尾を振った。
三人が近づいていくと、背後から、凛とした声がかけられた。
「ビーヴァじゃないか?」
ドキリとして、ビーヴァは振り向いた。
藍色の木陰から、音もなく湧き出るように、二頭のユゥクが現れた。長い角は、先を切りそろえられている。口には、木の紋様を縫い取りした革帯を巻き、肩には織りものが懸けられている。
その背に跨った人物の涼やかな切れ長の眼を見た途端、ビーヴァの鼓動が速くなった。
「キシム……」
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