第五章 蒼き炎(3)



          3


 マシゥが目覚めると、エビとビーヴァは、既に身支度を終えていた。

「あ。おはようございます」

 眼をこすり、毛皮を重ねた寝床から声をかける。マシゥに背を向けて並んで座っていた二人は、ちらりと彼を顧みたものの、すぐに視線を戻した。

 彼らの前では、小さくなった焚き火がくすぶっていた。

 焦げた薪の先で、金色の光の花が揺れている。ビーヴァが、その上にモミの緑枝をそっとかぶせると、うす紫の煙がふわりと広がって、空へ昇っていった。エビが、さらに上から枝を重ねる。ソーィエも、神妙にこの様子を見守っていた。

「なにを――」

『しているんですか?』と、問いかけた言葉を、マシゥは呑み込んだ。二人が小声で祈っていることに気づいたからだ。火の女神に感謝をささげ、マツの木の神霊に、場所を借りたお礼を述べている。

 マシゥは、黙って身を起こし、彼らの祈りが終わるのを待った。

 頬に触れる風は冷たい。マシゥは、外套の襟を合わせ直した。薄く空を覆う灰色の雲の上で、レイム(太陽)は淡く輝いている。小鳥の声が、木々の梢を渡る。視界の隅で、茂みががさりと音をたて、褐色の影がさっとよぎった。

 リスか、ウサギだろうか?――考えていると、エビが、炙った魚の身を差し出してきた。

「今日は、雨になりそうだ」

 言いながら、同じものを齧っている。これが彼らの朝食らしい。

「足元が悪くなる前に、出来るだけ進もう」

「わかりました」

 マシゥは、魚を受け取って口に入れながら、素直に頷いた。

 ビーヴァが、火が消えるのを見届けて立ち上がる。ソーィエの頭を撫で、ブドウツルの袋を肩に負う。マシゥは、エビと一緒に寝床を片付けた。

 そして、彼らは再び出発した。


 雲は晴れず、風はなかなか暖まらなかった。森は、薄灰色に霞んでいる。三人と一匹は、昨日よりやや早い歩調で進んだ。

 マシゥは、白い息を吐いてあたりを見渡し、日陰の斜面や木の根元に、今も雪が残っていることに気づいた。前を行くエビとビーヴァが、時折、たのしげに微笑んで視線を交わしていることにも。

「どうかしましたか?」

「ん? うん」

 エビは珍しく言葉を濁した。にやにやと片頬で笑い続ける。

 ビーヴァが、小声で説明した。

「ウサギがいる。俺たちを気にしている」

「え?」

 マシゥは、思わず立ち止まった。記憶の中で、出発前に見た茂みが揺れる。そういえば、ソーィエも、いつもより熱心に土の匂いを嗅いでいる。ちょっとした秘密を分けてもらった気分で、嬉しくなった。

「ど、どこに?」

 エビは黙っていたが、ビーヴァは、穏やかな表情でマシゥを見た。軽く顎を振って、地面を示す。

「足跡があるだろう」

 彼が分かっていないと知ると、手甲をはめた手を伸ばした。

「そこに。あそこにも」

「…………?」

 マシゥは目を凝らしたが、苔と小枝と落ち葉の重なる地面に、変わったところは見つけられなかった。二人は、彼に構わず歩き出す。マシゥは、彼らの後ろ姿を、呆気にとられて眺めた。

 どうして解るのだろう?

 その後も、ビーヴァは、足跡らしきものがある度に示してくれたが、マシゥには、見分けることが出来なかった。二人には、信じられないらしい。エビが、首を横に振り、呆れ声で呟いた。

「いったい、何を喰って生きてきたんだ?」

 マシゥは、犬使い父子の目の良さを思い出した。獣を追って暮らす彼らには、当たり前のことなのだろう。彼らの能力には感嘆したが、戸惑ってもいた。呆れられても困る……。

 ビーヴァの方が辛抱強かった。彼は、比較的はっきり残る足跡をみつけると、丁寧に教えてくれた。

「これが前足、こっちが後ろ足だ。ここで立ち止まっている」

「……ああ、本当だ。大きさが違いますねえ」

 マシゥは、ビーヴァの指が縁取る形を脳裡に描き、少しほっとして頷いた。言われなければ、ただの窪みと思ったろう。

 足跡は、また落ち葉にまぎれた。ソーィエは匂いを、ビーヴァとエビは、マシゥに見えない跡を追っていく。しばらく黙っていると、二人の表情が変化した。

 エビの頬から笑みが消え、ビーヴァは、冴えた視線を友と交わした。マシゥには解らない言葉で、早口に囁きあう。

 赤毛の犬が鼻を鳴らす。ビーヴァは片膝をついて座り、興奮気味のソーィエを傍らに呼び寄せた。

「今度は、何です?」

「……キツネだ」

 食糧を入れた袋を下ろし、矢筒の中身を確認する。弓弦ゆづるを張りなおしながら、ビーヴァは短くこたえた。

「ここを通った。ウサギを追っている」

 夢見るような眼差しを、森の奥に投げかける。彼には自明のことなのだろうが、マシゥは目を丸くした。

 エビが、不敵な表情で仲間に問う。

「俺が行こうか?」

「いや」

 ビーヴァは微笑み、赤毛の相棒の耳の間に片手をのせた。

「ソーィエが、走りたがっている……。先に行く。荷物を頼む」

「わかった」

 荷袋をエビに渡すと、ビーヴァは矢筒と弓を構えなおした。ソーィエの肩に手を置き、舌を鳴らす。

「タァ(行け)!」

 途端に、犬は瞳を輝かせ、弾かれたように駆けだした。同時にビーヴァも走り出したので、マシゥは息を呑んだ。立ち上がり、外套の裾を翻した青年が、一瞬、翼をひろげて舞い上がったように見えたのだ。

 四本足の相棒とほぼ同じ速度で、ビーヴァは斜面を駆け下った。外套とひとつづきになった帽子がはだけ、編んだ黒髪がこぼれ出る。前方を見据える横顔は、獲物めがけて滑空するロカム(鷲)を思わせた。まったく足音をたてることなく、倒木を跳びこえ、木の枝をくぐり、霞の向こうへ消えていく。

「…………」

 マシゥは、ほうっと溜息をついた。まだまだ彼らの能力を見くびっていたことを痛感し、首を振る。

 エビは、そんな彼を興味深そうに眺めていた。

「キツネの毛皮は、重宝するんだ」

 エビは、ビーヴァから預かったブドウツルの袋を肩に負い、歩き出そうとした。

「オロオロ(大型の地リス)もいいが、今の時期は良くない。夏毛に変わる前のキツネなら、誰に贈っても喜ばれる」

 マシゥは立ち止まったまま、足元を見詰めて考え込んでいる。エビは足を止め、首を傾げた。

「どうした」

「訊いてもいいですか?」

 顔を上げる。マシゥの灰色の瞳に、真摯な光が瞬いた。

「何だ」

「キツネの足跡は、どれですか? ウサギを追っているって――」

 目当てのものを捜そうと、目を凝らし、ぐるりとその場をめぐる。エビは、肩をすくめた。

「そこに、あるだろうが」

「……ソーィエじゃないんですか?」

「犬は、こんな風には歩かない」

 エビは笑った。今度の笑いには、先刻のような冷たさが感じられなかったので、マシゥは彼を見た。

「キツネやルプス(狼)は、自分の前足の跡を、必ず後ろ足で踏んで歩く。だから、連中の足跡は、きれいにまっすぐつく。犬は、もっと雑だ」

「へえ」

「それに。キツネの尾はでかいから、方向をかえるとき、あちこち擦るんだ。そこにも、跡がある」

「…………」

 マシゥには、やはりそれを確認することは出来なかった。自信のない視線をもち上げ、ビーヴァたちの去った方に向ける。エビは、胸の前で腕を組み、ためすように彼を見た。

「知りたいんなら、教えてやるぜ」

「お願いします」

 マシゥは、振り向いて即答した。

 今や彼は、ビーヴァたちが見たものを見、聞いた音を聞きたいと、真剣に願いはじめていた。そうすれば、この生きた神々の森を、理解できるかもしれない。神霊とともに生きる彼らを。

 エビは、黙って頷いた。


          *


「ソーィエ、タァ(進め)!」

 ビーヴァは、相棒を励ました。ソーィエは、ぴんと耳を立て、尾を激しく振ってそれに応える。赤褐色の毛の下の純白の部分が、陽光を反射し、遠くからでもよく見える旗印となった。

 ビーヴァも、長い尾のように辮髪をなびかせていた。やわらかな靴底ごしに大地の凹凸を確かめ、しめった冷たい風が身体を吹きぬけるのを感じる。濃厚なマツの匂いを吸い込んだ彼は、自分も走りたかったことに気づき、ひそかに苦笑した。

 マシゥを嫌ってはいない。エビと一緒は愉しい。けれども、青年の内の何かが、この旅を飽き足らぬものにさせていた。飛ぶために生まれたハッタ(梟)の仔が、止まり木に括りつけられているような、橇犬が、主の鞭を待ちつづけているような。奇妙な窮屈さを感じていたのだ。

 それは、若さだといえた。常に己を抑制している青年の、内に宿る生命だ。

 今、彼は心おきなく自己を解放していた。

 苔むす岩によじ登り、崩れた斜面を跳び降りる。迷うことなく。空には雲が重くたれこめ、木々は色を失い、嘆きの溜息をついている。伸ばした腕の先を影が覆ったが、恐れは浮かばなかった。

 やがて、足跡の主に追いついた彼らは、速度を落とした。

 乳白色の風が淀む窪地の底に、藍色の影がうずくまっている。吐息のような霞に身を浸し、彼らは息をととのえた。

 ビーヴァは、指を舐めて風向きを確かめると、ソーィエとともに風下に移動した。目を細め、弓に矢をつがえ、モミの林ごしに目標を定める。ふと弦を緩め、数歩移動して、また引きしぼった。

 心の中で、呟く。

『イエンタ・テティ(狩猟の女神)よ。矢を届けさせたまえ――』

 耳元で、ピシリと弦が鳴った。


 ソーィエは、大喜びで駆け出した。倒れた獲物の匂いを嗅いで死んでいることを確かめると、尾を振って吼え、跳びはねた。ビーヴァの脚の下をくぐり、舌を出して喘ぎ、全身で褒めてくれとせがむ。

 ビーヴァは、相棒の頭を撫でてから、キツネを見下ろした。矢は、正しく前脚の間を射抜いている。わずかに口を開けて眼を閉じた表情を見て、安堵した。苦痛は短かったらしい。

 ビーヴァは跪き、まだ温かい身体から矢を抜き取った。すかさず、ソーィエが、滴り落ちた血を舐める。興奮している相棒は放っておいて、ビーヴァは、キツネの毛皮を撫でた。乱れた毛並みを整えると、魂が座っていると考えられる額に手をのせ、囁いた。

「イエンタ・テティの契約に基づき、汝の身をもらい受ける。迷うことなく、汝が父祖の道をたどって行かれんことを……」

 未だに昂る鼓動を鎮めつつ、弓弦を鳴らす。氏族のなかには、狩りの度に行うのは面倒だと、この儀式を行わない者もいる。しかし、ビーヴァは、独りの時も丁寧に祈った。それがテティ(神々)の加護を確実にすると、信じているだけではない。

 テティの契約――生命は、他の生命を犠牲にしなければ、生きることが出来ない。木も草も、魚も鳥も、例外はない。全てを司ることわりの中で、狩るもの(肉食獣)の一員として生かされる自分が、果たすべき務めと考えているからだ。

 ビーヴァにとって、狩りは生きるための手段であり、神聖な駆け引きであり……己も死すべきものであるという、太古からの約束を、確認する行為だった。

 祈り終えると、ようやく青年の頬に、満足げな微笑が浮かんだ。鼻を鳴らして甘えてくるソーィエの顎を撫でる。キツネを抱き、立ち上がろうとして、気がついた。

 夕暮れかと見まごうほど、辺りが暗くなっていた。

 遠く、雷の音が響く。ギャアと警戒の声をあげて、カラスが飛び立った。続いて、小鳥の群れが頭上を横切る。ビーヴァは、片手を額にかざした。

 ソーィエが、不安そうに耳を動かして、彼を見る。その鼻に、ほつりと水が落ちた。

「まずいな」

 呟いて、ビーヴァは矢をしまった。雨が降ると、山は急速に冷える。早く適当な場所をみつけて、火を熾さなければならない。だが、火打石も防寒用の毛皮も、エビに預けている。

「行こう、ソーィエ」

 キツネを懐に入れて、ビーヴァは歩き出した。



 森がざわめいている。

 次第に強くなる風に乗って、黒い雲が流れてきた。重なり合って空を覆い、ベニマツの梢を揺らす。枝がぶつかって音を立て、リスたちが、慌てて身を隠した。バラバラと、木の葉が落ちてくる。

 レイム(太陽)は、もう見えない。

 マシゥは、ビーヴァとソーィエに追いつけるかどうか心配していた。親友の足跡をたどっていたエビも、最初は悠然としていたが、降り始めると、さすがに緊張した面持ちになった。雨は足跡を消し、匂いをわからなくしてしまうからだ。

「おーい、ビーヴァ」

 仲間が獲物を仕留めたと思われる場所に立ち、エビは声をはりあげた。森の中で騒ぐのはテティへの礼儀に反するが、仕方がない。

 マシゥも呼んだ。

「ビーヴァ! ソーィエ!」

 ごごうっという風の音に続いて、骨を転がすような遠雷が轟いた。言葉どおり大地を震わせ、下腹に響く。暗紫色の天を青白い光が走り、数秒遅れて、またゴロゴロと続いた。

 その間に、マシゥは、吼える犬の声をかすかに聞いた。

「ソーィエ?」

 耳をすませて方向を探っていたエビが、腕を振って駆け出した。

「こっちだ!」

 叫ぶ声と同時に、息が白く濁った。

 雨脚が激しくなり、風にのってふきつける水滴が、つぶてのように頬を叩いた。痛みと冷たさに、男たちは呻いた。まるで氷のようだ。いや実際、ひょうなのかもしれない。ぐんぐん気温が下がっている。

 帽子を目深にかぶり、腕でおさえて、二人は走った。ぬかるみに足をとられて転びそうになったマシゥの腕を、エビが引く。雷鳴に追い立てられながら森を抜けた彼らは、川の流れにぶつかって、慌てて立ち止まった。

 雪解けと急な雨で水かさを増した川が、どうどうと流れている。一瞬、立ちすくんだ二人の耳に、聞きなれた声がした。

「エビ、マシゥ!」

 ビーヴァがいた。岸辺に生えた背の低い木に、つかまっている。足元で吼えるソーィエを踏まないよう気をつけながら、やってくる。

 エビの声に、安堵が滲んだ。

「ビーヴァ、良かった。無事だったか」

 こくりと頷く青年の顔を、雷光が照らし出した。直後に、天を割るような音が続く。明らかに近づいている。

 カチカチという音に、マシゥは気づいた。自分の歯が鳴っているのだ。エビとビーヴァも震えている。外套の縁にのぞく毛には氷が付着し、ビーヴァの唇は紫色になっていた。

「ここは、危険だ。はやく、――行って、火を熾そう」

「わかった!」

 ビーヴァの言葉は風に吹き飛ばされ、全部を聞き取ることは出来なかったが、エビは力強く頷いた。三人は、流れに足をとられぬよう、木や草につかまって歩いた。ソーィエが先を行き、尾を振って彼らを待つ。その瞳は、新しい遊びをみつけた喜びに輝いている。

 三人と一匹は、斜面を登って行った。

 森は、大声で喚き続けた。雨と風と雷の音が一緒になって耳を塞ぎ、何も聞こえなくなる。ふいに、耳から耳へ頭蓋を貫く衝撃が走り、近くに雷が落ちたことが分かった。ひとかかえほどもある大木が、メキメキと音をたてて割れた。

 マシゥは、何故二人が森から離れようとするのかと訝しんでいたが、その落雷で理解した。

 闇が、頭上で渦を巻いている。気づくと、マシゥは、右腕をエビに、左腕をビーヴァに支えられて走っていた。

 腰ほどの高さの草が生い茂るひらけた場所に出ると、エビはうずくまり、途中で拾ってきた(いつそんな暇があったのだろう、と、マシゥは考えた)木の枝に、火を点けようと試みた。けれども、火打石も木も濡れていて、役に立たない。エビは舌打ちし、怒りの唸り声をあげた。

 雨と風は、容赦なく体温を奪う。今や、彼らは熱病患者のように震えていた。水に流されなくとも、雷に撃たれなくとも、このままでは凍えてしまう。ガチガチ鳴る歯を噛みしめ、マシゥは、生まれて初めて死を身近に感じた。

 当然、エビはそのことを知っていた。彼は荷物を放り出すと、拾った枝で猛然と土を掘り始めた。

「掘れ! お前も!」

 マシゥの眼前に枝をつきつける。訳が分からないと思いながらも、剣幕に圧倒されて、マシゥは穴を掘り始めた。ソーィエも、前脚で懸命に土を掻く。だだだだだっと掘っては吼え、嬉しげに尾を振っては、また掘って吼える。――あまり役に立っているようには見えなかった。

 エビは、土の中から現れた岩をどけ、さらに穴を拡げた。もどかしくなったのか、枝を投げ出し、素手で土を掻き出した。爪が剥がれ、顔をしかめる。

 ビーヴァは、穴の縁に立って草を編んでいた。こちらも頬を強張らせ、歯をくいしばっている。丈の長い草の葉を、穴の両側から引き寄せ、結び合わせる。その下に毛皮を押し込んでいるのを見て、マシゥはあっと思った。

 屋根を作っているのだ。この暴風を避け、暖をとるための。

 理解した彼を、エビがぐいと押した。

「中に入れ! 早く!」

 地中に出来た部屋に、マシゥは飛び込んだ。続いてソーィエが、ずぶ濡れの身体をすりよせてくる。エビが荷物を抱えて入り、毛皮をかぶった。彼らの吐く息が、穴の空気を暖める。

 ビーヴァは、まだ草を編んでいる。自分たちが風に飛ばされないようにするために。

「ビーヴァ、急げ!」

 エビに急かされて、とうとう彼も中に入った。ほとんどいっぱいの穴に身体をおしこめ、頭から外套をかぶる。

 そして、彼らは闇に呑まれた。



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