第五章 蒼き炎(2)
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一夜が明けたアロゥ族のナムコ(集落)には、焼け落ちた柱や屋根が転がり、焦げた炭の匂いと人々の落胆が、灰色の煙とともに漂っていた。
村のあちらこちらで、犬たちが吼えている。みな、異変を感じて警戒しているのだ。繰り返す声は、与えられない餌と、主人からの安心を求めていた。
床下に隠れていたセイモアは、髭をぴくぴく動かしながら外へ出た。そうっと足を進め、地面に残る染みに近づく。マツヤニの匂い、汗と恐怖のにおいに混じって、血の臭いがした。
タミラの匂いだ。まだ、新しい。
ひとしきり嗅いだ仔狼は、途方に暮れた気持ちで座り込んだ。尾のない連中のやり取りは解らないが、起きたことは分かる。
あの嫌な奴(コルデ)がラナを連れ去り、タミラが傷を負ったのだ。二人とも、ビーヴァの大切な仲間で、《彼》を守ってくれるものたちだ。
仔狼は、思案げにひとつ鼻を鳴らすと、立ち上がった。匂いの跡を捜して、とぼとぼと歩き出す。耳を垂れ、尾を下げて悄然と行く《彼》に、気づく者はいなかった。
村人たちは、焼け残ったラナの家に集まっていた。徹夜で火を消すために駆け回っていた男たちの顔には、煤と疲労がこびりついている。頬や腕を腫らした年寄りが、蒼白い顔を並べていた。
部屋の炉の側には、幾重にも毛皮が敷かれ、タミラが横たえられていた。身体には、衣が掛けられている。湯を沸かし、負傷者の手当てをする女たちの頬は、焦りと絶望に強張っている。
タミラの傷は、手の施しようがなかった。
昨夜から、長は彼女の傍らに坐し、一睡もしていなかった。刺青の入った頬はこけ、髪は乱れて艶を失っている。浅く苦しげな呼吸を続けるタミラを見守ってはいるものの、黒い瞳は薄い幕が貼ったようにくもっていた。
悪意のある男たちによって、幼い子どもと女たちが攫われ、家々が焼かれた。シャム(巫女)を奪われ、仲間を傷つけられた。――突然襲い掛かった未曾有の事態を、誰も、受け入れることが出来ない。
けれども、何人かの者は、衝撃から立ちなおろうとしていた。
矢筒を背負い、マラィ(長刀)を佩いたマグが、サンを連れてやってきた。二人とも村の若衆だ。サンも武装している。
サンは、タミラの足元に片方の膝を着くと、硬い表情で報告した。
「奴らの足跡をみつけました」
長の瞳の奥に、幽かな光が瞬く。青年は、押し殺した声で続けた。
「川岸に、舟を引き摺った跡がありました。キィーダ(皮張りの小舟)より重い。奴らの舟だと思います」
長は、マグに視線を向けた。彼の目の周りにも、疲労が影のようにこびりついていたが、口調はしっかりしていた。
「奴らは、川を下ったようです。あの男の言った通り、川下に住んでいるのに違いありません」
「しかし」
サンは、悔しさに唇をひきつらせた。
「……我々のキィーダが、なくなっています。奴らが奪って行ったのでしょう。一艘も残っていません」
話を聞いていた男たちの間に、どよめきが走った。舌打ちや呻き声、腹立たしさを示す呟きが、そこかしこで湧き起こる。
「なんという奴らだ」
「悪辣な……」
長は黙っていた。男たちの囁きを聞きながら、眼を閉じる。その耳に、マグが提案した。
「犬を放ちますか?」
「ああ。……いや、待て」
長は
「舟で行ったのであれば、追いつくのは無理だ。これ以上、犠牲を出すわけにはいかぬ」
マグは口を開け、抗議をしかけたが、何も言わず口を閉じた。
長は、片方の掌で顔を覆い、低く呻いた。
「すまない。私が不甲斐無いばかりに。あの男を信じたのが、間違いだったか……」
「長」
「王」
男たちが、口々に呼びかける。タミラが手を伸ばして、彼の膝に触れた。長は、彼女の手に片手を重ね、頷いた。
「ビーヴァを呼び戻そう。エビに、ロキと子どもたちのことを伝えなければ。誰か、行ける者はいるか?」
「…………」
タミラは眼を閉じた。サンとマグが、素早く顔を見合わせる。彼らは、ビーヴァとエビも安心できないと思っていた。
今では、アロゥ族のなかで、マシゥを友好の使者だと考えている者は、一人もいなかった。あの男は、自分たちを油断させるための囮だったのだ。通訳を務めた少年は、コルデの手引きをしていたではないか。
自分たちは、騙されたのだ。
きっとマシゥは、ビーヴァに案内をさせて他の氏族のナムコを訪れる度に、同じことを説いて回るのだろう。用済みになれば、ビーヴァは殺されてもおかしくない。
長はタミラを
攫われた女たち、子どもたちの身が気懸かりだった。怪我をした者たちの手当てもしなければならない。しかし、誰かが仲間に、この事態を伝えなければならない。
マグが顔を上げた。
「俺が行きます」
唇を噛んでいるサンを、ちらりと見遣り、
「サンは、姉を攫われています。ここを離れるわけにいきません」
「そうか……。マグ、お前の家族は無事か?」
「はい」
長は、青年を、いたわるように見詰めた。マグは、その視線をまっすぐ受け止めた。
「ワイール族にこのことを伝え、シャナとロコンタ族へ伝令を送ってもらいます。二人と応援を連れて、急いで帰って来ますよ」
「頼んだぞ」
「はい。タミラのためにも――」
頷きながらビーヴァの母を見下ろしたマグの台詞が、途中で止まった。様子を伺っていた女たちの一人が、息を呑む。
異変に気づき、長も彼女を振り向いた。
「タミラ……!」
*
早瀬を下る舟は、木の葉のように揺れていた。
流れに押されて傾き、水面からのぞく岩にぶつかる。風にあおられ、波しぶきがかかるたびに、悲鳴があがる。
はじめのうち、捕虜を黙らせようとしていた男たちも、今は懸命に櫂を操り、何とか舟を安定させようとしていた。
「追ってきているか?」
「いや、見えない」
男たちは、しきりに後方を気にしていた。狩猟民の毒矢が恐いのだ。一睡もせずに漕ぎ続け、朝を迎えていた。
「なに。あの火はそう簡単には消えない。すぐには追って来られないさ」
うそぶくコルデも眠っていないはずだったが、碧の瞳は、ぎらぎらと輝いている。唇には、嘲るような笑みが貼りついたままだ。
その横顔を眺めながら、トゥークは、内心で舌を巻いていた。
森の民には、火に関する禁忌が存在する。モナ・テティ(炎の女神)を崇める者は、炎を汚してはならず、水をかけてはならない。――それを承知の上で、コルデは火を放ったのだ。村の者たちは、火事を消すために、建物を壊すしかなかったろう。
さらに、彼らは、キィーダ(皮張りの小舟)を盗んでいた。
コルデたちの舟は、削った木を組み合わせて作る。狩猟民の舟に比べると、重いので速く進むことは出来ないが、幅があり、大人なら五・六人乗ることが出来る。その舟と奪った舟に、女と子どもたちを分乗させていた。
雪のない季節、舟がなく、橇も滑り板(ミニスキー)も使えない状態では、いかに敏捷な森の民とはいえ、追いつくことは出来ない。
なんと狡猾な男だ。
櫂を動かしながら、トゥークは唇を噛んだ。コルデが実に周到に計画を練っていたと解る。彼らの習慣を調べ、現場を視察し、機会を窺っていたのだろう。テサウ砦の存在すら知らなかったアロゥ族の人々が、敵う理由がない。
いったいいつから?
トゥークは、警戒と敵意を強めつつ、傍らのコルデを仰ぎ見た。男は、少年の視線など頓着せず、前方を見据えている。栗色の髪を風になぶらせ、口元にはふてぶてしい嗤いが浮かんでいる。
何のために……?
トゥークは、シャム(巫女)に視線を向けた。子どもたちと身を寄せ合い、
そのとき、ラナが、こちらを見た。少女の黒い瞳と出合ったトゥークは、どきりとして顔を伏せた。
ラナの瞳はトゥークを映したが、彼女は彼を見てはいなかった。
『大丈夫。死んだと決まったわけじゃない』
少女は、胸の中で繰り返した。
『タミラは、きっと大丈夫。セイモアは……』
一晩泣き明かした少女の目は、真っ赤に腫れていた。今も、波のように押し寄せる不安と闘うのに必死だった。
眼を閉じれば、燃えあがる金の炎と、苦しむ乳母の顔が脳裡にうかぶ。水しぶきが頬に降りかかれば、生々しい血の臭いが蘇り、セイモアの悲鳴が聞こえ、嗚咽がこみ上げた。
こんなことではいけない。しっかりしなければ。
震える歯を食いしばり、ラナは自分に言い聞かせた。傍らには、三人の子どもたちが、やはり震えながら身を寄せ合っている。彼らのためにも、取り乱してはいけない。
コルデは、連れてきた女と子どもたちを、数人ずつ舟に乗せていた。わざと、母親と子どもを引き離している。親子が共にいれば逃げようとする可能性があるが、我が子を捕らえられて抵抗できる母親はいないからだ。
その意図に気づいたとき、ラナは初めて、憎しみが心に湧き起こるのを感じた。
なんて、きたない。
ロキの幼い息子(エビの息子でもある)を抱きしめて、唇を噛む。怒りをこめて男たちを睨みながら、一方で、ラナは考えずにいられなかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう?
何故、襲われるまで、悪意ある存在に気づくことが出来なかったのか。契約を結んで巫女になったはずの自分に、どうして、テティ(神々)は何も教えて下さらなかったのか。
否……あの日、母と名乗った女性は、最初に彼らを見せてくれた。
《憐れな者たちだ。テティに依ることなく、世界を変えようとしているのだ。汝にも、すぐわかる。》
ビーヴァも、己の印象を語っていた。
『彼らは、俺たちとは違います。なのに、何故、矢の意味が解ったのでしょう……?』
《王をみつけるのだ、早く。汝らの命が尽きぬうちに。》
――言葉をかえ、形をかえて与えられていた警告を、ただ自分が理解しかねていただけなのだろうか。神霊の意思を伝えるのが役目の、巫女と王が。
己の心に囚われて、未来をよみ誤ったというのか……。
ラナは目を瞠り、びくりと肩を震わせた。
『……無事でいて、タミラ。どうか。父さま、ビーヴァ、助けて……』
泣きはらした目で灰色の空を仰ぎ、少女は祈った。
**
こすりつけるように鼻を押しあて、セイモアは、土を嗅いだ。幾人もの人のにおい、血と焦げた木と脂の匂いのなかから、ビーヴァの匂いをみつけたのだ。ふんふんと興奮気味に鼻を鳴らし、尾を振って立ち止まる。
《彼》の前には、丸太を並べた橋がかかっていた。
いつか、ビーヴァと一緒に渡った橋だ。あの時は、テイネ(ニルパの妻)の腕に抱かれていた。人なら何と言うことのない起伏が、ちびのルプス(狼)には、大きな壁に見える。
おそるおそる、足を踏み出した。
眼下では、暗緑色の水が、渦を巻いて流れている。昨日の恐怖を思い出し、《彼》は首筋の毛をさかだてた。思い切って隙間を跳びこえ、数歩よろめいて、また走り出す。
爪先が木に当たって、耳障りな音を立てた。たわんだ板が、ギシギシと文句を言う。
十五ナイ(約六メートル)ほどの橋が、ずいぶん長く感じられた。
対岸に着いたとき、《彼》は舌をだらりと垂らし、肩で息をついた。堅い土の感触とともに、足の裏から、熱いものが上ってくる。ウォッフ、と満足げに短く吼えると、森へ向かって駆けだした。
振り向くことはしない。
《彼》は、水平に尾を揚げ、滑るように足を運ぶ狼流のやり方で、次第に速度をあげていった。登り坂も、行く手を塞ぐ倒木も、苔むした岩も、落ち葉の罠もものともせず。
――ビーヴァの許へ。
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