雷神と白樺(2)
2.
五日ぶりに味わう外の空気は、ひやりとして心地よかった。ビーヴァは、川の流れと木々のにおいのする風を、胸ふかくまで吸い込んだ。ひりひりする皮膚の熱も、冷めるようだった。
家に籠っている間に、季節は進んでいた。朝の太陽は、やや低い位置からこちらを照らしている。
ビーヴァは、秋の風に髪をまかせ、エビの家を目指して駆けだした。
エビは、ビーヴァより四歳年上の幼馴染だ。当然、先に成人している。彼が刺青をいれたとき、ビーヴァは最初に見せてもらった。だから、自分も最初に見せたいと思っていたのだ。
遡上するホウワゥ(鮭)を獲るためのマレク(突き鉤)を持った、大人たちの一団がやってきた。数人の子どもたちが、後について来る。ビーヴァは、
エビの家に着くと、友は、干したヤーヤー(小魚)の束を手に、犬たちに餌を与えているところだった。
ビーヴァは、犬たちを脅かさないよう歩をゆるめ、近づいて行った。
「エビ」
「おう、ビーヴァ。やっぱり来たな」
少年が片手を挙げると、エビも、残りの魚を犬に投げ、右手を挙げてくれた。二人は、互いの手を叩き、その手を握って挨拶をした。
エビは、ビーヴァの手を握ったまま、彼の頬に顔を寄せ、にやりと唇をゆがめて笑った。
「似合うじゃないか。さすが、ケイジだ」
褒められて、ビーヴァは、照れ笑いを浮かべた。痛みに片頬をしかめたが、エビが襟を開き、模様を検分するのに任せた。
「へえ」
じっくりと眺め、エビは、本当に感心した口調になった。
「凄いな。首の後ろまで、つながっているぞ」
「見えないんだ。どうなってる?」
「綺麗なモナ(炎)だ」
ビーヴァは、編んだ髪を右肩へ流して首をひねったが、背中までは見えない。左肩から上腕にからみつく線を、眼を細めて見遣った。
エビは手を伸ばし、ビーヴァの左耳の後ろを示した。
「俺のとは違う。ケイジの父祖の模様だろう(代々続く、という意味)。変わっているな。ここなんて、ロカム(鷲)の翼みたいだ」
「え、え?」
どうやら少年は、自分のすがたを確かめるのもそこそこに、家を出て来たらしい。エビは哂って、彼を家の中へと引き入れた。
「ほら。見てみろよ」
エビは、前室の隅に置いた土製の水瓶の前へ、ビーヴァを立たせた。少年の頭を、後ろから両手ではさみ、水面へと向けさせる。ビーヴァは、呼吸をとめた。
深い水瓶の奥から、鮮やかな刺青のある若い男が、こちらを見返していた。
髭のないつるんとした頬に、藍色の火焔が渦を巻いている。ところどころ血がにじみ、緋色と紫の斑をつくっていた。頬骨から顎の角をふちどり首へつづく線は、うねり、波打ちながら耳の後ろへまわっている。ビーヴァが首を振ると、水のなかの男も顔を動かしたので、たしかに自分だと判った。
「これ、俺?」
「そうだ」
まだ髭を剃る必要がなく、己の顔を眺める習慣のない少年は、目をまるくした。首をひねり、顎を持ち上げ、模様をたしかめる。エビは、愉快そうにその様子を眺めた。
「細かく彫ってある。ケイジは上手い。上手い親父で、良かったな」
「…………」
「どうした。感想は?」
「感想って……」
自分の容貌の感想をもとめられたようで、奇妙な気がした。刺青のことだと思い直し、ビーヴァは問い返した。
「細かいと、どうなの?」
「いずれ、大きくなる」
「大きくなる?」
「お前はまだ、背が伸びるだろう。成長すると、皮膚もひっぱられて、模様が拡がるってわけだ」
「ああ」
ビーヴァは振りかえり、左肩の後ろを観ようとした。そこの模様は繊細すぎると思っていたのだが、説明を聞いて納得した。――途端に痛みがはしり、彼は奥歯をかみしめた。
「……俺、エビみたいなのがいいって、言ったんだ」
「そいつはどうも。大丈夫、ケイジは、ちゃんと考えて彫っている。気になったら、後から追加したっていい」
「そんなこと、していいの?」
普段は父親同様に無口で落ち着いているビーヴァが、いつになく質問攻めするさまに、エビは、遂に声をあげて笑いだした。左手の親指で、自身の左胸をさす。
「俺のここの刺青は、後から彫ったものだ。王だって、後から入れているだろう? お前が望むなら、俺が彫ってやってもいいぜ」
「うん。ありがとう」
彼らの族長は、ロコンタ氏族の出身だ。アロゥ氏族のシャム(巫女)と結婚して、森の民の盟主となった。王の左頬には、出身氏族の月の紋様が、右頬と身体には、炎の紋様が描かれている。
やっと安心したビーヴァに、部屋のなかから声がかけられた。
「あんた、どうしたの。誰かいるの?」
エビの妻のロキが、夫の笑い声を聞きつけて、顔をのぞかせた。少年を見て、眼をみひらく。
「あら。ビーヴァ? 見違えたわ」
ロキは、生まれて間もない赤ん坊を抱いていた。その子に乳を含ませていたらしい。毛皮の内着の襟が大きく開き、なめらかな膚がのぞいている。ビーヴァはぎょっとした。
ロキは、艶やかに微笑んだ。
「おめでとう、と、言わなきゃね。また今度、ゆっくり見せて頂戴」
そう言うと、ふにふにむずかり始めた赤ん坊をあやして、部屋の中へ戻っていった。エビは、絶句しているビーヴァを、再び家の外へ連れ出した。
ビーヴァは、ごくりと唾を飲んだ。
「エビ。ロキが……子ども?」
「息子だ」
苦笑しながら、エビの顔は、どこか得意気だった。ビーヴァは、痛みを忘れて頷いた。
「……そうだったんだ。オメデトウ」
「なに。お前も、すぐに出来るさ」
エビとロキは、去年結婚したばかりだ。その二人にもう子どもと言うのが、ビーヴァには不思議な気がした。『すぐに』――相手もいないのにそれはなかろう、と思えたが、黙っていた。
「また今度、顔を見に来てやってくれ」
「うん」
「それから、一緒に狩りに行こうぜ」
「いいの?」
ビーヴァは、黒い瞳を輝かせた。父親の同伴なしで狩りに行けるのは、成人した男の特権だ。
「腫れがひいて、痛みが消えたらな。血のにおいをさせていたら、イェンタ・テティ(狩猟の女神)が嫌がる」
エビは、不敵に笑った。
「お前こそ、いいのか? 俺は今年、ケイジを超えようと思っているんだぜ」
アロゥ氏族の『一の狩人』の名を持つケイジは、若衆たちにとって憧れの存在だ。彼に次ぐと言われているエビは、ビーヴァの父を凌ぐのが目標だった。
ビーヴァは笑った。
「いいよ。俺は、エビと行きたい。俺が手伝わなくても、父さんは負けたりしない」
「言ったな」
呵々と明るい声をたて、エビは腕を伸ばし、ビーヴァの肩を抱き寄せた。衣が刺青に触れて痛みが走ったが、ビーヴァは片目を閉じて耐えた。
ひとしきりじゃれた後、エビは、思い出したように言った。
「お前、俺と狩りに行くなら、歌を用意しておけよ」
「え? 歌?」
「そうだ」
エビは、意味深にうなずいた。
「狩りの途中で、ワイールやロコンタ氏族のナムコ(集落)へ寄ることがある。そのとき、自分の歌がなければ、妻問いが出来ないだろう」
「え……つまどい、って……?」
ビーヴァは、目を白黒させた。エビは、本当に面白そうに少年を見下ろした。
「自分の名と、両親の名と、祖父母の名……五代もあれば十分だろう。そいつを歌にのせるんだ。気に入れば、相手も返してくれる」
「…………」
「お前なら――我はビーヴァ、母はタミラ、シラカバの娘。父は聖なるモナ(火の女神)の息子、ケイジ。祖父の名は……。って感じだ」
エビが節をつけて朗々と歌ってみせたので、ビーヴァはさらに眼をまるくし、口をぱくぱくさせた。
「やるの、そんなの。……やったの? エビ」
「当然」
「ロキ相手に?」
「ロキだけじゃない。五人くらいに、歌ったぜ。歌い返してくれたのは、二人。うち一人がロキだ」
「…………」
「もう一人はシャナ族の娘だったが。困ったことに、俺の母方の曾祖母と、相手の父方の曾祖母が同じだったんだ。それで、ロキになった」
互いの祖先の名を明かし合うことには、血縁を確認する意味がある。どこかで同じ名が出るようなら、どんなに気に入った相手でも、避けなければならない。妻問いの歌合わせには、そういう目的もあった。
ビーヴァは、瞬きを繰り返していた。エビは、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ。本当に、聞いたことがなかったのか? お前の両親だって、合わせたはずだぜ」
「合わせるって……。名はともかく、曲はどうするんだ?」
「そんなもの」
エビは、フッと唇を歪めた。
「男の方が作っていくに決まっているだろうが。相手が気に入ったら、こちらに合わせて歌うんだから」
「…………」
めまいがしてきた。
呆然とするビーヴァの背を、エビは叩いて励ました。
「心配するな。俺が、ちゃんと紹介してやる。ケイジは、トレン(板琴)も上手いし、いい歌をいくつも作っている。お前にだって出来るさ」
いや、そこが心配なわけではない。というか、狩りってそういう意味だったのか?
いきなり開かれた大人の扉を前に、ビーヴァは戸惑うしかない。エビは、新しい娯楽を得て、にやにやと笑っていた。
その日は天気がよかったため、ナムコ(集落)の男たちはホウワゥ(鮭)漁にいそしみ、かなりの漁獲をあげることが出来た。獲ったホウワゥは、その場で女と子どもたちがさばき、内臓をとって干していく。取り出した
刺青の血のかわかないビーヴァは、まだ漁に参加することは出来ない。両親とラナが出ている間、家のなかでおとなしく、弓矢の手入れをして過ごした。ユゥク(大型の鹿)狩りにつかう
「おかえり。ラナは?」
「王の家に帰ったよ。明日、また来るって」
満足げな父母の表情をみると、今日は豊漁だったのだろうと察せられた。タミラは、小ぶりなホウワゥを一匹、籠にのせて見せた。新鮮な生のホウワゥを食べられるのは、この時期だけの贅沢だ。
ケイジは、前室の水瓶の前で足をとめ、手を洗い、口を漱いでから入って来た。見上げるビーヴァに頷いてみせ、家長の座に腰を下ろす。息子の手元に矢柄が並んでいるのをみると、さっそく手を伸ばした。一本ずつ眼前にかざし、出来ばえを確かめる。それから、皮を剥いで乾燥させていたシラカバの枝を手にとると、表面を削って新しいイトゥ(神幣)を作り始めた。
夫と息子が無言で作業をつづける傍らで、タミラは炉に水をいれた土鍋を置き、ヌパウパ(ヤマニラ)とコンタ芋、ホウワゥの切り身を煮始めた。二人のために、木筒にウオカ(酒)を注ぎ、炉の灰に挿してあたためる。
夕暮れの風が、窓の蔽いを揺らして吹き込み、秋の気配を運んできた。イラクサの茣蓙に座っていないビーヴァは、素足の触れる板敷の床がいつもより冷えていることに気づいた。
やがて、ホウワゥの煮える甘い匂いがたちはじめると、ケイジは作りかけのイトゥを傍らに置き、胡坐を組み直した。ビーヴァが、出来た矢柄をまとめて束ねる。タミラは木の椀に料理をよそい、夫と息子の前に置いた。
食事が始まった。
家のなかは、とても静かだった。もともと、家長のケイジがたいへん無口なうえ、ビーヴァも喋る方ではない。ひとりタミラが、「味付けはどうだい?」とか、「このホウワゥは、脂がのっていていいねえ」とか、「ラナ様は、今日はヤーヤー(小魚)を捕まえたんだよ。生きたまま王に見せたいと仰って、お持ち帰りなさった」とか言うのを、男二人は相槌をうち、たまに「うん」だの「ほう」だの、短く応える。
タミラは特に不満に思うことはなく、にこにこと話していたのだが、そのうちに黙り込んだ。息子の様子に気づいたのだ。
ビーヴァは食べながら、何度か父の方を見遣った。それも、ただ見ているのではない。器に口をつけたり、魚を噛んだりしながら、ちらちらと父の表情をうかがっているのだ。既に、頬の痛みは忘れたらしかった。
タミラは、しばらく見守っていた。息子がケイジに話しかけるか否か、迷っているように見えたのだ。
ケイジがほぼ食事を終え、ウオカを飲み始めた頃になって、やっとビーヴァは声をかけた。
「父さん」
「うん?」
「父さんは、どんな歌をうたって、母さんに妻問いしたの?」
「…………!」
ケイジは、ウオカを吹き出しかけて、盛大に咳こんだ。
タミラは、目をまるくした。まさか、この息子が、そんなことを訊ねてくるとは思わなかったからだ。
「まあ! お前……急に、何を言いだすんだい?」
噎せる夫を横目で見遣り、タミラは言ったが、どうにもしまりの悪い返答だった。
ビーヴァは、きまり悪そうに椀に口をつけ、上目遣いに両親を見た。
「エビが……一緒に狩りに行くなら、『自分の歌』を用意しておけって……」
タミラの口が、ぽかんと開いた。息子を見て、夫を見て、再び息子を見たが、言葉が出てこない。頬が赤らむのが、自分でも分かった。
ケイジは、苦虫をかみ潰したような顔になった。何度か咳ばらいをして応じる。
「エビは……いったい、お前に何を教えているんだ……」
ビーヴァの答えは、いたって真面目だった。
「自分の歌がないと、他の氏族のナムコへ行ったときに、困ることになる。いい
タミラは、呆れ声になった。
「お前、刺青を入れたばかりで、もう妻問いするつもりなのかい?」
「違うよ」
ビーヴァは、ひょいと肩をすくめた。
「エビは、ロコンタ族やシャナ族のところで、何人かに歌って聴かせたらしいんだ。ロキは、そのなかの一人だって言っていた。……でも、確か母さんは、シャナ氏族長の紹介で、アロゥ氏族へ来たんだろう? 父さんと逢ったのはその後だって聞いていたから、エビと違うな、って――。どうしてだろう? って思ったんだ」
「ああ……」
タミラはほっとして肯いたが、ケイジは再び咳きこんだ。息子と妻から顔を背け、口元を覆っている。ビーヴァは、怪訝に思って首を傾げた。
『父さん、いつまで咳こむんだ。いくら何でも、長すぎるだろ?』
タミラは、息子の質問の意図を理解し、苦笑した。
「そういうことも、あるんだよ。あたしの時は、シャナ氏族長が
ごほんごほん。ケイジは、咳を続けている。ビーヴァは、横目で父を見ながら、話の続きを促した。
「……それで、父さんは、母さんに歌ったんだ」
「そういうこと」
「どんな歌、だったの?」
「そりゃあ、もう!」
ケイジは、心底おびえた表情で妻を見遣ったが、タミラは構わず、うっとりとした口調でつづけた。
「素敵だったよ、本当に! この人は、トレン(板琴)を弾くだろう? 仲間の歌に節をつけてやっていたんだけど、それが、格好良くってねえ……。あたしと、もう一人が応えたんだけれど、父さんが選んでくれたのは、あたしだったのさ」
「へえ……。トレン……」
「でもねえ。あれ以来、あたしには全然うたってくれないねえ」
ビーヴァは、母の話が自分の問いから的の外れたものになっていることに気づき、やや憮然とした。ケイジは、咳払いをくりかえし、何とか体裁をつくろった。
「……ビーヴァ」
「はい」
「歌が必要になったら、言いなさい。作り方なら、教えてやろう。……だが、お前はまず、一人前の狩人になる方が先だ」
「……はい」
父の言うことは、もっともだった。家族をやしなえる狩りの腕前がなければ、アロゥ族の男が、妻問いなど出来はしないのだから。エビは既に自信があるから、弟分のビーヴァをからかったに過ぎない。
ビーヴァは真摯に父を見詰めたが、ケイジは視線をそらし、息子を見ようとはしなかった。この話は父にとってばつの悪いものらしい、と察したビーヴァは、追及を止め、食事を再開した。
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