第三章 契約の印(6)



          6


「トゥーク。君とお父さんは、どこに住んでいるんだい?」

 返って来たのは、無愛想な一瞥だけだった。懲りずに、マシゥは、手にした櫂の模様を指し示した。

「これは、鳥だよね。お父さんの顔にも描いてあった。何ていう鳥?」

「…………」

 少年は、今度は一瞥すらしなかった。まるで同乗者などいないかのように、黙々と櫂を動かしている。

 マシゥは軽く肩をすくめたが、いい加減慣れていたので、大して落胆もせず、舟を漕ぐ作業に意識を戻した。

 オコン川は、ゆるやかに蛇行して流れている。雪解けを含む水は冷たく、ところどころに薄い氷の破片が浮いている。枯れ草が中州に褐色の層をなし、すっかり縮んで小さくなった雪の下から、新しい木の芽が顔を覗かせている。

 岸辺には、ハンノキやサルヤナギの木が並び、その奥に、ベニマツやモミのとがった梢が重なり合う。日差しを反射してきらめく若葉が、満開の黄色い花のように、シラカバの幹を飾っていた。

 チュルルルルッ!

 川面に突き出した枝の下を舟がくぐると、鋭い音がした。マシゥが見上げると、ちょうど、ふわふわの尾が駆けて行くところだった。――リスだ。

 上空では、ワタリガラスが輪を描いて飛んでいる。見慣れぬ侵入者を警戒しているのだろう。ハンノキの茂みの中で、何かが動く音がした。

 木々の影が、川面に黒と金の斑を描く。ひやりとする風が外套の襟を揺らし、深碧色の水面にさざ波をたてた。

 マシゥは、ほっと息をついた。

 雪の荒野を抜けて来て、冬の間じゅう、石造りの砦にこもって生活していた彼にとっては、心和む風景だった。――馴染みのある森ではない。木陰から突然獣が襲い掛かってくるかもしれない場所なのだが、不思議と恐怖は湧かなかった。

 犬使いのお陰かもしれない。或いは、折れた矢柄やがらの主か……。彼らの無言の好意がマシゥを支え、使者の使命に希望を与えていた。

 気がかりは、トゥークだ。

 マシゥは、漕ぎながら、向かいに座る少年に視線を戻した。

 犬使いの息子は、無口な少年だった。(父親の態度から、予想出来ないことではなかったが。)マシゥの言葉を理解して、ちゃんと指示には従ってくれる。舟を漕ぐ手つきも、木の枝を拾って火をこし、料理をする手際も、こなれている。

 しかし、世間話には全く応じず、何を言ってもにこりともしてくれない。

 初めのうち、マシゥは、彼の気持ちをほぐそうとして、いろいろ話かけてみた。自分のことを話し、少年の身上について尋ねた。どうして、犬使いの父とともに砦にいるのか。普段、何をして暮らしているのか。故郷はどこか。どんなところに住んでいるのか。自分たちをどう思うか。下手な冗談まで。

 けれども、返って来るのは常に硬い無表情と沈黙だけなので、やがて、マシゥは諦めた。

 別に、娯楽の相手を求めていたわけではないのだから、不満があるわけではないのだが……。犬使いは、頑固さの中に、どこか諦めた悲哀を感じさせる男だった。トゥークの場合、抑圧された怒りに似たものを感じさせ、マシゥを不安にさせた。

 この年頃の子どもによくある、理由のない反抗や羞恥心ならばよい。父親から面倒な役目を押し付けられ、拗ねている程度のことならば。――どうも、それだけとは思えないのだ。

 とまれ、二人は舟を漕ぎすすめた。

 陽気はよく、日中は動いていると汗ばむほどだった。日が暮れると冷え込むので、彼らは、岸辺に火を焚いて眠った。食事は、持参してきたものを食べたが、トゥークが魚を釣ることもあった。

 数日間は、何事もなく進んだ。景色は本当にすばらしかった。コルデは気を遣う相手だったが、舟で行けと言ってくれたことには感謝した。

 (そういえば――ふと、マシゥは考えた。――団長は、先住民族の言葉を知らないと言っていたが、この川を上ったことはあるのだろうか……。)

 川は静かだった。森の動物たちも、時折気配を感じさせるものの、姿を現すことはなかった。他の人間に会うことはなく、人が暮らしている気配も感じなかった。

 川幅は次第に狭くなり、流れも速くなったので、二人は、舟を漕ぐのが辛くなってきた。小さな滝にさしかかると、舟をかついで迂回した。二・三度、それを繰り返したろうか。

 突然、視界がひらけた。

「…………」

 今にも落ちそうなほど水に迫っていたサルヤナギの林が、右岸で急にしりぞいた。空が明るくなり、マシゥは、思わず櫂を動かす手を止めた(トゥークは、黙々と漕ぎ続けた)。

 ほぼ同時に、水辺で声をあげて笑っていた数人の子どもたちが、彼らに気づいた。

 笑い声がやみ、動きが止まる。

 マシゥは、漕ぐ動作を再開しながら、彼らを観察した。

 全員、毛皮の外套を着ていて、幾人かは、それを腰の辺りまではだけている。下には、織物らしい、薄手の衣を着ている。紺と紅の鮮やかな刺繍が目を惹いた。

 彼らは一様によく日焼けした褐色の肌を持っていた。皆、長い黒髪を一本にまとめ、背中に垂らしている。ぼさぼさで汚れているのは、子どもだからだろうか。マシゥは犬使いの姿を思い出し、目前のトゥークと比べた。

 舟が近づいて来るのを察すると、子どもたちは顔を見合わせた。年長らしき子の合図で、二人が森に向かって駆け出し、残りは、大柄な子の周りに集まった。舟底が石に当たる音がごつっと響くと、彼らは一斉に身構えた。

 トゥークは、何も見ていないような顔で舟を岸に寄せると、降りてそれを引っ張った。マシゥも、急いで彼に倣い、舟を土の上に押し上げた。

 子どもたちは、ちょっとさがり、それからまた近づいて、彼らのすることを見守った。大きな黒い瞳が輝いている。好奇心いっぱいなその様を見ると、マシゥは、自然に頬がほころぶのを感じた。

 マシゥは、彼らに微笑みかけた。小さな顔の中で、いくつか白い歯がきらめいた。

 マシゥは、子どもたちと仲良くなりたいと思った。

「こんにちは。ええと――」

 ぎこちなく、挨拶を始めたとき、

「ナムコ(村)はどこだ?」

 むっつりとした声音でトゥークが言い、途端に、ぴりっと軽い緊張が場に走った。マシゥは、驚いて彼を振り向いた。砦を出て初めて、少年の声を聞いたように思ったのだ。

 数本の手が、森の中へと続く小道を指さした。

「…………」

 トゥークは、マシゥの視線には構わず、舟を岸辺の木にくくりつけると、荷袋を背負って歩き出した。見ると、ここの住人のものだろう、数艘のキィーダ(木製の枠に皮を張った舟)が、同じように岸に並べて置いてある。トゥークの足どりは、はじめから目的地を知っているかのように、迷いがなかった。

 マシゥは、自分の分の荷物を持って歩き出した。子どもたちがついて来る。先刻森へ入って行った子が、仲間を連れて戻って来て、辺りは急に騒がしくなった。

 マシゥの傍を、子どもたちは、後になり先になりながらついて来る。囁きあい、時折、はにかんだ笑みを彼に向ける。小さな子が、恐る恐る近づいて衣に触れるのを、マシゥは微笑ましく見下ろした。

『本当に人懐っこい子どもたちだ。もし、大人もこうであるならば、どんなに嬉しいだろう……』

 そう考えた矢先、行く手に大人の姿が見え、彼は頬を引き締めた。

 マシゥは、自分たちが既に集落の中に入っていることに気がついた。『ここには、砦のような塀はないのか』――丸太を重ね、枯れ草と動物の毛皮で覆った、粗末な家が建っている。融け残った雪が、あちらこちらに小さな山を作っている。犬の吼える声、魚と毛皮と血と泥の匂いがした。

 きゃっきゃと歓声をあげる子どもたちに囲まれた二人を、大人たちは、眼を丸くして迎えた。騒ぎを聞きつけて、次々に、家から出てくる。男も女も、腰の曲がった年寄りもいた。皆、毛皮を身にまとい、頬に刺青を入れている。

 マシゥは挨拶したかったが、トゥークがさっさと先へ進むので、歩調をゆるめることが出来なかった。

 トゥークは無言で歩き続け、ひらけた場所まで来て、ようやく立ち止まった。人々も、足を止める。いつの間にか、子どもたちは、マシゥの周囲から姿を消していた。親たちが連れて行ったのだろう。

 マシゥにも、ここが村の中心だと解った。

『さて、どうしよう……』

 荷物を足元に下ろし、マシゥは、頭を掻いた。



 その日、ビーヴァは、エビと他の男たちと一緒に、長の家の前にいた。セイモアは彼が姿を見せないと落ち着かないので、手が空いた時には、会いに来ることにしていたのだ。

 ラナに逢うつもりはなかった。シャム(巫女)になった彼女は、父王やタミラたちから、シャムの仕事について教えを受けるのに忙しく、家にこもっている。――テティ(神々)の声を聞くシャムの能力は、血によって受け継がれる。とはいえ、病人を癒す儀式の際のうたいや、夏至の祭りの踊りなど、勉強しなければならないことが沢山あるのだ。

 あの日の出来事は、ビーヴァの心に小さな棘となって刺さっていたが、少女に逢えないことで、彼は少しほっとしていた。

 長の家の隣には、以前捕らえたゴーナの仔が、専用の小屋に入れて飼われていた。その前で、男たちは、小石を投げて遊んでいた。地面に描いた輪の中で、各々の印をつけた石をぶつけるのだ。

 ビーヴァは参加せず、仲間たちの腕前を眺めていた。足元では、ソーィエとセイモアが、じゃれ合っている。

 興奮した犬の吼え声を聞いて、ビーヴァは顔を上げた。ソーィエとセイモアも、耳をそば立てる。

 彼の隣で、別の男と今春のユゥク狩りについて話をしていたエビが、いぶかしげに振り向いた。

「何事だ?」

 氏族の男たちが、ぞろぞろと広場にやって来た。女と子どもたちも混じっている。人だかりの中心を見て、ビーヴァは眼を細めた。

 見慣れない男たちだった。一人は、まだ子どもだ。自分たちと同じ黒髪を、一本の辮にまとめ、毛皮の外套を着ている。氏族を示す刺青はなく、うつむいた表情は、何か思いつめているように見えた。

 もう一人は――彼を見たとき、ビーヴァにも、騒ぎの原因がはっきり解った。――エビより少し年長の、若い男だった。見慣れない、どころではない。見たことがない格好をしていた。

 背は高めで、肉付きはよかった。痩せても太ってもいない。珍しい、染めた外套を着ている。ユゥクの毛皮を、部分ごとの毛色の違いを生かして縫い合わせたものではなく、獣の毛を織ったものらしい。靴は大きく、立派だった。

 髪は灰色がかった黒で、短く刈ってあった。辮髪はなく、代わりの紐すらない。髪には霊魂の一部が宿っていて、切ると寿命が縮むと信じているビーヴァたちにとっては、考えられないことだった。

 さらに、テティの印(刺青)がない。

 頬は異様なほど白く、のっぺりとしていて、刺青の陰すらなかった。口ひげを生やした顔は、大人の男であるのに、どうしたのだろう。

「なんだ? あいつは。本当に男か?」

 エビが、呆れ口調で呟いた。さもあろう。ビーヴァは、呆れこそしなかったが、男が憐れに思えてきた。――気の毒に。何か事情があるのだろう。子どもの頃に死にそうな大病をして、命と交換に髪を切ったとか。刺青を入れられないほど、弱っていたとか……。

 彼らが見ていると、二人は、広場のほぼ中央で立ち止まった。一緒に来た男たちも、一定の距離を置いて足を止める。子どもに見えた方が、硬い表情のまま、こちらへ話しかけてきた。

「炎の眷属(アロゥ族のこと)よ。長はいらっしゃるか?」

 エビとビーヴァは、眼だけで互いの顔を見た。他の男たちも、顔を見合わせる。

 エビが、素早く頷いた。

「俺が呼んで来よう」

 ビーヴァは、セイモアを抱き上げて、エビに手渡した。そのまま、ソーィエの横に片膝をつく。低く唸りはじめた相棒の首に手を置き、囁いた。

「ソーィエ、静かに……」


 人々の視線が集中する。マシゥは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 彼は、不真面目に見られてはならないと思い、表情を引き締めた。出来るだけ穏やかな口調を心がける。

「ええー、はじめまして」

 横目で見ると、トゥークは、相変わらず無表情に佇んでいる。マシゥは、少年を当てにしないことにした。

「私は……川の……湖のそば、砦から来ました。ずっと南から……来ました」

 この日のために、犬使いを相手に何度も練習したのだが、いざとなると出てこない単語があって困った。

 男たちは、黙って聴いている。巌のように動かない顔に囲まれたマシゥは、本当に通じているのだろうかと不安になった。

「私は、使者です。私の王……貴方たちの王、友だち。贈り物、交換したい」

 台詞の途中で、数人の男たちが顔を見合わせた。刺青のせいで恐ろしく見える顔の中で、黒い瞳が、射るようにこちらを見詰めている。

 マシゥが、狼の群れに追い詰められたウサギになった気分で立ちつくしていると、右手の方から、太い声が投げかけられた。

「王は私だ、使者どの。……貴公は、ロマナ(湖)の南から来たのか」

 威厳のある落ち着いた響きに、マシゥは向き直った。

 彼と王の間にいた男たちが、身じろぎして、視界をあけた。その先に、アロゥ族の長は、杖を突いて立っていた。複雑に絡み合った模様を縫い取りした頭巾を被り、両頬に大きな刺青を入れ、長い髭を垂らした壮年の男だ。周囲に、女たちを従えている。

 丈の長い豪華な毛皮の衣服といい、よく手入れされた顎鬚といい。ひとめで、ただ者ではないことが察せられた。

 マシゥは、再びごくんと唾を飲み下し、出来るだけ丁寧に頭を下げた。緊張は頂点に達していたが、相手の静かな態度に、ほっとした。

「そうです。はじめまして。私は使者です。私たちの王、エクレイタの」

「……して。何の御用か」

 彼のたどたどしい発音に苛立つ風もなく、王は言った。頭巾の下で、目がきらりと光る。

 マシゥは、もう一度お辞儀をしながら、懐に片手を入れた。

「まずは、お礼を……先日、肉を頂きました。伝えたい、この矢の持ち主に、です」

「…………」

 彼が取り出した矢を見て、王は眼を細めたが、何も言わなかった。

 トゥークがマシゥの許にやってきて、無言で片手を差し出した。少年の意図を察したマシゥは、その掌に矢を載せた。トゥークは、王の前に進み出ると、跪いて、預かった矢を手渡した。

 王は、折れた矢柄をしげしげと眺めた後、鏃の部分を持って、それを頭上に掲げた。ハッタ(梟)の羽根が、昼の日差しを反射する。

 沈黙が、場を覆った。


「……俺です」

 ビーヴァは観念した。膝に手を置いて立ち上がり、言い直した。

「それは、俺の矢です」

 人々の間に、どよめきが走った。

 矢柄に集中していた視線が、声の主を探して揺れ、それから、広場の片隅に向けられた。王が眉根を寄せ、タミラが息を呑む。

 父王の陰でセイモアを抱いて立っていたラナは、そっと彼の名を囁いた。

 マシゥは、そちらを見た。

 衆目を浴びて決まり悪そうに立ち尽くす青年の黒い瞳と、南から旅をしてきた男の灰色の瞳が、出合った。

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