第四章 神々の詞(ことば)

第四章 神々の詞(1)



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 初めてビーヴァを見たとき、マシゥは、『おとなしそうな若者だな』と思った。

 トゥークより二・三歳年上というところか。背は高いが威圧感はなく、すらりと立つ姿は、杉の若木を思わせる。長い髪をきれいに編み、幅広の帯で額を覆っている。左の頬には、刺青が入っていた。犬使いとは違う模様だ。

 異邦人を招いてしまったことに戸惑い、瞼を伏せているが、瞳に宿る光が涼やかなことは、離れていても判った。

 印象は良かった。この青年には、ねじけた雰囲気がない。一族の中で己のいるべきところをわきまえ、目上を立てることを知っている者のかおだと思う。

 もともとマシゥは、会う前から、矢のぬしに対して好意を持っていた。砦を出るきっかけを作ってくれたのが、温厚で利発そうな青年だったのは、嬉しかった。

 一方のビーヴァは、じっくりマシゥを観察するどころではなかった。覚悟して立ち上がったものの、長をはじめ、その場にいる全員の注目を浴びて、居心地が悪いことこの上ない。

 まさか、あそこから誰かがやって来ようとは、想像もしていなかったのだ。もしかして大変なことをしてしまったのではないかと、冷や汗をかいた。

 と。

 腕組みをして考え込んでいたエビが、片手を挙げた。かばうように、ビーヴァの前に進み出る。両手を腰に当て、マシゥを睨みつけた。

 突然現れた偉丈夫に、マシゥは目をまるくした。

 エビは、彼から視線を外さずに言った。

「そうしたのは、俺です。俺が、ユゥクの肉を置いたのです」

「エビ……」

 ビーヴァは囁いた。

 長は表情を変えず、静かに訊き返した。

「何故?」

「彼等の猟場かと思ったのです」

 エビは、片手でマシゥを示し、よどみなく答えた。

「あれを何と言うのか知りませんが、ナムコ(村)のようなものがありましたので……。ユゥク(大型の鹿)の足跡を追っているうちに、彼等の縄張りに入ってしまったのかと」

「それを、何故言わなかった?」

 長の口調は落ち着いていたが、こう問われると、ビーヴァはひどく申し訳ないことをした気持ちになった。ロマナ湖畔で狩りをし、変な建物を見たことは報告していたが、ラナの件に気をとられていて、合図のことは忘れていたのだ。

 エビも、やや決まり悪そうに肩をすくめた。

「すみません。後日、調べに行こうと思っていました」

「…………」

 長は、いつもの癖で、目を閉じて考え込んだ。その間に、周囲の男たちは、顔を見合わせてひそひそ話し合った。ビーヴァとエビは、黙っている。

 マシゥは、話の内容を、概ね聞き取ることが出来た。どうやら置き土産をしてくれた二人が責められているらしい、と判断した彼は、彼らの擁護を試みた。

「あの」

 その声で、人々は、一斉に彼を顧みた。長も目を開ける。マシゥはどぎまぎしたが、出来るだけ親しみをこめて話しかけた。

「突然、スミマセン。私たち、二年前、貴方たちに会いました。だから、知ったのです、貴方たちを。……矢がない、でも、来ました。頂かなくても、来た、思います」

 上手く喋れないのがもどかしい。マシゥは、自分の言いたいことがきちんと伝わっているのかどうか不安だった。

「使者どの」

 長は、微かに唇を歪めた。穏やかだが、眼差しには、ごまかしを赦さない厳しさがあった。

「どうやって、ここへ来られた? 我々がこの地で暮らしていると、どのようにして知ったのだ?」

「教えて頂きました。トゥーク。彼のお父さんに、です」

 跪いて会話を聞いていた少年が、びくっと身を竦ませた。人々は彼を見て、マシゥを見て、それから、各々顔を見合わせた。

 ざわめきが大きくなる。

「…………」

 男たちの緊張と興奮が、徐々に高まる中。長は、項垂れているトゥークの肩を、無表情に見下ろした。エビが胸の前で腕を組み、ゆらりと身体を揺らす。タミラは、途方に暮れているビーヴァの顔を、はらはらしながら見詰めた。

 やがて、長は踵を返した。杖を突いて、マシゥを呼ぶ。

「来られよ。お話を、伺おう」

 マシゥは、ほっと肩の力を抜いた。改めて気持ちを引き締め、歩き出す。トゥークは立ち上がり、彼の後から少し遅れてついてきた。

 集団の輪が崩れ始める。エビは、ビーヴァの肩を軽く叩いた。ビーヴァは頷き、彼と並んで歩き出した。

 そんな二人を、ラナは、息をひそめて見守っていた。



 長の家に案内されたマシゥは、室内の暖かさに驚いた。暖かく、広い。それでも村人全員が入るのは無理だろうと思って振り向くと、入り口に数人が残り、他の者は帰っていった。

 床には、表面を丁寧に削った板が敷き詰められている。部屋の中央の炉で、火があかあかと燃えていた。他にも、小さな灯火が沢山揺れている。魚か獣の脂を燃やしているらしい、独特の臭いがした。

 マシゥは、部屋の中を見渡した。

 石と泥を固めたマシゥたちの家とは違い、全てが木で造られていた。丸太を重ねた壁には、毛皮が幾枚も掛かり、外の冷気をふさいでいる。屋根は高く、梁は長年の煤と脂に磨かれ、黒光りしている。奥の壁に小窓があり、モミやシラカバの枝が、祭壇のように飾られていた。

 きょろきょろしているマシゥには構わず、長は、火の傍に腰を下ろした。ユゥクの毛皮の上に、胡坐をかく。

 トゥークに衣を引っ張られ、マシゥは慌てて腰を下ろした。長に倣い、見よう見まねで脚を組む。村人たちの代表らしい、やや年配の男たちが入ってきて、彼らを囲んで座った。

 マシゥは、自分の近くにあの二人――ビーヴァとエビがやって来たのを見て、ほっとした。片腕ほどの距離を置いて、ビーヴァが胡坐を組む。マシゥは、彼に微笑みかけてみた。青年は、一瞬、目を見開いたが、軽く頭を下げて応えてくれた。

 男たちは、王も含め、次々に外套を脱ぎ始めた。顔の刺青や、衣に施された色とりどりの刺繍が現れる。

 マシゥは、部屋の片隅に、女性が数人座っていることに気がついた。王の背後には、若い娘がいた。真っ黒な髪に縁取られた、伏せ気味の白い顔を見て、マシゥはドキリとした。

 長が彼の態度に気づき、低い声で説明した。

「私の娘だ。シャムになって日が浅いので、私が代わりを務めている」

「あ……はい」

 マシゥには、王の言葉の意味は解からなかった(シャムとは何だろう?)が、彼女の美しさは理解出来た。白い頬は、うっすらと紅をひいたように艶かしい。衣に覆われていても、手足の長いことがよく分かる。小柄で優雅な姿は、夏のツグミを思わせる。その膝に白い仔犬(マシゥにはそう見えた)を抱いているのを見て、彼は目をまるくした。

『女はいい。滅多に外に出てくることはないが、美しい。』

 コルデ団長の言葉を思い出す。確かに。王の娘だけでなく、年配の女性たちも、袖からのぞく手首は細く、色白で、立ち居振る舞いは美しかった。――団長は、やはり彼らを見たことがあるのだろう。

『しかし――』 ラナの頬に刻まれた模様を、マシゥは眼を細めて眺めた。『男なら勇ましいが、若い娘の顔に、消えない傷を入れるなんて。彼らの美意識は、よく分からない……。』

 女たちが、料理を運んできた。

 前年に蓄えた食糧が尽きる早春は、森の民にとって飢えの季節だ。けれども、今年はゴーナの肉に恵まれ、ユゥクも得ることが出来たので、余裕があった。表面を炙った薄切りの肉、砕いた木の実をまぶした魚、芋から醸した酒などが、マシゥの前に並べられた。

 男たちも、彼の様子を観察していた。しばらくして、長の方から話しかけた。

「ロマナ(湖)の南に、人が住んでいるとは知らなかった」

 独り言のような口調だったが、深い声はよく聞こえた。マシゥは、はっとして、我に返った。

「行ったことは?」

 長は、ゆっくり首を横に振った。豊かな髭が、胸の前で揺れる。仕草に合わせて続けた。

「ないし、聞いたこともない。いるのかもしれないが、還って来てはいないのだろう。……女神は大きく、我らのキィーダ(舟)は小さい。風が吹けば、ひとたまりもない」

 マシゥは、『ロマナが歌う』という犬使いの言葉を思い出した。彼らにとって、湖は偉大な神だ。

 長が、また言った。

「どのような所だ?」

 横目で隣を見たマシゥは、エビとビーヴァが窺うようにこちらを見ていることに気づいた。他の男たちも、注目している。マシゥは、ごくりと唾を飲み、慎重に話し始めた。

「暖かい、です。雪は少ない。川は大きく……ええー……辛い水、とても大きな湖が、あります。私たちは石の家に住み、魚やパンサ(麦)を食べます」

 マシゥは、今度も言葉選びに苦労した。犬使いが教えてくれた言葉には、畑や海を示す語がなかったのだ。

 案の定、長は、怪訝な顔になった。

「からい水? パンサとは、何だ?」

 マシゥは、荷袋の中から、パンサの粉を練って焼きしめた団子を取り出した。長の掌の上に、それを乗せる。長は、しげしげとそれを眺め、匂いを嗅いだ。

 マシゥは続けた。

「私たちは、土を耕し、種を蒔きます。採れた実を潰して、粉にして、固めます」

「なるほど」

 長は、団子をビーヴァに手渡した。ビーヴァは、ちょっと眺めただけで、エビに回した。エビは、油断なくマシゥを見張りながら、匂いを嗅いだ。

 何の変哲もない団子が、宝物か何かのように男たちの手から手へと渡って行くのを、マシゥは見送った。

 長は、簡潔に繰り返した。

「からい水。石の家」

「はい、そうです」

「そこに、貴公の王がいるのか?」

 恐る恐る酒を口に含んだマシゥは、思いのほかすっきりとした味に驚いた。飲むと、熱いものが喉を流れた。

「ええ、はい。王は、国にいます。私たちは、湖の側にいます。テサウとニチニキ」

「…………?」

 長は、軽く首を傾げた。通じなかったらしい。マシゥは、急いで言葉を足した。

「私たちの国、人が多い、います。土地が必要、なりました。男たち、ここへ来た。私たちの家、テサウ」

 気づくと、部屋の中はしんとして、男たちはみな、マシゥの言葉に耳を傾けていた。

「使者どの。よく、分からぬのだが――」

 長は、たどたどしい説明を辛抱強く聞いた後で、おもむろに問い返した。半ばは確認を求める口調だった。

「貴公は、ロマナの南から来た。王はそこにいる。……テサウとは、何だ?」

「…………」

「それに」

 口を開けたマシゥが、答えを見つけ出す前に続けた。

「私には、分からぬのだが……。何故、人が多いと、土地が必要になるのだ? 王は、民と離れて何をしているのだ?」

「…………」

 マシゥは口を閉じ、開け、また閉じた。何か、根本的なところで、彼らと自分が異なっていると感じる。もう一度、最初から説明を繰り返すべきか、トゥークに通訳を頼む方がいいだろうか。悩んでいると、意外なところから助け手が現れた。

「長、よろしいですか」

 エビだった。筋骨隆々とした目つきの鋭いこの男を、マシゥは恐れていたが、低い声は冷静で、言葉は明瞭だった。

 長は、重々しく頷いた。

「何だ、エビ」

「この男が言っているのは、オコン(川の名)の中洲のことだと思います。テサウとは、俺とビーヴァが見たものではないかと」

「…………」

「石の家。石のナムコ」

 エビは、マシゥを真っ直ぐ見据えて繰り返した。ナムコが国や村を意味する言葉だと知っているマシゥは、肯いた。

「ふむ……」

 長は目を閉じ、片手で髭を撫でた。エビとマシゥの言葉について考えているのだろう。

 マシゥは、ごくりと唾を飲んだ。もし『辛い水』について説明しろと言われたらどうしようかと思ったが、幸いなことに、そうはならなかった。けれども、事態が前進したわけでもなかった。

 長は目を開け、やや困惑した表情で彼を見た。

「それでは、私は誰と話をすればよいのだ? その、テサウに、王がいないのであれば」

 比喩的な表現だが、理解することは出来た。彼の――使者の立場を案じているのだ。相手は民族を束ねる王で、こちらは一介の使者。しかも、代表する国の姿が明らかでないのでは、無理もない。マシゥは項垂れた。

 長が言う。

「知らぬことが沢山ある。お互いに」

 マシゥは、黙って肯いた。――確かに。自分はまだ、この王の名前も知らない。名乗ってもいない。それは、犬使いにそうしろと言われたからだが……。けれども、内心で、ほっとしてもいた。

『この王は、慎重だ。そして、率直だ。とても……。』

 酒の器を掲げて、長は彼を促した。

「召されよ。もっと話を聞かせて欲しい。しばらく滞在出来るのだろう?」

「はい」

 それこそ、マシゥの望むところだった。彼は顔を上げ、決然と頷いた。

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