第四章 神々の詞(2)



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 紫の宵闇が迫る中、ビーヴァは、広場の片隅に腰を下ろし、ソーィエに干し魚を与えていた。

 傍らでは、篝火が焚かれている。乾いた薪がはぜる音に、物陰で囁く声が重なる。異邦人を迎えた興奮は、未だ煙のようにナムコ(集落)に漂っていた。

 使者は、彼の国について語り、語り、語り続けた。長も、訊ね、答えを聞き、また訊ね、自分たちについて説明した。マシゥは決していい加減な受け答えをしなかったので、その情熱は充分伝わったが、言葉を介したやりとりは、当人だけでなく、聴いている者たちをも疲労させた。

 日が暮れる頃には、使者はすっかり草臥れ、たどたどしい言葉は、いっそう聞き取り辛くなってしまった。長が休憩を促し、マシゥとトゥークは、そのまま留まることになった。

 そして今、男たちは散会し、ビーヴァは、相棒に遅くなった食事を与えている。

「ビーヴァ」

 聞き慣れた声に振り向くと、エビが、ちょうど長の家から出てくるところだった。真っ直ぐ彼の隣に来て、どっかと腰を下ろす。両手でソーィエの耳を掴み、乱暴に揺さぶると、赤毛の犬は、喜んで尾を振った。

 エビはビーヴァに、勢いこんで訊ねた。

「信じられるか?」

「…………」

 ビーヴァは、思わず苦笑して、首を横に振った。

 ロマナ(湖)は、対岸が見えないほど大きな湖だ。その果てから人が来たというだけでも驚きなのに、もっと巨大な湖があるという。飲むことの出来ない『辛い水』が流れ、丸太を組んだ舟が浮かぶ。キィーダよりずっと大きな舟だ。

 人々は石で造った家に住み、石で造った壁でナムコを囲んでいる。毛むくじゃらの犬のような動物(ヒツジ)がいて、その毛を織って衣を作り、乳を搾る。角を持つ大きな動物(ウシ)に、屋根のついた橇(荷車)を牽かせている。

 森や草地を焼いて土を掘り、種を蒔く。狩りに出掛けることは殆どなく、木の実や草の実を食べる。太陽を祀り、髪を短く切り、刺青の代わりに石で身を飾る。年中暖かく、湖が凍ることも、吹雪に怯えることもない。

 ――まるで夢物語だ。冬の長い夜、炉辺で語られる話は好きだが、こんなものは聞いたことがない。長は真面目に耳を傾けていたが、年寄りの中には、憮然とする者もいた。

 ビーヴァは笑いを呑み、静かに応えた。

「信じないわけにいかないだろう、エビ。あれを見たのは、ここでは、俺たちしかいないんだから」

「そうだな……」

 エビは苦虫を噛み潰した。二人にとっては、それが問題だった。

 使者は、オコン川の中州にそびえる石と土の固まりを、テサウと呼んだ。あそこから来たのだという。まぎれもなく、彼らが残した合図が原因だ。いったいどういうつもりなのか、これからどうなるのか。案ずるほど、責任を感じずにはいられない。

 ビーヴァは、片手を胸に当てた。懐には、あの折れた矢が入っている。使者から長の手を経て、戻って来たのだ。改めて見なくとも、矢羽根の感触が、責任の所在を示していた。

 そのとき、

「私も見たわ」

 背後から澄んだ声が投げかけられ、ビーヴァはギクリとした。

 振り向くと、長が、娘と並んで立っていた。二人は、急いで顔を伏せた。

『ラナ……』

 ビーヴァは、ほぞをんだ。少女に会話を聞かれたと気づいたのだ。ラナの後ろにはタミラが控えていて、不安と叱責の入り混じった視線をこちらに向けている。

 仔狼が、少女の足元をすり抜けて駆けて来た。ビーヴァの靴の匂いを嗅ぎ、ソーィエの口を舐めて挨拶する。揺れる尾が、闇の中で霜のように輝いて見えた。

 ラナは、淡々と繰り返した。

「私も見たわ、石の家を……。だから、彼は嘘をついていない。貴方たちも」

「どういう意味です?」

 エビが、心持ち顔をあげて問い返す。ビーヴァも、彼女の様子を窺った。夜目にも、ラナの頬がこわばり、瞳が哀しげなことは見て取れる。

 長が、娘の代わりに言った。

「あの男が来る前に、シャム(巫女)には、シャムのしるしがあったということだ。二人とも、すまぬが、もう少し付き合ってくれぬか。我らの採るべき道について、テティ(神霊)の御詞みことばを聴かねばならない」

 エビはビーヴァを顧みて、ビーヴァは、彼の目を見返した。シャムになったばかりのラナに、テティの詞とは……。

 ビーヴァは、漠然とした不安を感じながら、頷いた。



 シャムの家は、長の家と同じ造りだ。部屋の中央の炉では、常に火が燃えている。長は、その側に腰を下ろし、悪い方の脚を庇いながら胡坐を組むと、深々と嘆息した。

 エビが、すかさず声をかける。

「大丈夫ですか?」

「ああ、すまない。長い話だったな。お前たちも疲れたろう」

「あの男は?」

「マグ(男の名)に見張りを頼んだ。大丈夫、眠っている」

 マツの香の爽やかな板の上に、ビーヴァも胡坐をかいた。セイモアが、ここぞとばかり膝によじ登ってくる。ラナと過ごすことにもだいぶ慣れたが、ビーヴァがいるときには、彼の側にいたいらしい。ソーィエは家の外に繋がれているので、青年を独り占め出来るのが嬉しそうだ。

 ラナは、家の主が座る場所に、静かに腰を下ろした。

 タミラが、炉に鍋を置いて湯を沸かし、フウロソウ(ゲンノショウコ)のお茶を淹れた。シラカバの器に注ぎ、全員に手渡すと、ラナの隣に腰を落ち着ける。湯気を吹いて器に口をつけながらそちらを見たビーヴァは、母にぎろりと睨まれて、危うくお茶を吹きだしそうになった。

 一同が落ち着くのを待って、長は話し始めた。

「私も、詳しいことは知らぬのだが……。テティ(神霊)は、新しいシャムに、預言を授けることがあるらしい。そのシャムの一生に関わる事柄だ。テティによっては、かなり細かいこともある」

 エビとビーヴァは、目だけで互いの顔を見た。長は、娘を促した。

「ラナ。話してくれ」

「はい」

 膝の上で手を組み、その手を見下ろして考えていたラナは、思いつめた面を上げた。ビーヴァは眼を伏せ、彼女を直接見ないように努める。

 少女は、細い、震えをおびた声で語り始めた。

「私が逢ったのは、母さまです。死んだお母さまのテティ……だと、思います。それから空を飛んで、ここを離れ、ロマナへ向かいました」

 いつもの彼女とは異なる言葉遣いに、ビーヴァは違和感を覚えたが、黙っていた。

 エビが、驚いて顔を上げる。

「飛んだ?」

 直接話しかける無礼を思い出し、慌てて顔を伏せる。

 シャムが肉体を離れ、魂だけになって空を飛ぶというのは、有名な話だ。ラナは肯き、真っ直ぐ彼らを見詰めた。

「そうです。ロマナの岸辺で、石の家を見つけました。あの人が話していた、石のナムコです。中で、男の人たちが働いていたわ」

 ビーヴァは、ラナの視線を痛いほど肩に感じた。話の内容に、眼をみはる。

 エビは、遠慮を忘れて顔を上げた。

「待ってください」

 低い声に、警戒の響きが交じる。長へ向き直ったが、ひきつづき、問いは彼女に向けられていた。

「その、貴女の見たものがあの男の言ったものと同じだと、何故言えるのです? あの男がそこから来たと?」

 長は、片手で顎鬚を撫でた。思案げに娘を見る。

 ラナは、ほとんど囁くように答えた。

「私は、そこで貴方を見たの、エビ。貴方とビーヴァと、セイモアを……」

「…………!」

 エビがびくりと身体を揺するのを、ビーヴァは感じた。母が、じっとこちらを見詰めていることも。驚きと不安と後悔に、背中の毛が逆立つ。炎に照らされているにも関わらず、身体の芯がすうっと冷えた。

 ビーヴァは、膝の上の仔狼を撫でた。密集した毛に指を差し入れ、細い首の在り処を確かめる。セイモアは、気持ちよさそうに眼を細めた。

 長は、ラナに先を促した。

「何を見たのか。もっと詳しく教えてあげなさい」

「はい……」

 ラナは、ひとつ溜息をつくと、口調を元に戻した。

「彼らは、土に穴をあけていました。木の根を掘り出していたのだと思う……。私が、『何をしているの?』と訊くと、母さまは――」

 ビーヴァは、横目でラナを見た。少女は、声が震え出しそうになるのを、必死に堪えていた。

「母さまは、『テティにることなく、世界を変えようとしているのだ』って。『憐れな者たちだ』って……」

「テティに依ることなく、世界を変える……?」

 エビが呟き、眉間に皺を刻んだ。

 長は二人に、困惑した表情で訊ねた。

「どう思う?」

 ビーヴァは何も言えず、首を横に振った。

 エビは肩をすくめた。

「俺は、ただの狩人ですよ。そんなこと、解るわけがない」

 ぞんざいな言い方だったが、長は、気を悪くした風もなく苦笑した。

「そうだな……。私にも、それだけでは、彼らがどのような者たちか解らない。だが、困ったことに、話はそれだけでは終わらないのだよ」

 ラナは項垂れた。記憶を辿ると、母親の冷淡な態度を思い出し、目頭が熱くなる。言葉遣いが普段のものに戻っている。タミラが少女の肩に上着を掛け、ラナは、乳母に微笑み返した。

「母さまは、私に言ったわ……真の王を、みつけなければならない。手遅れになる前に――私たちの命があるうちにって」

《汝自身をつくりかえること。真の王をみつけること。そして、世界をかえること。》

 女の凛とした声が脳裡で繰り返したが、ラナは、全てを口にすることは出来なかった。話せないのは、それだけではない。自分には、未だテティがいないと言われたこと。生きているテティが必要なこと。最後に現れた、小山のような身体をもち、長い牙を持つ《影》のことも――。

 既に、ひとつめの義務は、果たしたと思いたい。ふたつめ以降もあのようにおそろしいことかと考えると、身のうちに震えが走り、ラナは、自分の肩を自分で抱いた。

 ビーヴァは、視界の隅で彼女の様子に気づき、眉を曇らせた。

 エビも、怪訝そうに首を傾げた。

「真の王? それは、貴女のことではないのですか?」

「…………」

 少女は項垂れ、唇を噛んだ。答えることが出来ない。

 長は、曖昧に唇を歪めた。

「わけが解らぬであろう?」

「はい。テティは何故、そんなことを……」

「私も、困っているのだ」

 長は、しきりに髭を撫でた。瞳には、娘へのいたわりが浮かんでいた。

「我らの王は、シャムだ。私は、仮の王に過ぎない。――テティが定めた掟を、テティ自身がたがえるとは考えられない。」

 エビが肯く。タミラは、項垂れているラナの手に、温めたシム(団子)の汁を入れた器を握らせた。客がいるところでは、彼女は食事をすることが出来なかったのだ。ラナは、小声で礼を言うと、両手で包むようにして、それを口に運んだ。

 ビーヴァは、母とラナのやりとりが気になっていたが、長の言葉に注意を向けた。

「単に、ラナに早く夫をみつけろという意味ではなかろう。では、真の王とは誰か? まさかとは思うが――」

 穏やかな長の声に、苦悩が滲んだ。

「まさか、あの男の王。エクレイタという者ではなかろうが……」

 この言葉に、エビは『考えられない』というように首を振ったが、かといって、他に心当たりがあるわけでもないことは明らかだった。

 嫌な想像を口にしてしまったことで、長も気が塞いだのだろう。男たちは、しばらく黙り込んだ。困惑に沈む部屋の中で、セイモアだけが、気持ちよさそうに欠伸をする。

「ビーヴァ」

 それまで黙っていた青年に、長は声をかけた。苦い響きは、消えている。

 ビーヴァは、ルプスの後ろ頭に注いでいた視線を持ち上げた。

「はい」

「お前は、どう思った? 彼らのことを」

「…………?」

 ビーヴァは口を開けたが、長の質問の意味を捉えかねた。長は、苦笑して言い直した。

「あの矢は、お前のものだった。ああ、ユゥクの礼に残したということは、分かっている。――そうでなく。お前の印象を聞きたいのだ。彼らを、どう思う?」

 エビが彼を見詰め、タミラも、息子を顧みた。ラナは顔を上げようとしない。

 ビーヴァは、再び仔狼に視線を落とし、考え込んだ。あのときのことを思い出そうと試みる。

「……分からないだろうと、思ったのです」

 ゆっくりと言う。今度は、長が首を傾げる番だった。

 青年は顔を上げ、額にかかった前髪を掻きあげた。ちらりと友を見遣り、

「エビのしたことの意味を、彼らは理解出来ないだろうと思っていました。俺の矢も……。だから、驚いているんです」

「何故?」

 顎鬚を撫で、長は簡潔に問い返した。ビーヴァは軽く嘆息した。

「石の壁を造るだけでなく……連中は、木を伐っていました。土が、すっかり剥きだしになっていた。俺たちでは、考えられない」

 ビーヴァはエビを振り返り、同意を求めた。

「あそこは、ゴーナ(熊)の狩場だ。キツネやオロオロ(地リス)も来るだろう。……あんな風に空っぽにしてしまったら、テティは何処へ行けばいい。そういうことを、考えないのかと」

「……なるほど」

 エビは、低く呟いた。長は、考える表情になる。ラナはそっと顔を上げ、彼らの顔を見渡した。

 ビーヴァは、眠たげなルプスの仔を撫でた。

「……彼らは、俺たちとは違います。なのに、何故、矢の意味が解ったのでしょう? 使者と一緒に来た、あの子ども。彼は、何者です?」

 半ばは己に問いかける内容だったが、応えはなかった。長もエビも、考え込んでいる。

 ビーヴァは、縄張りを奪われたゴーナがルプス一家を襲った可能性については述べなかった。いたずらに不安を煽りたくなかったからだが、掌の中のぬくもりに、いっそう愛おしさを感じた。

 炎の中で、薪が、ぱちりと弾けた。その音で我に返ったように、エビが訊いた。

「これから、どうします?」

 眼を閉じていた長は、重い瞼を持ち上げた。深い声が、床に沁みる。

「私の一存で決めるわけにはいかないだろう」

 ビーヴァは、エビの横顔を見た。一の狩人は、ただでさえ細い眼をさらに細め、見えない獲物に狙いを定めている。

 長は、淡々と続けた。

「使者は、我々と、毛皮の交易をしたいと言っている。毛皮と、いくつかの石と……。それから、彼らはこの地での暮らし方をよく知らぬので、教えて欲しいのだと」

 長は嘆息した。未知の責任を負うことの苦悩が、吐息に溢れた。

「私が、一人で決められることではない……。我々は、四つの氏族に分かれている。他の長たちの意向を確かめてからにしたいと言うと、あの男は、そこまで行くと言った」

「全氏族を廻るというのですか。一人で?」

 エビは眼をまるくした。ビーヴァには、その意味が理解できた。雪のない季節、犬橇も滑り板(ミニスキー)も使えない。徒歩で全ての氏族のナムコを巡ろうとすれば、三ヶ月はかかるのだ。戻る頃には、雪が降り始めている。

 長は肩をすくめた。使者のことを嫌ってはいないが、好意的でもない。呆れてはいるが、仕方がない、という風情で。

「それが、あの男の使命だというのだ。トゥークと言ったか、あの子はキィーダ(舟)で帰らせると言っていたから、一人で行くつもりなのだろう。……とにかく、やる気だけは大したものだ」

 はあ、と、エビは声にならない声で相槌を打った。こちらも呆れ、それ以上に困惑していた。

 いったい、この事態をどう受け止めればいいのだろう?

「……俺が、一緒に行きます」

 ビーヴァが言うと、はっと息を呑む音がした。母とラナが、彼を見る。エビは、相棒の腕を突っついた。

「ビーヴァ」

「誰かが、長の考えを伝えないといけないだろう」

 友の心配はありがたかったが、ビーヴァは苦笑した。

「それに。俺は、独り身だ」

 こういうと、エビは黙り込んだ。

 狩猟民の彼らは、短い夏の間に食糧を蓄えなければならない。この時期、北へ向かって移動を開始するユゥクの群れは勿論のこと、夏に川を遡上するホウワゥ(鮭)を獲り、イチゴやマツの実などを集める。男も女も、動ける者は、必死に働くのだ。

 エビには、幼い子どもが二人いる。年老いた両親も養わなければならない。ビーヴァの家族はタミラ一人だけなので、彼の方が動きやすい。

「…………」

 母が物言いたげにこちらを見ているのを感じながら、ビーヴァは、懐から矢を取り出して眺めた。矢羽根の根元に刻んだ自分の印を、手でなぞる。――言い出したのは思いつきだったが、考えるほど、それが自然な成り行きに感じられた。何より、あの男を呼び寄せたのは、この矢なのだ。責任をとるべきだろう……。

 長は無言で彼を見詰めていたが、やがて、ほっと息をついた。言葉とともに、白いものの交じる髭が揺れた。

「行ってくれるか」

「はい」

 ビーヴァは頷き、頭を下げた。

「その間、母を宜しくお願いします」

「承知した」

 長は頷いたが、ラナとタミラとエビ、それぞれの表情の変化には、気づかなかった。

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