第四章 神々の詞(3)



          3


 目が覚めたとき、マシゥは、すぐには己の居場所が分からなかった。故郷の家で眠っている夢をみたせいであり、それほど部屋が暖かかったせいでもある。柔らかな毛皮にくるまれてぼうっとしていた彼は、間近に人がいるのに気づき、息を呑んだ。

 長だった。豊かな髭を胸に垂らし、胡坐を組み、無言でこちらを見詰めている。身動きひとつしないその姿は、良く出来た彫像のようだ。両頬に描かれた刺青をマシゥは恐ろしいと感じたが、黒い瞳は凪いだ海のように穏やかで、彼が驚いているのを見ると、愉快そうに微笑んだ。

「目覚めたか。よく眠れたか?」

「あ、はい」

 応えながら、マシゥは周囲を見渡した。部屋の入り口ちかくにトゥークをみつけ、ほっとする。少年は、長からもマシゥからも離れ、膝をかかえてうずくまっていた。前髪の下から、くらい瞳がのぞいている。

 マシゥは嘆息した。トゥークは相変わらず、誰とも話しをしていないらしい。自分はともかく、同族の人々にも隔てを置くのは何故だろう。――顧みると、長も少年の態度には困惑しているようで、肩をすくめてみせた。

 長は、マシゥが理解出来るように、ゆっくりと話した。

「使者どのがよければ、今日はナムコ(村)をご案内しよう。それから、案内に、氏族の者を一緒に行かせようと思っているが。如何か?」

「それは……ありがとうございます」

 マシゥは、慌てて居ずまいを正した。そうして、窓や壁の隙間が白く輝いていることに気づく。人々の話し声が聞こえる。村はとっくに目覚めているらしい。

「泊めて下さったうえ、お気遣い、ありがとうございます。道を教えて頂ければ、一人で行きますが」

 言いながら振り返ると、トゥークは首を横に振っていた。長は、微かに苦笑した。

「ナムコをつなぐ道などない。それに、ワイール族は移動する。慣れぬ者が森を行けば、迷うのがおちだ。悪いことは言わぬ。連れて行かれよ」

『また常識が違う』と、マシゥは胸の奥でつぶやいた。道がないとは……。けれども、いちいち驚きを表しては失礼だと考え、頭を下げた。

「ありがとうございます。……ええと。その方の都合は、よろしいのですか?」

 マシゥが問うと、長は黙って立ち上がり、右足を引きずりながら戸口までいって、振り向いた。

「もう、仕度が出来ているころだろう。来られよ。紹介する」

 トゥークは、壁際にさがってマシゥを待っている。マシゥは、急いで長の後を追いかけた。外へ出ると、途端に無数の顔に囲まれたので、たじろいだ。

 大勢の村人たちが、彼を待ちかまえていた。特に子どもたちは、マシゥを見ると、きゃあっと歓声をあげて逃げ、すぐまた戻って来た。期待いっぱいの表情で、こちらを見上げている。

 マシゥは、つられて微笑んだ。そうして微笑むたび、知らず知らずのうちに抱え込んでいた心の重石が、取りのぞかれていくと感じる。異境にありながら、同胞と暮らしていた砦より居心地がよいのは不思議だった。

 長は、彼と子どもたちのやりとりには構わず、広場の隅に建っている小屋の前まで来ると、頭を下げた。他の村人たちも同じ動作をするのを見て、マシゥは長に尋ねた。

「あそこには、何があるのですか?」

 長は歩きながら、さらりと応えた。

「ゴーナ・テティ(熊神)がいらっしゃる。夏までの、我らのお客さまだ」

「…………」

 マシゥは、ゴーナという名の獣について教わったことを思い出し、ぎょっとして立ち止まった。開拓者が最も恐れている巨大な獣だ。人を襲うので、ギヤ神(闇の神)の使いだという者もいる。――その猛獣を集落に住まわせるだけでなく、神とよんで敬意をしめす彼らの風習は、異様に感じられた。

 長は、歩調を変えることなく歩いて行く。

 マシゥは違和感を呑み下し、彼の後に従った。



「まったくお前ときたら。決めて欲しいことは、いつまで経っても知らんふりなのに。余計なことには、勝手に首を突っ込むんだから」

「…………」

「おまけに、なんだい、『母を宜しくお願いします』って。お前にお願いしてもらわなきゃならないほど、あたしゃ老けちゃいないんだよ。それなのに。いっぱしの大人ぶって、いい顔するんじゃないよ。まったく」

「…………」

 タミラは、朝から文句を言い続けている。

 ビーヴァは、表情の選択に困っていた。心情としては苦笑して宥めたいところなのだが、そうすると、逆に母の怒りを煽りかねない。ここは、せいぜい神妙な顔をしているしかなさそうだ。

 いつもの狩装束を身にまとった青年は、テティの窓に向かって一礼し、捧げておいたシラカバの小函を手にとった。蓋を開け、中のスルク(矢毒)を確かめる。

 スルクは、前年の秋に採取して乾燥させておいたトリカブトの根を、細かく砕き、水で練ってつくる。紫色の美しいこの花は、生えている場所によって微妙に毒性が異なるので、狩人によって使う毒の強さも違っている。

 彼らは、赤いキノコ(ベニテングダケ)と同じように、スルクにもテティ(神霊)が宿ると考えている。狩りを助けてくれる、大切なテティだ。

 小函を腰帯にくくりつけ、荷物をまとめる。ブドウツルの袋には、ウバユリの根を搗き固めた団子や、魚の燻製が入っている。お茶にするフウロソウ(ゲンノショウコ)、乾燥させたヌパウパ(ヤマニラ)、マツやヒシの実を入れていると、母が、ゴーナの肉を持ってきた。

「これも持っておゆき」

 保存している食糧をあまりたくさん持ち出しては、母が困るだろう。ビーヴァは言いよどんだ。

「でも……」

「いいから、持っておゆき」

 タミラの機嫌はなおっていない。シラカバの樹皮で包んだ肉塊をおしつけ、叱りつけるように言った。

「大丈夫だよ。途中で何があるか分からないんだから、持って行きなさい」

「…………」

 ビーヴァは、口の中でもごもご礼を呟きながら、それを収めた。袋の口をしばり、矢の本数をかぞえていると、また母が声をかけてきた。

「ビーヴァ。ちょっとおいで」

 炉の側に、背筋を伸ばして座っている。息子を手招きし、目の前の床を示した。

「ここに座りなさい」

「なに? 改まって……」

 ビーヴァが戸惑いながら腰を下ろすと、母は、軽く咳払いをした。懐に手を入れ、そこから、掌大の翠のギョクをとり出す。ユゥクの角を削って作られた腕輪を外し、二つならべて膝の前に置いた。

 ビーヴァは、黙ってそれを見下ろした。どちらも、亡き父が母に贈ったものだ。いつもは大切にしまいこんでいて、夏至の祭りのときくらいしか身につけないのに、どうしたのだろう。

 タミラは、こほんと、わざとらしく咳をした。

「ロコンタ族のナムコに着いたら、きちんと長に挨拶するんだよ。お前の嫁になるに、紹介してくれるはずだから」

「……え?」

 ビーヴァは、目をまるくした。突然のことで、話の内容を理解出来ない。

「かあさん?」

「いいかい」

 タミラは、息子を睨みつけた。うむを言わせず、この石頭に事情を叩き込むつもりだった。

「本来なら、むこうに留まって、お手伝いをしなければいけないんだ。今回は王の使いだから、挨拶だけさせてもらうんだよ。これを渡しておいで。つとめが終わったら、もう一度行くんだよ」

「…………」

「わかったのかい?」

 念をおされても、ビーヴァは絶句しているだけだった。母の言っていることが他人事ではなく、己の縁談なのだと理解して、さらに呆然とする。

 彼らの社会では、男は、腕のいい狩人であることが第一とされている。だから男は、結婚を申し込む際には、相手の女性の家に数年間同居して、家事を手伝い、家族を養う能力のあることを証明しなければならない。気に入られなければ、断られることもある。

 ビーヴァには、特に結婚したいと思う娘はいなかった。考えたこともない。父が死んでからは、自分と母を支えるだけで精一杯であったし、何より、ひとたび相手の家に入れば、数年の約束が、七、八年に延びることもある。そんなに長く、母を独りにしておけない。

 勿論、一生独身でいたいわけではない。いつかは結婚するのだろう、くらいには考えているが、相手の想像は出来ない。まさか、母が勝手に決めてくるとは思わなかった。

 いや、そういう結婚をしている仲間は大勢いるし、それが嫌だというわけではないのだが――。

「…………」

 ぐるぐる考えているうちに、ビーヴァはすっかり混乱してしまった。膝の前に置かれた玉と腕輪をみつめ、固まってしまう。

 反発されるだろうと思って身構えていたタミラは、この反応に戸惑った。息子の肩に、慎重に問いかける。

「……どこかに、好きな娘がいるのかい?」

 途端に。まったく思いがけなくキシムの姿が心に浮かび、ビーヴァはうろたえた。毅然とした横顔、切れ長の眼、光に透ける栗色の髪がうなじにかかるさまなどが、鮮やかに想い出され、青年の身体を熱くした。うちがわから輝いているようなあの肌に、自分は本当に触れたのだろうか。

 そう考えた途端、今度は、ラナのすきとおった夜空のような眼差しが想い浮かび、身体の芯が冷たくなった。

 ビーヴァは呼吸を止めた。眼を閉じ、そろそろと息を吐いて、心を鎮めようと努力する。

 二人のシャム(巫女)は、全く反対の方向から彼を揺さぶる存在だった。しかし、どちらも結婚という語からはほど遠い。ビーヴァは、自分で自分の気持ちが解らなくなり、項垂れた。

 タミラは、息子が赤くなったり青くなったりしている様子を眺めていたが……彼が顔をあげそうにないのを見て、もう一度念をおした。

「いいかい?」

 ビーヴァは、眼を伏せたまま、ゆっくり頷いた。

 タミラは、ふうっと嘆息し、肩の力を抜いた。長年の懸念が、ようやく解消された気分だった。安堵のあまり、目に涙が浮かんでくる。

「よかった……。お前を独り身のままにしておいたら、死んでから、父さんに合わせる顔がないからね。父さんの代わりに、長がお前の身元を引き受けてくださったんだ。感謝するんだよ」

「長が……」

 ビーヴァは呟き、ちらりと瞼を上げたが、母をまっすぐ見ることが出来ず、再び項垂れた。

 父親がいないせいで自分が息子の重荷となることを、母は案じていたのかもしれない。『母を独りにしておけない』と彼が思うこと自体が、母にとっては重荷なのだと察すると、ビーヴァは何も言えなくなった。

 こつこつと、扉を叩く音がした。ソーィエたちが騒いでいる。タミラは目許をぬぐい、ビーヴァは、重い気持ちを振りきって立ち上がった。 

 無造作に扉を開けたビーヴァは、そこにいたラナと、真正面から顔を合わせる羽目になった。

「…………!」

「ビーヴァ」

『どうして、こんな時に――』

 驚きのあまり、ビーヴァは、視線をそらすことを忘れてしまった。タミラも息を呑む。少女は、二人の態度には構わず、抱いてきたルプスの仔を、ずいっとビーヴァの前に突き出した。

「セイモアが、落ち着かないの。昨夜から」

「え?」

『なんだ……』

 ビーヴァは、内心ほっとした。背後で、タミラも緊張を解く。仔狼のことなら、ラナが彼を頼るのは無理もない。

 セイモアはビーヴァを見ると、鼻を鳴らし、甘えたそうなしぐさをした。

 ビーヴァは、扉を開けたままにして、家の外へ出た。ラナに、セイモアを地面に下ろすよう促す。片膝をついて座ると、すかさずソーィエたちが寄って来た。

 仔狼は、下ろされるのを待ちきれない様子で、ビーヴァの足元に駆け寄ると、脚絆きゃはんに身をすりよせた。きゅんきゅんくんくん、しきりに鳴いて、落ち着かない。

 ビーヴァは仔狼の頭を撫で、耳のつけねを掴んで瞳を覗き込んだ。セイモアは、礼儀正しく目をそらす。熱にうるんでいる風はなく、鼻も乾いているわけではない。しかし、ひどく不安そうで、彼が手を離すと、再び靴に身体をこすりつけた。

 ラナは、彼の隣にしゃがみ込んだ。

「一晩中、こうだったの。肉もちょっとしか食べないし……」

 ビーヴァは、彼女を見ないように努めながら、セイモアの身体を撫でた。

「腹を壊しているわけじゃないよな?」

 ラナは首を横に振った。衣ずれの音と共に、わかい娘の匂いがふわりと漂い、ビーヴァはどきりとした。そして彼女が、体温が伝わりそうなほど近くに座っていることに気づく。

「ビーヴァ」

 ラナは、セイモアを撫でようとしながら、彼の頬に息がかかるほど身を寄せた。やわやわとした気配が、ビーヴァの首筋の毛を逆立てる。

 ラナは早口に囁いた。

「ビーヴァ。これ」

 片方の袖に手を入れ、何かを取り出すと、ぬくもりの残るそれを、彼の手に握らせた。

「持って行って……」

 ビーヴァが手を開くと、紺と緋と白の色彩が目をひいた。見慣れた紋様で、ラナの額を覆っていた帯の一部だと判る。

 頭巾や衣の一部を切り取って、革紐とともに編んだ飾り紐だ。身につけたり、マラィ(刀)の柄や、矢筒につけて使う。女は、髪を数本中に入れ、意中の男への贈り物や、身近な人のお守りとする。手甲は目立つし、よほど慣れていなければ一夜で作ることが出来ないので、飾り紐にしたのだろう。

 ビーヴァは軽い眩暈を感じ、掌を閉じた。

 ラナはうつむき、耳朶を紅く染めている。コケモモの花のように可憐なその風情を眺めていると、せっかく落ち着いていた鼓動が、また速くなってきた。体温が上がる。ビーヴァは、身が溶けそうに感じた。

 いままで、こんな目に遭ったことはない。まして、ラナを相手になど、想像したこともない。

『どうしたらいいんだ……』

 顧みると、タミラは、例の玉と腕輪を息子の荷袋に入れているところだった。二人のやりとりに気づいた様子はない。或いは、見てみぬふりをしているのかもしれない。

 ビーヴァは、ひとつ溜息をつくと、紐を左の手首に巻きつけた。手甲をはめて、覆い隠す。

 ラナが顔を上げた。思いつめた視線を頬に感じたビーヴァは、何か言った方がいいと思ったものの、何と言えばよいか分からなかった。

 足音が近づいてくる。

 ラナは口調を元に戻そうとしたが、細い声は震えていた。その響きは、ビーヴァの耳に、いつまでも残った。

「連れて行ってあげられない?」

「今回は、駄目だよ」

 ビーヴァは、セイモアを撫でた。自分でも驚くほど、沈んだ声音だった。

「急ぐから、ソーィエを連れて行く……。母さんと一緒に、待っていてくれ」

『必ず帰って来るから』とは、言えなかった。それどころか、ビーヴァは、『俺は帰って来ないほうがいいのかもしれない……』と、真剣に悩み始めていた。

 ラナは、こくりと頷いた。

 足音が、二人の前に立った。

「ビーヴァ」

 低い声に呼ばれて顔を上げたビーヴァは、今度こそ驚いて立ち上がった。ラナも、目を瞠って身を起こす。

 エビが、狩装束に身を包み、旅仕度をすっかり整えて立っていた。

「エビ」

 ビーヴァが呼ぶと、彼は肩をすくめた。

「俺も、行くことにしたんだ」

 ちょっとそこまで散歩に。というような、気軽な口調だった。ビーヴァは、ごくりと唾を飲んだ。

「だけど。エビ……」

「ああ。だから、途中までだ」

 エビは、これがぎりぎりの妥協だと言うかのように、唇を歪めた。

「ワイール族のナムコへ着いたら、そこで誰かと交代してもらう。俺の代わりに、お前をシャナ族のところへ送ってもらう」

「…………」

「なあ、ビーヴァ」

 ビーヴァが言葉を探していると、エビは、ふと真顔になった。しんみりと言う。

「俺は、お前を探して森の中を歩き回るのは、ごめんだからな。二度と、あんな思いをするのは」

「…………」

「得体の知れない奴とお前を、二人きりで行かせたくない。あの男は、悪い人間じゃなさそうだが、気をつけた方がいい」

「…………」

 ビーヴァは、エビを説得することを諦めた。これは彼の問題だと理解したのだ。同時に、友の心象に落とされた影が、自分の内にも伸びていることに気づく。

 二人がニルパの落とした影を見詰めて佇んでいると、家の中から声がした。タミラも、エビの姿に驚いたようだ。

「まあ、エビ!」

 ラナに遠慮していたタミラは、エビを見上げ、目を輝かせた。

「その格好。一緒に行ってくれるのかい?」

「ワイール族のナムコまでです。俺も用があるので。連れて行ってくれって、お願いしているところですよ」

「それでも嬉しいよ! エビが行ってくれるなら、こんなに頼もしいことはないんだから」

 エビは苦笑し、ビーヴァに片目を閉じてみせた。瞳から影が消え、不敵な輝きが戻ってくる。ビーヴァも、つられて苦笑した。


 村が騒がしくなってきた。犬たちが動きを止め、耳をそば立てる。子どもの笑い声が聞こえ、男たちはそちらに向き直った。

 長が、使者と氏族の者たちを連れて来た。珍しいもの好きな子どもたちが、使者の顔を見上げ、前になり後になりしながらついて来る。普段と変わらず落ち着いた表情の長を、エビとビーヴァは、一礼して迎えた。

 マシゥは二人の青年を見て、あ、と口を開けた。それから、長の気遣いに感謝する。彼にとって、この二人に近づくことが出来るのは嬉しかった。

 長は、エビを頭から足の先まで眺めてから、微笑んだ。

「一緒に行くのか。よく、ロキ(エビの妻)が許したな」

「途中までです。ワイールのナムコについたら、戻ります」

 エビは、ビーヴァとタミラにした説明を、辛抱強く繰り返した。

 長は顎を上げ、ぐるりと空を仰ぎ、頷いた。

「天気の変わり易い時期だ。二人より、三人がよかろう」

 ラナが、不安そうにセイモアを抱き上げる。長は、そんな娘を見て、タミラを見遣り、それからビーヴァに視線を向けた。清々しい若いかおを見て、眩しげに眼を細める。

「よろしく頼む、ビーヴァ。エビ。……お前たちには、頼んでばかりだな」

 台詞の後半は、軽い自嘲を含んでいた。ビーヴァとエビは、無言で一礼した。

 長はマシゥに向き直り、改めて二人を紹介した。

「この者たちが、ご案内する。……ところで。貴公のことを、何と呼べばよい?」

『やっと名乗ることが出来る』溜息まじりに、マシゥは思った。たったこれだけのことが、こんなに待ち遠しかったことはない。

「マシゥです」

 彼は顔を上げ、ビーヴァを見た。聡明な野生の獣のような、漆黒の瞳が見詰め返す。マシゥは、背筋がぞくぞくする興奮を味わった。

「私は、マシゥと言います」

 ビーヴァは、無表情に応えた。

「……ビーヴァ」

「エビだ」

「よろしく、ビーヴァ、エビ。……手を握ってもいいですか? 私たちの挨拶は、こうするので」

 マシゥが片手を差し出すと、二人は不思議そうに顔を見合わせたものの、躊躇うことなく手を出してくれた。エビの掌は温かく、ビーヴァのそれは、ひやりと冷たかった。

 マシゥは微笑んだ。これでようやく、彼らと同じ場所に立てたと感じた。


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