第四章 神々の詞(4)


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 長はトゥークを振り向いた。少年は、マシゥの荷物を手に、やや離れて立っている。氏族の者たちは、さらに後方から、彼らを遠巻きに見守っていた。

 長は、同じ森の民の少年には、気さくな調子で話しかけた。

「お前は、行かないのか?」

 トゥークは項垂れ、かぶりを振った。見えない硬い殻で、全身を覆っているようだ。長は、眼を細めて彼を眺めた。

「我々のところに、留まることも出来るが?」

「……父が、待っている」

 ぼそりと、トゥークは応えた。強い拒絶はなく、単に事実を述べた、といった雰囲気だ。エビはビーヴァを見遣り、ビーヴァは、横目で彼を見上げた。

 マシゥは、周囲に聞かれないよう気をつけながら嘆息した。このかたくなさは、何故なのだろう。

 長は無理強いをしなかった。

「そうか……。何か困ることがあれば、いつでも来るがよい。待っている」

「…………」

 少年は、小さく頷いた。顔を伏せたままだったので、彼がどんな表情をしているのか、誰にも確かめることは出来なかった。

 長は、二人の青年に向き直り、幽かに微笑んだ。

「仕度はよいか?」

「少し、待ってください」

 ビーヴァは身を翻した。家に戻り、残っていた荷物を整える。マシゥは興味を惹かれ、戸口から中を覗き込んだ。

 薄暗い部屋の中央で、小さな炎が燃えている。被いをはずされた窓から差し込む陽光が、床に白い模様を描いている。天井からぶら下がる火棚やイトゥ(御幣)の房が、薄灰色の陰の中に浮かび上がって見えた。

 きょろきょろと見回したマシゥは、壁に立て掛けられている滑り板に気づいた。

「これは?」

 見慣れぬ道具に、手を伸ばす。触れていいかどうか確認したかったが、ビーヴァは、肩越しに一瞥しただけだった。代わりに、エビが説明する。

「滑り板だ。雪のあるときに履く。今の時期は、使えない」

「すべり板? この毛皮は?」

「毛皮?」

 マシゥは、彎曲した板の表面をおおう黒い毛皮が気になった。古びてすりきれているが、なお毛並みは艶やかだ。

 ビーヴァは予備の鏃を袋に入れながら、怪訝そうに振り向いた。マシゥが何を気にしているのか、解らない。

 エビも、首を傾げた。

「オロオロ(地リスの一種)が、どうかしたのか?」

「お、オロオロ?」

 舌足らずな幼児が話すような名称に、軽く拍子抜けする。しかし、マシゥの目は、毛皮から離れなかった。長い毛の奥に密集して生えている和毛にこげに触れ、言葉を呑んだ。

『これは、水鼠すいそじゃないか……』

 水鼠とは、北の山奥に棲む珍獣だ。その名のとおり、顔はネズミに似ていているが、体はネコくらい大きい。水辺に穴を掘って棲み、魚やカエルを食べるという。尾は長く、厚い毛皮は脂を含んで水をはじき、あたたかい。

 エクレイタではなかなか手に入らないので、捕らえた者は、王に献上することになっている。王族だけが使用を許されている毛皮だ。それがここでは、無造作に、靴の底に使われている。

 ゴーナ(熊)といい、水鼠といい……。彼らとの感覚の違いに、マシゥは驚くばかりだった。獣を追い、木の実を食べ、毛皮をまとう。土を耕すことを知らず、血の匂いに彩られた模様を肌に刺す。――素朴な人々だと思っていた。

 堅牢な石造りの建物に比べれば、吹けば飛びそうに見える木の家を眺め、考えた。

『実は、我々より、ずっと豊かに暮らしているのかもしれない……』

 ビーヴァが矢筒を背負い、荷袋を肩にかけて戻ってきた。今度は、きちんと扉を閉めて出てくる。ラナの腕の中で、仔狼が、くんくん鼻を鳴らした。

 エビは、マシゥのなりを、無遠慮に眺めた。

「そんな格好で、大丈夫なのか?」

 ビーヴァもエビも、毛皮の外套を羽織っている。弓矢を持ち、腰には長刀をき、狩りの仕度は万全だ。マシゥの毛織の衣は薄く、武器はない。どうせ狩りなど出来ないと考えて、持ってこなかったのだ。

 彼は、ぎこちなく微笑んだ。

「ええ、はい。……たぶん」

 長が、喉の奥で低い声を転がして笑った。そうして、長年の知り合いのように彼の背に片手を当てたので、マシゥの方が驚いた。

「初めての地では、分からぬことが分からぬ、というのが本当だろう。使者どのが無事つとめを果たせるか否かは、お前たちにかかっている。頼むぞ、ビーヴァ、エビ」

 この言葉に、ビーヴァは頷き、エビは、改めてマシゥの顔を見た。マシゥは、気持ちが引き締まるのを感じた。

 使者のつとめ、だけではない。ここからは、二人に命を握られているといっても、過言ではないのだ……。

「よろしくお願いします」

 トゥークのときとは違う緊張を呑み下し、彼は頭を下げた。自分に敵意はなく、二人と親しくなりたいと思っている。だが、思いが通じるかどうかは、相手次第だ。

 願いがかなえられることを、レイムと彼らの神々に祈った。

 二人は、無言で頷いた。


 ビーヴァは、ソーィエを繋いでいた紐を解いた。赤毛の犬は、誇らしげに尾を揚げて主人に並ぶ。歩き出す彼らの後を、トゥークと村人たちが、ぞろぞろとついて行く。杖を突く長の傍らを、タミラとラナが歩いた。

 一行は、村の中心を抜ける道を進み、広場の片隅を横切った。ゆるやかな斜面を登り、村はずれへ向かう。

 アロゥ族の集落は、西のオコン川に面して終わっている。そこに架かる丸太の橋は、テイネ(ニルパの妻)を送る際に渡ったものだ。今日は橇を牽いていないので、男たちは、流れから頭を出した石に木を載せただけの簡単な橋の上を、軽々と渡った。

 主人とひき離されることを察したのだろう。セイモアの鳴き声は、次第に大きくなり、悲しげな響きを帯びた。しきりに鼻を鳴らし、ラナが抱いて宥めても、鎮まらない。うるんだ藍の瞳で見つめられると、マシゥさえ、胸が締めつけられるように感じた。

 ビーヴァは、仔狼の頭をそっと撫でた。ラナは、彼が何か言ってくれることを期待したが、ビーヴァは、彼女と視線を合わせることを避け続けた。踵を返し、母と長に一礼する。

 それで少女は、力なく尾を振る仔狼を抱いて、項垂れるしかなかった。

 太陽は南へさしかかり、日差しにはひるの気配が漂っていた。青く澄んだ空を、雲が速く流れている。雲を運ぶ風が、深い緑の梢を揺らし、彼らの長髪をなびかせる。

 マシゥは、トゥークから荷物を受け取ると、少年に礼を言った。

「いろいろと、ありがとう。気をつけて帰って。犬使いさんとコルデ団長に、よろしく」

「…………」

 トゥークは、彼に横顔を向け、頷いた。

「行ってきます」

 エビが言い、長と村人たちに片手を挙げた。タミラの後ろには、エビの妻が、二人の子どもを連れて立っている。子どもたちも手を振った。

 ビーヴァは黙って歩き出した。マシゥは、もう一度長を見て、頭を下げた。長は、微笑んだようだった。

 三人と一匹は、森の中へ入っていった。ベニマツの大木がおとす影の中に、彼らの姿が融けてなくなるまで、人々は、そこに立って見送っていたが――傍らから小さな影がひとつ消えたことに気づいた長は、嘆息した。


          *


 トゥークは、川へ、キィーダ(舟)を繋いだ場所へと急いだ。マシゥを見送るつもりはなかった。とにかく、すぐにここを離れたかった。

 まぬけな奴ら! 平和に浮かれて、自分たちが何を招いたか気づいていない。幸せそうな顔をして、己のことしか考えない偽善者め。呪われてしまえ!

 砦を出てからというもの、トゥークは、マシゥの善人面に苛々させられどうしだった。少年が何者なのか、全く気づいていない王の態度にも……。村人たちの好奇心たっぷりな、それでいて、相手に悪意があるなどと微塵も疑っていない顔を見ていると、吐き気がした。

 だが。同時に、こんな考えを抱くことに、恐れも抱いていた。シャム(巫女)は気づいただろう……。氏族の許を追われたとはいえ、少年の心には、未だテティ(神々)に対する畏れが残っている。彼にとって、ラナは他人の心を読み、死の呪いをかけることの出来る存在だ。

 ナムコ(集落)を離れても、少女の目が。あの膝に抱かれたルプスの瞳が、じっとこちらを見つめていると思われて、恐ろしかった。


『マシゥのダンナを、アロゥ族のナムコまで送って行け。』

 そう、父は言った。そして、驚く彼に、押し殺した声でつけくわえた。

『そして、トゥーク……。お前がよければ、そこに留まれ。』


 よければ。よければ、だと! ――トゥークは、天に向かって叫びだしたかった。燃え上がる怒りに、我を忘れかける。

『何を今さら、勝手なことを!』

 ともに故郷を追われた父は、少年のただ一人残った肉親であり、同じ苦しみを背負う同士であり、共犯者だった。その相手に、突然、見捨てられたような気持ちがした。

 マシゥと共に舟を漕ぎながら、少年は、ずっとこのことを考えていた。アロゥ族のナムコに留まるどころの話ではない。戻り次第、問い詰めなければ、気が済まない。

 それなのに――

「わっ……!」

 己の記憶に翻弄されていた少年は、石に躓いて転倒した。勢い余って前方へ投げ出され、思い切り、地に胸をぶつけてしまう。

 一瞬、呼吸が止まる。すりむいた頬に、焼けるような痛みが走る。

 風が、木々の枝を揺らし、葉を散らした。春とは言え、氷河の上を渡ってきた風は冷たい。その風に乗って、子どもたちの楽しげな笑声が聞こえてくる。

 全く関係ないと分かっていても、嘲笑わらわれているように感じ、トゥークは唇を噛んだ。拳を握り、立ち上がる。

 ここに、居場所はないと思った。王に優しくされればされるほど、幸せそうに笑う子どもたち、女たちの穏やかな微笑みを見れば見るほど、少年の孤独はいやました。

 羨ましかった。

 自分には、彼らのように微笑むことは出来ない。もう、何も悪いことは起きないのだと信じて、不幸なことなど知らない者のように暮らすことは、二度と出来ないのだと痛感する。

 息子をこんな境遇に陥れた父を、トゥークは憎んだ……父にそうさせた、テティとシャムを。恐れながらいかり、憎みながらこがれている。硬くこわばった心の中で、それらの想いは出口を求めて暴れ、無数のヒビをいれた。

 いっそ砕けてしまえば、楽になれるのだろうに。

 ――帰ろう。

 トゥークは、痛む足を引きずって、舟へ近づいた。サルヤナギの木にくくりつけておいた紐を解き、舟の中に放り込む。弓矢と外套を載せ、ふなべりに手を当てると、水の中へ押し出そうとした。

 何も考えず。考えることを己に禁じて、目前の仕事に集中する。トゥークの肩を、突然、何かが引っ張った。

「…………!」

 後ろから回された腕が、容赦なく首を締め上げる。背を弓なりに反らす彼の口を、掌が覆う。血と汗と砂の臭いがし、目を瞠るトゥークの視界の隅で、石の刃がきらめいた。

「静かにしろ」

 どすの利いた声と同時に、くさむらをかきわけて、一人、また一人と、男たちが姿を現した。その向こうに、丸太を削って作った小舟が並んでいるのが見える。

 テサウ砦の男たちが、手に手に棒や槍を持って集まっていた。日焼けした顔の中で、碧や褐色の瞳がぎらぎらと輝いている。

 己の置かれた状況を理解したトゥークの体に、震えが走った。

「久しぶりだな、小僧」

 耳元で、コルデの声が囁いた。たのしげで、ぞっとするような嗤いを含んでいる。

「案内、ご苦労だった。もう少し働いてもらう。――父親の命が惜しければ、言われたとおりにしろ」

 腕の力が緩められるのを感じて、トゥークは振り向いた。くせのある栗色の髪が、逆光に沈む顔の輪郭を縁取っている。青みがかった碧色の瞳が、少年を見据えていた。

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