第四章 神々の詞(5)



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「おい」

 コルデは、顎をしゃくった。

「誰か、様子を見て来い」

 一人の男が、身をかがめて走り出す。茂みの間から、衣がちらちらウサギのように見え隠れしながら上流へ向かうのを、トゥークは、コルデに首を捕らえられたまま、凝然と見送った。

 他の者は、息をひそめている。村人たちがマシゥへ注意を向けている間に、彼らはこの地へ侵入したらしい。

 最初から、そのつもりだったのだろうか。――ぞっとしながら、トゥークは考えた。――最初から、アロゥ族を襲うつもりで、自分たちを囮にしたのだろうか。

 頭から血の気がひき、それから、ぞわぞわした感触が背筋を這いのぼった。利用されたのだという思いは、トゥークの思考をしびれさせた。マシゥは? 王の使者だというあの男も、手先なのだろうか。それとも、コルデの意図など、彼は全く知らないのだろうか……。

 小鳥の声が響いた。同じ風に乗って、遠くから、笑いさざめく子どもたちの声が流れてくる。村人たちは、まだ侵入者に気づいていないらしい。

 男はすぐ帰ってきた。何も言わず、団長の前に片膝をつく。コルデは頷いた。

「よし。舟を隠せ」

「行くのか?」

「いや、まだだ」

 少年を横目で見下ろし、抵抗の意思の有無を確かめる。感情のない碧色の瞳は、油の浮いた水面のように重く輝いた。トゥークは歯を食いしばり、身体が震えだしそうになるのを堪えた。

「奴らがばらけるまで待つ。女か子どもに目をつけておけ」

 押し殺した声で言い、コルデは、唇だけで嗤った。



 橋のたもとでは、白いルプスの仔が、村人たちの注目を集めていた。

「だめなのよ、セイモア。ねっ。いい子でお留守番していましょ」

 ラナが宥めても、仔狼は、いっこうに止むことなく鼻を鳴らした。言われていることは分かるらしく、勝手にビーヴァを追いかけていくことはしないが、地面に腰を下ろし、ただただ悲しげに泣き続ける。少女が抱き上げようとすると、するりその手をすり抜けた。

「もう。セイモア……」

 ラナは嘆息した。困り顔の少女と仔狼のやり取りは、村人たちの間に、あたたかな笑いを喚び起こした。

 そうこうしているうちに、仔狼の声は次第に高い調子になり、遂には甲高い遠吠えに変わった。


 アオーッヨッ ヨオーオールル。ウォウッ ウォウッ ヨーオルルルッ。


「……どうしたのだろうな」

 長は、胸の前で波打つ顎鬚を撫で、呟いた。口調は真面目だが、唇には苦笑いが浮かんでいる。

「こういうことは、しばらくなかったと思うのだが」

「そうですねえ」

 タミラは、真顔で相槌をうった。ルプス・テティは息子を呼んでいるのだと思う。いつもより悲哀をおびた声音と落ち着かない様子に不安をかきたてられたが、気丈な態度は崩さなかった。

「まあ、ラナさま、申し訳ありません。けれど、本当に、いったいどうしたのでしょう」

 ラナは、どうしても動こうとしない仔狼を、強引に抱き上げた。セイモアは首を振って暴れたが、やがて諦めたのか、後肢を垂らした格好でおとなしくなった。少女は、重くなった仔狼の身体を、ぶらぶら左右に揺らして歩きだす。

 それを合図として、村人たちも、各々の興味の赴く方向へ散りはじめた。家事や遊びや狩りなど、使者が来るまえの普段の生活へ戻っていく。長は、タミラと肩を並べて歩いた。

 ラナは、セイモアの尖った耳を見つめて歩きながら、ようやく『迷惑だったかもしれない……』と考えた。

 入巫の儀式が終わってからというもの、ビーヴァが自分から距離を置こうとしていることは理解していた。それが掟だ。長とタミラの目もある。少女と母を何よりも大切にしているビーヴァが、その立場を失わせるようなことをするとは考えられない。

 まして、先日、ニルパを喪ったばかりなのだから。

 今朝、家を訪れた彼女を見たときの、ビーヴァの顔。深く澄んだ闇色の瞳を想い出すと、ラナは、恥ずかしさに消え入りたい気持ちになった。彼は、呆れたのではないだろうか。急いで作った飾り紐は、あまり出来のよいものではなかった。押し付けがましいと思われたのではなかろうか。

「…………」

 仔狼を抱きなおし、少女は溜息をついた。

 ビーヴァと、しばらく会えなくなる。彼が結婚する。自分も、いつか。――そう思うと、にわかに焦りを感じた。自分でもよく解らない感情の昂ぶりから、飾り紐を作ることを思いついた。

 けれども、ビーヴァにとっては、迷惑なだけかもしれない……。ラナは、すっかりしおれてしまった。

 幼い頃のラナには、タミラが母だった。ビーヴァの父と長と、二人の父親がいるのだと思っていた。タミラが実の母ではないと知ったのは、いつだったろう。同じ頃、ビーヴァの自分に対する態度が、普通の兄弟とは違うことにも気がついた。

 ビーヴァは、同年代の少年と違い、彼女の前で乱暴な口を利くことは滅多になかった。言えばタミラに怒られ、喧嘩をすると、必ずビーヴァが叱られた。食事も玩具も、常にラナが優先されたのは、勿論、彼女の方が幼かったためだけではない。

 王の娘。将来シャム(巫女)となる、特別な娘。

 乳を与えていても、タミラは決してそのことを忘れなかった。乳母は彼女をそのように育て、ビーヴァにも配慮を要求したのだ。――『ラナさまから、決して目を離してはいけないよ。お前が守るんだ。大切にするんだよ。』

 大切に、たいせつに……。

 気づいたときから、少女にとって、ビーヴァは兄ではなくなった。血の繋がった兄妹ではなく、ただの幼馴染でもない。

 乳兄妹という、不思議な関係。

 それでも、ラナは憶えているのだ……。一緒にタミラに叱られて、べそをかいた、幼い日の夕暮れ。亡き母を慕って泣く彼女を、慰めてくれたこと。初めて狩ったウサギを掲げて見せてくれた、得意げな笑顔。

 背が伸びて、急に凛々しくなったように見え、どきりとしたこと。成人の日、刺青の痛みに、無言で耐えていた横顔……。

『どうして』

 セイモアが、鼻を鳴らす。ラナが洟をすすると、つんとした痛みが額を刺した。彼女は、村人たちのざわめきから逃れ、静かな方へ――人気のない川辺に向かって行った。落ち込んでいるところを、誰にも見られたくない。

 あの日から、何もかもが変わってしまった。あたたかな色彩に包まれた、無邪気な子どもの時間は終わり、父もビーヴァも、己の許から去っていく。代わりに与えられたのは、巫女としての責任と、重い期待と、灰色の冷たい孤独。

 優しいビーヴァ。彼が、ラナから離れようとしながら、それでも彼女を傷つけまいと努力していることは感じられた。セイモアを預け、飾り紐も受け取ってくれた。拒絶も受容も、沈黙の中に呑みこんで。

『どうして、シャムの娘になんて生まれてきてしまったのだろう……』

 踏みしだかれた枯れ葉のようにみじめな気分で、ラナは思った。タミラのほんとうの娘に生まれたかった。そうすれば、こんな想いはしなかったはずなのに。

 どうして、時は過ぎてしまうのだろう。大人になんてなりたくなかったのに。自分の身体が、うらめしい。

 どうして……。

 本当に血の繋がった兄妹であっても、成人すれば引き離されるし、どんなに仲の良い友人であっても、やがては己の人生を捜しに独りで歩きださなければならない。けれども、ラナには理解出来なかった。

 彼女にとっては、全てが突然で、理不尽きわまりないことのように思われた。かといって、どうすることも出来ない己の無力さが、悔しくてたまらない。

 川辺に座り、ラナは、セイモアをきつく抱きしめた。仔狼は窮屈そうに身じろぎしたが、少女には構ってやれる余裕がなかった。

「――さま。ラナさま」

 川のせせらぎの間から呼びかける声。必死に警戒を促す囁きに、気づくこともなく。柔らかな毛皮に顔をうめ、嗚咽を噛み殺す。

 何度目かに呼ばれて、ラナは顔を上げた。

「誰?」

「ラナさま……」

 午後の日差しを背にして立つ、黒い影が見えた。重なり合っていて、何人いるのか判らない。

 ラナは目をこすり、瞬きを繰り返した。

「そこにいるのは、誰? ロキ(エビの妻)?」

「ラナさま、逃げて――」

 ひそめた声に、赤ん坊の泣き声が重なった。その子が見知らぬ男に抱えられているのに気づき、ラナは目をみはった。

 我が子をあやしたくても、ロキは動けない。別の男が彼女を羽交い絞めにしていて、足元では、もう一人の子どもが、口を押さえられている。

 ラナは息を吸い込んだ。

「…………!」

 少女が悲鳴をあげるより一瞬早く、何者かが、彼女を後ろから突き飛ばした。よろめくラナの腕を掴み、乱暴にねじ上げる。肩が抜けるような痛みが走り、ラナは思わずセイモアをとり落とした。

 地面に落ちたセイモアは、咄嗟に身をひねって体勢を立て直したものの、すかさず大きな靴に蹴り飛ばされた。悲鳴をあげて転がり、流れの中へと消える。

 ラナは、捕らえられていない方の腕を伸ばしたが、及ばなかった。

「セイモア!」

「こいつ、余計なことをしやがって!」

 ばしっという音と、呻き声。振り向いたラナは、ロキの頬がみるまに腫れあがるのを見た。切れた唇の端から、赤い血が糸のように伝い落ちる。

 左腕を息が止まるほどねじ上げられて、ラナは呻き声を呑みこんだ。

 耳元で、低い男の声がした。

「騒ぐな。赤ん坊を殺す」

『何を、言っているのだろう』

 ラナには、男たちの話す言葉が分からなかった。痛みに反応して浮かんだ涙を瞬きで消しながら、考えた。

『この人たちは、誰……?』

 日に焼けた横顔に、見覚えはなかった。刺青がないので、どこの氏族の者か分からない。短く刈られた茶がかった髪、明るい色の瞳、珍しい形の衣などを見ていると、ラナはぞくりとした。

『まるで』――思いついたのだ。

 まるで、あの使者のようだ、と……。

 男は、少女の腕を掴んだまま、鋭い声で呼んだ。

「トゥーク。こっちに来い」

『トゥーク?』

 自分の前に現れた少年を見て、ラナはさらに目を見開いた。使者を連れて来た少年が、何故、ここにいるのだろう?

 トゥークの顔色は、蒼ざめるのを通り越し、土気色になっていた。シャムの視線から逃れるように、瞼を伏せている。

 コルデは、無造作に顎を振って、ラナとロキを示した。

「こいつらに、自分たちは人質なんだと説明してやれ。変な気を起こすなよ。逃げたり、助けを呼んだりしてみろ。赤ん坊を絞め殺すからな……」

 今度は、形だけの嗤いすらなかった。



 夕暮れが近づいていた。

 アロゥ族のナムコ(集落)では、遊びに出かけて帰って来ない子どもたちや、妻を呼ぶ男の声が、時折響いていた。

 タミラは、ラナを捜していた。ビーヴァを見送ったあと、仔狼を抱いて川へ向かうところは見ていたが、そっとしておいた方がいいと考えたのだ。

 しかし、春とはいえ、日が沈めばかなり寒くなる。雪解けで水かさを増した川に、足をとられるかもしれない。明かりを点さなければならなくなる前に戻るのが、彼らの常識だ。

「ラナさま。どこにおられます? ラナさま!」

「おーい、ハルキ! ニレ!」

「ちょっと、ロキをみかけなかったかい? 子どもたちも」

 川岸を歩き、ナムコと森の境界を彷徨ったタミラは、似たように声をあげている人々をみかけ、首を傾げた。視界が暗くなり、人と木の輪郭が宵に融けはじめると、流石に不安になってきた。

 家族を捜す者たちは、誰からということもなく、長の家に集まった。

 長は、片手に真新しい魚油灯を掲げ、戸口に出てきた。

「みつからないのか?」

「はい……。まったく、何処へ行ってしまったのでしょう」

「お騒がせして、申し訳ありません」

 事態をそれほど深刻に捉えていない(或いは、捉えたくない)村人たちは、申し訳なさそうに応えたが、表情は明らかに困惑していた。長は眉を曇らせた。人数が多いと感じられたのだ。

 長は、右手に灯火を乗せ、左手を顎鬚に当てて、一歩前へ踏み出した。

「いなくなったのは、誰だ? 名を挙げてみよ」

 それで。集まった者たちが報告する名前を聞くうちに、長の表情は険しさを増していった。タミラも冷や汗をかいた。いなくなったのは、十二人の子どもと十人の女たち。乳飲み子も含まれている。

「あの」

 すっかり濃くなった夜の中。自身の掲げる灯火に浮かび上がる長の顔は、緋色と藍の光にふちどられ、獲物を狙うアンバ(虎)・テティのようだった。その横顔に話しかけながら、タミラは、己の声が震えているのを聞き取った。

「申し訳ありません、長。ラナさまと、セイモアも……」

「…………」

 長の眉間に刻まれていたたて皺が、さらに深くなった。村人たちの間に、どよめきが走る。幼い子どもたちだけでなく、巫女まで姿を消したとなると、悪霊の仕業かと囁くものも現れた。

 まさか――人々の囁きを聞きながら、タミラは考えた。――あの時、ルプスの仔がしきりに鳴いていたのは、これを予見していたのだろうか。セイモアは、ビーヴァを追って行かなかった。もしかして、危険なのは旅立つビーヴァではなく、ラナの方だったのだろうか……。

 長は、落ち着いた口調で言った。

「篝火を焚け。モナ・テティ(火の女神)をお熾こししろ。手の空いている者を集めるのだ」

「犬を連れて来ましょうか?」

 誰かが提案し、長は、そちらへ向かって頷いた。人々が、にわかに緊張して動き出そうとしたとき、

 闇の中から、声があがった。

「これは。皆さん、おそろいで」

 暗がりに順れた目に、広場を横切ってやってくる、一団の人影が見えた。うち二人は小柄で、一人は他の者に腕を支えられている。彼らが近づくにつれ、相手に気づいたタミラは、息を呑んだ。

「ラナさま」

「タミラ……」

 ラナは、救いを求める瞳を乳母に向けたが、コルデに腕を強く引かれ、黙るしかなかった。

「お前は――」

 長はトゥークを見つけ、眼を細めた。ラナが後ろ手に縛られていることも分かった。

 男たちは、おずおずと道を開ける村人たちの間を悠然と通り抜け、長の前で足を止めた。コルデは、満足げに周囲を見渡すと、嘲るように唇の端を持ち上げた。

「さて。取引をはじめよう」


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