第四章 神々の詞(6)



          6


 水は、かたく、重く、冷たかった。頭から落ちたセイモアは、鼻をもがれるような衝撃に、くらくらした。それから、ずん、と寒さが背骨にのしかかってきた。刺すようなつめたさが、むき出しの耳の孔から、指の隙間から毛皮の奥に入り込み、四肢をしびれさせた。

 ごぼりと息を吐き、《彼》はもがいた。水かきのない足の指を懸命にひらき、流れを掴もうとする。川の女神は、容赦なく小さな身体を押し流し、揺さぶり、あざけるようにくるくる回して、水底に引きこもうとした。

 ケラケラ笑う声。くすくす笑いながら、《彼》をさそう囁きが聞こえた。


『おいで』

『おいでよ、坊や』

『私たちのところへ』


 川床から突き出した岩に背中をぶつけたセイモアは、悲鳴をあげかけて、したたかに水を飲んでしまった。氷柱で貫かれるような痛みに、気が遠くなる。次には、ぐうっと押し上げられた。

 水から顔が出た瞬間、仔狼は、大急ぎで空気を吸い込んだ。すぐに流れに呑まれ、視界が暗くなる。それでも、ちらりと見えた岸に向かって、懸命に脚を動かした。

 息が詰まる。身体じゅうの骨が、ぎしぎし悲鳴をあげはじめる。

 胸の中で動く小さな心臓が、もう破れてしまうかと思えたとき、足裏の肉球が、川床の石に触れた。

 やっとの思いで岸に這い上がったセイモアは、ぶるぶる震え、疲労と雫をぼたぼたしたたらせながら、乾いたやぶの中へ逃げ込んだ。グシュン、ギャフン、とくしゃみを繰り返して、喉の奥にからみつく水を吐き出していると、またひどい震えがのぼってきた。

 仔狼は、頬に生えた短い髭から、耳、首のたてがみ、肩、背中へと順に毛皮を波うたせ、尻尾の先まで慎重にそれを運び、水滴を弾き飛ばした。かじかんだ前脚と後脚をいっぽんずつ伸ばし、筋肉をあたためる。

 霜白色の長毛と、その下に密集して生えている短毛をさか立て、せいいっぱい身体を膨らませていると、頭上からワタリガラスの声が降ってきた。《彼》は天を仰ぎ、はじめて、辺りが薄暗くなっていることに気づいた。

 木々の重なり合う枝の先で、淡い紫の光がきらめいている。風が、藍色の闇をたなびかせている。

 セイモアは、くんくん鼻を鳴らして、冷えた風の匂いを嗅いだ。遠くうっすらと、なめした革や燻製の魚、炭と炎のにおいがする。きゅんきゅん あおぉん、と呼んでみたが、ビーヴァは勿論、ラナも、赤毛の兄貴(ソーィエ)からの返事もなかった。

 どうやら、かなり流されてしまったらしい。

 どうしよう……。

 コルデに蹴られた脇腹が、じくりと痛んだ。あの時のことを思い出した《彼》は、思わず牙をむき、喉の奥で低く唸った。怒りからではなく、恐怖から。

 一度身の危険を感じた場所を避けようとするのは、臆病なことではない。野生動物の本能であり、生き残るための知恵だ。彼らには、人間のように、恐怖を克服することに意味を見出す価値観はない。

 出来るなら、戻りたくはなかった。けれども、《彼》は、己が一頭だけでは生きてはいけないことを知っていた。自分を庇護してくれるのはビーヴァで、彼はラナのいるところに必ず戻って来るということも。

 しばらくの間、川辺を歩き回っていたセイモアは、やがて、用心深く風の匂いを嗅ぎながら、ナムコ(集落)へ向かって駆け出した。



 トゥークの通訳でコルデの言葉を聞いた長は、片方の眉を持ち上げた。

「取引、だと?」

 コルデは、にやにやと嗤っている。薄紅色の唇からのぞく白い歯も、栗色の髪に縁取られた顔立ちも、端麗で魅惑的だったが、この男の瞳に微笑みの欠片もないことに、長は気づいていた。

 アロゥ族の人々は、不安げに顔を見合わせた。ラナを捕らえた男たちの手には、木を荒く削って作られた槍や、石斧が握られている。

 長は、怜悧な眼差しを少年に当て、問うた。

「何故、お前がここにいるのだ?」

 トゥークは、血の気のうせた唇を噛み、顔をそむけた。細い肩をいからせる仕草を、長は黙って見詰めていたが、再びコルデに視線を戻した。

 あくまで穏やかに尋ねる。

「貴公らは、何者だ?」

 マシゥと同様、短く切った髪。刺青のない頬。赤みがかった髪と、碧や青の瞳。毛皮ではなく、獣の毛を織って作った服などを眺め、繰り返した。

「使者どのの仲間か? エクレイタ王の民か」

「だったら、どうする」

 トゥークの通訳を介して、コルデは言い返した。言葉は解らなくとも、口調に含まれる侮蔑を聞き取って、長は眉をひそめた。

 長の傍らにいた若い男――マグという。が、声を荒げた。

「子どもたちを攫ったのは、お前たちか。ラナさまを放せ!」

 今度は、コルデと砦の男たちは顔を見合わせ、せせら笑った。のみならず、少女を縛った縄を固く締め、腕をねじ上げる。あからさまな嘲笑を浴びたマグは、怒りにさあっと青ざめたが、苦痛に呻くラナを目にしては、動くことが出来なかった。

 アロゥ族の者の反応は、さまざまだった。若者たちは、敵意をあらわに武器を持ち出し、女と年寄りは、残った子どもたちを抱きかかえる。タミラは、松明を掲げ、どうやってラナに近づこうかと考えた。

 長は、娘の苦しむ姿に頬をこわばらせたものの、静かな態度は崩さなかった。

「使者どのは、隣のナムコへ向け、既に発った。貴公らの王の意向はうかがっている。それなのに、何故、このようなことをする?」

 コルデは、フンと鼻で哂い、顔の前で片手を振った。

「ああ、使者か。あいつは関係ない」

「関係ない、だと?」

 手首に縄がくいこむ痛みに、ラナは身をよじらせた。長のこめかみに、焦りがにじんだ。

「どういう意味だ」

「言ったろう、取引だと」

「取引……」

 長は、強く眉根を寄せた。押し殺した怒りが、遠雷のように、低い声を震わせた。

「幼きものをかどわかし、女を縛り上げるのが、貴公らの取引か」

 

 ――ちょうどその頃、セイモアは、ナムコにたどり着いたところだった。口の横から舌を垂らし、白い息を吐きながら広場に駆け込んだ仔狼は、人々の異様な気配に気づき、足を止めた。

 人間よりはるかに優れた鼻と耳が、彼らの姿を、炎より明るく照らし出す。

 松明に囲まれた男たちの間に、ラナがいた。燃えるマツヤニの匂い、魚の脂の匂い。毛皮と土の匂いに混じる血の匂いを、《彼》は嗅ぎ取った。恐れにこごった汗、怒気を含む吐息。歯軋り、溜息、緊張におののく囁き……。

 コルデのにおいに気づき、《彼》は、背中の毛を逆立てた。

 仔狼は、尖った耳を立て、尾を水平に揚げた。鼻を前方に突きだし、出来るだけ姿勢を低くして歩く。唸り声はたてなかった。

 水面みなもに映る月のように、音もなく一同に近づくと、五ナイ(約二メートル)ほどの距離を置いてするりと向きをかえ、手近な家の床下にもぐりこんだ。

 ひやりと硬い地面に腹を押し当て、一息つく。

 セイモアは、前足を重ね、その上に顎を載せた。青く光る瞳の表面で、緋色の炎と人影が、ゆらゆらと揺れていた。


 コルデは、ラナを縛った縄を部下に手渡すと、長の前をゆっくり歩き始めた。右手に犬橇用の鞭を持ち、その柄で左掌を叩きながら。時折わざとらしく顎を持ち上げ、長とタミラを眺めすかす。

 長の手の灯火は、とうに消えてしまっていた。代わりに、タミラが松明を掲げている。長は、自分とラナの間を行ったり来たりするコルデから、目を離さなかった。

 再び問う。

「子どもたちを、どこへ隠した」

 コルデは、同じ歩調で歩き続ける。長は、杖を突きなおし、重心を左足に移した。

「女たちは、無事なのか」

 コルデは、終始うす嗤いを浮かべている。しかし、碧色の瞳の中にあるものは、むしろ憎悪に近い。

 長の頬を、苛立ちが過ぎった。

「いったい、何が目的だ。何が欲しくて、このようなことをする」

 この台詞に、コルデは立ち止まった。鞭の柄で己の肩を軽く叩きつつ、長を眺め、愉快そうに眼を細めた。

「さあて。何がよいかな」

『こいつは、天性の脅迫者だ……』通訳しながら、トゥークは考えた。人に不安を与え、脅し、なぶり、相手の焦燥するさまを観て娯しんでいる。自分たちにしたように……。

 その同じ罠に、アロゥ族の長と娘が――彼らの王と巫女が、民とともに堕ちていくのを、少年は、息を殺して見守っていた。

 肩を叩きながら考えていたコルデは、やがて、にやりと微笑んだ。今思いついたというより、あらかじめ用意していた刃を突きつけるかのように切り出した。

「あんたたちが持っているものを、いただくとしよう。食糧、女、犬……。それと、オロオロと言ったか? あの黒い毛皮」

 聴いているうちに、村人たちの間にどよめきが起こり、長は蒼ざめた。コルデは、余裕たっぷりに続ける。

「あれを、三百枚。あんたたちにとっては、どうということのない数だろう」

「三百、だと?」

 訊き返す、長の声がかすれた。タミラは、すばやく彼の横顔を見た。

 森の民は、森によって生かされている。そこに棲む生きものたちは、小さな虫や蝶、ルプス(狼)やゴーナ(熊)、ベニマツの巨木から天空を飛ぶロカム(鷲)に至るまで、みなテティ(神霊)を宿している。

 土も水も、風も雪も、意識をもち、彼らとともに生きる仲間なのだ。

 女たち、子どもたちと引き換えに、そのいのちを三百も奪えという。森の民にとっては、考えられないことだった。

 ラナは眼をみはり、身をよじって父を顧みた。

 己の言葉のもたらす効果を承知しているコルデは、満足げに頷いた。

「そうだ。それだけあれば、俺たちも、余裕をもって暮らせるからな。この川下に住んでいるから、持って来てくれ」

 碧の瞳が、炎を浴びてぎらりと輝いた。

「勿論、あんたたちは知っているはずだ」

 そう言うと、部下を従えて、歩み去ろうとする。長は、慌てて声をあげた。

「待て」

 ラナの腕を掴んで踵を返そうとしていたコルデは、顔だけで振り向いた。普段静かな長の声が、怒りと緊張で震えた。

「娘を放せ。子どもたちを……。話が違う。これでは、とうてい対等とはいえぬ」

「対等、だと?」

 トゥークが長の言葉を訳し終えた途端、コルデは、声をあげて嗤いだした。他の男たちも顔を見合わせ、胸を反らせて、げらげらと嗤う。長と氏族の者たちの頬を、冷や汗が伝った。

 ふいに真顔になって、コルデは彼らを見渡した。フン、と鼻を鳴らし、唇を歪める。その唇から、先刻までとはうってかわって、どすの利いた声が流れ出た。

「あの男が何を言ったのか、察しはつくがな。世迷いごとはやめておけ。俺たちと対等だと……お前たちが」

 ハッと、吐き棄てる。ただでさえこわばっていた長の顔から血の気が引き、改めて、首筋から紫色に変わっていった。

 後ろ手に縛られたラナは、無理な姿勢を続けているために、背骨が痛くなってきた。コルデの爪が、腕に喰い込んでいる。父とコルデの会話を、息を詰めて聴いていた。

 突然、コルデは眼を見開き、怒鳴った。

「卑しい獣を崇拝し、なま肉を喰らい、生き血をすする異教徒が。俺たちレイム(光の神・太陽神)の子と対等だと? ふざけるな!」

 どんっとラナを突き飛ばす。

「ラナさま!」

 タミラが、慌てて松明を放り出し、彼女に駆け寄ろうとする。少女は息を呑んだ。

「タミラ!」


 ――夜を裂く悲鳴に、セイモアは、ビクッとして立ち上がった。熱い血のにおいが、ぱっと散る。タミラが倒れる音と、呻き声がした。

 セイモアは、全身の毛を逆立てた。牙をむき、グウゥーッと唸る。


「タミラ……タミラ」

 ラナは、乳母にすがりつこうとしては男に引き戻されることを繰り返した。夜目にも、倒れたタミラの身体の下に、血の染みが拡がっていくのが見える。

 コルデは、全く表情を動かさなかった。タミラの身体に片足をかけて槍を引き抜くと、足元に落ちている松明を拾い、長の家の屋根に放り上げた。

 ボウ、と音をたてて、金色の光の帯が、茅の屋根に走る。

 他の男たちも、立ち尽くす村人たちの手から松明を奪い取り、次々に手近な家に投げ込んだ。風にあおられた炎が、彼らの顔を禍々しく照らし出す。

 長は、タミラの傍らに跪いた。がっくりと落ちたその肩に、コルデは嘲笑を投げつけた。

「俺たちが、本気だということが分かったか。言われたものを、さっさと持って来い。遅くなれば、ガキと女を、一人ずつ殺すからな」

 そういうと、身動き出来ない村人たちの間を、ラナを引き立てて歩きだした。部下たちが、篝火を蹴り倒し、年寄りを殴って後に続く。

 トゥークは、凝然と眼を見開いて、タミラと長を見詰めていた。そのまま数歩後ずさり、身を翻して、コルデの後を追いかける。

 泣き叫ぶラナの声が遠ざかると、人々は我に返り、火を消すために走り出した。炎はごうごうと燃え拡がり、建物が崩れ始める。怒号と悲鳴が飛びかう中、長はタミラを抱え、茫然と天を仰いだ。

 セイモアは、闇の中で蒼い目を光らせながら、その様子をじっと見詰めていた。

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