第一章 狼の仔(4)


          4


 白い狼の仔にとっては、理不尽な事態が続いていた。どうしても、理解出来ない。

 二本足で歩くこの変な生き物たちは、いったい、自分をどうしようというのだろう?

 赤毛の嫌な奴から守ってくれた獣は、美味しい肉をくれた。ソーィエが抑え付けられるのを見ていた《彼》は、ビーヴァが群れの主なのだと思った。

 主に従うのが、狼の掟だ。

 ところが、ビーヴァは《彼》を、別のキンキン高い声で鳴く生き物に渡し、いなくなってしまった。信じられない事態だ……。知らない場所で、慣れない音と匂いに囲まれて、弄ばれた《彼》は、気が狂いそうに感じた。

 夜更け。眠りにおちた少女の腕の中から、《彼》は這い出した。鼻を鳴らして母を求め、ビーヴァの匂いを捜す。

 どこもかしこも、馴染みのない冷たい世界だ。

 途方に暮れた仔狼は、腰を下ろし、鼻を天に向けた。不安と嘆きと、仲間への憧憬が、喉から溢れた。


 ウォーオーヨーローウォーヨーオーン……! ウォーオーオーヨーロロオーォン……!


「…………!」

 耳元でその声を聞かされたラナは、びっくりして跳ね起きた。

 長の家とは言え、やや大きいだけで、ナムコ(村)の他の家と造りにおいて変わりはない。間仕切りはなく、中央の炉では、あかあかと火が燃えていた。

 その炉の傍らで、板の上に琥珀の小石を並べる遊戯(ゲーム)をしていた長も、顔を上げた。

 仔狼の遠吠えに目を覚ました村の犬たちが、次々に叫び声をあげ始める。それは、仔狼の耳には、こう聞こえた。


『誰だ!』

『誰だ、誰だ、誰だ……?』

『何処にいる?』

『俺は、ここに、いるぞ……!』


 互いに重なり合い、高まって、夜の闇に木霊する。しかし、母と仲間の返事はない。

 胸が張り裂けそうに感じた狼の仔は、もう一度声をあげるべく、息を吸い込んだ。

 ラナは、慌てて《彼》の口を押さえ、抱き寄せた。

「だめ! お願い、静かにして……」

 仔狼は首を振り、キュンキュン鳴いて、逃れようともがいた。

 この様子を見ていた長は、ウオカ(焼酎)を入れた器に唇をつけ、遊戯を再開しながら呟いた。

「ビーヴァに任せた方が、よさそうだな」

 長の相手を務めるエビは、笑いを噛み殺していた。

「あのルプスは、既に、あるじを決めているようだ」

「…………」

 エビは、わらって肯いた。



 翌日。

 うす灰色の雲が空を覆い、太陽はぼんやりとしか見えなかったが、昨日より暖かい朝だった。

 ビーヴァは、自宅の前にしゃがみ、欠伸をしながら、ソーィエたちに魚を与えていた。群れの中で一応の順番は決まっているのだが、飢えた六頭の犬には関係ない。ガフガフと獲物をむさぼり、唸り合う。

 青年の母は、食糧庫に梯子を立てかけ、保存しておいたコケモモの実を探していた。人間の朝食は、これからだ。

 誰かがやじりか斧を作っているのだろう。石を打つ高い音が、時折、蒼白い空に響いていた。

 梯子を下りて来た母が動作を止め、軽く腰を屈めて挨拶したので、ビーヴァは、彼女の視線の先へ目を向けた。

「ビーヴァ!」

「…………?」

 青年は、目を瞠った。

 ラナが……今朝は、長い黒髪をなびかせて走っていた。珍しい灰色ぶちのユゥク(大型の鹿)の外套が、ひらひらと翻る。表で作業をしていた村の大人たち、遊んでいた子ども達が、驚いて振り返る。

 少女が雪に足をとられて転びそうになったので、青年は腰を浮かせた。

 母が声をあげる。

「まあ、ラナ様。どうなさったのです?」

「ビーヴァ、お願い……」

 少女は、乳兄妹の胸にぶつかる寸前で立ち止まると、何度も唾を呑みこんだ。急いで出てきたのだろう。外套は着崩れ、頭巾はなく、髪はほつれている。夕焼け色に頬を染め、掠れた声と白い息を吐き出した。

「この子を……助けて!」

「……え?」

 胸に抱いて来た、ルプスの仔を差し出す。彼女の勢いに圧され、ビーヴァは瞬きを繰り返した。

 腋を支えて掲げられた仔狼は、彼を見ると瞳を輝かせ、小さな尾を はたはた振った。

 くっくっという笑い声と、聞きなれた声が降ってきた。

「おはよう、ビーヴァ。タミラ(ビーヴァの母)」

「おはよう、エビ。いい朝ね」

「エビ……」

 悠然とした足取りで近づいてくる友を、ビーヴァは、困惑気味に見上げた。

「いったい、どうしたんだ?」

「昨夜、犬が騒いでいただろう」

 ラナの代わりに、エビが説明する。ビーヴァは、眉間に皺を刻んだ。

「まさか」

「そういうこと」

「…………」

 アロゥ族は、どの家も犬を飼っている。犬は橇を牽き、猟を助けてくれる。時には食糧となり、衣服ともなる。

 夜に犬が騒ぐのはいつものことなので、ビーヴァは気にとめていなかった。

 眉根を寄せたまま、青年は、少女を見下ろした。本音が出ると、口調もぞんざいになる。

「それくらい、自分で何とかしてくれよ……」

「だって」

 ラナは、唇を尖らせた。ナデシコの花のように可憐だが、赤ん坊の頃から彼女を見慣れているビーヴァは、動じない。

「相手はルプスだ、ビーヴァ」

 二人の遣り取りに苦笑して言う、エビの眼差しは優しかった。

「テティ(神霊)に、我々の理屈は通用しないさ」

「…………」

 ビーヴァの足元で、犬たちが騒ぐ。ソーィエ達は、ラナの掲げた仔狼の匂いを嗅ごうと首を伸ばし、互いに押し合った。

 しばらく考えたビーヴァは、腕を伸ばし、ルプスの仔を受け取った。仔狼の腰に手を当てがい、片方の膝を着いて座る。ソーィエが近づいて、興奮気味に鼻を鳴らした。

 ラナが、不安げに尋ねる。

「どうするの?」

「……ルプスはルプス、だけど」

 青年は、ぶっきらぼうに答えた。

「ナムコで暮らすなら、こいつらとやっていかないと……」

「…………」

 ビーヴァは、ルプスの仔を、そっと足元に下ろした。自分の足で立とうとする《彼》を、片手で、ころりと転がす。仰向けにされた仔狼は、一瞬身をよじらせたが、青年が撫でると大人しくなった。

 エビとラナは、黙って見守っていた。

「ソーィエ。ヨーゥ、ヨゥ」

 ビーヴァは、ルプスの仔を片手で押さえながら、もう一方の腕で犬たちを退けた。ソーィエが落ち着くのを待って、その腕をはずす。

 すかさず赤毛の犬がルプスの仔に顔を寄せたので、ラナは息を呑んだ。犬たちが《彼》を噛み殺すのではないかと思ったのだ。

 そうはならなかった。

 滑らかな腹を空へ向け、四肢を縮めた仔狼は、ビーヴァの手の下で顔を背け、じっとしていた。ソーィエ達は、一頭ずつ《彼》の匂いを嗅ぎ、ひとしきり鼻でこづくと、満足して離れた。

 ビーヴァが手を離すと、仔狼は、ぱっと起き上がって走り出した。尾と尻を ぷりぷり振って、ソーィエに駆け寄る。犬たちは、《彼》を庇護する対象だと認めたのか、もう唸ったり歯をむき出したりはしなかった。

 エビが、感嘆をこめて呟いた。

「流石だな、ビーヴァ」

「俺じゃないよ」

 ナムコでは、犬の扱いでビーヴァに勝る者はないと言われている。しかし、彼は、素っ気無く肩をすくめた。

「ソーィエが、頼みを聞いてくれたからだ。でも――」

 雪の中を駆け回る犬たちを眺めながら、ビーヴァは声をひそめた。エビだけに聞こえるように。

「――あのルプスは、きっと、ソーィエより大きくなる……」

「だろうな」

 エビは、真顔になって頷いた。

 二人には、仔狼の足の大きさが分かった。おそらく、ナムコのどの犬よりも大きくなるだろう。そうなれば、必ず、ソーィエ達と争いが起きる……。

「……それで」

 ほっとしているラナを、ビーヴァは、おもむろに振り向いた。

「どうするんだ。俺が、飼えばいいのか?」

「え」

 途端に、少女は、もじもじと言い淀んだ。腕組みをしてその様子を見ていたエビが、促した。

「その方がいいと思いますよ。俺も」

「でも」

 エビを見上げ、ビーヴァとルプスの仔を交互に見て、ラナは言った。

「私、もう、名前をつけてしまったわ……」

「…………」

 ビーヴァの額に、再び皺が寄った。彼は、ややうんざりと少女を見下ろした。

 エビが、細い眼を丸く見開いた。

「真の名を、ですか?」

「ええ」

 こくりと頷いて、少女は、頬にかかった髪を掻き上げた。男たちは、顔を見合わせた。

 森の民は、呼び名とは別に、真の名を持っている。こちらは、本人と名付け親しか知らない。

 真の名を知られることは、霊魂を支配されることに等しい。相手によっては命を左右されてしまうので、彼等は、滅多に己の本当の名を明かさない。

 お互いを呼ぶ際は、幼い頃につけられた渾名あだなを使うのだ。

 渾名は、悪いテティに目をつけられないよう、つまらない意味のものが多い。ラナは『涙』――非常によく泣く赤ん坊だった。ビーヴァは、『ささけた尻尾』。エビは『唾』、という具合だ。

 ビーヴァは、敢えてルプスの仔に名前をつけていなかった。ラナが名付けた以上、このルプスは、彼女のものだ。

 少女の瞳が、さも名案を思いついたように輝いた。

「ねっ! 一緒に飼いましょ、ビーヴァ」

「一緒にって……」

 ビーヴァは、げんなりと呟いた。彼にとっては、彼女がルプスの仔にくっついて来ることの方が問題だった。テティより、こちらの方が扱いづらい……。

 エビは、笑って彼を宥めた。

「仕方がないな、ビーヴァ」

「…………」

 ビーヴァが言葉を探していると、

「ラナ様」

 いつの間にか家に入っていた彼の母が、戻って来て、少女の手に何かを握らせた。早速、犬たちが、匂いを嗅ぎつけて集まって来る。

「これ――?」

 生のユゥクの肉片を渡されたラナは、瞳をくるりと動かした。

 彼女の乳母は、微笑んで言った。

「ルプス様に、どうぞ」

「噛んで、与えるんだ」

 昨日自分のしたことを、ビーヴァは説明した。犬たちに邪魔されないよう、ルプスの仔を抱き上げる。

「そうすれば、認めてくれる」

「ええ?」

 一度口に入れたものを? と、ラナは半信半疑だったが、言われるとおり、数回噛んで掌に載せた。鼻先にさし出すと、ルプスの仔は、匂いを嗅いで食べ始めた。

 ラナはほっとして、《彼》の頭を撫でた。ビーヴァは、彼女に仔狼を返しながら訊いた。

「何て呼ぶんだ?」

「ええとね……」

 新雪のように滑らかな毛を撫で、深い藍の瞳を覗き込んだ少女は、弾んだ声で言った。

「セイモア(青い炎)、というのはどう? この子、目が青いから」

「セイモア」

 ビーヴァは慎重に繰り返し、友を顧みた。エビは、軽く笑って頷いた。

「いいんじゃないか。モナ・テティ(炎の女神)の加護がありそうだ」

「決まり! 貴方の名前は、セイモアよ」

 ルプスの仔に言い聞かせ、ラナは、《彼》を雪の上におろした。ソーィエと、犬たちが走り出す。馴れた様子で後を追うルプスの仔を、ビーヴァとエビは、眼を細めて眺めた。

 カツーンと、石を打つ音が空に響く……。

 ビーヴァは、友を振り向いた。

「エビ」

「ん?」

「黒い石(黒曜石)を持っていないか? ゴーナ(熊)狩り用のやじりが要るんだ」

「ニルパが持っているよ。石打ち場へ行こう。俺も、新しいのが欲しいんだ」

 この会話を聞いたタミラが、すかさず言った。

「まあ。お前たち、何も食べずに出掛けるつもりかい?」

 顔を見合わせる二人を見て、彼女は笑った。

「入っておくれ。エビも、せっかくだから、食べて行っておくれ。……ラナ様、いらっしゃい。おぐしを直してさしあげましょう」

「はあい!」

 少女は、白い狼の仔――セイモアを抱き上げ、乳母の許へ駆けて行った。男たちは哂って、家に入った。



 食事を終えたエビとビーヴァは、家を出て、村はずれの石打ち場へ向かった。途中、エビの家に立ち寄り、家族に声をかけて行く。ビーヴァは独身だが、エビには、妻と二人の幼い子どもがいる。

 ラナは、セイモアを連れて、乳兄妹について行った。最初は仔狼を抱いていたが、重さに耐えかねて下ろすと、《彼》は、少女の足元をちょこちょこ駆けた。

 アロゥ族の村には、周囲を囲む塀や堀は存在しない。森と彼等の心に、明確な境がないように……。雪の中に適当な距離を置いて並ぶ家と家が、木立に変わるところに、石打ち場はあった。

 川原に向かってなだらかに下る斜面に、岩盤がむき出しになっている。石を打つのに具合のいい台だ。その上に積もった雪を取り除き、数人の男たちが、石器を作っていた。

「おはよう、エビ。ビーヴァ」

「おはよう」

「ラナ様、おはようございます」

 ナムコでは、ちょっとしたこともすぐに知れ渡る。ビーヴァが白いルプスの仔を連れて帰ったことも、その仔が長の娘に引き取られたことも、ゴーナ狩りが始まることも、彼等は既に知っていた。

 男たちは、セイモアを珍しげに眺めたが、すぐ自分の仕事に戻った。

 辺りには、割れた石の欠片が、無数に散らばっている。ビーヴァは、少女に注意を促した。

「危ないぞ、ラナ」

「うん」

 ラナは、セイモアを抱き上げて、柔らかい肉球が傷つかないようにした。他にも、数人の子ども達が、見物に来ている。

 ビーヴァがカラマツの枝を集め、エビが火をこした。石を温めて、作業をし易くするためだ。場所を整える二人に、声がかけられた。

「エビ、待たせたな。ビーヴァ」

「ニルパ」

「おお」

「ほお」

「見事だな……」

 ニルパが抱えてきた石を見ると、男たちは手を止め、口々に感嘆の声をあげた。夏の間に採って来た、人の頭ほどもある黒曜石だ。ニルパがそれを岩に載せると、人垣が出来た。

 ラナは、ビーヴァとエビの腕の間から、首を伸ばして覗き込んだ。

 アムナ山の黒曜石は、鏃や手斧、マラィ(刀)を作るのに、最も好まれていた。火打ち石より加工し易く、鋭い刃が出来る。

 男たちの手が、石の表面についた土や苔を取り除き、いとおしむように撫でるのを、ラナは、わくわくしながら見守った。

 ニルパは、石を、古いユゥクの皮で丁寧に包みこんだ。割る際に飛び散る破片で、怪我をしないようにする為だ。

「いくぞ」

 エビとニルパが、川原の石を持った手を振り上げる。ビーヴァは、再び、乳兄妹に注意を促さなければならなかった。

「ラナ、下がって……」

 少女は、急いで彼の背に身を隠した。仔狼は、彼女に抱き締められて、もがいた。

 皮に包まれているぶん、くぐもった音が辺りに響く。その度に、塊は崩れて、平らに近づいた。

 ニルパが触ると、じゃらじゃら、破片がぶつかる音がする。大切な欠片をこぼさぬよう、そっと皮を開いた。

「わあ……」

 少女は溜息をついた。

 砕けた石から、見事に艶のある断面が現れていた。晴れた冬の夜空を思わせる黒い面が、光を反射して煌く。

 その石と同じように瞳を輝かせる子ども達の前で。男たちは、次々に手を伸ばし、めぼしい破片を取っていった。

 いちいち礼など言わない。ある者が、ある時に、他へ分配するのが、彼等の流儀だ。

 彼等は、腰と手に皮を巻いて座り、各々作業を始めた。ラナは、ビーヴァたちの傍に陣取った。

 ニルパが、適当な稜(エッジ)のある欠片を選んで、友人に手渡す。

「これがいいんじゃないか、ビーヴァ。……気をつけろ。手を切るぞ」

「ああ、ありがとう」

 ビーヴァは、目を凝らしてそれを見詰め、作ろうとする鏃の姿を見出すと、持参したユゥクの角棒を当てた。体重をこめ、少しずつ、刃を削り出していく。

 エビも、槍を作り始めた。沈黙の中、ギリリ、パキリと、石の砕ける音が響き合う。次第にのめりこんでいく。

 かすかな緊張を伴うこの時間が、ラナは好きだった。

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