第一章 狼の仔(3)


          3


 翌朝、ビーヴァが目覚めると、ソーィエは待ちかねたように駆け寄って、彼の顔を舐めた。外套の襟から外の様子を窺っていたルプス(狼)の仔は、赤毛の犬に唸られて、また頭を引っ込めた。

 どうしても、ソーィエは、このちびを労わろうという気になれないらしい。

 仕方なく、ビーヴァは腕を伸ばし、相棒の鼻面を押さえた。

「ソーィエ、静かに……」

 穏やかに、しかし、断固とした口調で窘められ、ソーィエは唸るのを止めた。ちび狼に構ってはならないと、理解したのだ。

 仔狼は、小さくなって震えている。のまず喰わずで弱っていることは見て取れた。ビーヴァは、彼を潰さないよう気をつけながら、身を起こした。

 焚き火は、ちろちろと、薪にまとわりつくだけになっている。ビーヴァは、モナ・テティ(火の女神)に一晩守ってくれたお礼を呟きながら、彼女の好物であるモミの緑枝をくべ、燃え尽きるのを待った。その間に、残しておいたマツの実を齧り、相棒に干し肉を与える。

 ためしに、仔ルプスにも肉の欠片を差し出してみたが、匂いを嗅ぐだけで、食べようとはしなかった。

 ゴーナ(熊)が後を追ってきた形跡はない。

 モミの木の爽やかな匂いを残し、女神が去る。ビーヴァは、炭と寝床にしていたカラマツの皮に丁寧に雪をかぶせ、出発した。

 ソーィエが、尻尾を振ってついて来る。

 空は晴れているが、森の中は薄暗い。重なり合う木々の枝の隙間から差し込む光は、凍った雪の表面で反射して、淡い紫色に煌いた。

 頬に当たる風は、昨日より柔らかい。

 やがて、行く手に、橇を曳いた跡や、カラマツの幹にうちこまれた斧の傷、ヤナギの樹皮を剥ぎ取った跡が見られるようになった。ナムコ(村)に近づいた印だ。かすかに、水の流れる音が聞こえる。

 サルヤナギやカラマツ、モミの木立が、川岸に迫っていた。鬱蒼と茂る木々が急に退いたところに、アロゥ族の村はあった。

 丸太を組んだ上にマツやトウヒの皮を重ね、同じ樹皮と芦で屋根を葺いた森の民の住居は、雪に埋もれていた。各戸の隣には、高床式の食糧貯蔵庫が建てられている。強い風に吹き寄せられた雪が、そこかしこに小さな山を作っていた。

 犬の吼え声と、子ども達の歓声が聞こえる。ユゥク(大型の鹿)の皮を縫い合わせて作った鞠を、棒で叩いて遊んでいるのだ。

 ビーヴァは、人々が掻き分けて作った雪道を通って、ゆっくり村へ入って行った。

「ビーヴァだ!」

「おかえり!」

 すかさず、子ども達が、彼を見つけて駆け寄って来た。ソーィエが、ちぎれんばかりに尾を振る。ビーヴァは軽く微笑んだが、歩調は変えなかった。

 家の前でヤナギの樹皮を叩いて繊維を出していた年配の女性が、声をかけてきた。

「おかえり、ビーヴァ」

「ただいま、おばさん」

「どうだった?」

 狩りで得た獲物は、皆で公平に分配する慣わしだ。期待に満ちた声をかけた女だったが、青年が困ったようなはにかんだような表情を見せると、微笑を返した。

「珍しいこともあるものだね。ご苦労さま。明日はいい風が吹くよ」

「そうだね……」

 女は、樹皮を叩く作業を続けた。

 その後も似たような遣り取りを数回繰り返したが、一人として、彼を責める者はなかった。子ども達は、しばらく彼の後についてきたが、遊んでもらえそうにないと判断すると、鞠を叩く遊戯に戻った。

 髪を二つに分けて編んだ若い娘と、眼を伏せてすれ違う。成年に達した同氏族の男女は、直接目を合わせたり、会話をしたりすることはない。

 自宅に戻ったビーヴァを、五頭の犬が、興奮気味に出迎えた。それぞれ、主人に跳びつこうとして、戸惑ったように立ち止まる。ルプスのにおいのせいだ。

 ビーヴァは苦笑した。

 ソーィエを外に残し、家に入る。なめした革と木の匂いと、暖められた重い空気が、彼を包んだ。

 青年は、懐から仔狼を取り出し、そっと床に下ろした。

「待っていろよ……」

 低い声で囁いて、ビーヴァは、かんじきを脱ぎ始めた。毛皮の外套を脱ぎ、頭巾を外す。一本に結った黒髪が背を滑って腰に達し、頬当ての下から、なめらかな褐色の肌が現れた。

 左の頬骨の上には、炎を模った魔よけの紋様(刺青)が描かれている。

 何日も頭巾で押さえていたため、髪には癖がついていた。底のない黒い瞳と、やや下がった目尻が、性格の穏やかさを示している。

 彼が手甲を外し、弓矢や刀といった狩猟道具を片付けている間、仔狼は、イラクサの茣蓙ござと毛皮を敷いた床にちょこんと座り、辺りを嗅ぎまわっていた。

 部屋の中央の四角く区切った炉では、ぱちぱちと乾いた音をたてて火が燃えている。傍らには、綺麗に削って生皮を出したシラカバのイトゥ(幣)が立てかけてある。モナ・テティに捧げるものだ。

 炉の上には、木の枝を組んで作った『火棚』が、ブドウツルで天井から吊り下げられていた。秋に獲ったホウワゥ(鮭の一種)が、その上に並べて干してある。

 ビーヴァは火棚に手を伸ばし、ホウワゥの燻製を取った。

「食べるか?」

 魚の身を噛みほぐし、掌に載せて、仔狼の鼻先にさしだす。

 ルプスの仔は、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、紅色の舌先でちろっと舐めたが、すぐに舌をひっこめてしまった。

 ビーヴァは次に、魚の卵の干したもの(スジコの燻製)を、一粒・二粒出してみた。しばらく待ったが、仔ルプスは横を向いて、食べようとしない。

 青年は、溜息をついた。

「食べなきゃ死んじまうぞ、お前……」

 ルプスの仔は、弱々しく鼻を鳴らすと、胡坐を組んだ彼の脚に近づいた。暖を求めて、毛皮の脚絆に身を寄せる。

 どうしたものかと考える青年の背後で、扉の軋む音がして、威勢のよい声が入ってきた。

「おかえり。寒かったろう?」

 ビーヴァは振り返り、眼を細めた。

「母さん……。長のところに行っていると思ったのに」

 樹皮の束を足元に置いて、彼女は、はあっと息を吐いた。魚皮の靴についた雪を払い落とし、頭巾を取る。息子と同じ黒髪には白髪が交じり、頬には木の紋様が描かれている。

 その紋様をくしゃっと縮め、彼女は微笑んだ。

「お前が帰ってきそうな気がして、早めに戻ってきたんだよ。待っておいで、今、お茶を淹れてあげるから」

 そう言うと踵を返し、土製の器を手に外に出る。煮炊き用に橇に乗せて運んでおいた雪を手にとると、鍋に入れ、火の傍に置いた。

 ビーヴァは、苦笑しつつ声をかけた。

「お茶はいいよ、母さん。何か、この仔に食べさせてやれるものはない?」

「え?」

 言われて、息子の足元を見下ろした母親は、丸く眼を見開いた。

「……森のひと(ルプス)だね」

 囁き声になる。黒目の大きな瞳が、息子の顔とルプスの顔を交互に見る。

 白い仔狼は、あふっと大きな欠伸をした。

「ええー、珍しい。どこで拾って来たの、お前」

「アムナ山の西……。迷っていた」

 ビーヴァは、ゴーナの話を詳しくして、母親を恐がらせるつもりはなかった。

「凍えて、死に掛けていた。たぶん、何も食べていないと思う」

「まあまあ、可哀想に」

 同情たっぷりな声音で言いながら、母の目は微笑んでいた。小さなルプスの仕草が、可愛らしかったのだ。まるい額を撫でようと手を差し出すと、仔狼は警戒して後ずさった。

 ビーヴァは口ごもった。

「俺、今日は獲物がないんだ……」

「ルプス・テティが現れれば、他のテティは遠慮するだろうよ。しかも、白いルプス様だ。おもてなしをしなくちゃねえ」

「…………」

 青年の脳裡には、雪の上を引き摺られて森へ消えていた血の跡と、ゴーナの爪跡が浮かんでいたが、やはり黙っていた。

 フウロソウ(ゲンノショウコ)の葉を鍋に入れる母の横顔に、ビーヴァは尋ねた。

「どこかで、乳を貰えないかな?」

「そうさねえ。犬が子を産むには、まだ早いねえ」

「……ニルパのところは、どうだろう?」

 ビーヴァが言ったのは、お腹の大きい妻を持つ友人だ。親を失くした仔犬や仔熊を育てるのに、人間の乳を与えることは、普通に行われていた。

「まだ早いよ。あそこの子が産まれるのは、『黄色い花の咲く月』さね」

 突然、彼女は声をあげて笑い出した。ルプスの仔は、驚いて、ビーヴァの膝に跳び乗った。

「仕方がないねえ、お前は。犬やゴーナのことはよく分かるのに、ムサ(人間)の女のことは、全然分かっちゃいないんだから……。そんなことじゃ、あたしが孫の顔を見られるのは、ずっと先になりそうだね」

「…………」

 からかわれて、青年の頬に朱が差した。母親は、仔ルプスの顔を覗き込んだ。

「立派な牙が生えているよ。ユゥクのルイペ(生肉を凍らせたもの)なら、大丈夫じゃないかい?」

「あるの? ユゥクが」

 ビーヴァは眼を瞬いた。母親は、悪戯っぽく笑った。

「昨日、エビが帰って来たんだよ」

『それで、皆がゆっくり構えていたわけだ……。』ビーヴァは苦笑した。

 エビは、彼より四歳年上の幼馴染だ。同じ日に狩りに出掛けたが、イエンタ・テティは彼の方に群れの居場所を教えたらしい。

 母親は、立って東の『テティの窓』へ近づくと、神棚に頭を下げた。シラカバの皮で包んでイトゥで飾った肉の塊から、骨製のマラィ(小刀)で表面を削り、戻って来る。

 仔ルプスは鼻を寄せて、生肉に興味を示した。ビーヴァは、母狼がやるように、肉を噛んで柔らかくして与えてみた。

 ルプスの仔は、少しの間躊躇っていたが、一口食べ、勢いをつけて呑みこみ始めた。ほっと息をつく息子に、母が言った。

「さあ、今度はお前の番だよ。今、シム(芋の団子)を煮てあげるからね……」



 食事をして体を温めたビーヴァは、再びルプスの仔を懐に入れ、外へ出た。神聖な白いルプスを拾ったことを長に報せたほうがいいと、母に勧められただけでなく、ゴーナの件を相談したかったのだ。

 一晩、彼に暖めてもらい、肉も貰ったルプスの仔は、馴れたのか、大人しく外套の中に納まっていた。

 ソーィエが、得意げに尾を揚げてついてくる。

 長の家は、ナムコで一番高い土地に建てられている。一族を一望出来る場所だ。村の広場の縁をぐるりと周って歩いていたビーヴァは、仲間の姿を見つけた。

 立ち話をしていた男達の一人が、片手を挙げる。

「よう、ビーヴァ」

「ビーヴァ、おかえり」

「エビ、ニルパ……」

 ビーヴァは、微笑んで挨拶を返した。

 氏族でも一目置かれる『強い狩人』のエビは、年齢だけでなく体格も、ビーヴァより一まわり大きい。やや吊りあがった眼が精悍な青年だ。新婚のニルパは、頬骨の張った顔に細い眼の、物静かな男だった。

 二人とも、ユゥクの毛皮の外套を着て、長髪を一本にまとめ、磨いた石や革の紐で飾っている。頬には炎の紋様が鮮やかに描かれ、エビのそれは首筋まで拡がっていた。

「ユゥクをありがとう、エビ。助かったよ」

「お前には、毛皮を分けて貰った。礼を言う必要はない」

 型どおりの挨拶を交わし、エビは、興味深げな視線をビーヴァに当てた。

「アムナ山の方へ行ったんだろ。どうだった?」

「それなんだが……」

 ビーヴァは、外套の前当てを開いて見せた。エビとニルパは、ちょっと顔を見合わせてからそこを覗き、同時に眼を丸くした。

「ルプス・テティか!」

「どうしたんだ?」

 ニルパが、不安げに眉根を寄せる。親の報復を惧れているのだ。

 ビーヴァが、説明しようと口を開けたときだった。

「ビーヴァ!」

 澄んだ声が辺りに響き、男達は、一斉に振り向いた。広場の反対側から、小柄な少女が駆けて来た。

 ルプスの仔は、鼻をひっこめた。ソーィエが、激しく尾を振る。

 長い衣の裾を翻して駆け寄る少女を、ビーヴァは立ったまま、エビとニルパは、軽く頭を下げて迎えた。

「ラナ……」

「狩りに行っていたの? おかえりなさい」

 リスの毛皮の頭巾をかぶった少女は、頬を染め、白い息を吐いた。磨いた黒曜石を思わせる瞳が、きらきらと輝く。ビーヴァは無言で頷いた。

 彼女の後から杖を突いて近づいてくる長の姿を認め、男達は、改めて一礼した。

 アロゥ族の長は、壮年の大柄な男だ。片足を軽く引き摺っているのは、五年前に、ゴーナと戦って傷を受けたからだった。今は自ら狩りに行くことは殆どないが、鍛えられた身体には隙がなく、聡明な眼差しが曇ることもない。

 左の頬には、出身氏族を示す月の紋様が、右の頬には、ビーヴァ達と同じ炎の紋様が彫られている。彼は、同盟氏族を束ねる王でもあった。

 ラナは王の娘であり、シャム(巫女)の血を継ぐ者だ。ビーヴァの母は、かつて、彼女の乳母を務めていた。

 少女は、乳兄妹の膨らんだ胸を見て、首を傾げた。

「何を入れているの?」

 ビーヴァは、懐からそっと仔狼を取り出した。

「うわあ……」

 少女は息を呑み、頼りない白い毛玉を抱き上げた。四肢を縮めて震えている彼の頭を、そっと撫でる。

 長も、感嘆の声をあげた。

「ほう。白いルプスとは、珍しい。どうした?」

「棲家をみつけたのです」

 長は、怪訝な気持ちで、ビーヴァを見下ろした。青年の人となりは良く知っている。彼がこういうことをするとは、意外だった。

「親が捜してはいないだろうか?」

「大丈夫です」

 ビーヴァは、軽く眼を伏せた。

「殺されていました……。ゴーナに襲われたようです」

『ああ。』と、声を出さず長は呟いた。話を聞いていたエビの瞳に鋭い光が閃き、ニルパは表情を曇らせた。

 ラナは、一瞬びくりと肩を縮ませたが、いっそう優しく仔狼を撫でた。憐れみを含んだ声で、囁く。

「大丈夫よ。恐くないわ……」

 その様子を、少女の父と乳兄妹の青年は、しばらく黙って見下ろした。

 ビーヴァは長を見上げ、低い声で切り出した。

「……奇妙です」

「奇妙?」

 長は、片方の眉を持ち上げた。

 青年は、神妙な顔で頷いた。

「普通、ゴーナはルプスを襲いません。ルプスも、ゴーナを敬い、避けようとします。ところが、このルプスは一家でやられています。穴が壊され、引き摺り出されていました」

「…………。」

「この子は、たまたま見逃されたのでしょうが……。ゴーナに何かがあったのか、それとも、ルプスに」

「……悪霊か。」

 長は眼を細め、長く伸ばした顎髭を手で撫でた。ビーヴァは、項垂れて、同意を示した。

「憑いているとすれば、ゴーナの方でしょう。ナムコへ出てくることがなければ、良いのですが……」

 この言葉に、長は眉間に皺を刻んだ。

 五年前、やはり同じ冬の時期に、ゴーナが村を襲い、二人の男と、女と、産まれたばかりの赤ん坊が殺された。長の右脚の傷はその時のもので、殺された男の一人は、ビーヴァの父親だった。

 ゴーナは森の民に恵をもたらす山の神だが、悪霊の憑いたゴーナは、見境なく人を襲うようになる……。長は、重々しく頷いた。

「解った。イェンタ・テティに、お伺いを立ててみよう。他の者にも、気をつけるよう伝えてくれ」

「分かりました」

「狩りの仕度をしなくちゃいけないな」

 エビが呟く。口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。ゴーナ狩りは、ナムコ総出の仕事だ。犬を集め、槍を磨き、スルク(矢毒)を作る。

 ニルパは、その隣で、かすかに青ざめていた。

 ビーヴァの衣の袖を、ラナが引っ張った。

「ねえ。この子、私が飼ってもいい?」

「…………」

 ビーヴァを顧みた長は、青みがかった黒い瞳の中に、青年の思慮深さを見た。彼は、当惑気味に呟いた。

「来年の祭りに、と思ったのですが……」

「それが、限界だろうな」

 仔狼に頬ずりする娘を眺め、長も苦笑した。――ルプスやゴーナが、人と暮らすことは難しい。ゴーナは一年、ルプスは二年もすれば、気が荒くなって手がつけられなくなる。

 毎年、夏至の日に行う祭りの為に、彼等は、ゴーナやハッタ(梟)の仔を生け捕っていた。孤児となったゴーナの仔は、一年間大切に飼われた後、テティの国へ送られる。

 白いルプスの仔は、テティとムサの国を繋ぐ使者として、ふさわしいと思われた。

 少女は、もう一度、乳兄妹の袖を引いた。子どもらしい苛々した響きが、声に交じった。

「ねえ。いいでしょう?」

「……どうぞ」

 また無口な男に戻りかけていた青年は、瞳に微笑を浮かべ、囁いた。

「ルプス・テティは、橇を牽いてはくれませんが……友人になら、なってくれるでしょう」

 少女の腕の中で鼻を鳴らす仔狼の頭を、軽く撫でた。

「ありがとう、ビーヴァ」

「また、何かあったら教えてくれ」

「…………」

 長の言葉に、ビーヴァは再び一礼して、踵を返した。ソーィエを連れていく青年を、長は頼もしげに見送っていたが、少女の関心は、柔らかい毛玉の方へ移っていた。

 光の加減によって青く輝いて見える瞳を見詰め、ラナは囁いた。

「よろしくね。貴方を、何て呼んだらいいかしら……」

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