第一章 狼の仔(2)


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 弓弦を引きしぼり、ビーヴァは、口の中で祈った。

『イエンタ・テティ(狩猟の女神)よ。我に志あるをみれば、この矢を届けさせたまえ……』

 ひぃよぅっと風を切って飛んだ矢は、ライチョウのうずくまっていた雪の窪みに、ほとりと落ちた。

 狩人は肩をすくめ、傍らで身を伏せている仲間を見下ろした。赤褐色の毛に覆われた相棒は、尖った耳を立て、期待に満ちた瞳でこちらを見上げている。

「……今日は、テティがお留守のようだ。ソーィエ」

 きゅうん、と鼻を鳴らす弟分の頭を、手甲を嵌めた手で軽く撫でると、ビーヴァは立ち上がり、矢を拾いに行った。ソーィエは、尻尾を振り、皮の脚絆きゃはんを巻いた彼の足にもつれるようにしてついてくる。

 ユゥク(大型の鹿)の骨を削って作ったやじりの先端を確かめると、ビーヴァは、それを慎重に矢筒にしまった。スルク(毒)が塗ってあるのだ。白い息を吐き、改めて周囲を見渡す。

 森は息をひそめ、飛び立った鳥の羽音を聞くことは出来なかった。木立の向こうに、動く影はない。

 青年は、軽く嘆息した。

「行こう、ソーィエ」

 ソーィエは、ふんふんと雪の匂いを嗅いで歩き出した。ビーヴァは、外套の襟を合わせ、ヤマブドウのツルを編んで作った背負い袋を肩に掛けなおした。

 彼の民族の言葉で、『指が凍って落ちる月』という。

 冬至は過ぎたが、春はまだ遠い。冬眠しない動物たちは、空き腹を抱えて食べ物を探しているはずだった。

 無論、ムサ(人間)もだ。

 雪の表面に生き物の痕跡を探しながら、ビーヴァは進んだ。時折顔を上げ、目印のイトゥ(木を削って作る神幣)を探す。

 と、ソーィエが駆け出した。何かを嗅ぎつけたのだろう。同時に、ビーヴァは、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の幹に自分が括りつけておいたイトゥを見つけた。

「…………」

 藪の中に仕掛けた罠を見つけたビーヴァは、刀で切ったようにすっぱり切られた皮紐を見て、眉を曇らせた。周囲には、血と茶色い綿毛が散っている。まだ新しい足跡も。

 乱れた雪の中をひとしきり嗅ぎまわったソーィエは、首筋の毛を逆立てて、ぐうぅと唸った。

 ビーヴァにも、足跡が何のものかは理解出来た。彼は相棒の首に腕を回し、囁いた。

「ヨーゥ(やめろ)、ソーィエ……。ルプス・テティ(狼神=森の神)の通り道に当たってしまったのだ。仕方がない……」

 それで、ソーィエは怒りを喉に収めたが、警戒の姿勢は解かず、困った視線を彼に向けた。ビーヴァの方も、これで三日、獲物がないことになる。さすがに気が重くなった。

 雪の上に片方の膝をつき、指を曲げて相棒の背中を掻きながら、ビーヴァは考えた。――持参した食糧が尽きるまで、賭けるつもりで山に残り、獲物を探すか。それとも、ナムコ(村)に戻り、出直すか。

 鮮やかに晴れた冬空を、彼は仰いだ。このところの吹雪で、村の食糧も乏しくなっている。彼を含め、仲間が数人森に入っているが、どれだけ獲物を持ち帰ることが出来るだろう……。

 主人の困惑を察して、ソーィエが鼻を鳴らす。ビーヴァは軽く微笑み、相棒の頭を撫でて立ち上がった。

 吹雪が止み、動物たちが巣穴から出てきた。ウサギが捕まっていたことには見込みがあるが、ルプスの匂いが残っている間は、他の動物はここに近づかないだろう。場所を替えた方がいい。

 木から外したイトゥを手に持ち、ビーヴァは、足跡を迂回して歩き出した。ソーィエが先を行く。

 彼等は村の方角に背を向け、凍った雪の斜面を登って行った。

 しばらく行くと、ソーィエが足を止め、再び唸り始めた。今度は、先刻とはうって変わって激しい調子だ。牙をむき出して鼻面に皺を刻む相棒の肩に、ビーヴァは声をかけた。

「どうした、ソーィエ?」

 首の毛を逆立てながら、耳を伏せ、腰を落としている。何か恐ろしいものをみつけた姿勢だ。

 ビーヴァは、イトゥを背中の袋にしまい、腰のマラィ(刀)に手を当てた。

 唸っていたソーィエは、急に吼えて駆け出した。ビーヴァは、雪に沈みそうになる足元に気をつけながら、後を追った。

 ベニマツの影が淀む吹き溜まりを避け、枯れ草の茂みを回ったところで、ビーヴァは息を呑んで立ち止まった。

 薄暗い冬の日差しの中でも、雪の中に、人の頭ほど巨大なゴーナ(熊)の足跡が残っているのが見えた。主人が追いついたことに勢いを得たソーィエは、一際大きな唸り声をあげる。

 刀の柄から手を離さずに、ビーヴァは辺りを見渡した。ベニマツの森と雪が作り出す無彩色の空間に、彼等のほか、動くものの姿はない。

 ソーィエの唸り声だけが、凍てついた大気を震わせている。

 この時期、普通のゴーナは地中の家に閉じこもり、外へ出てくることはない。母ゴーナであれば、一・二頭の子どもを産み、雪解けを待っているはずだ。それが出歩いているとは、尋常ではない。

 秋にたっぷり食事をすることが出来ず、空腹のあまり、彷徨い出たのか……。縄張り争いに負けて、巣穴を追い出されたのか。それとも、子どものために、獲物を探しているのか。

 いずれにしろ、避けた方が良い。

「ソーィエ」

 息だけで、犬の名を呼ぶ。早くこの場を離れようと、ビーヴァが体の向きを変えたとき、それは視界に飛び込んできた。

「…………」

 ビーヴァは目を瞠り、それから、目を閉じた。重なり合う木の向こうに、どす黒い血と黄褐色の毛が散乱していた。

 ソーィエは、激しく吼えて、そちらへ駆けて行った。仕方なく、ビーヴァは刀を抜き、腰を落として近づいた。

 殺戮の現場だった。

 ――それは、虐殺と言っていい状況だった。凶暴な爪に掻き出され、ちぎれた内臓が、そこかしこに散らばっている。マツの幹に叩きつけられた毛皮が一つ、引き摺られた肉の塊が二つ。

 そこいらじゅうに、ゴーナの爪跡が残っていた。雪原に、途切れ途切れに長く伸びて凍っている血の筋は、犠牲者を運んだ跡なのだろう。

 一本のエゾマツの根元に、掘り返された穴があった。白い世界の中で、そこだけぽっかり闇がむき出しになっている。

 巣穴を攻撃された狼達は、必死に抵抗したのだろうが、怒り狂う『山の神』の敵ではなかったのだろう……。恐れと不審と憐れさを感じて立ち尽くすビーヴァの傍らをすり抜けて、突然、ソーィエが、穴に向かって駆け出した。

 大気に充満する血とゴーナの臭いに半ば怯えながら唸っていたソーィエは、土の中でかすかに動いた気配に突進した。ビーヴァの目にも、灰色の毛が見えた。

 咄嗟に、ビーヴァはそれを捕まえた。ソーィエの攻撃を避ける為に、彼は、憐れな仔狼の後足を掴んで、逆さづりにしなければならなかった。

 ソーィエは、俺の獲物だといわんばかりに、牙を剥いて跳びかかる。野性の濃く残る彼の脳には、獲物を主人の為に残しておくなどという概念はない。急いで取り上げなければ、食べられてしまうのが常だった。

 ビーヴァは、ユゥク(大型の鹿)の毛皮の靴で、相棒の足を踏んづけた。

「ヨゥ、ヨーゥ! ソーィエ!」

 何度も呼びかけられて、やっと、ソーィエは跳ぶのをやめた。それでも、不満げに唸るのを止めない。ビーヴァは、彼を睨んでから、改めて手の中の小さな塊を見下ろした。

 両手に収まるほどの、白いルプスの仔だった。

 生後一ヶ月は経っていないように見える。毛皮は血と土でうす汚れていたが、耳は銀色で、瞳はロマナ湖より深い蒼だと、ビーヴァは思った。

 握っていると、小刻みな震えが伝わってくる。密集して生えた毛は柔らかいが、身体は冷え切っていて、骨格は小鳥のように頼りない。力をこめれば、簡単に折れてしまいそうだ。

 ビーヴァは少し迷った。ゴーナ・テティ(熊神=山の神)は、自分の獲物を持ち去る者を許さない。必ず後を追って報復すると言われるが、この仔ルプスはどうだろう。

 しかし、ここに置いておけば、死んでしまうのは間違いない……。

「……行こう、ソーィエ」

 ビーヴァは、白い狼の仔を懐に入れ、踵を返した。



 仔狼は怯え、混乱していた。いったい、何が起きたのだろう。なぜ、父と母は来てくれないのだろう?

 《彼》には分からなかった。全ては、闇の中の出来事だった。

 ――母親の毛皮にくるまれて、ぬくぬくと眠っていた子ども達は、天を割るような咆哮に叩き起こされた。知らない恐ろしい臭いと、父狼の匂いが穴の外からして、ガチガチ牙を噛み鳴らす音が続いた。

 仲間がお互いを呼ぶ声も聞こえた。

 何が何だか分からないでいるうちに、生々しい血の臭いがして、急に静かになった。いつもは肉に伴う血の匂いは気持ちがよいのだが、この時はそうではなかった。――そう感じたのもつかの間、今度は巣穴の入り口を爪で引っ掻く音がして、母狼が怒りの声をあげた。

 それから後は、全く恐怖の連続だった。

 弟が巨大な手に引き摺り出されると、母狼は、猛然と相手に飛びかかった。《彼》に出来たのは、本能の警告に従い、じっと息を殺していることだけだった。

 闇の向こうから、母親の唸り声と、バキバキ何かが折れる音、悲鳴、苦痛と怒りの叫びが続いて、それから、どぎつい血の臭いが穴に満ちた。それらは、仔狼の意識を呑み込んでしまうほど、大きく濃厚だった。

 気がつくと、一人ぼっちになっていた。

 表は静かになっていたが、母親は戻っていなかった。弟も。《彼》は、鼻を鳴らしたが、応えはなかった。

 やがて、ぼんやり夜明けの気配が漂ってきた。喉が渇いた《彼》は、きゅうんと泣いた。いつもなら、母狼が飛んできてくれるはずだったが、そうはならなかった。

 仕方なく、《彼》は、後足の間に鼻を突っ込んで眠った。

 仔狼の体温は、どんどん低下していった。あまりの寒さに目を覚ました《彼》は、震えながら母親を探したが、巣穴の中はがらんとして、ぬくもりはすっかり消えうせていた。

 飢えは、仔狼の胃を締め付け、四肢を引きちぎりそうだった。どうしたらいいか分からなくなり、《彼》は、よたよた巣穴を這い出した。

 迎えたのは、ムッとする血の臭いと、変わり果てた肉親の姿だった。

 仔狼は、母親の匂いのする毛皮に鼻を押し当てたが、それは冷たかった。父親と仲間の匂いもあったが、それより濃かったのは、あの胸が悪くなる闇の臭いだった。

 《彼》には、『死』は理解出来なかった。ただ恐ろしくて、巣穴の中に逃げ戻った。

 そこで、さらに一日を過ごした。

 赤毛の生き物が仔狼をみつけた時、《彼》は、殆ど死にかけていた。そいつは、姿形は父に似ているくせに、牙をむき出して《彼》を脅した。足を掴まれ、宙ぶらりんにされた時には、頭に血が下がってくらくらした。

 大きな二本足の獣は、《彼》を毛皮の中にいれて運んだ。恐ろしい臭いが遠ざかり、代わりに、ぬくもりが身に沁みてきた。あたたまった《彼》がクンクン泣くと、獣は懐を開いてくれた。

 それで、外が見えるようになった。

 しかし、《彼》が鼻を出すと、赤い奴が恐ろしい剣幕で唸るので、《彼》はまた鼻を引っ込めた。


「ソーィエ。あまり、苛めるなよ」

 不機嫌な相棒の唸り声が、仔狼が鼻を覗かせる度に高くなったり低くなったりするので、ビーヴァは苦笑した。ユゥクの皮の欠片を放ってやる。

 ソーィエは、ぱくっと受け取って噛み始めたが、瞳はビーヴァの胸元を見据え、唸り続けていた。――その様子は、まるで、『兄貴が止めろと言っているから、我慢してやっているが。そこからちょっとでも出てみろよ。さっさとお前を喰ってやるからな。』と言っているようだった。

 ビーヴァは、ベニマツの実を齧り、ヌパウパ(ヤマニラ)を漬けた酒を口に運びながら、これからどうしたものかと考えた。

 半日かけて山を下った彼は、ナムコ(村)のある森の近くまで来て辺りが暗くなったので、雪を積んで風よけを作り、火を起こした。弱っていたルプスの仔が、クンクン鳴けるほど元気になったので、彼はほっとした。

 もう、大丈夫だろう。あとは、ナムコに戻り、乳を飲めば元気になるはずだ。……この小さなルプスに与えられる乳があれば、だが。

 ゴーナが追って来ている気配もなかった。こちらは、あまりに不吉なので、彼はなるべく考えないようにしていた。

 ルプスとゴーナ……テティ(神)同士が戦う理由など、分からない。

 まずは、無事ナムコに帰り着くのが先決だ。帰ったら、おさに相談しよう。

 ユゥクの皮を食べ終えたソーィエが雪の上に丸くなったのを見て、ビーヴァは、懐の生き物に意識を戻した。入れた瞬間は、氷の塊を投げ込んだように感じたが、今は、むしろ熱いくらいだ。

 とくとくという鼓動が伝わってくる。仔ルプスが動く度、小さな爪が肌を引っ掻いたが、その程度の痛みは懐かしかった。

 ソーィエが子どもの頃を思い出す。

 しかし……犬は犬、ルプス(狼)はルプスだ。今は小さくとも、育てば野生の性が顕れて、ムサ(人間)の手に負えなくなってしまうことは解りきっていた。ソーィエの態度を見ていても、彼がナムコで暮らすのは、前途多難に思われる。

 自分が仔ルプスを助けたのは、正しかったのだろうか。あのまま、放っておいた方が、よかったのだろうか……。

 迷いながら襟元を覗き込んだビーヴァだったが、白いルプスの仔が無邪気に眠っているのを見ると、思わず頬が綻んだ。


 彼等の頭上では、天の神が燃やす緑の炎(オーロラ)が、ゆらゆらと揺れていた。


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