第一部 神々の詞(ことば)

第一章 狼の仔

第一章 狼の仔(1)



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 最初は、闇の中にいた。

 自我がぼんやり目覚めたとき、《彼》は、暖かく柔らかなものにくるまれていた。そこに鼻を押しあて、口の中に流れ込んでくるものを、夢中で吸った。満腹になると眠り、空腹になると目を覚まし、また吸うことを繰り返した。

 《彼》は、一匹だけではなかった。傍には弟と妹がいて、始終クンクン鳴いたり、小突きあったりしていた。互いに、あまり関心はなかった。彼等にとって、世界の中心は、大きくて暖かなもの――母狼だった。

 闇が彼等を囲んでいた。

 《彼》は、ときどき母親の毛皮の中から這い出した。兄妹たちの中で誰よりも、そうするのが早かった。鼻は、すぐに硬いものにぶつかって、それ以上先へ進むことが出来なくなった。

 方向を変えてみても、同じだった。一度、酷く鼻をぶつけてしまい、キィキィ泣いた。

 それで、闇は痛いものだとわかった。

 数日後、眼が開いた《彼》は、闇の中に一箇所だけ明るい場所があることに気づいた。そちらへ進もうとすると、今度は、大きな前足に転がされた。

 何度やっても、母狼は、そっと《彼》を転がした。弟や妹に対してもそうだった。ころころと転がされるたびに、鼻や頭をぶつけ、彼等はまたキィキィ泣いた。

 痛みは恐怖に結びつき、子ども達は、そちらへは行かない方がいいのだと察した。

 けれども、母狼と同じ姿をしたもの――父狼は、いつもその白っぽく輝く壁の中から現れ、ぶつかることなく、同じ場所へ消えて行った。母狼は、夫を止めようとはしなかった。

 これは、子ども達にとって『謎』だった。

 母狼は、父狼が運んでくるウズラやライチョウ、ウサギを食べた。時には、ユゥク(大型の鹿)の大腿もあった。血の滴る肉の匂いは、心地よく子ども達の鼻をくすぐったが、まだ食べることは出来なかった。

 穴の中は暖かく、彼等は満ち足りていたが、やがて、最初の飢えがやって来た。吹雪が続き、父狼は獲物を捕らえられなくなり、母狼の乳が出なくなったのだ。

 穴の外の、ごうごうという風の音を聞きながら、仔狼たちはじっとして、一日の殆どを眠って過ごした。

 そして、妹は目覚めなくなった。


 吹雪が止んだ朝。母狼は、子ども達を置いて巣穴を出た。木の根が掴む土の下から這い出て、一度伸びをすると、雪に覆われた西向きの斜面を下り、小川へ向かった。

 雪の表面は、うすく凍りついていた。彼女の足掌の肉球は、やわらかく体重を支え、音をたてなかった。

 彼女は、獲物の匂いと足跡を求めて、岸辺を歩いた。

 太陽は、やっと地平線の彼方から戻って来たばかりで、重なり合う木々の枝の向こうから、弱々しい光を投げかけていた。うす紫色の雲が天を覆っている。

 頭上を影が走った。見上げると、灰色のリスが一匹、枝の上からこちらを見下ろしていた。身体の二倍もあるふわふわの尾が、誘うように揺れている。

 牝狼は、口の中に唾が溢れ出るのを感じたが、跳んでも届きそうにないと判断すると、リスを放って歩き出した。

 上空では、鷲が一羽、輪を描いて飛んでいた。やはり、獲物を探しているのだ。

 しばらく行くと、牡狼が駆けて来た。彼は彼女の鼻の匂いを嗅ぎ、口を舐めて親愛の情を示したが、牝狼は、鬱陶しそうに首を振って歩き始めた。

 牡狼は、彼女の後をついて行った。

 木々の根元や茂みの下では、ところどころ、草が芽を出していた。雪は大地を覆い、日差しを反射して煌いている。透明な氷の下で、チョロチョロ音を立てて小川が流れている。

 動くものの姿は乏しかった。二頭の狼は、肋骨の浮き出た腹を喘がせながら進んだ。

 急に、牝狼が足を止め、大地の匂いを嗅ぎ始めた。牡狼も同じことを始めた。ウサギの足跡を追って駆け出そうとした二頭の目の前で、突然、黒いものが跳ね上がった。

 牡狼は、驚いて後ずさりした。弓形にしなった枝が、危うく鼻を叩くところだったのだ。その頂上には、灰茶色のウサギが一羽、足を捕らえられ、さかさまにぶら下がっていた。

 死んで間もない肉の匂いがする。

 牡狼は、興奮して唸った。すぐに跳び付いてウサギを咥えたが、また枝に鼻を叩かれそうになり、びっくりして放した。ウサギは彼の上で、嘲るように上下した。

 牝狼は、牙を剥き出してつれあいを退けると、ウサギを咥え、ぐいと引っ張った。木の枝がついて来たが、構わずに、獲物を前足で押さえつけた。彼女は、ウサギの後足を捕らえている皮ひもに牙を当て、切ってしまった。

 木は、再び跳ねて元に戻り、先には空になった皮ひもが垂れ下がった。

 牝狼は、その場でウサギを食べ始めた。牡狼は、彼女に先を譲り、後から分け前に預かった。

 だが、痩せたウサギ一羽程度では、彼等は満足することが出来なかった。

 狼達は飢えていた……。特に、授乳中の牝は、食べても食べても食べきれない気分で、だらりと舌を出して喘いだ。渇きを癒そうと、ウサギの血の沁みた雪を口に含んだが、その場しのぎにもならない。

 彼女は、やおら天を仰ぎ、声を限りに吼え始めた。召集の合図だ。

 牡狼も、すぐ、それに参加した。



 ――その声は、澄んだ大気を震わせて、山々に木霊した。

「……なんだ、あれは?」

 そりに座って背中を丸めていたマシゥは、怪訝に思って顔を上げた。

 空ろな低音から切り裂くような悲鳴へと、一気に駆け上がる長い叫びは、聞く者の原初の記憶を呼び起こし、項から肩にかけての毛を、ぞわぞわと逆立たせた。首をめぐらせても、姿は見えない。

 声は、尾根から尾根へと響きあい、その数を増していった。

 彼の隣で焚き火に手をかざしていた男も、顔を上げた。

「ルプス(狼)でさぁ」

「ルプス?」

 喋ると、凍った髭がバリバリ音をたてそうだ。吐く息に含まれる水分が、霜となって口の周りと外套の襟にこびり付いていた。

 案内の男は、苦い声で言った。

「この辺りの連中は、そう呼んどります。群れを集めとるんでしょう。」

 マシゥが観ると、犬たちは、耳と尾を立てて風の匂いを嗅いでいる。多くは威嚇するように牙を剥き出して唸ったが、中には尻尾を後足の間に巻き込んで、ぐるぐる廻り始めるものもいた。

 犬使いの男は、その様を見て舌打ちした。

「冬場は、奴等は腹を空かせているんで、群れでユゥク(大型の鹿)を襲うんでさぁ。――ユゥクやら、オロオロ(地リス)やら。時には、迷った犬もやられます」

「犬も?」

 ひゅうっと荒野を吹きぬけた風が、エゾマツの枝に降りていた霜を飛ばし、灰青色の空に細かな光の破片を散らした。

 男は立ちあがり、客人を促した。

「急ぎましょう、ダンナ。日が暮れる前に、砦に入った方がいい。一度奴等に目をつけられたら、逃げ切れるもんじゃありやせん」

「…………」

 マシゥは、外套の肩に付いた霜を払い落とすと、橇に乗り込んだ。犬使いは、ユゥクの腸で作った長い鞭を、びゅるんと振った。

 犬たちは、煩い声をあげて走り出した。途端に、見えない無数の氷の針と化した向かい風が、マシゥの頬を刺す。彼は身体をいっそう縮め、外套の襟を縁取る毛皮に鼻を埋めた。

 マシゥは、南の暖かい地方から来た。

 海辺の平野に住むエクレイタの民は、徐々に耕地を拡げ、この北の地へやってきた。湖の沿岸に町を造り、流れ込む川の河口に砦を建てた。――熊など野獣との接触に、備える為だ。

 森の奥に、彼等の知らない、言葉も風習も異なる人々が暮らしていると判ったのは、ごく最近のことだ。マシゥは、王の命で彼等の許へ使わされた、友好の使者だった。

 橇は、凍った湖を左に見ながら進んで行った。積もった雪の間から、ところどころ、枯れた草や木の枝が突き出している。湖面は蒼白く広がり、対岸は灰色に霞んでいた。

 右側には荒野があり、その向こうには、暗い針葉樹の森が続いている。

 マシゥが再び外套の襟をかきあわせた時だった。

 突然、色のない視界に、紅いものが飛び込んできた。冠のような大角を持つ、見事な牡のユゥクだ。目を瞠る彼の視線の先で、ユゥクは、雪を掻き分けて湖の方へ走って行った。

 後から、黒い影が追いかけて来た。

 犬は走り続ける。後ろを振り返り、マシゥは、声を出さずに影を数えた。

『一、二、三……四、五、六……。』

 ユゥクは、既にかなり走らされていたのだろう。吐く息は荒く、脚はふらついていた。遂に、雪の深いところに蹄をとられて、動けなくなった。六頭の狼は、彼の周囲を跳び回り、唸り声をあげた。

 狼たちがパクッパクッと空を噛む度、白い牙が輝き、音がマシゥのところまで聞こえてきそうだった。

 犬たちは、一心不乱に橇を牽いている。

 ユゥクは角を振って闘ったが、狼たちは、彼の後足の ひかがみ(膝裏の腱)を噛み切り、あっという間に倒してしまった。

 血しぶきがあがり、ユゥクの断末魔の声が響いた。腹が破られ、むき出しになった内臓が、雪の中で鮮明に浮かびあがる。骨の砕ける音が聞こえ、唸り声をあげて襲い掛かる狼たちの頭上に、湯気がたちこめた。

 マシゥは、思わず、胸の前でレイム神(光の神)の紋章を描き、護句を唱えた。

「なんと、惨い……」

「そうですか?」

 男は素っ気なかった。犬に鞭を当てながら、しわがれた声は、苦笑を含んでいた。

「あっしは、何とも思いませんがね。あっし等がパンサ(麦)や野ウサギを喰うように、奴等だって、喰っていかなきゃならんでしょう」

「…………」

「ユゥクがいなけりゃ、襲われたのは俺たちです。感謝こそすれ、惨いなんて思いません」

「…………」

 マシゥは黙っていた。南の豊かな土地に比べ、殺伐としたこの自然に情けを期待するのが無駄だということは、理解しているつもりだったが。

『大変なところへ来てしまったな……。』

 胸の中で呟く。この過酷な地で暮らすのは、どんな人々だろう、と考えた。

 彼の不安を嘲るように、狼たちの勝鬨の歌が、朗々と響いた。



 久しぶりに腹いっぱい食べた狼の夫婦は、満ち足りた気分で巣穴に戻った。群れの仲間は、先年産んだ彼等の子ども達だ。まだ子育てを行わない若い狼は、狩りの際に合流し、子育てにも参加する。

 群れは、母狼を中心に纏まっていた。

 数日後、生き残った二頭のちび達は、巣穴から出ることを許された。

 彼等の両親は、どちらも狼に一般的な黄褐色の毛皮に覆われていた。生後間もない仔狼は、大人より黒っぽい毛をしているものだが、最初に生まれた牡の仔は、全体的に白く、瞳は深い藍色をしていた。

 仲間はどうとも感じていなかった。大切なのは、同胞であることを示す匂いだからだ。

 二頭のちびは、大人達に守られて、生まれて初めて観る雪のなかを跳ね、駆け回り、互いにもつれあってころがっては、ぱっと離れることを繰り返した。白い狼の仔の毛皮は、日差しを反射して、きらきら銀色に輝いた。

 母狼は、子ども達に乳を与える間、満足げに目を細めていたが、時折、その黄金色の瞳には、鋭い光が宿っていた。


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