第一章 狼の仔(5)



          5


 ゴーナ(熊)狩りの朝は、よく晴れて、冷え込んだ。凍ったオコン川の表面から、川霧が立ち昇り、乳白色の吐息で森を浸した。

 その霧に隠れて、アロゥ族の狩人たちは、みそぎを行った。

 ゴーナは、山を支配する偉大なテティ(神)であり、狩りは、神を村に招く神聖な儀式でもある。失礼がないようにしなければならない。

 この一年間、身内に不幸がなかった者、病気をしていない者、行いの正しかった者が選ばれて、身を清める。二十数人の若者の中には、ビーヴァとエビと、ニルパも含まれていた。

 川岸に集まった男たちは、裸になり、積もった雪を手に取って、身体に擦りつけた。普段衣に覆われて日焼けしていない部分の肌が、瞬く間にあかく染まる。若者たちは、お互いをこすり合い、雪玉をぶつけて笑い合った。

 ナムコ(村)の女たちは、禊を見てはならないことになっている。

 やがて、興奮が去り、羽根をむしられたライチョウさながら小さなぶつぶつがいっぱい肌に湧くと、男たちは衣を羽織った。イラクサの繊維で作られた白い衣の襟と袖口には、悪霊が入って来ないよう、魔よけの紋様が縫い取りされている。

 彼等は、急いで自分の家に帰ると、炉傍に腰を下ろし、ウオカ(焼酎)を飲んで震える身体を温めた。

 今度は、女たちが、男たちの髪を梳く。

 男の髪に触れることを許されているのは、他氏族から嫁してきた女たち――妻、母親、或いは兄嫁――だけだ。タミラは、雪を溶かして酒を垂らした水にシラカバの櫛を浸すと、ビーヴァの髪を解いて、少しずつ丁寧にくしけずった。

 こびりついていた汚れが落ち、彼の黒髪が艶やかに輝き始めるのを、ラナは、目を丸くして見守った。

 居心地悪くなって、ビーヴァが言う。

「……あんまり、じろじろ見るなよ」

 ラナは、白い狼の仔を抱いて、微笑んだ。

「だって、珍しいんだもの」

 あの日から、ルプスの仔は、ビーヴァの家で暮らしている。ラナは、毎日会いに来ていた。若い娘が男の家に入るのは異例だが、まだ髪を二つに分ける(女性が成人すること)前であり、タミラは彼女の母代わりでもあるので、長は容認していた。

 ルプスの仔は、今は、大人しく少女に抱かれている。

 髪を梳かれている間、動くことが出来ないビーヴァは、困惑気味に鼻の頭を掻いた。手早く息子の髪を束ねて、タミラはわらった。

「お父様(長)の髪結いを見る機会は、少ないだろうからねえ。お前、見せて差しあげなさい。ちょっとくらい、何だい」

「…………」

『別に、俺でなくてもいいじゃないか』と、ビーヴァは思ったが、逆らわないでおくことにした。

 母は手を休めず、生まれてから一度も切ったことのない息子の髪を、再び一本の辮に編み直した。それから、着物と同じ紋様を縫い取りした頭巾を彼にかぶせる。最後に、ウオカを口に含み、軽く髪に吹きかけた。

「さあ。もう、動いていいよ」

 腰の帯を締めなおして立ち上がる義兄を、ラナは、溜息を呑んで見上げた。

 狩りに行く時の男たちは、普段よりいっそう凛々しく見える。女たちが心をこめて縫った衣装が、真剣な表情をひきたてるのだ。

 ビーヴァは、黙々とユゥクの毛皮の脚絆きゃはんを穿き、外套を羽織った。手甲をつけ、矢筒を負い、スルク(毒)を入れた木函とマラィ(刀)を腰に提げる。息子を、タミラも、得意げに眺めた。

「誰か、お前に手甲を縫ってくれる娘が、いないものかねえ……」

「……行って来ます」

「待って、ビーヴァ。私も行く」

 今日は かんじきではなく、底にオロオロ(地リス)の毛皮を貼った滑り板(ミニ・スキー)を持って行く。勿論、ソーィエも一緒だ。

 ビーヴァの後を、ラナはセイモアを連れて、うきうきとついて行った。



 広場の中心には、大きな火が焚かれ、村人たちが集まっていた。

 火の前に設けられた祭壇に、真新しいイトゥ(神幣)とモミの枝が飾られている。選ばれた若者たちは、その前に並んで座っていた。

 ビーヴァは、似た装束に身を包んだエビと挨拶を交わし、彼の隣に座った。牽綱を使って、ソーィエを傍らに引き寄せる。赤毛の相棒は、ぴんと耳を立て、胸を張って炎を見詰めた。

 留守を守る者達が、広場の周縁に坐している。セイモアを抱いたラナと、タミラもやって来て、加わった。

 白い狼の仔は、場の雰囲気に気圧されて鼻を鳴らしたが、少女が、ビーヴァの姿が見えるように抱きなおし、声をかけると、鎮まった。

 長がウオカ(酒)と干したホウワゥ(鮭)の身を降りかけると、炎は、ぼうと音を立て、長い腕を天に伸ばした。

 年配の男たちが、丸太を叩き、トレン(板琴)を鳴らして歌い始めた。


  ポヤン レルヌグォ ポヤン レルヌグォ (速く叩こう 速く叩こう)

  トゥグル ホグングォ トゥグル ホグングォ (火の周りで 火の周りで)


 湖岸に打ち寄せる波のように、声は低くうねり、重なりあい、何度も繰り返した。

 その伴奏に合わせて、長は歌った。


     大いなる天の娘、火の女神よ

     おんみが養い子の声を 聞きたまえ

     災いがなきよう 守りたまえ

     モミとサルヤナギの木立を歩いていく

     彼等の足元を照らしたまえ


     山のひと、森のひと、風のひとびとよ

     おんみが兄弟の道を 示したまえ

     滑らかな心でいられるように

     モミとサルヤナギの木立を歩いていく

     彼等によからぬ考えを抱かせぬように


「プルシュヌギン クゥイヌィギン テヤグァル ウル ヴィヤ!(モミとサルヤナギの木立を歩いて行け!) 

 タ ウィキラン クォグル イヴル、クォグァル ヴィヤ!(よからぬ考えを抱かず、滑らかな心で歩いて行け!)」

 ビーヴァ達は、長に続いて唱和すると、立ち上がり、モミの緑枝を女神に捧げた。揺らめくあかい炎の中で、小枝は ぱちぱちと弾け、小さな金色の花を咲かせた。

 それから狩人たちは、一人ずつ長に挨拶をして、広場を後にした。ナムコのはずれで、仲間が追いつくのを待ちながら、チコ(皮靴)に滑り板を括りつける。

 彼等は、モミとイトゥで飾った大型の橇に、自分達の食糧を載せた。帰りは、この橇に、ゴーナを載せて戻るのだ。

 数人の男たちが、犬と共に橇を牽き、他の者は、各々の武器を手に、滑り板に乗って出発した。

 目指すのは、アムナ山。ビーヴァが『悪霊に憑かれたゴーナ』と出遭った場所だ。

 ――セイモアの家族が殺された場所だった。



 狩人たちが出発した後も、村人たちは、歌い続けていた。丸太を叩く音が、徐々に速く、大きくなる。

 ゴーナとルプスとユゥクの毛皮をかぶった男たちが、槍を手に、祭壇の前に進み出て、テティ(神)を表す舞いを踊った。

 トレン(板琴)のやや擦れた音が、木々の梢を震わせる。女たちは手を叩き、声をそろえて、舞いを助けた。

 その中には、ラナもいた。

 若者たちが狩りに出かけている間、ナムコに残る者たちは、歌や踊りを行う。天気の良いときは外で、夜は長の家に集まって、彼等が戻るまで物語を続ける。雪や風のテティをなだめ、仲間の身を守るのだ。

 だから――木を打ち、トレンを鳴らして歌う男たちも、女たちも真剣だった。一つに重なった声が、緋色の炎の縁を揺らし、凍りついた風を震わせる。

 人々の昂揚した意気が、渦を巻き、青空へと昇るのを、ルプスの仔は、ぞっとしながら眺めていた。

 なんだ、これは。何故、こんな大きな音をたてるのだ?

 丸太を叩く音は、《彼》の頭の中で反響し、弦を弾く爪音は、全身の毛を逆立たせた。《彼》の一族とも犬の一族とも違う、尻尾の無い獣たちの吼える声は、圧倒的な力で、《彼》の五感をふさいでしまった。

 目が回る。胸の中で、心臓が、ばくばく音をたて始める。

 小さな狼の仔は、耳を伏せ、牙を剥いて唸った。きゅんきゅん泣いて助けを求めたが、少女は聞き入れてくれなかった。

 大人しくさせようといっそう強く締めつける彼女の腕の中から、仔狼は跳び出した。

「あっ、だめ!」

 身体を左右に揺らして歌う女たちの足元を、ルプスの仔は、怯えながら駆け抜けた。途端に、ぱちぱち音を立ててそびえる光の壁に、ぶつかりそうになる。

 熱にひるむ《彼》の上に、黒い影が覆いかぶさった。

「セイモア!」

 ゴーナの毛皮を纏った男が、立ちすくむルプスの仔を踏み潰しそうになったので、ラナは悲鳴をあげた。歌い続ける女たちの列を掻き別けて、前へ出ようとする。

 隣にいたタミラが、怪訝そうに振りむいた。

「どうなさったのです? ラナ様」

「…………!」

 返事をしている余裕はない。

 男の振り上げた足の影から、セイモアは、ぱっと跳びさがった。牙を剥いて唸ろうとする《彼》に、今度は、ルプスの仮面をかぶった男の槍が迫る。

 セイモアは、巨大な化け物の群れに囲まれている気がした。

 ぶううん、ぶううんと風を切る槍の穂と、ドンドコドンドコ、ひっきりなしに続く丸太の音に、《彼》は、我を忘れた。

「何だ? どうした?」

 ようやく異変に気づいた長が、足元を見下ろした時。影の谷間をすり抜けて、仔狼は、広場の外へ駆け出していた。そのまま、放たれた矢のように、踏み固められた雪道を走って行く。

 ラナには、茫然と、その後姿を見送ることしか出来なかった。

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