第三章 真の王(6)



          6


 ビーヴァは、キィーダ(皮舟)を担ぎ、黙々と山の斜面を登っていた。シラカバの林を抜け、オミの巨木を迂回し、ベニマツの木立を進む。キィーダの舳先へさきで木々を傷つけないよう、慎重に。いつしか、毛皮の外套は脱いでいた。

 自分たちの食糧を背負ったソーィエは、尾を高く揚げ、主人の横に並んでいた。セイモアが、その後ろを、マシゥを振りかえりながら進む。木の枝をわたるリスの足音やツグミの声に、時折 耳をそば立てる。

 マシゥは、恐縮していた。ビーヴァに申し訳ない、と思う。左腕が使えず、片脚をひきずっている彼は、荷物をせおうことが出来ない。ユゥクに乗らなくて済むのはありがたかったが、杖をついた状態では、青年に遅れないようにするだけで精いっぱいだった。

 南西へうつる太陽を追いかけていたビーヴァは、木立の間からロマナ湖を眺められる場所へ来ると、足をとめた。傍らでは、ソーィエが、ハッハッと荒い息をついている。相棒が口の横から舌をだしているのを見て、ビーヴァはマシゥを振り向いた。

「休もう」

 チクペニ(エンジュ)の杖にもたれていたマシゥは、青年の言葉に、ほっとした。セイモアが、嬉しげに跳ね、ぱふぱふ尾を振る。

 ビーヴァは、マシゥの側に戻って来ると、キィーダを足元に置き、ブドウツルの袋もおろした。ベニマツの幹に片手をあて、いつも通り、休憩の許しを請う。

 マシゥは待っていられず、その場に座り込んだ。そうして、ニヒル(引腰)の有用性に気づく。――なるほど。水をはじく毛皮を腰に巻いていれば、地面がぬれていても座れるし、寒さを防ぐことが出来た。

「スマナイ。速かったか」

 マシゥの眼前に、水のはいった木筒が差しだされた。受け取りながら、マシゥは、申し訳なさそうな若い瞳に微笑みかえした。

「いや。私の方こそ、すまない。荷物が重いだろう?」

 水を飲んでマシゥは噎せ、さらにビーヴァの顔をくもらせた。ソーィエとセイモアの息もあがっているところを見れば、速すぎたことはあきらかだ。

 ビーヴァは、二匹の頭に両手をのせ、撫でてから立ち上がった。

「ソーィエと、休んでいてくれ。ゴーナ・テティ(熊)が歩きまわっているから、気をつけて」

「ああ。……って、ええ?」

『ゴーナ?』

 さらりと恐ろしいことを言われ、マシゥはぎょっとした。ビーヴァは、すでに身を翻している。

「セイモア、来い!」

 若狼は、白銀色の毛皮を陽光にきらめかせ、滑るような足取りで、ビーヴァの後を追った。

 忠実なソーィエは、マシゥの傍らに腰をおろすと、頭をあげて主人たちを見送った。舌をしまい、ちらりとマシゥを見る。琥珀色の影を宿した瞳が、『動くなよ』というように彼を見据え、つと、そらされた。

 マシゥは、自嘲気味に苦笑した。赤毛の犬の肩に手をのせ、かるく撫でる。ソーィエは微動だにせず、彼のするに任せていた。


 樹間がひらき、頭上には青空がひろがっていた。日差しには、夕暮れの気配が含まれている。風が、木々の枝を揺らし、さわさわと音をたてた。遠く、ロマナ湖が見える。水面が光を反射して、きらきらと輝いていた。

 マシゥが水を飲んでいると、どこからか、フンフンという声が聞こえてきた。ソーィエが、耳をぴんと立てて立ち上がる。マシゥは不安になり、《彼》の視線の先を追った。

 ゴーナではなく、セイモアだった。

 若狼は、茶色いもふもふの毛の固まりをくわえ、興奮気味に鼻を鳴らしながら、斜面を登って来た。藍色の瞳が、得意げに光っている。ソーィエは、そちらに駆けだそうとしては戻ることを繰りかえした。

 セイモアの後ろから、ビーヴァが姿を現した。マシゥに、片手を挙げて合図する。

 ソーィエが、ぴょんと跳ねた。まっすぐ主人を見詰め、尾を振る。ビーヴァは挙げていた手を下ろし、相棒の頭にのせた。揺さぶるように撫でると、ソーィエは甘えて鼻を鳴らし、気持ちよさげに眼を閉じた。

 セイモアが、毛の固まりを地面に置き、くわえなおす。マシゥは眼をみはった。

「ウサギか?」

「そうだ。でも、セイモアの獲物だよ。俺は、これ」

 ビーヴァは悪戯っぽく微笑むと、上着の袖に手を入れ、木の実をつかんで取り出した。鮮やかな赤や紫や、青色をしたキイチゴだ。スグリに、スイカズラの実もある。ビーヴァは、マシゥの手にそれらを載せると、もう一方の袖をさぐった。懐からも、ばらばらとこぼれ落ちてくる。

 マシゥは感嘆の声をあげた。

「凄いな!」

 短時間のうちに、ウサギといい、キイチゴといい――彼らの能力には、驚かされるばかりだ。

 大げさに感心されたビーヴァは、照れくさそうにキイチゴを口に含んだ。強い酸味に顔をしかめ、笑いだす。マシゥも、甘酸っぱい実を味わった。

 ソーィエは、キイチゴには、おざなりの興味しか示さなかった。やはり、肉が気になるらしい。セイモアの胸や肩についた血を、しきりに舐めている。

 セイモアは、ウサギをビーヴァの足元に置き、彼の掌に鼻を押しあてた。クンクン鳴いて、気をひこうとする。

「お前の好きなようにすればいいんだぞ、セイモア」

 ビーヴァは、マシゥの常識からは信じられないことを言った。狩犬ではないルプス(狼)の獲物を、とりあげるつもりはないらしい。

 しかし、セイモアとソーィエは、勝手に食べようとはしなかった。おとなしく、ビーヴァの采配を待っている。

『いい犬たちだ』マシゥは思った。否――仲間たち、と言うべきか。

 ビーヴァは肩をすくめると、ウサギの頭に片手をかざした。

「イエンタ・テティ(狩猟の女神)の契約にしたがい、なんじの身をもらいうける。……迷うことなく、汝が父祖の道をたどってゆかれんことを――」


 木の実をまとめて袋に入れ、ウサギを懐へしまい、ビーヴァは立ち上がった。

「歩けるか? マシゥ。ここからは、下りだ。日が沈むまえに、ロマナ(湖)に出たい」

「大丈夫だ。行こう」

 休憩したおかげで、元気がでた。マシゥは、荷袋のひとつを運ぶことを申しでた。ビーヴァは、少し心配そうにしていたが、かえってマシゥを恐縮させると考え、軽めの袋をあずけることにした。

 ソーィエが先にたち、ウォンと吼えた。ビーヴァは、キィーダをかつぎ直した。先ほどより、ゆっくりした足取りで歩いていく。

 荷袋を肩に負うマシゥの後ろを、セイモアが護っていた。



 コアッ、コアアッ! 


 ――甲高い声をあげて、二羽、三羽と、ワタリガラスが頭上を飛んでいった。

 ベニマツの梢では、ツグミたちが群れをなして、短く鳴き交わしている。

 きれいに並んだマガンとコハクチョウが、湖の上空を横切っていった。


 マシゥが鳥たちを眺めていると、ビーヴァが説明した。

「雪が降りはじめる前に、南へ向かうんだ。春になったら、戻って来る。……俺は、ロマナ(湖)の南には、鳥のナムコ(国)があると思っていた」

 実際に住んでいたのは、エクレイタだったわけだ。マシゥは、微笑んだ。

 丈の高い草が生いしげる湖畔を、ビーヴァは、落ち着かない様子で歩いていた。ソーィエとセイモアも、地面に鼻をこすりつけ、しきりに嗅ぎまわっている。

 マシゥは首をかしげた。

「どうした? ビーヴァ」

「……ここは、ゴーナの縄張りだ」

 ビーヴァは、山のテティ(神)をはばかり、小声で言った。

「最近、来た痕がある。出合いたくはないな……」

 大いに賛成だった。

 ビーヴァは、水辺に近いひらけた場所にキィーダ(舟)を置いた。小石を集め、拾ってきた小枝と樹皮を積みあげる。アムナ山の石を打って火を熾し、ウオカ(酒)をあたため始めた。シム団子(芋の団子)をふたつ、焼けた石のうえに並べる。

 マシゥは手伝ったが、青年の手際があまりによいので、役にたったかは疑問だった。

 ビーヴァは、倒木に腰を下ろすと、黒曜石の刀をとり出した。セイモアが獲ってきたウサギの皮を、剥ぎ始める。切り分けた肉の半分を、セイモアとソーィエに与えると、二匹は嬉しそうにかぶりついた。ムサ(人間)の分は、小枝に刺して火であぶる。

 太陽は山々の向こうへ去り、辺りは急に薄暗くなった。冷たい風が吹いてきて、マシゥは外套の襟を合わせた。ロマナ湖から、森へと視線をめぐらせる。

 ワイール族のナムコ(集落)の明かりが見えないか。テサウ砦やニチニキ邑から、炊事の煙は上がっていないか。――探したが、どこにもそれらしいものは見えなかった。

 マシゥの意図を察したのだろう。ビーヴァが、コチョア(胡桃)の実を齧りながら言った。

「サルゥ川からだいぶ離れたから、ここからワイールのナムコを見つけるのは、無理だ」

「そうなのか?」

「シャナ族とロコンタ族のナムコも。方向が、違う。……マシゥ、貴方は、キイーダ(舟)の中で眠れるか?」

「ええ?」

 唐突な問いに、マシゥは瞬きを繰り返した。以前、トゥークとともに川をさかのぼったことを思い出す。あの時は、夜は岸辺で寝ていた。川では無理だが、湖ではどうだろう?

「……出来なくはない、と、思うが――」

 やろうと思ったことは、ない。

「ゴーナ・テティに会いたくない」

 ビーヴァは、焼けたウサギの肉をマシゥにすすめた。

「食べたら、キィーダで出よう。俺が漕ぐから、貴方はやすんでいてくれ。」

「私も漕ぐよ」

 マシゥは微笑んだ。

「片腕でも、出来ることはある。そんなに気を遣わないでくれ、ビーヴァ。これは、私の旅だ。来てくれただけで、嬉しいんだよ」

「…………」

 ビーヴァは、やや戸惑った表情をした。無言で、ウオカ(酒)を口へ運ぶ。

 本当に――マシゥは思った。何度、一緒に旅をしただろう。森では足手まといにしかならない自分を、ビーヴァは、いつも思い遣ってくれている。当たり前の顔をして。――きっと、思い遣っている自覚もないのだろう。青年のそういう優しさを、マシゥは、得がたいものと感じていた。

 いつか、気持ち以上のものを返したかった。


 焚き火が消えると、辺りは、濃い紫の闇につつまれた。ビーヴァは外套を着なおし、キイーダを湖に運んだ。

 ソーィエは、恐れることなく、真っ先に舟に乗り、舳先へ腰を下ろした。まるで、最初から自分の場所を知っているように。

 マシゥは、舟のなかに坐り、荷物をかかえた。ビーヴァは、キィーダを湖へ押しだし、途中から乗り込んだ。

 セイモアはかなり迷っていたが、舟の上からビーヴァが呼ぶと、意を決して跳び乗った。おかげで舟はぐらぐら揺れ、怯えたセイモアは、ビーヴァの膝の間にもぐりこんだ。

 男たちは、櫂をつかって岸を押し、舳先を沖へ向けた。ある程度の深さまで進んでから、漕ぎはじめる。

 とても静かな夜だった。

 凛と顔をあげて前方をみすえているソーィエ。ビーヴァの膝の間に座っているセイモアは、全く動こうとしなかった。男たちは黙って舟を漕ぎつづけたので、しばらくの間、湖面には、舟の木枠がきしむ音、水の跳ねる音、風の渡る音しかしなかった。

 やがて、互いの表情が判別できないほど、夜は濃くなった。

 ビーヴァが、ふと、櫂を止めた。

 キィーダは、しばらく湖面をすべっていたが、徐々に速度を落とし、ゆるやかに停止した。風はなく、波のない湖面に浮かぶばかりとなる。

 マシゥは怪訝に思い、青年を見た。

「マシゥ」

 ビーヴァは、櫂をふなべりに預け、囁いた。

「観て」

「…………!」

 促されて湖を眺めたマシゥは、息を呑んだ。

 夜の湖に、星ぼしが映っていた。濃紺の絨毯のうえに、雲母や水晶の石をならべ、銀の砂をばら撒いたようだ。見上げると、同じものがそこにあった。

 空と森と湖は、闇のなかで境界をなくし、ひとつづきになっていた。キィーダ(舟)は、そらに浮いていた。果てのない夜空を、小舟に乗って飛んでいる錯覚にとらわれる。

 魂を吸い込まれそうな心地がして、マシゥが呼吸をとめていると、ビーヴァが囁いた。

「貴方に、これを見せたかった」

「私に?」

 夜のとばりのむこうで、青年が微笑む気配がした。

「ロマナが凍ってしまうと、観ることが出来なくなる。曇っても、風が吹いていても駄目だ。貴方は、運がいい」

「…………」

 マシゥは、何と言えばよいかわからなかった。

 ビーヴァは、櫂の先をそっと夜空に差しいれ、ゆっくり漕ぎはじめた。星ぼしは、ゆらりと波に揺れ、それでも輝きつづけていた。

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