第四章 波濤(はとう)の彼方

第四章 波濤の彼方(1)



          1


 うす灰色の空から、剥がれおちるように、雪が降って来た。ハヴァイ山から吹きおろすハァヴル(西風の神)にあおられ、ひらひらと舞う。

 ロコンタ氏族長とシャナ氏族長が、ワイール族のナムコ(集落)を発つ日がきた。アロゥ氏族とワイール氏族の、戦いに参加しない女たち、老人たち、子どもたちを連れて行く。当初のとりきめ通り、食糧となるユゥク(大型の鹿)を数頭のこしていた。

「必ず、迎えに戻る。それまで無事でいろ」

 見送るキシムに、カムロ(シャナ族長)は宣言した。角の先を切った牡ユゥクの背に乗り、人々の先頭を行く。

 ロコンタ氏族長は、姪であるラナに一礼して、ユゥクに跨った。トゥークを一瞥し、ワイール氏族長には、片手を挙げて挨拶する。ワイール氏族長は、精悍な顔をひきしめ、片手を挙げてこれに応えた。

 カムロたちが去ると、ナムコは急に静かになった。ワイール氏族長は、残った五十人ほどの男女に向きなおり、指示した。

「我々も、発つとしよう。仕度をしろ」

 人々は、武器や食糧の準備をするため、動きはじめた。

 キシムは、ワイール氏族長の隣にいた。彼の視線の先には、並んでたたずむラナとトゥークがいた。カムロたちの去った方を、所在なく眺めている。

 キシムは、小声で話しかけた。

族長おさ――」

「あれ(トゥーク)の母親は、ロコンタ族長とともに行った」

 苦い口調だった。氏族長は、顎先にたらしたとがった髭を撫で、低い声でつづけた。

「……自分の息子は、二人とも死んだと思うことにする。と言っていた」

「そうですか……」

 無理もない、とキシムは思った。ディールは死に、トゥークは刺青を入れていない。くらい目をしたあの男にやどる憎しみを、母親は感じとったのかもしれない。

 キシムは、騎乗用のユゥクの手綱をひいて、ラナに近づいた。

「ラナ様」

 少女は、細い肩をすくめるように立っていた。振り向いた顔が、白くこわばっている。

「オレのユゥクです。乗ってみますか?」

「……いいの?」

 ラナの頬が、ぱあっと明るくなった。不安に曇っていた瞳に、少女らしい輝きが宿る。

 キシムはうなずいた。

「どうぞ。オレがついていますから、大丈夫」

 同じ森の民でも、ユゥクに騎乗するのは、ロコンタ族とシャナ族だけだ。ラナは嬉しげに、ややこわごわと腕を伸ばし、ユゥクの肩にしがみついた。キシムが彼女の腋をささえ、のぼらせる。

 トゥークは、ユゥクから数歩はなれて、その様子を眺めていた。

「わあ」

 ラナは、ユゥクの肩に跨り、首にまわした縄にしがみついて、溜息まじりの歓声をあげた。高い位置から、周囲をぐるりと見渡す。

 キシムは、思わず微笑んだ。

「大丈夫ですか?」

「平気よ」

「動かしますよ」

 キシムは、ユゥクの手綱を短くもって歩きだした。ユゥクは、少女の重さに動じることなく、首をめぐらせる。歩きはじめると、ラナは小さく笑った。

 ラナを乗せたユゥクの後ろを、ワイール氏族長が歩き、さらにその後ろをトゥークがついてくる。槍や弓矢を携えた男たち、食糧を抱えた女たちが続いた。


 サルゥ川に沿って南西へ。一行は、サルヤナギの多い森を進んだ。ラナがユゥクに慣れた頃をみはからい、キシムは話しかけようとしたが、きっかけがつかめなかった

『シャム(巫女)のことを、教えてほしい。』と依頼されたが、これまで、キシムがラナと話す機会は殆どなかった。常に、トゥークが傍にいるからだ。ラナを監視しているのだろう。

『今もだ……』 キシムは、そっと嘆息した。

「あの」

 かぼそい声がきこえ、キシムは顔をあげた。ラナが、彼(彼女)の足元を見て、遠慮気味に手をさしのべている。

「ああ。こいつですか?」

 キシムは、足元をちょろちょろしていたスレインをつかまえた。首根っこをつかみ、ぶらさげる。ラナは眼を瞠った。

 キシムは、少女の前、ユゥクの肩の上にスレインを置いた。

「貴女の犬?」

「ええ。あいのこです」

「あいのこ?」

 ラナは、掛け布からずり落ちそうになった仔犬を、慌てて支えた。スレインは、警戒して身をかたくしたが、うなることはなかった。

 キシムは、横目で仔犬を眺めつつ説明した。

「母親は犬、父親はルプス(狼)です。オレの氏族に、犬をたくさん飼っている爺さんがいて、牝の一頭があいのこを産んだというので、譲ってもらったんです」

「名前は?」

「スレイン。牝ですよ」

「スレイン(紅い風)……」

 ラナは、夕日に染まったような金赤毛の仔犬の背をなでた。スレインは、くすぐったそうに首を振った。ラナは微笑み、《彼女》を抱きよせ、懐かしげに言った。

「私にも、ルプスがいるの。ビーヴァと一緒に、行ってしまったけれど」

「白い奴ですね。セイモア」

 キシムは、ふと思いついて言葉をつなげた。

「ラナ様。セイモアのマムナ(真の名)をつけたのは、ラナ様ですか?」

「そうよ」

 ラナは、軽くおどろいて、キシムを見た。

「どうして、それを――」

「しばらく、そいつを使わないでやってくれますか?」

「え?」

 ラナは、瞬きをくりかえした。キシムの口調は気やすく、何気ないが、眼差しが極めて真剣なことに気づいたのだ。

「普通のムサ(人間)なら、そんなことにはなりませんが……シャム(巫女)の巫力ちからは、マムナによって相手のテティ(霊魂)を縛るんです。急に動けなくなったら、困るでしょう」

「…………」

 思いがけないことを言われ、ラナは呼吸をとめた。澄んだ黒曜石の瞳が、すばやく考えをめぐらせる。小声でくり返した。

「マムナによって、テティを縛るの? 動けなくなるの?」

「そうです。セイモアはラナ様のマムナを知らないので、均衡が保てません。……覚えていませんか? 貴女を探しに行ったはずだ」

 ラナは、宙を見詰め、想いだそうと努めた。右手は、スレインの頭を撫でている。やがて、或る出来事に思い至り、慎重に答えた。

「……あの時。セイモアは、犬たちに追われて、逃げていたわ……」

「シャマン(覡=ビーヴァ)がいたからです」

 キシムは、表情を変えなかった。世間話をするように――なんでもないことのように。だが、声をひそめ、早口に告げた。

「シャマンは、ルプスに憑依していた。だから、逃げることができた。……でも、危険です。相手のテティの承諾なしに、するものではない」

「…………」

 ラナは、黒い瞳を大きく開け、キシムの言葉の意味について考えた。


 少女にとってキシムは、自分のいない間にビーヴァの傍に現れた、見知らぬ女性だった。自分の知らないビーヴァ、シャマン(覡)のビーヴァを知っている……。現身うつしみを離れて彷徨っていたラナの霊魂をはらい、元に戻してくれたのも、彼女だろう。

 シャム(巫女)としては、先輩だ。

 タミラ亡きいま、自分に必要な人物だということは理解している。だが、正直どう接すればよいか解らず、戸惑っていた。

 先刻、彼女(彼)はなんと言ったか……。ビーヴァが、セイモアに憑依して、テサウ砦に来た。コルデに囚われた自分を、探すために――

『テティは、俺たちを見捨てない。』 

 ビーヴァの言葉を、思い出した。


「……キシム」

 ラナは、ゆっくりと、一語一語をたしかめるように言った。

「ありがとう、教えてくれて。……貴女は、憑依できるの?」

「オレには無理です」

 キシムは肩をすくめた。

「シャム(巫女)には、例がない。霊魂をとばすだけでなく、生身のテティ(動物)に憑依となると……。聞いたことがあるのは、シャマン(覡)だけです」

「そう。特別なことなのね」

 ラナは、指を曲げてスレインの背中の毛を梳きながら、囁いた。

「セイモアに、悪いことをしてしまったのね、私。テティには礼を尽くすよう、タミラに言われていたのに」

 キシムは、かるく頭をさげて謝意を示しながら、この独白を聴いた。

「テティとムサは対等だから、使役してはならないと……ビーヴァも、言っていたわ……。私、セイモアに、私のマムナを伝えなかった。だから、なのね――」


           *


 一行は、途中、二度ほど休憩して食事を摂った。ラナは、ユゥク(大型の鹿)に乗っている間も食事中も、ずっとスレインを抱いていた。キシムはラナの傍らにいて、言葉を交わした。少女は、この男装のシャム(巫女)に、次第にうちとけていった。

 トゥークは、彼女たちのやや後ろを無言で歩いた。キシムが注意して様子を伺うと、ずっとラナを見続けているのが判った。

 夕暮れ。サルゥ川の下流にひろがる森で、彼らは足を止めた。

 ワイール氏族長は、仲間たちに声をかけた。

「今宵は、ここで休むとしよう。明日には、ロマナ(湖)へ着く。奴らの棲みかも見えるだろう。みな、気をつけて。ゆっくりやすんでくれ」

 人々は互いに挨拶をすると、各々の寝場所を定めるため、木立の中へ入って行った。

 ラナのために、新しいチューム(円錐住居)が組みたてられた。ラナは、キシムにスレインを返し、ワイール氏族長に挨拶して、そこへ向かった。トゥークが、影のように彼女について行く。

『奇妙だ』 

 二人を見送り、自分のための寝場所を探しながら、キシムは歯がゆさを感じていた。

『ラナ様は、何故、あいつを退けない……?』

 二人きりでチュームにこもる時、そこで何が行われているか、分らないキシムではない。

 ラナが真にビーヴァを慕っているのなら、トゥークは邪魔であるはずだった。エクレイタ族のナムコ(集落)に囚われていた頃ならともかく、ここにいるのは味方だ。ひとこと、ラナが嫌だと言えば、キシム達は動く。

 ワイール氏族長も、トゥークの身柄を預かることに、否やはなかろう。

『……それなのに。何故?』

 キシムは声を出さず、内心で呟いたつもりだった。故に、突然 返事が聞こえたときは、かなり驚いた。

《愚かだからだ》

「…………!」

《未熟なのだ……。私をびだすことは出来るのに、声を聴くことが出来ない。恐れているからだ》

「誰だ?」

 キシムの声は、かすれた。足元のスレインも、連れてきたユゥクも、不安げに鼻を鳴らした。


 長い栗色の髪を背に流し、黒い瞳をした、背の高い女だった。ユゥクの腹仔はらこの白い長衣をはおり、両の頬には、炎と生命の樹の刺青を入れている。――シャム(巫女)の装束だ。鳥の羽根やギョクの飾りのついた袖口から、刺青を施した手首がのぞいている。

 女は、腕組みをして、シラカバの木の下に佇んでいた。キシムの問いには答えず、底光りのする瞳で、じろりと彼(彼女)を見遣る。

なんじには、私の声が聞こえているようだな。シラカバの眷族のシャムよ》

「……先代の巫王(ラナの母)、ですか?」

 キシムは、ごくりと唾を呑みこんだ。生前にまみえた記憶はないが、咄嗟に、そうとしか考えられない。

 女は、切れ長の眼をすうっと細めた。

《そうであったこともあるが。私は、祖先のテティ(神霊)たちと同化している。母であった記憶はない》

 眼を伏せ、無念そうに繰り返した。

《あの娘は、私の声を聴くことが出来ない。テティの声を、聴こうとしないのだ》

「何故?」

《恐れているからだ》

 女は瞼を上げ、まっすぐキシムを見詰めた。

《テティは、ムサ(人間)に都合よく在るものではない。裏切ることはないが、味方もしない。……代償なしにまもることはなく、たすけることもない》

「…………」

《事実を、あの娘は、受け入れることが出来ない。故に恐れ、迷い、憎しみに囚われる。……あの男から離れられないのは、その為だ》

「男……。トゥーク?」

 女は肯き、暗い声で言った。

《アレが、娘と同質の者だからだ》

「同質?」

 キシムは、強く眉根を寄せた。『どういう意味だ……?』


 帰還したトゥークをひとめ見た時、キシムは、彼をケレ(悪霊)だと思った。ムサ(人)とテティに対する、強い憎しみを感じたからだ。ラナの傍らにいることで彼女の感情を支配し、氏族を戦いへ向かわせている。

 トゥークが目指しているものは、女たちの救出でも、エクレイタ族を去らせることでもない。森の民と、エクレイタ族と、テティ(神霊)……この世界に在るもの、すべての破壊だ。

 ラナはケレに憑かれていると、キシムは思っていた。だが、そうではなく……ラナ自身が、同質の者に成り下がっていると?


 ぞっとするキシムに、女は、やや哀しげに言った。

《憐れな娘だ》

「…………」

《未だ守護霊(テティ)を持たぬ者……。自身をつくりかえ、真の王をみつけよ、と、私はあの者に告げた。世界を変えなければ、我らは滅ぶであろう》

 ふいに、女は右手をあげ、キシムの頬に触れた。体温のない霊魂の掌は、現身うつしみに触れることはないはずだったが、ひやりとした。

 息を止めるキシムの眼をのぞきこみ、女は続けた。

《シャム(巫女)のつとめは、テティとムサをつなぐことであるのに。あの者の眼は、ムサの憎しみによって塞がれた。我らを恐れ、声を聴こうとしない》

「…………」

《シラカバの娘よ。汝には出来るか? 真の王を連れて来ることが》

「……オレには出来ません」

 出来ないという言葉は使いたくなかったが、キシムには、こう応えるしかなかった。

「それは、テティがラナ様に与えた役目。なら、オレがしても意味がないのでしょう?」

《……さとい娘だ》

 女は、うすく笑った。血の気のない唇が嘲笑のようにゆがみ、すぐ消えた。キシムから手を離し、身をひるがえす。消えるのではなく、数歩はなれ、シラカバの梢を仰いだ。

 キシムは考えこんだ。

 先王の言う《真の王》とは、誰のことだ? よもや、トゥークではなかろう。……ビーヴァは、ラナが産まれる以前に産まれたのだから、先王は、彼のことを知っていたはずだ。ビーヴァの巫力を知り、彼がシャマン(覡)になると予知していたのなら――

 キシムは、女の背に問いかけた。

「何故、ラナ様なのです?」

 キシムは、少女を憐れに思った。痛ましい。――両親に先立たれ、乳母を殺され。シャムとして何も解らないまま、コルデに囚われた。傷つき、辱められ、今もトゥークに囚われている。祖霊は少女に、さらに重い責任を負わせるのか、と。

 女は、彼(彼女)に横顔をむけた。

《私には、わからない。我々が、この血に巫力を宿す理由など。……テティ(神々)が選び、テティが決める。汝は知っていよう》

「ラナ様でなければいけないのですか? 他に、ふさわしい者がいないわけではないでしょう」

《……汝が誰のことを言っているのか、わからなくはないが――》

 ふいに、女はキシムを見てわらった。黒い瞳の表面を、稲妻のごとく緋色の光が煌めいた。

《――かの者は、我らのもの。とっくに、我らテティ(神霊)のものだ。……ムサ(人)の王たることは出来ぬ。あの娘には代えられぬ》

 高らかな哄笑をのこし、女は、粉雪のように崩れた。風に吹かれて渦をまき、またたく間に吹き散らされる。

 キシムは、女が去ったあとのシラカバを、茫然と見詰めた。彼(彼女)の耳には、先王のことばが、いつまでも響いていた。

《かの者は、テティのものだ。ムサには、渡さぬよ……!》


          **


「う……あぁ……」

 チュームの床に重ねられた毛皮の上に、どさりと身を投げ出され、ラナは呻いた。はだけた長衣の隙間から、刺青のはいった胸と、しろい内腿がのぞいている。息も絶えだえな彼女には構わず、トゥークは、さっさと身支度をととのえ、チュームを出て行った。

 やがて、ラナは身を起こし、長衣の襟を寄せ合わせた。肩をおとし、溜息をつく。

「…………」

 夜となく、昼となく。いたわりも、まして愛情もない。トゥークは、単なる欲望のはけ口として、ラナを扱った。毎日のように辱めを受けながら、ラナは、これは罰なのだと感じていた。

 罰だ。彼女たちがどんな目に遭わされているのか知らないまま、ニレやハルキ、ロキたちに守られていた。テティの声を聴くことが出来ないのに、シャム(巫女)として守護されている自分の、罰なのだ。

 ビーヴァは行ってしまった。けがれた身で、シャマン(覡)になった彼と生きることは出来ない。死んだ父王にも、会わせる顔がない。

 だから、

『……死のう』

 そう、ラナは思っていた。

『この戦いが終わったら。ニレやロキたちを、救い出すことが出来たら』

 もう、生きている理由はない。死んで、この身をテティ(祖霊)に返そう……。


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