第三章 真の王(5)
5
見送りなどいないはずの旅立ちだったが、カムロは、なごり惜しげにくりかえした。
「途中まで、ユゥク(大型の鹿)で送るぞ、使者どの」
「いえ、ありがとうございます。カムロ」
「本当に、二人だけで大丈夫なのか?」
放っておけば、自分も一緒にいくと言い出しかねない。見かねたキシムがたしなめた。
「凍る前のロマナ(湖)なら、ユゥクより、キィーダ(小舟)の方が速い。いい加減にしろ、カムロ」
「…………」
若き氏族長は、不承不承 口を閉じたが、今度は腕をのばし、マシゥの首をぐいと抱えた。
「……気をつけていかれよ。それと、先日の俺の言葉を忘れるな」
マシゥは息をつまらせ、咳こんだ。カムロは腕をはなし、彼の傷ついていない方の肩をたたいた。
「嫌なことがあったら、すぐ戻ってこい。シャナ族は、いつでも貴公を歓迎する」
「はい……ありがとうございます」
ありがたい話だが、手放しで喜ぶことはできない。マシゥは、ぎこちなく微笑んだ。無事に故郷へ還れるかどうかも問題だが、歓迎されるとは限らないのだ。まして、使命を果たせるかは。
荷づくりをしていたビーヴァは、手をとめ、ふたりを見た。しかし、結局なにも言わず、作業をつづけた。
秋の日はみじかい。準備をはじめたのは昨夕からだが、すでに日は南天を過ぎていた。
ソーィエは、ななめに降りそそぐ陽光に赤みがかった毛をふくらませ、耳と尾をぴんとあげていた。主人が肩に荷物をくくりつけるのを、誇らしげに、じっと待っている。
生粋のルプス(狼)であるセイモアは、荷を運んだり、橇を牽いたりという仕事には向いていない。スレイン(キシムの仔犬)のようにふざけることはしないが、ビーヴァとソーィエの仕度を、興味深げにながめていた。
スレインは、二匹の間を跳ねたり、羽虫をおいかけたり、キシムの皮靴にじゃれついたりと、いそがしい。
ビーヴァとマシゥは、使っていたチューム(円錐住居)を片付けた。ワイール氏族長は、ふたりにキィーダと食糧を用意してくれた。氏族長自身は、ラナとトゥークとともにいて、見送ることは出来ない。ロコンタ氏族長も。キシムが止めたのだ。
キシムは、二人をできるだけそっと旅立たせたかった。止めたにもかかわらず、カムロがやってきて騒ぐので、苦笑していた。
「ほら、もういいだろう。ナムコ(集落)に戻れ」
「俺も見送る。使者どのとは、もう逢えないかもしれないんだぞ」
「お前がいると、目立つんだよ。ケレ(悪霊)の気をひかないよう、静かにできないか」
早口に囁かれ、ようやく、カムロは黙った。
ソーィエに荷を着けて、ビーヴァが立ち上がる。ブドウツルを編んで作った袋を肩に負い、マシゥを見た。
青年のよそおいは、森の狩人の正装だ。魔よけの炎のふちどりを施した魚皮製の上着に、なめした革の
一本に編んでまとめた黒髪は、腰にとどくほど長い。
胸元には、マシゥと分けた
きれいに髭を剃った頬に描かれた鮮やかな炎の刺青と、涼しげな黒い瞳。青年の個性であるしなやかさは、出合った頃と少しも変わらず、近頃は精悍さも加わり、いっそう凛々しかった。
「…………?」
マシゥが惚れ惚れしていると、ビーヴァは、怪訝そうに首をかしげた。
「いや、何でもない」
マシゥは、自嘲気味に苦笑した。
この地で最初に会った森の民は《犬使い》だが、彼らを象徴するのはビーヴァだった。……しずかで、深くひろい。北の森のような、と思う。その厳しさも優しさもすべて受けとめ、まっすぐに生きる彼等を、何度うらやましく感じただろう。ビーヴァとほぼ同じ服装だが、狩り道具はなく、杖をついている自分が、ひどく惨めな存在に思われた。
マシゥの感概にはかまわず、キシムが声をかけた。
「出来たか。行くか?」
「ああ」
キィーダ(舟)の底板を叩いて強度をたしかめ、ビーヴァは頷いた。キシムを見て、カムロに一礼する。
カムロの声は、力強かった。
「後はまかせろ」
ビーヴァは無言で頷き、キィーダを担いで歩きだした。ソーィエとセイモアが、嬉しげについていく。一緒に歩きだしたスレインは、キシムの腕に抱きとられた。
「お前は、留守番だ」
「……いろいろと、ありがとうございました。行ってきます」
迷ったが、マシゥの挨拶は、こうなった。『行って来る』と――戻ることを意識したわけではないが、それが最もしっくりくると感じた。
カムロは片手を挙げ、短くこたえた。
「おう」
キシムの口調は、やや沈んで聞こえた。
「気をつけて行け……」
マシゥは、もう何も言わず、踵を返した。先を行くビーヴァ、立ち止まってこちらを待ってくれているソーィエとセイモアを、追いかける。
ビーヴァは、振り向かなかった。軽いが身長よりながいキィーダを脇にかかえ、シラカバやサルヤナギの木にぶつけないよう、慎重にすすんで行く。セイモアと、食糧を背にくくりつけたソーィエは、マシゥがついて来ていることを確認すると、主人の足元を、先になり後になりながら歩いた。
*
二人と二匹が木立の中へ消えていくのを、カムロとキシムは、並んで見送った。キシムは、腕に抱いたスレインの顎を、指先で掻きながら。カムロは、片手を腰にあて、重心を片方の脚にうつす。
エクレイタ王に直訴してコルデの暴走を止めるというマシゥの策を、二人は、ほとんどあてにしていなかった。彼が故郷に還りつくまえに、戦いは始まるだろう。テサウ砦とニチニキ邑の連中が去ったとしても、ワイール氏族とアロゥ氏族のひとびとは、この地に留まることは出来ないだろう。
それほどに、彼らが負った傷は深い。
スレインを足元におろしながら――キシムは、気持ちがふさぐのを感じた。ビーヴァが留守の間、ラナを見守るのが、自分の役目だと思う。けれども、全く気が進まない。
『壊れている……』と、キシムは思った。
王(アロゥ族長)は死に、シャム(巫女・ラナ)はケレ(悪霊)に憑かれ、ワイール氏族長は盟約を破棄した。森は壊され、テティ(動物たち)は棲みかをうしない、彷徨っている。
そこいらじゅうに、嘆きと怒りのこえが満ちているようだった。
テティ(神霊)の掟にしたがい、生命の循環のなかで、森の民は生きてきた。厳しくはあっても、怨みや憎しみとは縁のない暮らしであったはずなのに。いつから、こうなってしまったのだろう。
森も人の心も壊れていくなかで、ビーヴァがビーヴァであることが、キシムには、救いのように思われた。母を喪っても憎しみに囚われず、友と離れても哀しみに溺れることはない。ラナが変わってしまっても――。
テティがテティであるように。ビーヴァは、常にビーヴァだった。生きることの本質を見失わないからこそ、シャマン(覡)なのかもしれない。
「さて」
カムロが、肩をすくめて声をかけた。
「俺たちも、仕度をするか」
「……そのことだが。カムロ」
彼らは、ワイールとアロゥ氏族の女性と子どもたちを連れて、この地を離れる予定だった。キシムの言わんとすることを察し、カムロは穏やかに言った。
「
整えた口髭をなで、首をかしげる。
「お前は、シャナ族の巫女だ。ハヴァイ(山)の向こうでも、お前の
キシムは、眉間に皺をきざんだ。カムロの言うとおりだ。ロコンタ族、シャナ族をはじめ、森の民の大半は、山の向こうへ避難する。安全な場所をみつけ、新たなナムコ(集落)を築かなければならない。氏族長はもちろん、シャム(巫女)のちからは必要だ。
だが……ビーヴァが去ったいま、あのラナを独りにしてよいのか。キシムは迷っていた。
カムロは、首を一方へかたむけたまま提案した。
「一度ナムコへ帰り、俺たちと一緒にハヴァイ山を越えてから、戻って来るというのはどうだ?」
「いや。カムロ――」
反論しかけたキシムは、ギクリとして口を閉じた。カムロの背後の灌木をゆらして、ラナが現れたのだ。数秒後、ベニマツの影に現れたトゥークに、一瞬ディールの面影をみて、キシムはぞっとした。
彼(彼女)の頬がこわばったことに気づき、カムロは振り向いた。
「シャナ族長」
ラナは、キシムをちらりと見遣ってから、話しかけた。
「ビーヴァを見かけませんでしたか? 私の……
「ああ」
カムロも、ラナの後ろにいるトゥークを見た。氏族長は表情を変えることなく、淡々と答えた。
「ビーヴァなら、今、行ったところだ」
「行った?」
途端に、少女の顔が不安にくもる。すばやく左右に瞳を動かし、ふるえる声で問い返した。
「どこへ?」
「マシゥを――使者どのを送って、エクレイタ王のところへ」
「…………!」
少女の呼吸が止まった。眼をみひらき、さあっと蒼ざめる。両手を胸の前に組み、項垂れた。
「そう……」
キシムは、彼女が泣きだすのではないかと心配したが、そうはならなかった。耐えるように眼を閉じ、溜息をつくと、改めてキシムを見た。
「貴女は――」
カムロが紹介した。
「キシム。シャナ族のシャム(巫女)です」
キシムは、軽く頭をさげて挨拶した。
ラナは、探るような眼差しをキシムにあて、繰り返した。
「シャム、なの。シャマン(覡)?……いつから?」
「シャム、です。そこの――」
キシムは、顎でトゥークを示し、わざとぶっきらぼうに言った。
「――刺青のない男が、ワイール氏のナムコ(村)を追放された年から、です」
『憶えているか?』
ためしたつもりだった。ディールの弟、トゥークが、当時の自分を憶えているかどうか。しかし、トゥークは何も言わず、顔色は変わらず、試みは失敗に終わった。
ラナは、神妙な表情でキシムの言葉の意味をかんがえていたが、ゆっくり口を開いた。
「キシム……貴女に、頼めるかしら」
「なんですか?」
「今の私には、シャムとして必要なことを、教えてくれる人がいません。……母は、私が産まれて間もなく死んでしまった。タミラ(乳母・ビーヴァの母)と父も、殺されてしまった」
「…………」
「キシム。貴女さえよければ、私といて。シャムのことを、教えてほしい」
キシムとカムロは、互いの顔を見遣った。気懸りではあったが、ラナ本人からこう言われると、かえって躊躇われた。トゥークが傍にいるとなれば、なおさらだ。
しかし――
キシムは、軽く嘆息した。カムロが、頑張れ、と言うように彼(彼女)の肩に片手を置く。巫王の依頼を、断る理由などない。
それに。ラナと相対したことで、キシムには解ったことがあった。
『凄い巫力だ……』
さすが、森の民を統べる巫王の娘、というべきか。いるだけで、ラナの身体から放射されるちからを感じ、キシムは息をひそめた。ビーヴァの巫力も強いが、それ以上だと思う。光のように空間に満ち、波のようにうち寄せる。自分では気づいていないのか、無意識で、制御できていないのはあきらかだった。
放置しておくわけにはいかない。
「……わかりました」
キシムは、ゆっくりと頭を下げ、応えた。
「ありがとう。よろしく、キシム」
礼を言うラナと、無表情にこちらを見据えるトゥーク。ふたりを眺めながら、キシムは、内心で肩をすくめた。
苦行になる予感がした。
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