第二章 森の民(3)



          3


 エビは、犬を使ってニルパを捜した。村の傍を流れるオコン川を渡り、北西の方角へ、森の中をしばらく行ったところで、友を見つけた。

 ニルパとアリは、同じベニマツの木の枝で、並んで首を吊っていた。

 エビは二人を下ろすと、キツネやネズミに齧られないよう、ユゥク(大型の鹿)の毛皮で覆い、雪をかぶせておいた。自殺した者は、悪霊を呼び寄せてしまうので、ナムコに運び入れるわけにはいかない。その場所で葬らなければならないのだ。

 ビーヴァは、数人の仲間と一緒にそこへ行き、遺体を掘り出した。二人の顔は、苦しんでも悲しんでもいるようではなく、安らかだった。

「…………」

 ビーヴァは、無言で友の亡骸なきがらを見詰めた。凍った土気色の身体に触れても、信じられない。悪い夢を見ている気分だ。

 立ち尽くす主人の靴を、ソーィエが、鼻先で突っついた。それから、フンフン鼻を鳴らしながら前へ出て、ニルパの匂いを嗅ぐ。彼が動かないと分かると、しょんぼり尾を下げた。

 あたたかく湿ったものが、ビーヴァの掌に押し当てられた。振り向くと、セイモアが、彼の指を舐めていた。

 ラナがそっと近づいて、外套の袖の上から、彼の腕を掴んだ。

「ラナ」

『ついて来たのか……』という言葉を、ビーヴァは呑み込んだ。

 少女の頬は、透けそうなほど白くなっていた。黒い目を大きく見開いて、遺体を見ている。

 エビが再び覆いをかぶせようとすると、低い声が遮った。

「よい。私が連れてきたのだ。見せてやってくれ」

 長が、ニルパとアリの遺族を連れて来た。テイネの姿はない。タミラと友人の女たちが、慰めているのだろう。

 長は、娘の背中に片手を当てた。

「ラナも、いずれ、つとめを果たさなければならない……」

 テティ(神々)に祈りを捧げ、その声を聴くだけでなく、葬儀を司り、死者の魂を導くのも、シャム(巫女)の大事な役目だ。――少女は、こくりと頷いた。それでエビは、毛皮をかけるのを止めた。

「ご苦労だったな、エビ」

 長からねぎらいの言葉をかけられたエビは、軽く一礼したが、表情は硬いままだった。

 生きていればいろいろと文句もあったろうが、故人となってしまっては仕方がない。心痛を抱えた遺族は、お互いに身を寄せて、遺体の傍に坐した。

 しめやかな泣き声が起こるなか、ビーヴァたちは、火葬のための台を作り始めた。

 死者の魂は、火の女神によって浄化され、テティの国へ送り届けられる。こういう死に方では、幾年か地底を彷徨わなければならないが、罪はきよめられるだろう。

 エビが斧を振るい、二人の命を奪ったベニマツを切り倒す。火花を散らすカラマツの木は避け、シラカバとサルヤナギの枝と樹皮を積み上げる。

 その間に、遺族は、二人の身を清め、外套を裏返しにして着せた。死後の世界では、全てが逆になっていると考えられているからだ。二人が普段使っていた器と匙、櫛とマラィ(刀)、弓と矢も、割ったり折ったりして、遺体に添えた。壊すことで、物に宿るテティ(魂)を、ともに葬るのだ。

 誰も、口をきかなかった。大人たちが粛々と働くさまを、ラナは、セイモアを腕に抱き、父と並んで見守った。


 準備がととのう頃には、太陽は、西の山のにさしかかっていた。うす紫に染まった雲から、やわらかな光が、ななめに降り注ぐ。重なり合う木々の陰から、闇が滲み出ようとしていた。

 恋人たちを一緒に焼くことに、反対する者はいなかった。

 長が火を放つと、改めて、女たちの間から嗚咽がもれた。男たちの中にも、鼻をすする者があった。

 長は、イトゥ(神幣)を捧げ、二人を無事に連れて行ってくれるよう、女神に祈った。

『何故だ? ニルパ』

 ごうと燃える炎を見詰めながら、ビーヴァは、もはや応えのない問いを、胸の中で繰り返した。怒りとも悲しみとも違う、重い疲労が、身体を浸していた。

『どうして……』

 狭いナムコでは、隠し通すことは出来ない。まして、これから子どもが産まれるニルパの立場では、赦されるはずもない。――そう、思いつめてしまったのか。

 二人きりで、森で生きていく自信がないから、死後に添い遂げようと考えたのか。最初から、死ぬつもりで森へ入ったのか……。

 疑問は次から次へと心に浮かんだが、今となっては、全て虚しく感じられた。

「イングとリングゥンのようだな」

 ぼそりと、エビが呟いた。掠れた声だった。彼の頬は窪み、目の縁に隈が出来ている。髪も乱れ、普段の溌剌はつらつさが嘘のような姿が、痛ましい。

「カチクとリィヤもいたな……。遺された者がどんな気持ちでいたかは、伝えられていないが」

「…………」

 エビが挙げたのは、どちらも、許されない恋情に苦しんだ挙句、命を落とした古の恋人たちだ。

 ビーヴァは、相聞歌の一節を思い出した。

 イングとリングゥンは、母親の違う弟姉だった。相思相愛だったが、イングに娘を与えたくないリングゥンの両親は、しきたりどおり、彼女を他の氏族へ嫁がせた。若者は、彼女を慕うあまり、病気になってしまった。


  死の床で、イングは歌う――

     ああ、リングゥン。姉さん、貴女のことしか考えられない。

     もう、起き上がることが出来なくなった。

     夜も昼も眠れず、食べることが出来ない。

     貴女の幻を追って歩くと、胸が痛み始めた。


     ウィーイイーウィイ、愛しい人よ。どうすればいい?

     川の上下を眺めても、何も見えない。

     貴女のことしか頭に浮かばない。


     夢を見た。

     六人の漕ぎ手に、貴女を迎えに行ってもらった。

     ああ、貴女が帰って来たのに。もう、起き上がることが出来ない。

     俺は貴女を想いながら死んでいくが、

     貴女の方も、俺を想ってくれているのだろうか?


  若者の枕辺で、リングゥンが歌う――

     ああ、イング。弟よ、私も貴方のことを想っていたわ。

     でも、逢いに来ることが出来なかった。

     私を遺して逝くなら、私の小指を切って、持って行って下さい。

     貴方の左の胸に添えて、ともに燃やしましょう。


     ウィーイイーウィイ、私も、貴方の後で死ぬでしょう。

     一人残される苦しさには、耐えられない。

     貴方の後から、すぐ逝くわ。


     貴方の墓の上で。

     ユゥクの腱の糸で、首を吊りましょう。

     ああ、私が貴方を追っても、この歌は残りますように。

     私たちの代わりに、生き続けてくれますように。

     祈って命を絶ちます……



 イングは死に、リングゥンは歌の通り、彼の墓の上で首を吊った。

 カチクとリィヤの方は、それぞれ結婚していて、妻子と夫がいた。氏族内での不倫を責められ、並んで首を吊ったのだ。

「…………」

 ビーヴァには、何も言えなかった。

 逃げ出した恋人たちの中には、十数年間、森の中で隠れて暮らし、許されてナムコへ戻った例もあると聞く。イングのように病に罹ったのであればともかく、二人で死を選ぶ気持ちは、やはり、理解しにくい。

 そうして……友が死んだというのに……。考えれば考えるほど彼等のことが解らなくなる自分が、どうしようもなく心の貧しい者だと思えて、苦しかった……。

 ふうーっと、エビは、長い息を吐いた。顔を上げ、夕暮れの空に昇っていく煙を仰ぎ、呟いた。

「まさか、自分が立ち会うことになるとは、思っていなかったな……」


          *


 二人を土に埋めて、全てが終わったのは、もうすっかり辺りが暗くなった頃だった。

 人々は、悄然として帰途についた。エビの掲げる松明が、一同の足元を照らす。緋色の光の環を、ソーィエが踏んで行く。ビーヴァは、長の隣を歩いた。ラナは父の後に従い、セイモアは、ずっと少女に抱かれていた。

 仔狼は、ときどき欠伸をしていた。

 ナムコに入ると、遺族は長に挨拶をして、そっと闇の中へ去って行った。

 タミラが家の前で、息子を待っていた。長を見て、丁寧に頭を下げる。ソーィエが、元気よく尻尾を振った。

 それまで黙っていたラナが、声をかけてきた。

「ビーヴァ。……大丈夫?」

「え?」

 心配そうにこちらを見上げる少女を、ビーヴァは、怪訝な気持ちで見下ろした。それから、自嘲気味に苦笑する。

『どうやら俺は、自分で思っている以上に、まいっているらしい……。』

 セイモアも、藍色の瞳をぱっちり開けて、彼を見詰めている。ビーヴァは、仔狼の額を撫でた。

「預かっていてくれないか?」

「え」

「俺、明日、エビと一緒に、テイネを送って行くから」

 これを聞くと、エビは、長と顔を見合わせた。エビの頬に、疲れた微笑が浮かんだ。

「頼もうと思っていた……」

 ビーヴァは微笑み返そうとしたが、頬が強張っていて、上手く哂えなかった。

 ラナは、軽く肩をすくめた。

「いいわよ。セイモアが、それでいいならね」

 ルプスの仔は、既に二度、少女の腕から逃げ出している。今度も、素直に留守番をしてくれるとは限らない。

 長の表情が和らいだ。二人の青年を交互に見て、言った。

「……二人とも、今日はご苦労だった。明日に備えて、ゆっくり休んでくれ」

「ビーヴァ、また明日な」

「ああ。おやすみ、エビ」

「おやすみなさい、ビーヴァ。タミラも」

 挨拶を交わし、親子と友が去っていくのを、ビーヴァは、母と並んで見送った。セイモアは、ちょっと不安そうだったが、大人しくラナに抱かれて行った。


「お前、エビと一緒に行ってくれるのかい」

 息子とともに家に入りながら、タミラは、溜息交じりに言った。まるで、実の娘を案じているようだ。

「ありがとう。テイネは心強いだろうよ」

 ビーヴァは、そんな母をちらりと見遣ったが、黙っていた。

 たぶん――青年は考えた。――テイネのためでも、エビのためでもない。

『自分のためだ……。』

 森の民にとって、死は珍しいものではない。毎年、ナムコで生まれた子どもの何人かは、育たずに死んでいる。事故や病気で、大人も死ぬ。狩りは生き物を殺す行為であり、その意味が解らないほど子どもではない。

 だが……何かが、友の死を、受け入れがたいものにさせていた。この死は異質だ、と感じた。

 彼等の習慣では、病者が死に瀕すれば、家族は床に寄り添い、決して一人きりにさせないようにする。ゴーナと戦って傷を負ったビーヴァの父も、妻と息子に手を握られて、息を引き取った。

 ユゥクやライチョウの足跡を追うとき、弓弦を引き絞るとき……ビーヴァはいつも、相手の息遣いを感じていた。仕留めた瞬間の手ごたえ、脈打つ血管のぬくもり。鼓動。喉から洩れる、最期の吐息を。

 魂が去り、身体が徐々に冷えていくのを、確かめてきた。

 ところが……ニルパは、一緒に狩りに出かけ、振り向いたらいなかった。次に会ったときには、凍りついていた。

 何かが、おかしい。

 大切なものを忘れている気がした。これで終わりだとは、どうしても、納得出来ない……。

「…………」

 炉の前に胡坐を組んで考え込んでいる息子に、タミラは、声をかけなかった。酒をあたため、シム(芋の団子)と肉の汁を器に入れる。

 ふと、ビーヴァが顔を上げた。

「母さんは――」

「え?」

「……何でもないよ」

『父さんが死んだとき、氏族の許へ帰りたいとは、思わなかったの?』

 と、問いかけた言葉を、ビーヴァは、口に出すのは止めた。望んでもいないことを訊ねて母を試すような真似は、したくなかった。

 喩え、母代わりとなった娘(ラナ)の行く末を案じたためだろうと。長との間に、密かな思慕が存在している所為だろうと。――それが、何だと言うのか。

 今の自分の境遇に、不満があるわけではない……。

 ビーヴァは、黙って食事を始めた。



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