第二章 森の民(2)



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『どうして、逃げなければならないんだろう?』

 ニルパの逃亡を知ったビーヴァが最初に考えたのは、このことだった。

『何故、好きな人と一緒に暮らすために、氏族から離れなければならないのだろう……?』

 ナムコ(村)は、表面上は、いつもと変わらず穏やかだ。若者たちが狩って来たゴーナは、広場に建てられた小屋の中に安置され、分配されるのを待っている。孤児となった仔ゴーナは、先年子どもを亡くした女性に引き取られ、来年の夏至の祭りまで、大切に飼われることとなった。

 大切な客人(仔ゴーナ)に、見苦しいところを見せるわけにはいかない。

 長は、二人を連れ戻そうとは言わなかった。山や森は、テティ(神々)の領域だ。そこに入ったものは、テティの掟の下で生かされるべきであり、ムサ(人間)が干渉するところではない。

 森の民の、暗黙の了解だ。

 だが、ひそかに――ハッタ(梟)に追い詰められて、茂みの中で息をひそめるユキオウサギのように。村人たちの間には、動揺が拡がっていた。

 テティは、寛大なようでいて、厳しい。親を捨て、生まれてくる子どもと妻を捨てて、若い娘と一緒に逃げ込んだところで、優しく庇護してくれるわけではない。

 すぐに、困って帰って来るのではないか。或いは、もう死んでしまっているかもしれない……というのが、村の年寄りたちの意見だった。

 ビーヴァは、彼等の礼儀に従い、アリとは口を利いたことがない。どんな娘か知らないので、どうしてニルパがそんな危険を冒すのか、解らなかった。

 意識の湖面に投げ入れられた小石は、ゆるやかな波紋をつくり、青年の胸に、何度も疑問の波を打ち寄せた。

『何故?』


「母さん……起きてる?」

 深夜。毛皮を重ねた寝床の中から、ビーヴァは、そっと声をかけてみた。

「んー?」

 炉を挟んだ部屋の向こう側から、わりあい、はっきりした声が返って来た。母も眠れなかったようだ。

 寝返りを打って天井を仰ぎ、ビーヴァは呟いた。

「どうして、同じ氏族だと、結婚出来ないんだろう……?」

「…………」

 息子の疑問は予想できないことではなかったが、答えを用意していなかったタミラは、しばらく考え込んだ。

 しきたりには、それぞれ、理由がある。しかし、はっきり説明されることは少なく、禁忌が伝わっているに過ぎない。

「そうさね……」

 タミラの聡明さは、こうした問題でも、誠実であることを望んだ。彼女は、何気ない口調を心がけた。

「大昔は、禁止していなかったそうだよ。今のように、ムサ(人間)が、氏族ごとに別れて住んでいなかった頃はね」

「…………」

 ビーヴァは、ちらりと母を見遣った。それから、ユゥクの毛皮を引き寄せ、肩までかぶり直す。セイモアは、彼の傍らで、丸くなって眠っていた。

 タミラは、小声で続けた。

「昔……まだ、アムナ山が火を噴いていた頃。ムサ・ナムコ(人間の世界)には、争いが絶えなかった。男たちは、食糧や女たちを奪い合って、酷いことをしていたんだ。……父親が娘を犯したり、兄弟が幼い妹を奪い合って、殺しあったり」

「…………」

 ビーヴァは眉根を寄せた。同じ氏族といっても、彼が想像していたのは、ニルパとアリのような、血の結びつきの薄い関係だ。父が娘を……というのは、流石に、よくないと思う。

 母の声にも、溜息が含まれた。

「テティに対する礼もなかった。殺すことを楽しんで、ユゥクを沢山殺したり、ホウワゥ(鮭)を腐らせたりした。それで、とうとう、怒りに触れてしまった」

「…………」

「目の見えない子どもや、手足のない子どもが、産まれるようになった。病が流行り、人がたくさん死んだ。偉大な牙のテティは北へ去り、イェンタ・テティ(狩猟の女神)も身を隠してしまわれたので、ユゥクが獲れなくなった。……困った人々は、アムナ山に登って、お伺いを立てたんだ」

 神々の言葉を語る際、タミラの口調は、自然と重々しいものになった。

「ロカム(鷲)やハッタ、アンバ(虎)やルプス……大勢のテティが集まって、相談をした。モナ(火の女神)とスカルパ(雷神)も、イェンタ・テティもいらっしゃった。そうして、シャム(巫女)にお告げを授けて下さった。

 『ムサよ。お前たちは、殺し合い、多くのテティを傷つけた。二度とこんなことをしないと誓うなら、助かる方法を教えよう。……これからは、ひとつところに住まず、氏族ごとに離れて暮らせ。男は欲が深く、すぐ殺し合うから、王としてはならない。女のシャムを真の王とし、その言葉に従い、夫が民を率いよ。男は、同じ氏族の女には触れず、直接口を利いてはならない。狩りと、テティを祀ることに専念せよ。……女は、血をもって(婚姻をもって)氏族を繋ぎ、節を保ってムサを守れ。誓うなら、証を見せよ。』」

「…………」

「それで、人々は、誓いの印に刺青を入れて、呪いを解いてもらった」

 タミラは、深く、深く嘆息した。ビーヴァは、黙って耳を傾けていた。

「以来、同じ紋様の刺青を入れた者同士は、結婚してはいけないということになった。どんなに好き合っていてもね……。アロゥ族は、シャナやロコンタ、ワイールから。シャナやロコンタは、アロゥやワイールから……。そうやって、他の氏族から嫁を迎えて、血を繋ぎ、争いを避けてきたのさ」

「…………」

「だから……ニルパは、どうしてこんなことをしたんだろうねえ。テイネ(ニルパの妻)が可哀想だよ。たとえ戻って来ても、もう、一緒にいられないじゃないか。……子どもが産まれるってのに、我慢が出来なかったのかねえ……」

 最後の台詞は、長々と続く慨嘆へと変わった。テイネは、タミラと同じシャナ族から嫁いで来た娘なので、タミラの同情は深いのだ。

 ビーヴァは黙っていた。ゴーナ狩りの話をした時、ニルパが青ざめていたことを思い出す。無口で、滅多に人に気持ちを明かさない男だ。ひょっとすると何年も前から、悩み続けていたのかもしれない。

 彼等が狩りに出かけて、ナムコの人が減る時を、好機と考えたのだろうか。

「…………」

 ビーヴァは、己の頬に描かれた紋様に、指先で触れてみた。成人の日に刻まれた、契約の印だ。

 神々との誓いを破り、多くの身近な人々を傷つけ、悲しませて……。そうまでして、貫かずにいられなかった気持ちとは、どのようなものなのだろう? 温和だとばかり思っていた友の内に、そんなに激しいものがあったのか。

 恋をしたことがない青年には、想像することが出来なかった。自分には一生解らないかもしれないな……と思った。

 ふいに、母が鋭く息を呑んだ。不安げに訊ねる。

「お前、まさか――」

「違うよ」

 ビーヴァは苦笑した。

「大丈夫。好きな娘なんて、いないから」

 同族にも他の氏族にも、駆け落ちするような相手はいない。

 タミラは、ほっと息をついた。

「それはそれで、困るんだけどねえ……」

「…………」

 青年は寝返りを打ち、母に背を向けた。


           *


 ゴーナ(熊)の肉を分配する儀式のために、広場に集まった村人たちの表情は、暗かった。みな、途方に暮れている。ニルパとアリの家族に、どう接すればいいのか判らないのだ。

 当人たちも身の置き所がない様子で、広場の片隅に佇んでいた。

 しかし、儀式は行わなければならない。いつものように祭壇が組まれ、火がこされて、儀式が始まった。

 長は、モナ・テティ(火の女神)にウオカ(酒)を注ぎ、落ち着いた口調で祈りを捧げた。ゴーナの衣(毛皮)を脱がせるのは、年配の男たちの仕事だ。既に魂の去ったテティの胸に、黒曜石のマラィ(刀)を入れ、丁重に剥いでいく。男たちの取り分と、女たちの取り分とに、肉を切り分ける。

 歌や踊りはない。静かに、淡々と、作業は進められた。

 ラナは、セイモアをしっかり抱いて、緊張した面持ちで女たちの間に坐していた。

 ビーヴァは、こっそりエビの姿を探した。長の指示はなかったが、エビは、親友の身を案じて、森へ入ったのだ。

 肉の切り分けが終わり、ゴーナの頭にイトゥ(幣)を捧げると、長は、村人たちに向き直った。

「本来なら、みなで供食するべきだが……今日は、やめておいた方がよいと思う」

 何人かが頷いた。『食べる』という行為には、テティへの弔いと感謝がこめられている。だが、ニルパたちが欠けている状況では、宴を開くわけにいかない。

 長は、軽く嘆息して、続けた。

「ニルパとアリの家族から、取り分を辞退する申し出があった……。これをきよめるには、槍の主に、テティへ返してもらわなければならないが――」

「その必要は、ありません」

 穏やかな声が答え、人々は、一斉にそちらを振り向いた。狩り装束のエビが、村人たちの間を通って、長の前へ進み出た。

「…………」

 ゴーナを倒した槍の主は、ひざまずいて一礼すると、何事かを囁いた。長は瞑目めいもくし、そのまま黙り込んだ。

 そして、

「テイネ」

 暫くの後、目を開けた長は、ニルパの妻を呼んだ。人々の後方で、息を呑む音がした。

 エビは、顔を伏せている。

 長は片腕を伸ばして、彼女を招いた。

「ここへ……」

 ビーヴァは、不安な気持ちでエビの背中を見、それから、後方を見遣った。やがて、男たちの間から、ビーヴァの母に手を引かれて、お腹の大きな女性が歩み出た。

 テイネだ……。間近に見る妊婦の姿に、ビーヴァは、思わず目を瞠った。

 頭巾を被り、ゆったりとした裾長の外套で腹部を覆ったテイネは、慎重な足取りで前へやって来た。頬には、タミラと同じ木の紋様が描かれている。横顔はこわばり、疲労しているように見えた。無理もない……。

 タミラだけでなく、二人の同氏族の女たちが、彼女に付き添っていた。

 エビの隣まで来ると、テイネは立ち止まり、ゆっくりと、両膝をついて座った。長は、彼女に顔を上げることを求めなかった。エビを見て、テイネを見た長は、殆ど息だけで囁いた。

「テイネ……。ニルパに弟はなく、汝と汝の子を引き受ける権利を持つ者はいない。汝は、ここに残って新たな夫を得るか、生まれた氏族の許へ帰るか、どちらでも好きにしていい。自由に決めるが良い」

「…………」

 この言葉に、テイネは頷いたが、顔は上げなかった。

 ビーヴァは、息を殺した。彼等の習慣では、妻子もちの男が死ぬと、残された妻や子は、死んだ男の弟が相続する(だが、兄の側は、弟の妻のことを考えてはならない)。男の方が、狩りや災害で死ぬ機会が多いためだが――長がこれを言い出したということは、ニルパは死んだということか……。

 ビーヴァは、さあっと血の気が引く思いがした。


「……氏族の許へ、帰らせていただきます……」

 テイネは囁き、頭を下げた。細い声だった。――綺麗な声だな、と、ビーヴァは思った。

 タミラと付き添いの女たちも、一緒に頭を下げた。

「そうか……」

 長は頷いた。安堵と憐憫のこもった吐息が、人々の間からも洩れた。

 長は顔を上げ、改めて告げた。

「ならば。贖罪として、ニルパとアリ、二人の分を、もって行くがよい。私のものも渡そう。それから……誰かが、汝の恥を雪がなければならないが――」

「俺が行きます」

 すかさず、エビが言った。声は、ビーヴァが今まで聴いたことがないほど低く、別人のもののように聞こえた。

 エビは、足元の地面を見据え、噛み締めるように言った。

「俺が、行きます……。俺は、ニルパと名を交換していました。だから、これは、俺の役目です」

「そうか……」

 広場がざわめいた。『名を交換する』という行為の重さに対する動揺だった。

 真の名を告げることは、相手に生命を預けることに等しい。生死を共にする契約だ。エビはニルパの兄貴分として、責任を負わなければならなかった。

 ビーヴァの視界の隅に、青ざめているラナの顔が入った。少女も、ことの重大さを理解している。青年の喉に、苦いものがこみ上げた。

 名を交換した仲でありながら、ニルパの行為を止めることが出来なかったエビは、どれほど自分を責めていることだろう……。

 その気持ちを、長も察したのだろう。静かに頷いた。

「では、エビに頼もう。送ってやってくれ」

「…………」

 無言で、エビは一礼した。

 女たちがテイネを連れて下がると、村人たちは、肉の分配を受けるために動き始めた。シラカバの樹皮で包んだ塊を、長が、各家の代表者に手渡す。人々は、丁寧に押しいただき、モナ・テティに祈りを捧げると、広場を去って行った。

 専用の小屋に入れられている仔ゴーナの声が、かすかに、風に乗って聞こえた。ぼんやりそれを聴いていたビーヴァは、肩を叩かれて振り向いた。

 やつれた顔のエビが立っていた。

「エビ……大丈夫か?」

「ああ」

 エビは軽く唇を歪めたが、眼差しはくらかった。心ここにあらず、といった風に、ビーヴァには見えた。

「エビ……」

「ビーヴァ、手を貸してくれ」

 肩に載せられた手に力がこもり、指が痛いほどくい込んだ。声が悲しみに濁り、震えた。

「ニルパが……アリと、首を吊った……」

 ビーヴァは、息を呑んで、彼を見詰めた。

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