第二章 森の民(4)



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 翌日は、よく晴れたが、もう川霧はたたなかった。屋根を覆う茅の端からしたたる融けた氷の雫が、朝日を反射して煌いている。日一日と輝きをます陽光に眼を細めたビーヴァは、『春が来たな』と思った。

 エビも、同じことを考えたのだろう。滑り板(ミニ・スキー)の毛皮を張りなおしながら、話しかけてきた。

「帰りは、使えないかもしれないな」

 ビーヴァは、無言で肯いた。

 シャナ族の集落は、森の中を南西に、橇で六日行ったところにある。ロマナ湖に流れ込む三本の川――オコン、サルゥ、ブルカのうち、最も南の、ブルカ川の上流だ。

 テイネ(ニルパの妻)は身重なので、移動は慎重に行わなければならない。途中にあるワイール族の集落へ立ち寄るべきかどうか、二人は決めかねていた。

 彼等の傍らでは、男たちが、橇の仕度をしていた。ニルパの遺族が提供した一番大きな橇に、テイネが嫁入りの際に持ってきた荷物を積む。道中三人が食べる食糧と、向こうの親族に贈るゴーナの肉も載せられた。

 さらに、村人たちから、沢山の贈り物があった。

 彫刻を施したシラカバの木函、骨製のマラィ(小刀)、鏃と槍、真新しい衣服と懸け布、琥珀の首飾り。そして、生まれてくる赤ん坊のために作られた、ゴーナの人形と産着など。

 長は、ユゥクの毛皮を三枚と、黒曜石を贈った。エビは、真新しい槍を。ビーヴァは、ユゥクの角のマラィと、ハッタ(梟)の羽飾り。タミラは、膝掛けを織っていた。

 橇を牽く五頭の犬は、ニルパが飼っていたものだ。こちらも、向こうに着き次第、橇ごとテイネに贈られる。ビーヴァは、犬たちとの相性が気になったが、どうやら大丈夫と思えた。

 やがて、テイネが、タミラと女たちに手を引かれてやって来た。今日は、灰色の外套の下に、厚い毛皮の長靴を履いている。頭巾の襟から覗く頬は、相変わらず、白くこわばっていた。

 彼女を見送る者のなかには、長と、セイモアを抱いたラナもいる。仔狼は、昨夜は大人しく少女の許に留まっていた。

 何気なくそちらを見たビーヴァは、家族に支えられるようにして立っている、老いたニルパの父の姿を目にして、はっとした。

 大事な息子に不名誉な死に方をされただけでなく、嫁と、楽しみにしていた孫にまで去られることになった老人は、打ちひしがれ、影のようにやつれていた。明るい日の光の下で見ると、皺に囲まれた眼は、赤く腫れている。

「…………」

 ビーヴァは、初めて、ニルパは酷いことをしたのかもしれない、と考えた。


 女たちと二言・三言挨拶を交わし、テイネは橇に乗り込んだ。エビが早速、橇の上にユゥクの皮を張って、風よけを作り始める。ビーヴァは、橇犬たちが暴れ出さないよう、牽き綱をおさえた。

「テイネ」

 先導犬の首を撫でながら、ビーヴァは声をかけた。テイネが顔を上げる。

「その……寒くない?」

 左頬の刺青を相手に向けて、囁く。同じ氏族ではないが、こんなとき、男は女を直接見ないのが礼儀だ。

「…………」

 ビーヴァの視界の隅で、項垂れたテイネの頬が、やや赤らむのが見えた。青年は、わけもなく緊張した。これから先、どう会話をすすめればいいのか、分からない……。

 と。

 ラナの手を離れて橇の匂いを嗅いでいた仔狼が、とことことやって来た。ビーヴァの靴に鼻先を押し当ててから、ぱっと身を翻し、荷台に駆け上る。テイネを見て、ぴこぴこ尾を振った。

 テイネは、眼を丸くして、ルプスの仔を見詰めた。村人たちの間から、そっと笑声が漏れる。ラナは、半ば拗ね、半ば諦めた口調で言った。

「一緒に行きたいんだって」

 ビーヴァを見上げ、軽く首を傾げた。

「いい?」

 エビは、声を殺して笑っている。セイモアは、テイネの履いている靴が気になるらしく、足の間に鼻を突っ込んだ。

 ビーヴァは、ほっとした。疲れていたエビの頬に血の気が戻り、テイネの雰囲気がほぐれたように感じる。橇を牽く役には立たないルプスの仔だが、彼等を慰めてくれる。

 ラナも、そのことを理解している。

 青年は、横顔を向けたまま、テイネに言った。

「中に入っていて。皮を張るから」

 テイネは、先刻よりはっきり頷くと、大きなお腹とルプスの仔を抱えるようにして、橇の中にうずくまった。セイモアは、機嫌よく彼女の外套の中に納まっている。

 ラナは、仔狼の頭を撫でて、言い聞かせた。

「いい子にしているのよ。迷子になっちゃ駄目よ」

 ルプスの仔は、藍い目を輝かせて尻尾を振ったが、やはり、理解しているかどうかは疑わしかった。

 エビが、仕上げの皮を張る。

 この様子を眺めていた長が、改めて、三人に声をかけた。

「本来なら、私が行くべきだが。この脚ゆえ――」

 物静かな長の顔に、一瞬、苦痛の影が差した。

「申し訳ない。テイネ、シャナの者たちに、よろしく伝えてくれ」

 テイネは、無言で項垂れて、謝意を示した。彼女の後方で、同氏族の女たちも頭を下げている。

 長は、一の狩人に向き直った。

「エビ」

「はい」

「気をつけて……」

 エビも、黙って首を垂れた。後から省みると、さまざまな意味を含む長の言葉であったが、この時のビーヴァには、詳しいことは分からなかった。

 見送りの者のなかには、エビの妻と、幼い子どもたちがいて、心配そうにこちらを見詰めていた。

 長は、ビーヴァにも声をかけた。

「ビーヴァも。宜しく頼む」

「…………」

 ビーヴァは頷き、第一歩を踏み出した。小声で犬たちを促す。

 橇は、静かに滑り始めた。テイネとルプスの仔を驚かせないよう、ゆっくり進む彼等のために、人々が道を開ける。

 オコン川に架けられた小さな橋のたもとまで、村人たちはついて来た。橋を渡る際、テイネは仔狼を抱いて橇を降り、数人の男たちが、橇を押すのを手伝った。渡り終えて、再びテイネが橇に乗ると、対岸から、女たちが手を振った。

 テイネは、手を振り返すことが出来なかった。風よけに張ったユゥクの皮の下で、泣き出しそうな顔を伏せる。

 ビーヴァは、犬たちを走らせ始めた。


           *


 表面の柔らかくなった雪の上を、橇は、速度を上げて走り出す。彼等が森の中に入って見えなくなるまで、人々は、そこに立って見送った。滑り板の雪を掻く音と、犬たちのワンワンという声が聞こえなくなってから、踵を返す。

 ニルパの父は、妻に支えられて歩いた。数人の女たちが、身を寄せ合い、嗚咽を呑んでいた。

 ラナは、父の後ろを歩いた。少女には、ニルパとアリのしたことの意味はよく解らなかったが、ナムコ(村)を覆う悲しみは理解していた。エビとビーヴァが沈んでいることも。

 だから……仔狼の気ままな振る舞いも、今日はいいかな。と、思えていた。

「…………?」

 集落に入り、人々が散会し始めたとき。ラナは、ふと立ち止まった。

 仔ユゥクの毛皮をなめした肌着の上に、イラクサの衣を羽織り、毛皮の外套を重ね着した装束はあたたかい。汗ばむ肌の表面に、妙にはっきりとした湿り気を感じたのだ。

 粗相をしたときのようだ。

 少女は、人々の歩く流れから離れ、食料庫の陰に身を寄せた。外套の裾から内股に手をいれてみて、さっと青ざめる。

「タミラ」

 ラナは、乳母を探して、小道を駆け出した。氏族の女たちと別れたビーヴァの母は、ちょうど家の前でその声を聞いた。

「ラナ様?」

「タミラ。私……」

 タミラは、少女の緊張した表情に気づいて、首を傾げた。ラナは彼女に駆け寄ると、しがみつくように腕をとらえて、家へ入った。テティ(神々)の窓からわずかに光が差し込むだけの、薄暗い部屋の中に佇み、手を見せる……。

 タミラは、まるく眼を見開いた。

「……あら。まあまあ、ラナ様」

「どうしよう、タミラ」 

 話には聞いていても、自分の身に起こるのは、遠い先のことだと思っていたのだ。恐ろしさと恥ずかしさに戸惑う少女を、タミラは、感慨をこめて見下ろした。

 タミラにとっても、突然のことだった。少女とは違う意味で、母代わりの彼女は、この日が来るのを恐れていた。だが、来てしまったものは仕方がない。

 タミラは、そっと溜息を呑みこんだ。不吉なことを考えるのはよそう。子供を産める身体になることは、悪いことではない。

 ただ、ラナが特別なだけで……。

「大丈夫ですよ、ラナ様」

 少女の細い肩に手をあてて、タミラは微笑んだ。まっすぐこちらを見上げる黒い瞳に、心の底まで見透かされるような気になりながら。

「いらっしゃい。どうしたらいいか、お教えしましょう。これから、永い間、付き合っていかなければなりませんからね」

「…………」

 乳母の言葉にほっとして、ラナは頷いた。


 この日、一人の少女が娘になった。


 夜になってから、タミラは、長にそのことを報告した。彼女と同じく、この日を恐れつつ待ちわびていたはずの王は、しばらくの間、眼を閉じて考えこんだ。

 魚脂の灯が、刺青に覆われた長の頬を照らし出す。部屋の隅で眠っているラナをはばかって、タミラは声をひそめた。

「……早くはないでしょうか?」

 儀式は、かなり苦痛を伴う慄ろしいものだと聞く。初潮を迎えたとはいっても、同年齢の娘たちのなかでは背が低く、華奢なラナの身を思うと、タミラは不安だった。

「…………」

 長は眼を開け、黙って彼女を見詰めた。タミラは、恥じて眼を伏せた。

「シャム(巫女)は、本人がなろうと思って、なれるものではない……」

 溜息交じりに、長は囁いた。タミラは、己の膝に視線を落としたまま、その言葉を聴いた。

「次のシャムを決めるのは、先代のシャムだ。あれ(ラナ)の母親が、そう決めた。逃れられるものではない」

「…………」

「逃げようとすれば、悲惨な死が待っている。儀式に臨み、テティ(神霊)との契約を上手く結べない者も、然り……。しるしが来た以上、シャムとなって生きるか死ぬしか、あれに道はない」

「はい……」

 タミラは唇を噛んだ。

 シャムになることを拒んだために、祖先の霊に祟られて、殺された候補者のいることは、伝説に聞いて知っている。契約の儀式の際、恐怖のあまり心が壊れ、元に戻ることが出来なくなった者のいることも。

 愛娘を苛酷な運命に委ねなければならない父親の気持ちを考えると、何も言うことが出来なくなった。

 そんな彼女を憐れむように、長は、穏やかに微笑んだ。

「私の代わりに、あれに手を貸してやってくれ」

 タミラは、深々と頭を下げた。



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