第二章 森の民(6)
6
夢の中を、ビーヴァは彷徨っていた。
右も左も判らず、手足の位置さえ判らない。濃い闇を掻きわけつつ、彼は、息を切らして駆けていた。急がなければならない。急いで探し出さなければならない。
何を?
――目標が、分からない。それなのに。
焦っていた……『早く。はやくしなければ、消えてしまう。』
ソーィエを呼び、エビを呼ぶ。母も、友も、氏族も、慣れ親しんだもの全てが失われようとしている。己が生きてきた世界そのものが、消え去ろうとしているのだ。
既に我が身の半分は、喪われてしまっていると感じた。途方もない喪失感に、押しつぶされそうになる。無力感に、砕かれてしまいそうだ。
闇は音もなく押し寄せ、彼を包んだ。温かく湿った風が頬に触れ、ビーヴァは、水の匂いを嗅いだ。
『ああ、もう間に合わない……。』
そう思った途端、足元から急速にせり上がった水が、彼を呑みこんだ。頭巾が外れ、髪が解けてゆらめき、外套の袖がふくらむ。水は、外と内から青年を浸し、輪郭を滲ませた。
その中に、光があった。
ビーヴァの目に、黒い森と、雪を抱いた山々、ロカム(鷲)が翼をきらめかせて飛んで行く姿が映った。大角を掲げたユゥクの群れが、谷を渡っていく。ワタオウサギが駆け、紫の蝶の大群が舞い上がる。
巨大な白いルプス(狼)が、彼の上を跳び超えていく……。
濃厚な存在の
「…………」
ざらりとした感触に、ビーヴァが眼を開けると、小さな花びらのような舌が見えた。セイモアが、鼻を鳴らして頬を舐めている。彼は、ぼうっと瞬きを繰り返した。
頭の芯がズキズキする。身体は、水を吸った流木のように重い。……何故、こんなに頭が痛むのだろう?
くすんくすん甘えてくる仔狼を片手で撫でながら、彼は、周囲を見渡した。
天窓から、淡い朝の光が差し込んでいる。その下で、女性が髪を梳いていた。衣を、袖を通さず肩にかけ、栗色の長い髪を、一本の辮にまとめている。おくれ毛が光を含み、金色に輝いて見えた。
『きれいだな……』と、ビーヴァは思った。言動はさばけているが、キシムは美人だ。
キシム?
ビーヴァは目をこすり……目を
「目が覚めたか。大丈夫か?」
キシムは振り返り、手早く衣をととのえた。青年の視線は、一瞬、彼女のほの白い内股に吸い寄せられた。ビーヴァは、ごくりと唾を飲んだ。
キシムは、怪訝そうに首を傾げた。相変わらず、あっけらかんとしている。
「どうした? 何を、変な顔をしている?」
「え……」
何故、俺はここに居る? 何があった?
混乱するビーヴァに、キシムは、さらりと言葉を投げた。
「驚くことはないだろう。昨夜は嬉しそうだったぞ」
ゆうべっ?
ビーヴァの頭に、かあーっと血が上り、視界が真っ白になった。
『何があった? いや、何をした? 覚えていない……覚えていないぞ!』
青年が思考の渦で溺れていると、低い笑い声がして、部屋の入り口の覆いが開かれた。
「キシム。からかうのは、そのくらいにしておいてやれ」
カムロの後ろから、エビも顔を出した。
「大丈夫か? ビーヴァ」
「エビ……」
よほど情けない表情をしていたのだろう。エビは、ビーヴァを見るなり、笑いを噛み殺した。
「一人でぐいぐい飲んでいると思ったら、眠り始めたんだ」
「…………」
「セイモアは、お前から離れようとしない。仕方がないから、キシムに世話を頼んだ。大丈夫か。吐いてはいないか?」
茫然としているビーヴァの代わりに、キシムが答えた。
「大丈夫だったよ」
悪戯っぽく片目を閉じて
「でもなあ。本当に初めてだとは、思っていなかった。可愛かったけれど、出来れば、酔っていない時に見てみたかったな」
「…………」
めまいがしてきた。
ビーヴァは、もごもごと世話になった礼を言うと、仔狼を抱え、逃げるように外へ出た。それから、エビと一緒に荷物をまとめ、テイネに挨拶をしに行く。
カムロとキシムは、二人をナムコの外れまで見送ってくれた。カムロは、エビを気に入ったらしい。
「気をつけて帰られよ。アロゥの長に宜しく伝えてくれ。……貴公とはまた会いたいな、エビ。今度は、我々が伺おう」
と言って、片手を挙げた。
エビも、殴られて赤く腫れている頬を歪め、微笑んだ。
「ああ。待っている」
「またな、ビーヴァ」
キシムは笑って手を振ったが、ビーヴァは、彼女の顔をまともに見ることさえ出来なかった。
帰りは徒歩だ。はしゃぐセイモアを連れて歩き出しながら、エビは、不思議そうに耳うちした。
「お前、本当に、初めてだったのか?」
氏族内での恋愛は禁じられているが、男は、狩りなどで出かけることが多い。近隣の集落へ立ち寄った際や、祭りの時など、他氏族の娘をみそめる機会はいくらでもある。
「…………」
ビーヴァが答えられずにいると、エビは、ほかっと口を開けて彼を眺め、それから笑い出した。最初は声を殺していたが、ゆっくりと顎を上げ、ついには胸を反らして笑い続ける。
どんな表情を作ればよいか分からず、ビーヴァは項垂れた。エビは、相棒の肩を、親しみをこめて叩いた。
「……ロマナ(湖の名)へ寄って行かないか」
エビは、目尻にうかんだ涙をぬぐい、深い声で言った。肩に担いだ荷袋を、負い直す。
「そろそろ、氷が融ける頃だろう。ユゥクが来ているかもしれない」
「そうだな……」
春に若いユゥクに生える
**
木々の梢からこぼれる日差しが雪を融かし、大地をまだらに染めた。エビとビーヴァは、滑り板(ミニ・スキー)を使うのを止め、フキノトウやアザミの若芽を採りながら進んだ。
森は、生の気配に満ちていた。
透明な雪融け水が、そこかしこに小さな流れを作っている。カラマツの枝をリスが走り、ライチョウが鳴く。羽ばたきの音も聞こえた……。野ネズミがヤナギの根元を走り、ワタオウサギの白い尾が、ちらりと視界の隅で閃いて消える。
表面の柔らかくなった土に、無数の足跡が残っていた。セイモアが、フンフン匂いを嗅ぎ、興奮して駆け回る。男たちは、跡を追わなかった。
自分たちの分の食料はある。ナムコで待つ家族のために、ユゥクが一頭欲しいのだ。
二人は、サルゥ川を渡ると方向を変え、ロマナ湖を目指した。川幅が広がり、木立の向こうに藍い湖面が見え始めたところで、ユゥクの足跡をみつけた。
空気は澄み、風は、遠い山々にまで声を運ぶ。森では無駄口をきかないのが、イェンタ・テティ(狩猟の女神)への礼儀だ。二人は、無言で跡を辿った。
足跡は、雪と土の上を交互に踏んで行き、やがて、若芽を齧られたサルヤナギの枝の前に、彼等を導いた。幹には、身体をこすりつけた跡と、褐色の毛が付着している。
ユゥクが、ここを通ったのだ。樹皮に残る傷が瑞々しいところをみると、まだ近くにいるのかもしれない。
「…………」
「…………」
狩人たちは目配せをすると、風下に移動を始めた。セイモアも、はしゃぐのを止め、二人の傍らをするすると歩く。ビーヴァの手には、弓とユゥク用のスルク(毒)を塗った矢が握られている。
音をたてないよう細心の注意を払い、かつ、素早く。鼻先を低く保ち、尾をまっすぐ流して進んでいたセイモアが、突然立ち止まった。
男たちの目にも、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の大木の影にたたずむユゥクが見えた。握りこぶしのような形の袋角を持つ、若い牡のユゥクだ。赤褐色のつややかな毛皮が、木漏れ日を反射している。
合図は不要だった。ビーヴァが弓に矢をつがえた時、それは起こった。
「…………!」
セイモアが、ユゥクに向かって、とことこ近づいて行ったのだ。ビーヴァは驚き、内心で舌打ちした。――やはり、ルプスはルプスか。ムサ(人間)の役には立たない……。
草の芽を食べていたユゥクが、気配に気づいて顔を上げる。仔狼も立ち止まった。三パス(一パス=約四メートル)ほど距離を置いて、二匹は見詰め合った。
セイモアは、尾をぴこぴこ振った。それから、その場にちょこんと腰を下ろし、あくびをした。
逃げるかと思ったが、ユゥクは動かなかった。セイモアが幼いので、警戒する必要はないと考えたのだろうか。仔狼の仕草を、魅入られたように見詰めている……。
はっとして、ビーヴァは矢を放った。エビも、ほぼ同時に獲物を射た。
二本の矢は、
二人は獲物に駆け寄った。ユゥクは、眼を開けたまま倒れている。エビは、片手で瞳を覆い、もう片方の手で頚を撫でて許しを請うと、懐から骨製のマラィ(小刀)を取り出した。
ビーヴァは、矢を見てほっとした。倒れた拍子に折れることが多いのだが、それはなかった。しかも、ビーヴァの矢は斜め左から、エビの矢はほぼ正中から、同じところを射抜いている。
狩人たちは顔を見合わせ、微笑んだ。
エビは袋角の先を切り、ビーヴァに手渡した。自分ももう一本の角を削り、口に入れる。やわらかく、コリコリした歯ごたえが美味い。
セイモアは、ユゥクの後ろ足にしゃぶりついた。尾を旗のようにぴんと上げて、自己主張をする。狩りに貢献したと言いたいのだ。
エビとビーヴァは、笑ってその足を切り、仔狼に与えた。矢を回収し、残りの足を縛って、運ぶ準備をする。
かがみこんで作業をしていたビーヴァが、ふと、手を止めた。
「エビ……」
「何だ?」
相棒が指差した地面に、楕円形の足跡をみつけ、エビは眼を細めた。――靴跡だ。まだ、新しい。
彼等と同じ皮製の靴跡が、真っ直ぐ湖へ向かっていた。一人分ではない。一組は大きく、一組は小さい。並んで歩いている。親子だろうか……。
二人は角を齧るのを中断して、それを眼で追った。
「エビ」
ビーヴァが囁いた。エビも、息を呑んだ。
まばらに生えたサルヤナギの枝の向こう。青空にそびえるアムナ山の頂を背景に、灰色の岩塊が見えた。ちょうど、オコン川(上流に、アロゥ族の村がある)が、湖に流れ込んでいる場所だ。
マラィで斬ったように鋭い角をもつ塊は、かなり大きかった。ナムコの一つは入りそうだ。よく見ると、土を盛り固めた上に、丸太を重ねているのだと分かる。削って尖らせた先端を、並べているところもある。
うす紫色の煙が、数条、天へと昇っていた。
コンコンと、杭を打つ音が聞こえてきた。犬の声もする。あの中で、人が暮らしているらしい。
だが、どこの氏族だ? 未だかつて、こんな物を見たことはない。
「あれは、何だ?」
エビは呆然と呟いた。
――キシムと同衾したことによって見た夢と、この出会いが、後に大きな意味を持つことになろうとは。
ビーヴァは無論、知る由もなかった……。
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