第三章 契約の印(しるし)

第三章 契約の印(1)



          1


 ビーヴァたちが出掛けてからというもの、ラナは憂鬱な日を過ごしていた。

 同年代の友人がいないわけではないのだが、しるしがあったと知ると、大人たちは一斉にかしこまり、子どもたちにも遠慮をさせた。長でさえ、娘に遠慮をして家を空け、彼女の身の周りのことは、タミラと年配の女たちに委ねた。

 ラナは、シャム(巫女)として、彼等の王として扱われることになったのだ。

 少女は独りで、血の五日間(初潮)の痛みと、やるせなさに耐えていた。己の身と周囲が否応なく変化していることを感じ、もう戻れないことを痛感する。

 ビーヴァがいれば、愚痴を聞いてもらえたかもしれない。せめてセイモアがいてくれたら、慰めになったろうにと思えたが、こればかりは、仕方がなかった。

 その間に、長は男たちに命じて、入巫の儀式の準備をさせた。

 シャムの身に刺青を施し、テティ(神々)と契約を結ばせる儀式だ(成人の儀式でもある)。大昔は、アムナ山腹の洞窟で行われていたというが、近年は、ナムコ(村)の北の森で行われている。森の奥、切り立った岩崖がむき出しになった、うら寂しい場所だ。

 長は、一人でテティ(神霊)と向き合わねばならない娘の心細さを和らげるため、新しい小屋を建てさせた。

 そして、その日がやってきた。


 部屋の中心の炉に、新しい火が焚かれた。テティとムサ(人間)を繋ぐ、火の女神の座所だ。

 床にユゥクの毛皮を敷き、父と娘は、向かい合って座った。壁際に、タミラと助手の女たちが並んで座る。長の他に、男の姿はない。

 儀式が終わるまで、氏族のほかの者は遠ざけられていた。ビーヴァとエビは、まだ帰って来ていない。

 長の手から、乾燥させた赤いキノコ(ベニテングダケ)を煎じたものが差し出される。毒があるため、普段は決して口にしてはならないと言われているものだ。

 ラナは、震える両手で器を捧げ持つと、予め教えられたとおり、ゆっくり口へ運んだ。緊張し過ぎていて、味はろくに判らない。

 飲み干すと、ほっと、安堵とも哀しみともつかぬ気配が、部屋に流れた。

「……では」

 この日が来ると決まってから既に何度目になるか判らない溜息を呑み下し、長は囁いた。

「ここから先は、テティにお任せする。無事に、戻って来られるよう」

「…………」

 ラナは、両手を床に着き、深く頭を下げて父の言葉を聞いた。長は、その肩を名残惜しげに見下ろしたが、控えているタミラと女たちに視線を走らせると、小屋を出て行った。

 微かな風を起こして、扉が閉まる。父と娘、少女と女、人の世と異界を隔てる扉が――。

 顔を上げるラナの傍らで、金色の炎が、ゆらりと揺れた。


 ――薬は、すぐに効き始めた。臍の辺りで、ぽっと点った熱が、瞬く間に四肢に満ち、内側から ちりちり肌を刺す。膝に触れる板の感触が身体の重さを示していたが、いつしかそれも感じられなくなり、ラナは、ふわりと宙に浮いているような気がした。

 違和感に、彼女はじっと耐えていたが、頬は強張っていた。

「ラナ様……」

 タミラが囁く。その声を合図に、女たちが動いた。身を屈めて少女に近づき、ふわふわと頼りなくなっている彼女の身体を、毛皮の上にそっと横たえる。長い黒髪は、ひとまとめにされて、顔の横に置かれた。

 見上げる少女の瞳に、乳母の顔が映った。

 タミラは、丸い石の皿と、ユゥクの骨で作った小さな針を手にしていた。皿の中には、細かく磨り潰したシラカバの炭を水で溶いたものが入っている。腱を通した針と黒曜石の刀を使って、皮膚に紋様を入れるのだ。

 ふいに、視界がぼやけた。紅や金、緋色や藍の色彩が辺りに散って、ラナは、どこかに吸い込まれるような心地がした。

 女たちが、少女の身体から、そっと衣服を剥ぎ取っていく。誰にも触れられたことのない新雪のような首筋に、タミラは、針の先を当てた。

 ぷつっと皮膚が破け、血の匂いが漂った。 

「…………!」

 ラナは、タミラの手を握り締めていたが……やがて、意識は、薬が創り出す幻影のうみに沈んだ。


          *


 シャラン、と、音がする。

 気づいたとき、ラナは、乳のような濃い霧に包まれていた。炎も、カラマツの木の小屋も見えない。それでいて、ぼんやりと薄明るい場所に、座り込んでいた。

 シャラシャラと、砂を振るような音が聞こえる。

 己を支える床は、ひやりとして硬いが、どこか頼りない。何が起きているのか解らず、ラナは瞬きを繰り返した。

 シャラン、シャランという軽い音の間に、一定の拍子を刻む、太鼓の音が加わった。右からか、左からか、後ろからか……次第に近づき、大きくなる。

 音の源を確かめようと、ラナは目を凝らした。

 トン、トト、トン……シャラシャラ。トト、トン、トン……シャラン。音が繰り返す度、灰色の影がゆらりと揺れる。丸い塊が揺れ、杖のような棒が振り上げられ、下ろされる。シャラシャラと音を立てて、衣の裾が翻る。

 誰かが、踊っているのだ……。ラナは、息を呑んだ。

 霧の中から、丈長の外套を頭からすっぽりかぶった、背の高い人影が現れた。左手に楕円形の太鼓を持ち、右手に杖を持っている。皮張りの太鼓の表面には、人の顔が描かれていた。それを叩き、くるり、くるりと踊る。

 白い衣には、生命の樹の紋様が縫い取りされ、翡翠や黒曜石、シラカバや骨製の小板、ロカム(鷲)やハッタ(梟)の羽などが、無数に縫い付けられている。彼女が身を翻すたび、それらがきらきらと輝き、ぶつかって音を立てた。

 不思議と、それが女性であることに、ラナは疑問を感じなかった。太鼓の革は、なめしたゴーナの革だ。衣はきっと、柔らかい極上のユゥクの胎児の毛皮だろう。

 これと同じものを、少女は、見たことがあった。

『かあさま……?』

 ラナは、目をみはった。

 杖と、太鼓と、特別な衣装――。シャムであった母の衣類を納めた木箱の中に、それらが入っていたことを思い出す。太鼓の革は、破られていたが……。幼い頃、玩具にしてはならないと父に言われて、慌てて仕舞ったことを、覚えている。

 踊る女の衣装は、それとそっくりだった。少女の身体の奥から、小刻みな震えがのぼって来た。

 と、

「…………!」

 突然、女が踊りを止め、ラナを振り向いた。動きを止めても、太鼓の音は続いていたが、その謎について考えている余裕は、ラナにはなかった。

 少女は悲鳴を呑み込んだ。女の顔には、木彫りの仮面がかぶせられていたのだ。

 表情のないぶ厚い木の面には、朱と墨とで、鮮やかな紋様が描かれていた。

 長身の女は、ずいっと身を寄せて、少女の顔を覗き込んだ。糸のように細く開けられた仮面の眼の奥から、黒い瞳が、真っ直ぐこちらを見詰めた。

 シャラン。衣につけられた石の破片が、音を立てる――。

《やっと、来たね》

 身を硬くしているラナから、すいっと顔を離して、女は呟いた。仮面に片手をかけると、袖口から、細かい刺青を施した手首がのぞいた。

《待っていたよ。何とか、間に合いそうだね》

「…………」

 ラナは、ごくりと唾を飲んだ。

 仮面の下から現れた顔は、声から想像していたより若い女性のものだった。氷のように冷たい印象を与える白い頬に、炎と樹木の紋様が描かれている。縦長の輪郭に、すっと通った鼻筋。青みがかった黒い瞳が、無表情に少女を見詰めた。

 ラナは、震える声で囁いた。

「……かあさま?」

 女の表情は変わらなかった。足元の小娘を眺める視線は、彼女の感慨など一切構わない風で、望む母のあたたかな眼差しとは程遠い。

 ラナは、繰り返した。

「貴女は、私のお母さま、ですか……?」

《…………》

 女の瞳がわずかに揺れ、微笑むような気配が漂ったが、一瞬で消えた。

《憐れな娘よ》

 シャラン。衣の裾を揺らし、杖を突いて、女は言った。

《未だテティ(守護霊)を持たぬ者よ……。なんじは、三つのことを成し遂げねばならぬ》

 有無を言わせぬ口調だった。

《まず、汝自身をつくりかえること。次に、真の王をみつけること。そして、世界をかえること》

「え……?」

 ラナは、茫然と呟いた。とんでもないことを言われた気がした。

 女は、彼女を冷めた目で見下ろすと、細い手を伸ばし、少女の手首をつかんだ。ラナは、悲鳴をあげそうになった。女の手は、凍りそうなほど冷たかったのだ。

 その肌と同じく体温を感じさせない声音で、女は言った。

《おいで。見せてやろう》

 声の余韻が消えるとすぐ、霧が晴れた。

「…………!」

 ラナは、息を呑んだ。

 一陣の風が、彼女と女の衣の裾をはためかせ、白い霧を吹き消した……と思うと、彼女は、ベニマツ(チョウセンゴヨウ)の梢の上に立っていたのだ。

 二人は森の上に浮かんでいた。

 視界が、一気に広がる。

 ラナは眼を瞠り、これは夢だ、と考えた。足元に、ナムコが見える。犬たちの吠えている声が、小さく聞こえる。川の流れる音も。

 視線をめぐらせば、蒼い氷河の向こうに、雪を抱く山々が。濃緑の森をぬって走る銀色の川の先に、ロマナの湖面が見えた。

 女は、少女の驚きなど全く意に介する様子はなく、まっすぐ前を見詰めて立っている。――その姿勢で、飛んでいるのだ。風がおこり、頭巾をはだけ、二人の長い髪を躍らせる。ベニマツの木立が遠ざかり、代わりに、青空と渦巻く雲が近づいた。

 ふと、ラナは、自分の周囲に、白い影がいくつも浮いていることに気がついた。半透明なため、向こうの景色が透けている。ぼやぼやと形のないそれらは、時折、七色の光を放ち、二人に近づいては離れた。

 女は、少女をちらりと見下ろした

《私のテティ(補助霊)たちだ》

「え?」

《汝のテティは、ここにはいない。まだ生きているからな》

「…………」

 影は、犬やワタリガラスの形をとり、少女の傍に近づいては、崩れることを繰り返した。視界を覆うように広がり、服の中をすり抜ける。

 女は、彼女の手を掴んでいない方の腕を、前方へ差し伸べた。

《見よ》

 ラナは、その指先に視線を向けた。

 湖の岸が近づいていた。ラナは頭の中で、よく知っている場所を思い描いた。アロゥ族のナムコの傍を流れるオコン川を辿って、ロマナ湖の上空に来たらしい。行く手に真昼の太陽が輝き、山と森が、彼女たちを囲んでいた。

 日差しを反射して、湖面が煌く。眩しさに、ラナは眼を細め、片手を額にかざした。手前に、灰褐色の岩の塊が見えた。

「あれは、何……?」

 エビとビーヴァが見たのと同じ、テサウ砦だった。しかし、彼女にも、それが何のために築かれたものなのか、全く判らなかった。

 上空から見下ろしているため、四角い壁の中で動いている人々が見える。棒や石斧を使って、地面に穴をあけている……。

《あれか》

 女は、軽く嘆息した。凍ったような顔に、かすかに憐憫の情が過ぎった。

《あれも、憐れな者たちだ》

「何をしているの?」

 男たちが大木の切り株を掘り出そうとしているのを見て、ラナは囁いた。周囲には、一本も木が生えていない。黒い土がむき出しになっている光景は、彼女を不安にさせた。

 女は淡々と応えた。

《テティにることなく、世界を変えようとしているのだ。いずれ、汝にもわかる》

「…………」

 二人は、いつか高度を下げ、男たちの傍に来ていた。テティの影が、ゆらめきながら、彼女たちを守るように囲んでいる。男たちには見えないのか、こちらに気づく者はいなかった。

 巨大なベニマツが、掘り起こされ、曲がった根を晒している。男たちは、その下に棒と石を差し入れ、持ち上げようとしていた。日焼けした頬に刺青はなく、髪も短く切っている。口々に叫び声をあげている様は、苛立っているようだ。

 ラナは、彼等の話の内容が気になったが、言葉を理解することはできなかった。森の民ではない……。

 思考の片隅で、何かが閃いた。

 はっと弾かれる心地がして、ラナは振り向いた。土を盛り上げて固めた壁の向こう、森と湖の境界に、気配を感じたのだ。

 彼女の眼は、普通であれば見えない距離を超え、下草の茂みを抜け、シラカバの木陰に身をひそめる狩人たちを捉えた。

 ラナは女の手を離れ、駆け出そうとした。抑えきれない喜びが、声に溢れた。

「ビーヴァ!」




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